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ご心配をおかけしております。PCが、壊れてしまい使えない状態でございます。今、知人のPCから、書かせていただきました。明日から、しばらく何時もの、別宅へ・・・しばし留守になります。戻れたらPCを、新調しようと思っております。皆々様~夏の暑さに負けないで健やかにお過ごしくださいませ。
2007/08/02
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2007/07/27
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予定どうりにはゆきませんでしたが、今...( ~_ゝ~)y-~~ ただいま です。PCは、相変わらずですよ、何時とまるか・・・やっとつながりました。少し休息します、ご心配をかけましたが、取りあえず帰宅しました。
2007/07/27
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誰かに認められて、変わることができた人間は多くいる。また、誰かに認められるまで絶対に変わらないぞ、自分を改めることはしないぞ、と堅い決心をしている人間も多くいる。ん~、間違ってはいない。認められていないのだから、自分の能力を発揮しないというのは、損得勘定のルールから言えば、当然のこと。見返りがあって初めて、行動は期待できるものだ。しかし、一歩下がって、自分の人生という観点から見た場合は どうなるだろうか。認められる、認められないも大切だけど、その生き方で本当に後悔しないかどうか、ということの方が、より重要な気がする。改革は、変化は、どこから起こすか、それは、今でも、これからも 人間が向き合っていく壁だと思う。その中心に、「まず、自分を変える」が あって欲しい。 夜空を見上げたら,私に向かって光っている星あるかな・・・残念ながら・・・昨夜も・・・星が・・・少ししか見えないんです。 慌ただしい世の中に心が和むような,感じがして...ぼーーーっと、空を見上げてました。何にでも言える事だけど、人間にはいい時もあれば不調なときもあります。あまり長く温床にいると自然界に弱くなっちゃいます。たまには夜風の冷たさや、雨の寂しさを感じて、そしてそれを乗り越えないと、人生も恋も深みが出ないのかも・・・気まぐれな玩具が・・・今かすかに動いてくれました・・・皆様、ごきげんよう~~
2007/07/23
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うまく送信できますように~~心配かけて皆様ごめんなさいね。余命3ヶ月と宣告された友人の、癌が消えてしまいました~♪頑張っている、私も~希望がわいてきました。2日間病院です~が、きっと良い便りを持って帰ってくるからね~♪
2007/07/23
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PCは、5年ほど、ウインドウズXPですが。見てもらいましたら~買い換えた方が良いとか・・・時々動くのですが、すぐにシャットダウンしてしまいます。お掃除もしてます。デフラグも・・・なのに~。・°° '゜(*/□\*) '゜°°・。今は、買い替えは出来ないので・・・(,_,*)ゝ ショボ~ン
2007/07/22
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心には素敵な翼がある夜明けの風に誘われて 心は街へ飛んでゆく開き始めた家の窓 夢から覚めた友達に今日の「おはよう」 届けるために心は軽(カロ)やかに 飛んでゆく 広がる夕焼 突き抜けて 心は明日へ飛んでゆく今ある時のその向こう 誰もが胸に描(エガ)いてるきらめく希望 つかむために心はひたすらに 飛んでゆく心には翼が付いている 心には素敵な翼がある
2007/07/22
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PCが、シャットダウンしてしまいます。
2007/07/21
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皆様の、ところへご挨拶周りが出来なくて、ごめんなさい。PCも、調子が悪い!!みなさま~忘れないでいてくれてミ☆(*^-゜)vありがとう♪ほんとうにありがとう・・・ものすごい勇気になります。 (人-)謝謝(-人)謝謝です~♪ 後、もう少しだからね~がんばってるから(^ε^)-☆ねぇ~きっと、今度も勝って元気になるからね。過ぎ去りし時を癒し、今を生き、未来を夢見ながら、がんばっているからね~♪
2007/07/19
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お見舞いに頂きました~...( ~_ゝ~)y-~~ ただいま です。大切に持って帰りました~人は無理を言う・・・私も例外ではなく、無理ばかりを言う・・・理屈が通らないし、自分勝手だ~それでも、 愛そうじゃないか。良いことをすれば、エゴでやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。あなたが成功すれば、偽りの友人、そして本当の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。正直に振る舞い、隠し事をなくせば、自分は傷つきやすくなる。それでも、正直に、隠し事をなくそうじゃないか。何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。持っている最高のものを、 世の中に与えたら、自分は損するかも知れない。それでも、持っている最高のものを、 世の中に与えようじゃないか。世界は闘争で一杯だ。それでも、平和な心を選択しようじゃないか・・・(^ε^)-☆ねぇ~
2007/07/19
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ほんの三分でも求めないでごらん。不思議なことが起きるから。求めないーーすると心が広くなる求めないーーすると恐怖心が消えていく求めないーーすると調和が起こる求めないーすると待つことを知るようになる求めないーすると何かが変わる迷った時、苦しくなった時、自分にささやいてみる「求めない」と・・・・・
2007/07/09
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明日は七夕様ですd(^-^)ネ!愛という言葉 について・・・・愛という言葉は初めから日本語にはありませんでした。聖書が日本に伝えられたときにできた言葉だそうです。では英語には愛(LOVE)という言葉が初めからあったのかと、いうとそれもありませんでした。実は英語の愛(LOVE)という単語は、四つの英単語の頭文字から成っているそうです。日本人は愛と聞くと、恋愛を思いますが、愛という言葉にはもっと深い意味があるのです。 小さな命を守るのには愛が必要です。個性の違いを認めるのも愛です。 間違いを認めるのも愛です。間違いを許すのも愛です。 きれい事を言ってるのかもしれない。しかし、私は愛を求めていきたい。人間は自分と違うものを認めることができません。自分の好きな人は大切にします。しかし、自分が苦手とする人は避けてしまいます。 小さな事ですが、ちりも積もれば山となり、差別を生むことになります。差別はやがて憎しみを生み、憎しみは争いを生みます。そして、小さな命は踏みにじられるのです。愛を求める心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、それはなつかしい、おほきな海のような感情である。 と言った人がありました...真の愛とは、愛するにふさわしいものを愛するのではなくて、誰からもかえり見られないものに注ぐ愛をいうのではなかろうか。三浦綾子さんの言葉です。 こんなに大きな道に こんなに明るい道にこんなに 心がはずむ道に こんなに先が見渡せる道になりました。これから 皆でもっともっと大きい道にこれから 皆でもっと明るくて長い道にこれから 皆で幸せ分け合う道にしていこうね死ぬまでに 幸せを探したいと書いた、そんな方がおりました・・・私の幸せは 大切な人の 笑顔をたくさんたくさん見ることです。
2007/07/06
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真っ暗闇、そういう時期を飛び越えて、結論だけを急ぎたい気持ち自体が、その闇を抜ける時期を遅らせる...人は、生きる 夢破れても独り 立ち尽くしても 明日を迎える...誰れのものでも 誰れのためでもない...かけがえのない この私の人生。我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って,立ち去るであろう。しかし、幸せそうに見える人にこそ、そこに到達するまでの険しい道のりがあることが多い。だから、自分の今の幸不幸と、他人の幸不幸なんて、比較すること自体が意味のないこと。幸不幸は、平等に分けられているわけではない。それは、最初、どちらの状態ともつかない姿で、準備されていて、我々が、幸にも、不幸にも変えられるものなんだと思う。だから、幸不幸について、平等でない、と考えるのはやめよう。何度もつまずく、それが人生。つまずいた回数を数えていたり、それで自己憐憫にひたっていたり、それだけをいつも考えていたら、立ち上がる気持ちが萎えるどころか、立ち上がることさえ忘れてしまう。何回も、立ち上がらなきゃあいけない。生きている限り...時には、絶望的になったとしても、明日を迎えたら、自分は生まれ変われる... 生きてきたことを 否定して後悔することなど 人生には ひとつもないよd(^-^)ネ!大宇宙の一生から見れば顕微鏡で見なければね成らない様な、我が人生~良きにつけ悪しにつけまず、微笑んでみよう~♪♪
