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成田空港を午後5時に出発した飛行機は、日付変更線を越えて、当日の午前10時50分頃、ロサンゼルス国際空港(LAX)に着いた。手荷物を持って、乗客の流れに乗ってしばらく歩いたら、入国審査のエリアに入り、ここで、アメリカ国籍を持つ人たちと、外国人の流れが分かれた。ターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)にはアメリカ以外の航空会社が発着しているので、外国人の乗客が圧倒的に多く、外国人用窓口の列は長かった。ちなみに空港のスタッフが「Visa! ESTA!」と大きな声で繰り返しながら、僕たち外国人を「Non US Citizen」の列に誘導していたので、間違って進むことはなかった。長い審査待ちの列に立っていると「ロサンゼルスへようこそ!入国管理エリアは撮影禁止なので気をつけてね!」という趣旨のアナウンスが何度も流れた。列の長さを写真に残しておきたいな、と幾度か思ったけど、見つかって入国できなくなったら大変なので我慢した。おそらく1時間くらいゆるゆると列が進んだ後、ようやく列の先頭までたどり着き、審査の窓口に呼ばれた。審査に必要な書類はパスポートだけ。ただ、事前にネットで調べたら、外国人の入国管理が近年厳しくなっている、との記載もあったので、①事前に申請していたESTAのコピー、②滞在先の住所、③帰りの飛行機のeチケットのコピーをパスポートと一緒に持って係員の前に立った。(結局使わなかったけど…)係員にパスポートを渡した後、顔写真を撮影。次に両手の指紋を機械で確認。どちらも指示される通りにやれば良く、ここまでは何もしゃべる必要はなかった。(ちなみにここで撮った写真が出国時の顔認証で使われたと思う。帰国便への搭乗が"顔パス"だったのでびっくりした。)その後、係員から4つの質問があった。①どこに行くの?②そこで何をするの?③何日いるの?④帰りのチケットは持ってる?どれも想定内だったので手短に答えたら、「はい、入国していいですよ」と言われ、パスポートが戻された。久しぶりのアメリカだったので前回の記憶があまりないけど、今回はとてもシンプルに終わったように思う。ESTAが導入されたおかげかもしれない、と思いながら預入手荷物を受け取る場所を通り、外に向かった。入国審査のエリアが薄暗かったこともあり、一瞬眼の前が真っ白になるくらい南カリフォルニアの景色は眩しかった。
March 30, 2024
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皇居の大手門のすぐ近くに建つ大手町パークビルディング(千代田区大手町1丁目1-1)脇の舗道に「旧内務省跡」と書かれた千代田区の案内板があリました。内務省とは、ざっくり言って、今の総務省だと思います。江戸時代には譜代大名、播磨姫路藩主 酒井家の屋敷があったこの場所に、明治6年(1873)から昭和8年(1933)まで内務省が置かれていたとのこと。大手町のすぐ隣、丸の内一帯が三菱社に払い下げられたのが明治23年(1890)。それ以前の丸の内は、陸軍が所有する事実上の荒地だったそうなので、三菱社が丸の内の開発に着手するまでの約20年間、内務省の人たちは広大な荒地を横目に仕事をしていたものと思われます。案内板の地図を見ると、まだまだ空き地が目立つ中にも、洋風の建物が建ち始めた明治30年代の丸の内の様子が描かれていました。(赤い丸が旧内務省跡)〔明治30年代の大手町周辺「東京一目新図」武部瀧三郎、1897年、千代田区教育委員会蔵〕(部分)今はビジネス街として一体感のある丸の内と大手町。当時は堀を挟んで大手町が官庁街、丸の内は空き地。それが官庁街と洋風のオフィス街の対比に変わったのはもう少し後。全体がビジネス街に変わったのは更にずっと後のことのようです。
March 23, 2024
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柳町通(やなぎまちどおり)「柳町通」というかつての町名は、今、仙台市青葉区一番町一丁目、中央一・四丁目の各一部(昭和45年2月1日住居表示)、宮城野区榴岡一丁目の一部(昭和63年7月4日住居表示)になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕仙台藩の由緒ある商人の町だった「柳町」に向かう通りだから「柳町通」。仙台駅の西側にある柳町の東端を起点に、仙台駅の反対側(東側)まで続く長い町だったようです。「東七番丁/柳町通」と書かれた辻󠄀標は、柳町から東に歩いて、JR仙台駅の建物とか線路を越えた先、仙台駅東口のヨドバシカメラ東南角に建っていました。(辻󠄀標52番。昭和61年設置。設置場所:仙台鉄道郵便局前)※「仙台鉄道郵便局」は今のヨドバシカメラの場所にあったのだろうと思います。「辻󠄀標のしおり」では「柳町通」を次の通り解説しています。「柳町に通ずる通りで、藩政時代初期は柳町東端からここまでで、寛文期までに東の孝勝寺前へ延び、孝勝寺通とも別称した。明治二十年の鉄道開通で東五、七番丁間がほぼ失われて東西に分断、西部は宮城学院や東北学院、病院、官庁などがつくられ、東部は昭和四十八年以降の再開発で商業地区となった。」※「ここ」とは、辻󠄀標の場所(ヨドバシカメラ南東角)。※「東北学院」の跡地には今、ウエスティンホテルが建っています。※「宮城学院」の跡地には仙台国際ホテルが建っています。もう一つ、仙台市のウェブサイトには柳町通についてのこんな説明も。「柳町大日堂前から、六道の辻󠄀を過ぎ、八塚孝勝寺下馬先まで通っていた通を称す。別に孝勝寺通とも呼ばれた。」(仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」より)ちなみに、孝勝寺まで歩いて、山門をくぐってから振り返ると、柳町通がヨドバシカメラに突き当たって、そこで終わっているように見えました。近づいてみると、交差点で道筋が折れていました。これが通りがここで終わっているように見えた理由。仙台城を起点とする町割りと、若林城を起点とする町割りの角度が一致していないことが、この角度の原因のようです。交差点から先(仙台駅方向)が仙台城下の町割り、手前(孝勝寺方面)が若林城下の町割りになっています。地図で見ると、柳町通はだいたい赤いラインの範囲。明治20年の鉄道開通によって、通りが分断されたことがこの地図から良くわかる…。ということは、戦後の区画整理は藩政時代の町割りをある程度残しているのだと思います。
