2009年04月13日
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先週から、盛んにCMをしていて、
絶対見ようと思っていた番組がある。
「ドキュメンタリ宣言・世紀の大スクープSP独占公開・・・・
男装の麗人川島芳子は生きていた」

それなのに、最初の10分、見逃した。
全くね~、抜けさくなんだから。

これは、番組のホームページに書かれた一節です
「清朝の王女でありながら、日本のスパイとなり、戦後は「売国奴」として死刑を宣告された川島芳子。
 その「処刑」から60年後の昨年11月、中国・長春に「川島芳子に育てられた」女性がいる、とのニュースが飛び込んできました。現地の報道によれば、芳子は替え玉を使って処刑をまぬがれ、「方おばあちゃん」として、その後30年間も生き続けた、とか。「ありえない・・・」との思いを抱きながらも、私たち取材スタッフはひとまず長春へ飛びました。
 証言してくれたのは、画家の張玉(注、ぎょくは、本当は金へんです)さん、41歳。・・・・・・・その本当の身分を知ったのは、2004年末のことでした。臨終を迎えた祖父が「方おばあちゃんは、実は川島芳子だったんだ・・・」との遺言を残してこの世を去ったのだといいます。
 狐につままれたような面持ちの私たちの前で、張玉さんの口から紡ぎだされる晩年の「方おばあちゃん」のエピソード。そして「芳子」につながる遺品の数々。
 5ヶ月に渡る総力取材の結果、私たちは、「川島芳子は生きていた」と確信するに至りました。」


凄い迫力だった。
綿密に取材した事実や証言を積み重ね、
究極の現代科学を駆使し、川島芳子の生存を証明した・・・・と確信した。

まず、銃殺された遺体から骨格を読み出し、
実際の川島芳子の数ある写真から組み立てた骨格と比較した。
銃殺された女性の骨格、特に骨盤は、出産経験のある人のもので、
川島芳子の骨盤とは、全く大きさも異なり、肩の骨格もいかり肩となで肩と
銃殺された骨格と、芳子の写真からの骨格は、明らかに違うものだった。
科学捜査班のエキスパートは、はっきり言った。
「別人です」。

画家の張玉さんの持っていた、遺品の日本の本などから採取した指紋と、
芳子が生前のこした指紋も比較した。
だが、残念ながら、30年の月日は、判明を拒んだ。

芳子の死後、芳子をこの家に連れてきた人物は、その後僧侶になっていて、
芳子が亡くなって暫くすると、この家を再び現れ、
「しかるべきところに、遺骨を収容する」と遺骨を持って行ってしまった。

スタッフは、家族の証言から、生前、芳子が何度となく訪れていた寺で、
高貴な者だけのお骨が収容されている場所があることを知る。
そしてそこで、「香羅芳」と書かれた箱を発見する。
芳子の家系「愛新覚羅」の「羅」「芳子」の「芳」そして、
生前、唯一心を許した友人、李香蘭の「香」。
骨を確認するスタッフの手は震えていた。

後日、その中から骨を採取し、DNA検査に出そうと再び寺を訪れた。
だが、不思議なことに、再びその寺を訪れた取材班は、骨を採取した時、
40年その寺に住んで、色々な証言をしてくれた男性を探すが、姿を消しており、
採取した時、確かにそこにあった「香羅李」の箱も、
忽然と無くなっていたのだ。
これは、たかだか、この半年の話で、昔の話じゃない。
これこそ、何より、芳子の遺骨であった事が、事実であることを証明する出来事だろう。

日本の政府の仕事をしていた人物が、生前の周恩来に会い、芳子の生存を尋ねると、
「私の口からは、そういうことは言えない」と言いながら、指で「丸」を描いたと言う。
そして、すべてをかけて愛した血の繋がらない孫である画家の元に残された遺品が、
川島芳子の物であったことは、
素人の私でも、確実に生存が確信でき、理解できた。

そして、なぜ銃殺を免れたのかも、現在も中国で生きる愛新覚羅家の方の口から判明した。
当時のアメリカGHQの秘密文書の中から、
金の延べ棒30枚が、ばらまかれ、芳子が銃殺を免れたことが書かれてあった。
その金の延べ棒を用意したのが、彼の親だったのだ。