2007/07/04
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肉体の健康も精神の安定も社会の平和も、実は非常にか細いものの上に成り立っているのだけれども・・・ 普段人はそういう風には思っていず、そしてそれを失してみた時に初めて、それはそういうものだと思うようになるようでございます。か細い糸のようなものを手繰って段々と太く強くしていく営みが人の人生の営みと言えるのではないでしょうか。 しかしそれもやはり何かの 一撃があれば、崩れてしまう程度のものなのです。だから結論は、今戴いているものは大切にしないといけないということと、 それに執着してはいけないということではないでしょうかぁ・・・できうるならば、 生まれて来ることは 今世を最後にしたいと思っているのです。この世でどんな栄華を極めても、死んで地獄へ行ったなら、下も甲もありません。 私は生きることは死ぬことの 準備期間であるとの人生観を持っています。近頃のわたくしといえば・・・痛みとの戦いの日々のようです。少し哀しくなります~楽しいお話をたくさんしたい、こぼれるような笑顔で・・・なのに、口をついで、出てくる言葉は、辛い・・・・・そんな自分が悲しくなります。ご免なさいませ~明日は、きっともう少し素敵な笑顔の自分にあえますように。
2007/07/03
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二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい 立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい 完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい 二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい ずっこけているほうがいい 互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで 疑わしくなるほうがいい 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい 立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張には 色目を使わず ゆったり ゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で 風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる そんな日があってもいい そして なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても 二人にはわかるのであってほしい
2007/07/03
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め ぐ り あ い あなたに めぐりあえて ほんとうに よかった ひとりでも いい こころから そういってくれる ひとがいれば みつを
2007/07/02
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あなたがいるだけであなたが そこにただいるだけでその場の空気があたたかくなるあなたが そこに ただいるだけでみんなの心が安らぐそんな あなたに私はなりたいみつを
2007/06/30
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皆様~(^お^)(^ば^)(^ん^)(^だ^)(^す^) 今日は、一日点滴のご馳走を頂いてきました。満腹でございます・・(* ̄m ̄)ププッ!~日暮れ時から、ぱらぱらと雨が降り出し、明日はまた、快晴との予報・・・皆様、暑い中、お身体をご自愛くださいませd(^-^)ネ!ご挨拶も、ままならなくて((^^)) ゆるしてちょんまげ♪色々と励ましのお言葉と、応援を有難く (人-)謝謝(-人)謝謝もうしあげます。人生にむだというものはないもので、後にならないと、その意味がわからないということが、たくさんある。見えるものだけが、すべてでない。分かるものだけに、価値あるんじゃない・・・今のこの時間は、何時かきっと、笑い(*゚▽゚)*。_。)*゚▽゚)*。_。)ウンウンそうだったと…笑える日が、きっとくると信じて、一足お先に~あちらさんも(・_・ )ノこちらさんも(・ ・)そちらさんも( ・_・)ノおやすみ♪明日は、もっと元気な笑顔で、お会いしましょうね~♪
2007/06/29
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私は長いこと、本物の人生はこれから始まると思って過ごしてきた。だが、いつもなにかに邪魔されてきた、先に片づけなければならないこと、やりかけの仕事、借金の返済。それが終わったら人生が始まるだろう、と。やがてついに私は悟った。こういった邪魔ものこそ、私の人生だったのだ。 アルフレッド・ディヴィソウザ人生に、大いなる期待を持ってよろしい~ただし、それは、試練や苦しみがなくなることでなく、それらを通り抜け、乗り越える力が、増し 加わって、人生を楽しめるようになれるんだ、という期待でなければいけない~なんてね、思うのですよ。そう思うんですよ・・・もしかしたら、希望や夢って、叶えるためにあるんじゃなくて、生きる力を生み出すためにあるじゃないかな... d(^-^)ネ!
2007/06/28
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七色の虹・・・シャボン玉のような七色の虹が、消えてしまったとの~~・・・そんな歌がありましたね。皆様、ごきげんよう~♪夏ばてなさらないように、皆々様、どうか気をつけてくださいね。
2007/06/28
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子どものキラキラと輝く好奇な眼差しで世の中のすべてを見るように、人生を噛みしめるように荒まく海から 裏町の路地も紅く輝く星から 一粒の砂までも何か意味をもって そこにあるんだ私はそのすべてを この目で見たい… 「やさしい戦いで勝つよりも、厳しい戦いで負けることの方が 強くなれるんじゃないか。」「本当に必要なのは、たった一人の人間の強い思いや 激しい情熱、夢見る力だと、思えてきたのです。」自分がしていること、しようとしていることの先は、やはり時が来ないと、分かりません。しかし、それを見るためには、それを 見るときまで 続けなければいけない。必ず、いろんな試行錯誤、壁や妨害があって当然の世の中、それでも生きていたい人生を送りたい。そう思えるようになれたことが、幸せに感じました。細い銀色の糸のような・・・霧雨が降っている日です。
2007/06/26
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愛は家庭に住まうものなんですよ。子どもを愛し、家庭を愛していれば、何も持っていなくてもしあわせになれるのですよ・・・ごはんを食べる時間よりごはんを作る時間のほうがもっと長く、お金を使う時間より、金を稼ぐ時間のほうがもっと長い。愛し合って生活する時間より憎しみ合って生活する時間のほうがもっと長く、満ち足りて生きる時間より後悔して生きる時間のほうがもっと長い。全て知っている事ですよね…素直に、すなおに~なってみましょう。
2007/06/25
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明日という日があるのなら、夢と希望もあるのですねそににあるのが幸せという~バラ色の園ですね 胸はずませその扉...叩いてみましようか開いてみましようか...この手で未来という日があるのなら、永遠に輝く事もあるのですねそこにあるのが理想という~エデンの園ですね 心ときめかせてその世界...覗いてみましようかはいってみましようか...我等のこの心で 行動したからといって、いつも幸せが訪れるわけじゃあないかもしれない。でも、訪れた幸せのなかで、行動せずして得られたものは何もない。努力っていう言葉は、使い方によっては、言い訳がましくなる時があって、ちょっと抵抗がある。「こんなに努力したのに、うまくいかない。 私は、運が悪いんだ。」なんていう感じの言葉かな……確かに、いくつも重ねる努力のすべてが、うまくいくとは限らないだろう。だから、成功や幸せが、まだ目の前に少しも姿を見せない時は、その努力の意味に、なおさら不安がつのる。そんななかで、続けるって、大変だよね。ああ、何も意識しないで、続けることって、出来ないんだろうか。努力とか、実行とか、行動とか、そんな言葉を使って気合いを入れなくても、動ける人間になりたいね!!
