PR
カレンダー
キーワードサーチ
コメント新着
(^お^)(^ば^)(^ん^)(^で^)(^す^)
昨日の続きの、お話を・・・
人々は,気味悪がって 石を投げたり、 ツバを吐きかけたり、 鞭で打ったのです。
常不軽菩薩は そのたびに, 身を隠し、 またでてきては 拝んだという......
お釈迦様の言葉をそのまま取り上げたならば、
一切のものを 拝みきり、 一切の 救いの為に 拝礼すること......
一切の人を拝むためには、 自分を下におろすことである。
真実に、上下はない、 上にあがろう 上にあがろうという迷いがある以上、
下に 下に 自分の身を置く人がいなければ、
救いというのは、この世に あらわれてこないのでは、ないだろうか......?
鎌倉時代の名僧、道元禅師の 言葉に・・・
仏道をならうと いうは・・・自己をならうなり・・・という言葉があります。
仏さまの道をならうというのは、自己を(自分)習う事だといっております。この、ちっぽけな 自分を習う事だといっているのです。
あれも欲しい、是も欲しい、ああなりたい、こうなりたい、
不平不満と、不安を、いっぱい抱え込んでいる自分、餓鬼道に、
落ちているこの自分、それを、習う事が、仏道だと・・言っているわけです。
そして、この だらしのない自分を、離れて 仏道はないということです。
一時は神を呪った、私ですが
「ひと」に励まされ、「ひと」に癒され、「ひと」の優しさに触れた今、
神が信じられるように成りました。
私は宗教というものに疎いので、神と言って良いのかは解りませんが「見えざる大きな力」の存在を感じます。
飽くまでも私の感覚上での話ですが「見えざる大きな力」とは
「ひと」でも在り、路上を這う小さな虫でも在り、私でも在るのです・・・
全ての「生命」は、一つなのでは・・・?を感じます。
友の悲しみは、私の悲しみで有り・・友の喜びは私の喜びなのです生きとし生ける全てに対しても大きく、それを感じます。
多くの願いは叶う!を感じます!!私も大きな「生命」から与えられた小さな魂として願い、感謝致します。
よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。
強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする・・・やはり、私は偏屈者のようです。