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微妙な変化といえば、なんかあまりせわしく物事をしようと思わなくなってきたこと。 なぜにあんなに夢中でいろいろとやっていたのか。 なんとなく、バイタリティやインスピレーションが無くなってきたような気がする。 よくいえば、地に足がついてきたというべきか。 大好きな映画「エクソシスト」のディレクターズカット版(監督自身による副音声付き)を観ました。 劇中、ワンカットのみ、リタリン投与のシーンがあり、副音声では、「当時はまだリタリンの副作用の害についてはさほど追及されていませんでした。現在はその副作用に大きな疑問が提示されています」と語っています。 リタリンの是非については時代を感じさせるシーンですが、映画自体は少しも色あせません。親になってから観ると、ホラーというより「家族再生」の色が濃く感じられ、久々に見入ってしまいました。 副作用よりも、まずは鬱なら自殺を食い止めること。 すべて副作用は後の産物です。 先人の智慧と勇気に感謝して、今日も投薬をつづける私です。
2004年08月08日
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今日は、睡眠を十分にとった。 ひきつづき、変化なし。 昨日書いた「無念」の件も、 今は時期ではなかったなあ、とカンタンに納得した。 もやもやしていることは、家人に話をすると翌日にはけろっと忘れてしまう。 躁鬱のときはまったく別人格になるので、 なんで、あんなふうに思ったのか、 なんで、あんなことを考えてあんなことを言ったのか、 悪気はないのだが、また言い訳するつもりもないのだが、 全く記憶にない。 だから、この日記を綴っているわけだが、 この日記自体も見直してみると、 「へえー、このときは完全に躁だよなあ」 と、確信したりして。 記録の効用である。 ひきつづき、なにもなくともこの日誌を記録として とどめておきたいと思っている。
2004年08月07日
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ひきつづき、変化なし。 躁状態のときの反省の気持ちが出てくる。 「無念」といった感覚。 後悔はないが、躁鬱状態により、後一歩だったプロジェクトが、ふたつほど延期を余儀なくされてしまったことに対して「無念」。 二勝二敗一引き分けといつたところである。 ものごとは、流れに乗っているときは、おもしろいように、雪ダルマ式に順調に流れるものである。 しかし、時期が早かったか、段取りがいまひとつだつたか。 諦めたわけではないが。。。。などと、そんなことを考える余裕が出てきたということである。 いまは、治療に専念。 体あつてのプロジェクトである。 医師と周囲の指示に従っている。
2004年08月06日
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先日にひきつづき、穏やかな気分。 なんの変化もなし。 年上の友人から久々にメールあり。 おあいしたかったが、16日はお盆のため無理。 でもMさん、国家試験がんばってください。
2004年08月04日
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昨日に引き続き、穏やかな気分がつづく。 なにか、あわただしくものごとを「処理」したい、という気分が薄れてきたように思える。 いつつ持っていた楽天日誌も、書きたいことがあるまで書かないことにした。この日誌だけ、記録としてとどめたいので、引き続き、書き綴ることにする。 2003年10月 鬱に入ったように思う 2003年11月 抗不安剤投与開始 Y医院にて 2003年12月 希死概念発生 2004年01月 M医院にて鬱病治療、抗鬱剤投与開始 あしもとがふらふらになる 2004年02月 自律神経失調症、吃音 2004年03月 同上 2004年04月 回復の兆し 2004年05月 回復に向かってさわやかな気分になる 2004年06月 鬱病治療終了 躁病状態のうたがい。ポジティブな幻覚と幻聴 すぐに財布を家人に預ける(笑) 2004年07月 正式に躁病と診断され、治療方法を変更 遠地療法(三週間) 躁鬱病両方に効く投薬を続ける 月末、平常に戻ったように感じる 2004年08月 穏やかな気分、現在に至る
2004年08月03日
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六月より、躁病の治療を始めて、ふたつきが経った。 だいぶ、しらふになっているのがわかる。 気持ちも、おだやかである。 鬱は、治りかけが危ないということなので、 躁の、治りかけに注意をはらっているのだが、 いまのところなんともない。 ただ、ただ、おだやかな気分である。 鬱あけは、爽快であったが、 躁あけは、ただの穏やかな気分である。 なにか、変化はないか。 よく胸に手を当てて、毎日じぶんを観察している。
2004年08月01日
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