2007/06/24
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数日前の暑かった日から、脱水状態になりなってしまい・・・。。。(;´д`)トホホ~今年の夏が思いやられます。やっと、今日~解放されました…街角の占い師のはなし・・・街角に評判の占い師がいた人々はことあるごとに占い師をたずねて...未来をかけたある人は恋を占ってもらい幸運を手にした。ある人は進路を占ってもらい首を横に振られた。ある時...占い師は忽然と姿を消した!!頼りにしていた人々は慌てふためいた・・・私が姿を消したらこの箱の中を見るように・・・・という占い師の言葉を誰かが思い出した、箱の中には小さな紙切れが残されていて...こう書いてあった!!私は、微笑む人には、幸運を・・・悲しい顔の人にはツキの無さを語っただけだよ!!占い師はおまえ達だったのさ・・・私はまた別の土地へ行く!!私は笑顔の種蒔き人!!病院で何時も,病院での仲間が,待っているって・・・もう~待たれないようにしないとd(^-^)ネ!笑顔振りまいて歩くの、やめにしないと~∵ゞ(≧ε≦; )プッ
2007/06/24
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子は親の鏡 けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになるとげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる「可愛そうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる子どもを馬鹿にすると、引込み思案な子になる親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる叱り続けてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる広い心で接すれば、キレる子にはならない褒めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる守ってあげれば子どもは強い子に育つ分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つやさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる 「子どもが育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト著より感動した詩でした・・・皆様ご挨拶周りもできなくて手抜きばかりですが、お許しください、明日はもう少し、元気になりますからd(^-^)ネ!
2007/06/20
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(^お^)(^ば^)(^ん^)(^で^)(^す^) 昨日の続きの、お話を・・・人々は,気味悪がって 石を投げたり、 ツバを吐きかけたり、 鞭で打ったのです。常不軽菩薩は そのたびに, 身を隠し、 またでてきては 拝んだという...... お釈迦様の言葉をそのまま取り上げたならば、一切のものを 拝みきり、 一切の 救いの為に 拝礼すること...... 一切の人を拝むためには、 自分を下におろすことである。真実に、上下はない、 上にあがろう 上にあがろうという迷いがある以上、 下に 下に 自分の身を置く人がいなければ、 救いというのは、この世に あらわれてこないのでは、ないだろうか......?鎌倉時代の名僧、道元禅師の 言葉に・・・ 仏道をならうと いうは・・・自己をならうなり・・・という言葉があります。仏さまの道をならうというのは、自己を(自分)習う事だといっております。この、ちっぽけな 自分を習う事だといっているのです。あれも欲しい、是も欲しい、ああなりたい、こうなりたい、不平不満と、不安を、いっぱい抱え込んでいる自分、餓鬼道に、落ちているこの自分、それを、習う事が、仏道だと・・言っているわけです。 そして、この だらしのない自分を、離れて 仏道はないということです。一時は神を呪った、私ですが「ひと」に励まされ、「ひと」に癒され、「ひと」の優しさに触れた今、神が信じられるように成りました。私は宗教というものに疎いので、神と言って良いのかは解りませんが「見えざる大きな力」の存在を感じます。飽くまでも私の感覚上での話ですが「見えざる大きな力」とは「ひと」でも在り、路上を這う小さな虫でも在り、私でも在るのです・・・全ての「生命」は、一つなのでは・・・?を感じます。友の悲しみは、私の悲しみで有り・・友の喜びは私の喜びなのです生きとし生ける全てに対しても大きく、それを感じます。多くの願いは叶う!を感じます!!私も大きな「生命」から与えられた小さな魂として願い、感謝致します。よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近いような気がする・・・やはり、私は偏屈者のようです。
2007/06/19
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北鎌倉:明月院アジサイ寺と呼ばれてますが~花思い地蔵です。隣りに立て札があって、花想い地蔵人は誰しも はかない花の想い出の中に生きています。大切な人との別れ、いとおしい物との別れそんな時 ふと目に止まった花がどんなにか 心を慰めてくれたことでしょうか...いくつしみ深き花地蔵・・・・・・・・・と書いてあります。鎌倉はこの時期は、とても込み合っていて花を楽しむことも、ままならないと聞きます。雨の日には~尚込み合うようでございます。
2007/06/18
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人が天から心を授かっているのは 愛するためである。 『法華経』 『法華経』 のなかに 常不軽菩薩 (じょうふぎょうぼさつ)という、菩薩がおられる。一切の人を軽んじない菩薩である・・・ お釈迦様はこの菩薩を、(私の前身である) といわれるのです。人間が一人生まれる為には、たくさんの、先輩がご苦労を、なさって今日あるからで あろう...... この菩薩は、 野の辻 町の辻 にたって、 人が通ると合掌し、ひれ伏して 「 あなたを拝ましてください、 あなたはやがて仏様になる人です」と言うのです。今日は~ほんの少しだけ、散歩を楽しみました。
2007/06/18
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皆様ぁ~~ヽ(;▽;)ノおひさっ♪♪私たちは年をとるから、遊びをやめるのではない。遊びをやめるから年をとるのだ…だから~あそぼぉ~目指すのは、年をとらせない遊び~心から遊びましょう。 またしばらく人生の旅を皆様とご一緒させてください~♪障害があることは、不自由な事ではあるけれど、悲観するほど不幸な事ではないよぉぉ~♪
2007/06/17
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今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という ことを考えたからである。...人の寿命には定まりがない。...十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。「死は好むものではない、また憎むべきものでもない。 世の中には生きながらえながら 心の死んでいる者がいると思えば、 その身は滅んでも 魂の存する者もいる。」90歳を超える日野原重明先生が、その著書のなかで、「健康というのは、健康感のことだ。」というようなことをおっしゃいました。私は、幸せにも、それが当てはまるように思います。「幸せというのは、幸せ感のことだ。」これからは、なにが起きても怖くありません。勇気がわいています。この人生を二度と、幸や不幸ではかりません。このブログへ、お訪ね下さる親愛なる皆様へ心からの、(人-)謝謝(-人)謝謝~♪ を申し上げます。この出会いが未来に繋がらなくても、共に感じたもの目にしたもの共に過ごした時間は~きっと忘れない…どれだけ離れてしまっても~あなたのいる未来がずっと輝き続けることを願って止まない。明日から~少しお出かけしてきます~♪♪
2007/05/29
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元手が要らない・・・しかも、利益は莫大。与えても減らず、与えられた者は豊かになる。一瞬間見せれば、その記憶は永久に続く。どんな金持ちもこれなしでは暮らせない。どんな貧乏人もこれによって豊かになる。家庭に幸福を、商売に善意をもたらす。友情の合い言葉。疲れた者にとっては休養、失意の人にとっては光明、悲しむ者にとっては太陽、悩める者にとっては自然の解毒剤となる。買うことも、強要することも、借りることも、盗むこともできない。無償で与えて初めて値打ちが出る。クリスマス・セールで疲れきった店員のうちに、これをお見せしない者がございました節は、恐れ入りますが、お客様の分をお見せ願いたいと存じます。笑顔を使いきった人間ほど、笑顔を必要とするものはございません。季節外れですが~クリスマスの笑顔はいかがでしょうかぁ~ニューヨークのデパート広告、「人を動かす」D・カーネギーより真っ黒な雲に覆われたようなニュースばかり・・・いくら生きたくても、生きられぬ人間もある、自ら命を絶つ人間もある、まさに世は様々である!!