March 16, 2024
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東京駅と皇居の間に位置するオフィス街、丸の内。今も昔も大企業だらけのビジネス街ですけど、今のような雰囲気になったのは、明治維新からしばらく経った、大正時代以降のことだそうです。そのきっかけは、資金捻出に苦心していた政府に協力するため、明治23年に三菱社が一帯の土地を高値で買い取り、荒れ地の開発に着手したこと。大正3年に東京駅ができ、第一次世界大戦の好景気を追い風に、日本を代表するオフィス街へと成長した、という経過らしいです。千代田区町名由来板「丸の内」には次のような解説がありました。「江戸時代のこの界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周囲は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。(中略) この丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以降、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。(中略)さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。(後略)」それでは、なぜ陸軍は三菱社にこの土地を払い下げたのか。。。三菱グループのHPでは次のように説明しています。「(岩崎)久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手がつかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。(中略)東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。(中略)東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。(中略)ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるようになった。(中略)煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。(後略)」「丸の内」は、そこにオフィスを構える企業にとっても、そこで働く人たちにとっても、おそらく大きなステータス。長年にわたって万人にそう思わせる圧倒的なビジネス街の基礎を築いた岩崎家の財力と、その姿を常に新しく維持し続けている三菱地所の想像力と創造力に、改めて感服しました。
March 9, 2024
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2年前、「52ヘルツのクジラたち」を本で読んだ時の感動を、僕はこんな感じで書いていた。本の感想(2021年5月に書いたもの)はコチラ今日は映画を観てきた。他人の心の痛みがわかる人は、自分も傷ついた(傷つけられた)過去を持つ人。100パーセントそうではないかもしれないけど、同じ傷を持つ人にしかわからないこと、同じ傷を持つ人だけが気づけることは、間違いなくあると思う。52ヘルツの音で鳴くクジラがいて、そのクジラの鳴き声は、周波数が高すぎてほかのクジラには聞こえない。どんなに叫んでも、大半のクジラたちにその声は届かない。でも、同じ周波数で鳴くクジラにだけはその声が届く。見方によっては、肩を寄せて傷を舐め合っている52ヘルツのクジラたち。連勝街道まっしぐらの人ならば、情けない奴ら、とあざ笑いながら、あるいは見向きもせずに通り過ぎるに違いない。だけど、一生負けなしで連勝街道まっしぐらの人は、きっといない。そして、いわゆる普通でノーマルな人にだって、誰にも理解されなくて苦しんでいたり、理解してもらうことを諦めていたりする部分はきっとある。そんなことを考えながらスクリーンを見つめていた。良い映画でした。観て良かった。杉咲花さん、志尊淳さん、桑名桃李くん、そのほかの皆さんも、みんな素晴らしい演技で、しみじみと感動しました。
March 3, 2024
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弓ノ町(ゆみのまち)仙台の中心部から江戸方面に向かうこのあたりは、仙台空襲(昭和20年)の被害を逃れ、道筋も、町の形も、昔のまま残っています。戦後、全国的に行われた住居表示も、この町では行われていないので、今も「仙台市若林区弓ノ町」として、地番が住所として使われています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕この道の両側が弓ノ町。懐かしい店構えの八百屋さんもあって、突き当りには泰心院の山門が見えました。泰心院と弓ノ町の間には奥州街道が横切っています。弓職人の町だったから「弓ノ町」なのかな…と思ったら、違いました。「寛永10年(1633)頃までに割り出され、弓足軽組の屋敷があった。慶長10年(1605)創建された大安寺には、弓足軽たちの信仰を集めた御弓八幡大菩薩の碑が残っている」〔仙台市HP「町名に見る城下町」より〕弓を使う足軽が住んでいた町だから弓ノ町、なのだそうです。仙台の城下町では、武家の町を「丁」、町人の町を「町」としていると聞いていたので、おやっ?と思ったけど、足軽の町にも「町」が使われていたようです。〔参考:仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)「辻󠄀標のしおり」〕勉強になりました。大安寺は、小さな弓ノ町の中にあって、かなり大きなお寺でした。(しかし、御弓八幡大菩薩は見つけられず…)弓ノ町の通りの突き当りに見える泰心院の山門。泰心院は、隣町(南鍛冶町)に建つお寺だし、寺と弓ノ町の間には奥州街道が横切ってるし、そういう意味では縁は薄いのかもしれないけど、この見え方には門前町の雰囲気もあって、もしかすると、大安寺と泰心院のどちらにも、弓ノ町は御縁を持っていたのではないか、と感じる風景でした。
March 2, 2024
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