2007/05/29
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もっとも長い旅路は、自分の心に向かう旅路であろうかと思う…苦難を嘆くのはもうやめようその理由は、私より、神がご存じのはずだから。そんな問いかけだけが、心を巡る時があることでしょう。しかし、すべての理由を分かる時の方が、珍しいかもしれません。人生が、ままならないものだと考えて悩むのは「生きる」ことにまだ余裕があるためだと思います。今日を生きるのに必死な状態では、人は人生そのものを悩んだり、頭の中を哲学用語で一杯にして苦しむこともないだろうと思います。余裕(ゆとり)が人生に、必要であるかないかなどと考えること自体が、大変恵まれた状態に自分がいるのだと、考えることが必要なのではないでしょうか。そういう意味では政治的発言も、またそういうものだと理解されます。自分にまだゆとりがあるので、目が外へ向き、政治家の悪口など言ってられるのでしょう(私もその一人です、ゆとりがあるわけではないが)。もし今、目の前に強盗が押し入ってきて刃物を突き付けられていたら、今の政治はけしからんなどと考える心のゆとりはないと思います。他者批判は、すべてそれをする側の心のゆとりから生まれるものだと思って間違いないと思います。本当に助けなければいけないのは、そのような「ゆとり」のない人々です。今日は少し身体が楽になりました~♪
2007/05/28
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(^お^)(^ば^)(^ん^)(^で^)(^す^) 熱が下がらなくて、監禁されてました~♪熱も下がり、微熱程度になりましたので、脱走してきました。花がo( ̄  ̄*)。。oOシンパイで・・・40度の高熱で、花の水を心配してました。ε- ( ̄、 ̄A) フゥーちと、しんどいじょ・・・花達は元気に、待っていてくれました。皆様にご心配をおかけしました。m( __ __ )m。。。 時々こんな事が、起きるかもしれませんが・・・((^^)) ゆるしてちょんまげ♪∵ゞ(≧ε≦; )プッ花の次に…ブログがしんぱいでしたぁ~!!ご挨拶周りが、出来ませんが~((^^)) ゆるしてちょんまげ♪本当に愛らしい花でしょう~♪♪
2007/05/24
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私、なんだか死なないような気がするんですよ。信じると言う事は面白い事である。 人の力ではなく、自分の力を信じる、自分にはこれっぽっちの力しかない、と思っていたときと、そのこれっぽっちの力を大切にし、そして、その上にもまた積み重ねて行く力があるかも知れない、いや、あると思うようになったときとは、違う。本当のことを言えば、私の九十六年の人生は決して平坦な道ではありませんでした。それどころか、でこぼこの道の連続と言った方が早いくらいの人生でした。 でも、あるとき気がついたのです。でこぼこがひどければひどいほど、やっと見つけた幸福の味もいっそう美味になると言うことです。 そして、足をくじきそうになりながらあるいは、くたびれて膝をがくがくいわせながら歩いたでこぼこ道の思い出のほうが、いつまでも心に残り、自分を成長させるものだということを知りました。そう思うと、でこぼこの道も、ちっとも苦ではなくなりました。 「幸福に生きる知恵」より 北海道では桜の花が満開だそうです~日本は…素敵だね。これから MRI~熱があるけれど、行って来ます。
2007/05/21
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あの頃がよかったなぁ…と思うんじゃなくて、今がいいと、思えるように生きたいd(^-^)ネ!時には、大切なものが 逃げていかないように、「時間が止まれば」なんて思うけど、もし、本当に止まったら...長すぎる人生を どう生きるか悩む人にとって、もし、人生が1日しかないとしたら...寿命がなくなる、時間を気にしなくていい、そんな世界に憧れたりもするけど、本当にそんなことになったら、人生を味わうことも出来ない。あ~そうそぅ・・・こんな言葉もあった。「人生は悲しみの器だが、 それを生きぬくことこそ気高いのであり、 時間のないところには人生もない。」 皆様、ごきげんようOo。(。ρω-。)オヤスミィ☆
2007/05/20
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例えようのない悲しみや苦しみ、とらえどころのない不安行き場のない怒り、止めどなく溢れる涙そんなすべてのものを、受け止めようとしてくれるあなたには、もう感謝の言葉しか浮かばない...哀しみに噎ぶ夜、天を仰ぎみて星をうたう瞬く星のひとつひとつに、あなたの記憶を刻みこんでやがてそれは~私の心を、静かに照らす星となる...私は長いこと、本物の人生は、これから始まると思って過ごしてきた。だが、いつもなにかに邪魔されてきた、先に片づけなければならないこと、やりかけの仕事、借金の返済。それが終わったら人生が始まるだろう、と…やがてついに私は悟った。こういった邪魔ものこそ、私の人生だったのだと…私たちは、人生に、大いなる期待を持ってよろしい。ただし、それは、試練や苦しみがなくなることでなく、それらを通り抜け、乗り越える力が 増し加わって、人生を楽しめるようになれるんだ、という期待でなければいけないのでしょうネ。人の魂を除けば、地上のすべてのものは、過ぎ去る影のようにむなしい。唯一朽ちることのないものは、私たちの内にあるのでしょうから…喜びの 深きとき、憂い いよいよ深く、楽しみの大いなるほど 苦しみも大きい。これを 切り放そうとすると身が持てぬ。...金は大事だ。大事なものが殖えれば、寝る間も心配だろう。嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。草枕の夏目漱石の一説です・・・守るべきものと言うか、固執するものが増えると、安心できる時間も なくなるでしょうね。落語に、「水屋の富」というのがあって、これが面白いんです。昔は、井戸というものがあったのですが、あれは、飲み水用というよりは、生活用水だったようです。そこで、水屋という商売が登場します。毎日のことですから、やはり、忙しい。その水屋に、「富くじ」で800両という莫大なお金が当たります。(今で言えば、「宝くじ」でしょうな...)当たったはいいけど…水屋という商売上、次の商売人が見つかるまでは、人様に迷惑をかけることが出来ず、水屋を続けます。でも、家に隠しているお金が心配なんです。夜になれば、強盗が押し寄せる夢を何度も見る。仕事のために家を出る時には、家を振り返るたび、通りがかりの人が、怪しく見えて、家にすっとんで帰っては、お金を確かめる。そんなことをしていると、水屋の仕事が遅れて、お客さんに 叱られる。おかげで 精神は磨り減ります。行動も怪しくなり、とうとう、通りがかりの盗人に気づかれ、仕事に出かけた後、まんまと盗まれてしまいました。帰ってきた水屋が一言、「ああ、これで苦労はなくなった」と…幸せなのに、幸せでないふりをして、生きるのは難しいでしょう。でも、その幸せがあってもなくても、幸せな気持ちが続くようにするためには、幸せは束の間かもしれない、と思っておくのも、いいことでしょう。恋わずらいも、そんな感じでしょうかしらぁ~素敵なお天気です。
2007/05/20
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未来は、ためらいながら近づき、現在は、矢のように飛び去り、過去は、だまって静かにしている。未来が ためらっているのか、私たちが ためらっているのか、どちらなんでしょう...たまには、ためらいを、心地よく思いながら、未来に身を任せるのもいいかな、と思います。贈り物というのは,相手に受け取ってもらって初めて贈り物となる。受け取ってもらえなければ、それは単なる「お荷物」でしかない。考える時間をとっておきなさい、それは力の泉である。読む時間をとっておきなさい、それは知恵の泉である。親切にする時間をとっておきなさい、それは幸福の道である。笑う時間をとっておきなさい、それは魂の音楽である。働く時間をとっておきなさい、それは成功の代価であろう。種を蒔いたとたんに、芽を出すだろうかなどという心配をするのはやめよう。あなたが種を蒔いた瞬間から、その種は間違いなく成長するのだから。大切なのは、それからのあなたの行動である。現在の姿を見て接すれば、人は現在のままだろう。人のあるべき姿を見て接すれば、あるべき姿に成長していくだろう。命に執着すると、あきらめられない色々なものが、目の前に出てくるけれど、命を 越えたところが見えてくると、かえって、より良い生き方も見えてきたりするから、不思議なものです。この世には、幸も不幸もないのかもしれません。なにかを得ると、必ずなにか失うものがある。なにかを捨てると、必ずなにか得るものがある。...かけがえのないものを失うことは、かけがえのないものを真に、そして永遠に手に入れること!!なのかも知れないなぁ・・・久しぶりに、少しの間~夢も見ないでよく眠れた・・・今日の薔薇は、アモーレ・ビロードのような素敵な大輪の花、名前に良く似合う~♪
2007/05/19
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春夏秋冬という四季は 順を追ってうつり変わってゆく。人間の死はふいに、突然やってくるものだ。 死は顔を向けて堂々と正面から向かってくるのではない。すでに前々から人間の背後にしのび寄っているもの。 人間は誰しも死ぬことを知ってはいるが、現実のこととして考えないうちに、突如として訪れてくる。 まるで満ち潮のようではないか・・・沖からだんだんに 潮が満ちてくるのではなく、気がつくと、足許がもう潮にひたされているのと同じである。これは人間の死を語って、他の追従を許さない名言ではないか。 いつのまにか後ろからしのびよってくる死-「死は 前よりもしも来らず、かねて後に迫れり」。 兼好のこのことばによると、われわれは意識する、しないにかかわらず、いつも生が死に侵されていることになる。 むしろ、何がしかの死を抱いて生きているといった方が、満ち潮としての死にかなうでしょうね。努力っていう言葉は、使い方によっては、言い訳がましくなる時があって、ちょっと抵抗がある。「こんなに努力したのに、うまくいかない。私は、運が悪いんだ。」なんていう感じの言葉かな。確かに、いくつも重ねる努力のすべてが、うまくいくとは限らないだろう。だから、成功や幸せが、まだ目の前に少しも姿を見せない時は、その努力の意味に、なおさら不安がつのる。そんななかで、続けるって、大変だよね。あぁぁ、何も意識しないで、続けることって、出来ないんだろうか。努力とか、実行とか、行動とか、そんな言葉を使って気合いを入れなくても、動ける人間になりたいね。まぁ、動きたくなる対象を見つけるのもいいだろうし...何かのために頑張る時間、幼いうちの子供と一緒に遊ぶ時間、夫婦との語らいの時間、親孝行する時間・・・「とうとう」になってしまうのは、ほとんどが、無報酬のものかもしれない。それらは、電話のように、ベルで知らせてくれるわけでない。着実に、そのチャンスが少なくなっていくだけ。それも、静かに、音もたてずに・・・元気なころは、いつでも独りに、なれる(なりたい)と思っていたけど、人間は独りでは生きられないということが、近頃は、とってもよくわかった。
2007/05/18
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風になりたいと思ふ時 孤独の悲しさを知らず...雪になりたいと思ふ時 雨だった事を思い出す・・・到達できそうな目標を設定する。期待は捨てる。 美を鑑賞する。 境界を定める。いつも「イエス」と言う代わりに「ノー」も入れる。 心配しないで、楽しい気分になる。幸せは生きている感情なのを忘れない。安定を心の平安と交換する。あなたの魂を愛する。あなたの夢を大切にする。毎日、愛を表現する。真の自己を探し求め、見つける。 (サラ・バン・ブラナック)このサラ・バン・ブラナックの言葉をたびたびとりあげて自分自身のチェックリストとしています。 そのなかでも、「行動するよりは、存在する」、という言葉がこのところ,私のなかで大切なものとして実感をもつようになりました。 釈迦に少しずつ近づいているのでしょうか・・・灰色の雲に覆われた空から糸のような細い雨が降る朝でした。 今日は 雨模様、時折激しくたたきつけるように降る雨、・・・明日ははれるでしょう~♪青い夜明け青が好きだ、だから この色を塗ろうこの青い絵の具を溶いて空を 海を 山をそれから気がかりな小道を すっかり塗ってしまおうわたしは歩きだそうとしている、届けては いけなかった想いや、いたらなかった行いの跡をきれいな青色に染めてしまうと・・・わたしは また新しい夜明けを待つことができる・・・わたしは この色が好きだ。
2007/05/17
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自他同一という障害思想的に言うと、「自他同一」というのは、たいへん優れた状態のことである。他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとし、他人の幸せを自分の幸せとして、それが叶えられるように、努力出来ること。すばらしい人じゃないですか、本当に...。私の周囲に、そんな人が一人でも居たら、幸せですよ。あるいは、自分がそんな人になりたい、と思って、努力している方もいることでしょう。しかし、自分が望まなくても、あるいは、そういう生き方を目標としなくても、それが自然に出来る人の中には、それが障害となっている方もいる。「自他同一障害」と言えよう。どういうことか・・・?他人の欲望や、欲求があまりにも 鮮明に分かりすぎて、それに応えてあげなければいけない、という焦燥感、あるいは発作におそわれ、それを叶えてあげてしまう。たとえ、それが、倫理的、法律的、健康的に良くない場合でも、それを 行わざるを得ない自分になってしまう。それが叶わない時の 相手のストレスを敏感に感じすぎて、そのストレスが、自分のストレスとなって、それを解消するかのように、果たしてしまうのだ。これは、相手の人格が成熟している場合は、起こりえない。良くない欲求を自制することが 出来るからだ。しかし、そうでない相手の場合は、良くない欲求(例えば、不倫、犯罪)を 自制できないから、障害を持つ本人は、敏感に感じとってしまう。 相手との関係がそれほど親しくなければ、感じとって、共感したり、感情移入したとしても、その場で終わってしまうわけだが、相手との関係がけっこう親しくなっていたりすると、その欲求不満の心境を察知しすぎて、その相手の望みを叶えてあげてもいいような表情なり、雰囲気を見せてしまう。ここで、相手がそれに気づかないほど鈍感であれば、事は前進しないが、相手がそれに気づいてしまうと、「ラッキー!」ということになる。相手は、自分に気があるか、この人は優しい人なんだ、という大きな勘違いをしてしまうのだ。そして、控えめにしていた欲求を 強く押し出してくるから、障害を持つ本人は、ますます苦しくなり、行動に移らざるを得なくなる。この自他同一という障害、そういう傾向に気づかれさえしなければ、何も問題は起こらないが、第3者に気づかれて利用された時には、その障害を持つ家族、周辺に大きな悲しみをもたらす、そんな事になりかねないのが、厄介な事だ。それにしても、あまりにも悲しい残虐な事件ばかりが多い昨今・・・人々は心を、何処に置き忘れてしまったのだろうか・・・・・年々歳々 花相似たり、 歳々年々人同じからず。
2007/05/16
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縁ということを考えるに、全ての事柄はまこともって縁のなせる技であり、そしてその縁というものは我ら凡人の頭ではいくら考えてもその深い妙の謎については知るよしもないなぁということです。過去の出来事に対し、これを否定するものは、自分が現在生きている基盤を否定するものであって、 現在の自分の幸福も、その自分が否定している過去の現実があって、成り立っているものだということに想像力が及ばないだけです。過去に行われた戦争によって、現在の自分の命があるということも可能性として否定できません。 戦争があったことで、自分の祖父と祖母が出会い、子が生まれ、その子から自分が生まれた可能性というものも想像します。 だとすれば祖父と祖母を出会わせた縁を作ったものとして過去に行われた戦争にすら感謝しないといけないということになります。物事はすべて、何がどこでどう繋がっているか分からないわけですから、何事もこれを否定的に扱うことは間違いであると言えます。結果には原因があり、その原因もまたさらなる原因の結果であり、その原因の原因をさらに突き詰めていくと、結局は巡り巡ってすべて自分に帰って来てしまうのではないだろうかと,いうことも想像してしまうのです。 つまり、すべては前世に自分が行った行為の結果としての現状を、今自分は味わわせて、 もらっているだけなのかも知れない、などと思ってみるのです、正に因果応報という考え方です。 つまり自分が自分を苦しめているだけであり、喜びもまた然りです。他人のせいではなく、すべてを自分の責任として引き受ける態度が、この因果応報という考え方の 基本ではないのかと・・・何がどこでどう繋がって、自分に巡って来ている、またこれから巡って来るのかもしれないと想像すると、これらに対し何事も否定的に扱うことに畏れを感じるはずです。 この畏れという感覚があれば、すべてのものに対し、思いやりや労りの心も生じて来るでしょう。自分がお世話になっているものは数え切れないほどあって、自分の頭では 想像もできないわけです。 だから、これもあれもどんなものにでも感謝と思いやりの態度で接すべきなのです。今求められている教育も、こういうことを考え方の基盤に据えた教育です。 環境問題も含めて何もかも問題と名の付くものは、すべて人間の問題なのですから、人間を教育しないと これらの 問題は解決しないわけです。 正しい教育を 行うということが大事です。それが「お蔭様」を教える教育だと 、私は考えられるのです。サラリーマンの自殺、家族での殺し合い、そして虐待。事件を聞くたびに、何か生きていけぬ真空のようなものが できていっているのでは・・・?悲しい 情けない時代になってしまったと、思えて悲しくなります。・・・更新が出来ない時には、体調が優れないと思ってくださいね・・・
2007/05/15
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何かに突き当たると、水は逆らうことなく流れを変えます。行く手を遮るものがないときでも、水はさまざまに回り道をします。わたしたちの体を構成するいちばん多くの要素が水であることを考えるなら、わたしたちにも同じ性質が備わっているはずです。 生きていて、多くの人と世の中を見ていて、矛盾はたくさんある。これが、本当に世の中のあるべき姿なのかと、あるべき自分なのかと...誰しもが一生に一度は考えるだろう...そんな思い。誰もが、耐えられないほど、ものすごい刺激を求めることはないだろうけど、人生には、飽きない程度の変化を求めるもの。いつも、変化が徐々に訪れるならいいけど、必ずしも、そうとは限らず、時折、激しい変化として訪れてくるわけだから、それに耐えうる力を身につける必要がある・・・のだが・・・それが、生きる目的、理由の理解なんだろうな。口では分かっていると言っても、心で分かっているかは、生き方を眺めてみるしかない。いい生き方をしたいね... 自分のまわりで 何が起きているか...気にしていない時に限って、心揺さぶるような事件が起きる。それによって、一喜一憂。もちろん、まわりで何が起きているか、いつも心にとどめていたら、いくらか安心できるかもしれないけど、それ以上に、何が起きても、身のこなしは軽やかでありたい。見栄とか、無理とかでなくて、はたまた、心が変わらないとかいう頑固さでもなく、やっぱり、心の入れものが大きいこと。これが一番だと思う。 入れものが小さければ、新しい情報が入るたびに、前の 穏やかな感情が 追い出されなければならないことになる。入れものが大きければ、どちらも入っていられるし、前の穏やかな感情も続けられる。気持ちは晴れのまま、「こんなこともあるさ」ってな感じで、受けいれられる「入れもの」、 それを心のなかに持ちたいです。
2007/05/13
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カーネーションが母の日に選ばれたのは、この花が母性愛の象徴とされているからです。 十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアが落とした涙の後に生じた花という言い伝えがあります。 また、中央部の赤はキリストの体から散った血の色ともいわれています。 古代ギリシャ人が、オリンパス山の神々の主神ゼウスに捧げたとも伝えられるように、この花は昔、 花冠を作るのに欠かせなかったところから花冠、花輪を意味するラテン語CORONAにちなんでCARNATIONと名付けられたといいます。 また、母の日の提唱者であるアンナ・ジャービスのお母さんがカーネーションが好きだったことも原因の一つです。世界の母の日日本の母の日は、5月の第2日曜日です。世界の国々には「母の日」はあるかなぁ?あるのならば、いつなんだろう?由来を考えると、色々な国に同じ習慣が根付いているのだと感じました。そこで、ここでは、世界特にアジア(韓国・中国・台湾)について調べてみました。アメリカ5月第2日曜日(デンマーク・フィンランド・イタリア・トルコ・オーストラリア・ベルギーも同じ)イギリスイースター・サンデーの2週間前の日曜日イースターは、毎年、日付けが変わる移動祝祭日で、「春分の日の 後の、最初の満月の次の日曜日」と決められています。具体的には3月21日から4月24日の間。 2004年は4月11日です。韓国5月8日が、韓国語では「オボイナル」という父母の日にあたります。 父母の日に1番喜ばれるプレゼントは韓国では「お金」だそうです。 カーネーションをプレゼントする習慣も日本と変わらずにあるようです。中国5月第2日曜日が母の日です。母の日の過ごし方としては、日本と同じようにカーネーションをあげて一緒に食事をするようです。ちなみに父の日はないそうです。 台湾台湾では、母の日は一年の中でも大きなイベントの一つだと考えられています。というのは、一年の中で最も贈り物をする時期として、母の日があげられています。ついで父の日。プレゼントには、アクセサリーが人気のようです。 メキシコ5月10日 ハンガリー5月第1日曜日 ルーマニア3月8日は、「母の日」ではなく「女性の日」らしいです。その日に、小さい女の子からおばあちゃんまで女性は花か小さなプレゼントをもらうようです。この習慣はハンガリーでも同じようです。 エジプトなど中近東諸国3月21日皆さんは、母の日の由来をご存知ですか・・・??? 起源としては、これからご紹介するように何説かありますが、現在のような日本の母の日の由来はアメリカの説からきたものだと思われます。 古代ギリシア時代 神々の母リーアに感謝するための春祭りから発祥したといわれます。 17世紀 イギリスこの時代、復活祭(イースター)40日前の日曜日を「Mothering Sunday」と決め、家から離れて仕事をしている人が家に帰って母親と過ごすことが許されていました。(里帰りの日曜日の意味を持ちます。1600年代、主人が使用人を里に帰らせる日としたのが始まりです。)このとき贈り物として、「Mothering cake」というお菓子を用意したそうです。20世紀初頭 アメリカ 1900年代のアメリカヴァージニア州が起源といわれています。 1905年5月9日、アンナ・ジャービスという人の母親が亡くなりました。やがて彼女は、「亡き母を追悼したい」という想いから、1908年5月10日、フィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配りました。 これがアメリカで初めて行われた母の日だそうです。この風習がアメリカのほとんどの州に広まりました。 そして1914年、その時のアメリカ大統領だったウィルソンが5月の第二日曜日を母の日と制定しました。 日本では?日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、1915年(大正4年)に教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられています。昭和に入ると3月6日を母の日としていました。この日は当時の皇后の誕生日であったそうです。 現在のようになったのは、戦後しばらくしてからだと言われています。また、一般に広く知れ渡ったのは1937年(昭和12年)森永製菓が告知を始めたことをきっかけにするとも言われます。 和やかに、今日という、優しい時をお過ごしください。
2007/05/13
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華やかな、薔薇も蘭も大好きです~お気に入りは、草花勿忘草のような、小さな小さな、可憐な花が大好きなのです~♪人は、海辺の美しい貝がらを、 すべて集めることはできない。 今なお、いろんな成功本が、数多く出版されている。それと同じくらい、あるいはそれ以上、世の中には、幸せや成功の種類がある。このたとえは、とても面白い。きれいな貝がらのある海辺...そうだなぁ、私だったら、沖縄の青い海を思い出す。きれいな海辺に行っても、やはり探さなければ、貝がらは見つからない。それは、ちょうど目の前の幸せに 気づいていない人のようだ。そして、見つけた人は、それに手を伸ばそうとするが、すぐ近くに、また、きれいな貝がらを見つける。こっちの方がきれいだな、と思い、伸ばしかけた手をそちらに向ける。そう思って、向きを変えた瞬間、また目に入る別の貝殻に気づく。そうこうしているうちに、視野が広がり、「こんなにいっぱいあったのかぁ...」という結論にいたる。しかし、まだ、一つも貝がらを手にしていないのだ。しばし、遠くに見える、いろんな美しい貝に憧れたり、うっとりすることもあるだろう。探す気持ちは、とても大切だわ。しかし、他がよく見えたり、すべてを欲しくなったりすると、何も得られないまま、ただ時間が過ぎていくこともある。世の中には、多分、みんなの分がある。そして、多く手に入る人も、少ししか手に入らない人もいる。その良し悪しは分からないけど、それにこだわりすぎて、自分の分を手に入れることが出来なかったら、本当に残念だと思う。まずは、お似合いの貝を一つ、いかがでしょう...
2007/05/12
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人には「心の風邪」がある。そして、その症状は様々。ものすごく食欲が出て、食べ出す人。こんな知人(女性)がいた。親の反対を押し切って、自分の夢を追いかけて、家を出た当時20歳の女の子。理性的に見えた女性だったけど、「親の反対を押し切ってしまった」という自分自身が、心の重荷になってしまった。その女性、ある晩、夢を見たんだそうだ。夜中に起きて、炊飯ジャーに残っているご飯を、貪るように食い尽くしてしまう夢を...「ああ、ストレスあるんだなぁ」と思って、朝起きてみると、実は夢じゃなかった。本当に、自分は食べていた。2回目、また同じような夢を見た。今度も本当だろうなぁ、と思って、朝、炊飯ジャーを覗く彼女。やっぱり、ご飯はきれいになくなっていた。心の風邪の症状は、どんなふうに現れるか、想像も出来ない。もう一人。私が勝手に・自他同一障害・と名づけた女性。この人のいいところは、人の気持ちが分かって、その望みどおりにしてあげられること。でも、その相手の気持ちが変に強すぎたり、 多くの人間の望み、それも、バラバラな方向の望みが 絡み合ってぶつけられると、心の風邪をひく。それまで活発に、人助けに励んでいた姿が、一気に「うつ」になるのよね...一般的な風邪の症状というのは、熱、セキ、くしゃみなど、ある程度のパターンがあって、分かりやすいけど...心の風邪は、個性的なもので、なかなか分かりにくい。それを診断できる人はすごいよな、と思う。 あらゆる人間の 「心の風邪」を診断できる必要はないけど、とっても大切な身近な人の「心の風邪」くらいは診断できるようになったらいいかもね。多分、自分も、その人をも、幸せに出来ると思う。 気持ちよい生活を作ろうと思ったら、 済んだことをくよくよせぬこと、めったに腹を立てぬこと、 いつも現在を楽しむこと、 とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること。全部私には、無理なことばっかりだぁ~
2007/05/11
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人生って難しく見えるけど、本当は簡単だよ。ただ、自分に嘘をつかないで、毎日前を向いて素直に、生きていっけばいいんだよネ。安全なき安心の笑顔から真性の笑顔へ横の人を気にしながら、合わせて笑うことを「安全なき安心の笑顔」と言うそうです。「真性の笑顔」は、暗闇を照らす星に似ていますあなたの 笑顔は暗い中でも輝きを放つことができますか・・・・?今日も一日、輝きを放ち こぼれるほどの笑顔になれるように~~♪小鳥のさえずりが聞こえてきます♪何か楽しい事が ありそうな予感にo(*^^*)oわくわく今日も~一日 素晴らしい日になります様に・・
2007/05/11
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よくがんばったね…今日も一日よくがんばったね。そう友達 みんなに言いたい。今日も一日、よくがんばって生きたよね。今日一日、生きた。そのことを褒めてくれる人がいない・・・それは悲しいことだ。この国で生きることのしんどさでもある。生きるように 守るように 風の間に間に 愛しき面影をまとい 告げくる思いをこの身に 帰しながら帰りながら 決してその答えは問うまい そう 花の如く 心のままに思い咲いては 朽ちた花弁を散らす時まで 私は何度 あなたの名を 甘く呼び続けるのだろう 何があっても 向かいたいものがある限り ひと握りの幸せがある限り 明日も きっと大丈夫 いつも些細な出来事が 私を照らしてくれるから 柔らかな心でいよう どんな棘もささらない 柔らかな心で 過ぎゆく時の中に 生まれ来るもの それは哀しいほどに 透き通った 心の雫 私の 深い深いところへ こぼれ落ちては 幾重にも波紋を広げて 一瞬の瞬きを夢見たまま また ひとしずく 過去へと消えてゆく 小さな月になって あなたを照らしていたい 悲しい夜も 淋しい夜も あなたを包んでいたい いつでもどんなときでも 迷わずに進めるように ただ あなたを見守っていたい・・・
2007/05/10
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幸福の扉の一つが閉じる時は、別の一つが開きます。 けれど私たちは閉じたほうばかりながめていて、 こちらに向かって開かれているもう一つの方に 気付かないことが多いのです ヘレン・ケラー
2007/05/10
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...( ~_ゝ~)y-~~ ただいま ・・・やっと、少し元気になりました。 人は何かの因縁でつながりその因縁の因に 心がそなわれば恩と言う字になる。因と心で、恩ね。いい漢字の組み合わせですね。因はつながり。今の世の中には、いろんな因がある...自立した人間として、その因の関係を楽しめるよう、いい心でいたいですね。雨にもまけず・・・風にもまけず・・・(病気にも負けず)雪にも夏の暑さにもまけぬ丈夫なからだをもち慾はなく決して瞋(いか)らずいつもしずかにわらっている...みんなにデクノボウとよばれほめられもせずくにもされずそういうものにわたしはなりたい・・・(私もなりたい・・・
2007/05/09
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広い心、狭い心、心のサイズについて考えることがあります。心にはどれくらい奥行きがあるのでしょうか。自分でも知らないナゾの部分が、心に隠されているようにも思います。心の奥深く、可能性を求める旅に出てみましょう。心の葛藤は、心が何らかの解決を求めるが故に生まれるのでしょう。あるがままの自分で今を生きることが大切なようです。釈尊は善哉 我が教に随ひて、生死を離ると知見し給ひ、六方の諸仏は 悦ばしき哉、 我が証誠を信じて、 不退の浄土に生きると 悦び給ふらんと。昨日よりほんの少し,明日がいい日でありますように~~♪ある高僧のお話し知り合いの 少しだけ高名な宗教家の方も 時々口にされます。その方と 『生かされている』について意見を交換しましたが・・・人はそれぞれ 周りの方々に 助けられ・支えられて生きているが『生かされている』のではなく ・・・あくまでも 『自分の意思で生きている』 のだそうです。地球上に 数多くの生き物が 生息していますがその中で 自分の命を自分で絶つ事が出来るのは人間だけです。人間には 怪我や病気のときに 自分で自分を治す治癒力があり自分の気持ちや信念で 『生きよう!』『生き抜こう!』と強く思えばその治癒力が かなり高まるようです。キリスト教の場合は 洗礼の時に 自らの命を絶つことは厳しく戒められるようですが・・・その他の場合 精神的に極限まで落ち込んだ方へ生きていく勇気を与えるために 『生かされている』で説得するそうです。「いのち」がなくなるまで 人生を味わいながら 心安らかに生きて生きたいものですが...・・・1万円持とうが、1億円持とうが、本来の自己(私という人間の本質)は少しも変わらないんです。変わるのは銀行の扱い、つまり、自分の外側だけです。変わる外側に眼を向けているかぎり、本当のいのちの安らぎはありません。世の中の変化にすべてついていく必要はないけど、自分の生き方が自分で窮屈にならないためにも、そんな「変わらぬ信念」を持てたらいい。そうすれば、少しずつ、眠っている才能を刺激出来るんじゃないかなぁ、ささやかでもいいから... 道標 やさしく在れ どんなときも やさしく在れ 限りなくやさしく在れ まっすぐに生きる人に出会ったら その余分なものを持たぬ生き方に 心が震える人で在れ 笑顔の美しい人をみたら その中に魂の輝きが見える人で在れ 無邪気な子らの歓声が聞こえたら 我も童心に帰れる人で在れ 心のとびらを固く閉じていては あふれる陽光はどこから差し込めばいいのか・・・・・ やさしさとは 生命にたいする畏敬を我が身の中にしかと刻むこと どうしようもなく 自分が醜く見え始めたら 大地に体を横たえて ふり注ぐ天空の やさしさを呑み込めばいい いくら探しても見当たらぬと あきらめかけていた道標は 手を伸ばせば届くところにあるだろう 何の見返りも求めず 素直な自分に立ち返れ それでいい それでいい 『それでいい』と 三度、自分に言っている。。。そろそろ、出かける準備にかかります、どちら様も良い日をお過ごしなさいませ。
2007/05/09
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