政府高官、監獄の看守、銃殺にかかわった警察官、芳子の銃殺に関わる者すべてに、
ばらまかれたのだ。
そして、銃殺された女性は、出産歴のある、髪の少し長い女性だった。
これは確かな話なのか、不明だが、銃殺された女性の妹が
「がんで余命いくばくもない姉が身代わりに連れて行かれた」と証言した。
これも、お金で身売りさせられたのだろう。
当時の芳子は、男装だったから、髪は短髪だった。
それだけでも、銃殺されたのは別人だった事が分かる。

芳子は身を隠し、二人の男に連れられて、
清王朝の流れをくむ画家の祖父の元にやってきた。
そして、数年後、父親は中国残留日本人女性と結婚し、画家が生まれると、
「方ばあちゃん」と呼ばれた芳子は、
自分のことのように喜び、彼女に日本人としてのしつけや、武士道、
中国人としてのしつけを叩き込み、ことのほか可愛がったという。

その中でも一番驚いたのは、
彼女が知るはずもない、
芳子がまだまだ活躍していた生前に、少数だけ作られたレコードを、
スタッフが探し出し聞かせたところ、
最初はじっと聞いていた彼女が、突然、日本語で歌い出したこと。
「方ばあちゃんに何回も聞かせてもらった」と。

2時間の番組が、短く思えた。
今日、歴史が変わったと、大げさでなく思った。
「川島芳子は生きていた」
間違いないと思った。

そして、小さな画家に「私が死んだら、このレコードを李香蘭に渡してほしい」
「渡せば全てが分かる」
と何度も言い、亡くなった。
夜中に一人、このレコードを聴いては涙していたそう。

そして3月初め、画家はレコードや、自分の描いた「方ばあちゃん」の絵を抱え、
山口淑子さんに会いに来日した。
画家の描いた「方ばあちゃん」の絵を見た山口さんは、
「間違いなく、お兄ちゃん(芳子)だ」と何度も言った。
そして遺言通りに、そのレコード「蘇州夜曲」を山口淑子「李香蘭」に渡し、帰国した。


ここまで見続け、驚きの連続だった。
最後に、スタッフに届いた、帰国した画家からの手紙に、思わず嗚咽した。
どうしようもなく、泣いてしまった。
なんという人生だったんだろう。
女の幸せを何一つ経験することなく、王女として生まれながら、歴史の波に翻弄された人生。
公の身の時は、男として生き、
銃殺を逃れてからの人生は、息を殺し、唯一、画家の孫だけを愛し、
亡くなった時は、正装して立ったまま亡くなっていたそうだ。
人間、立ったまま、気合で死ねるのだと、ショックだった。
その精神の崇高さに、また、涙が出た。

そして、画家も日本人と中国人との血を持つ身。
帰国して彼女は、芳子が何故あれほどまでに、レコードにこだわったのか。
李香蘭に会いたがったのか、
日本人の血を持つ彼女は、その意味を悟った。

画家に託した李香蘭にレコードを渡してくれ・・・と言う思いは、
自由に中国と日本が行来き出来るようになることを願い、
中国と日本の架け橋になることだけに人生をかけ、
ただただ、そのことを願い、死んでいったのだ。
だから画家が自由に空を飛び、李香蘭に会いに行くことを夢見、
画家にレコードを託したのだ。

その思いを持ったまま、
それだけに生きた人生が、かわいそうで、哀れでならなかった。
「日本人でも中国人でもない、同じアジア人である」と言う言葉。
長野に残された芳子の書でも、それを最後まで貫いた思想であることが分かる。

まだまだ中国と日本には、心の隔たりがある。
それは、私自身が中国に2度行って、肌で感じたことだった。

仲良くなった通訳の女の子に、パパが、
「日本語の通訳になって、迷いはなかった?」と
日本語のわかる人間が車の中、私とパパと3人になった時、聞いた。
日本が過去に犯した殺戮を、小さなころから教育された彼女にそう聞いた時、
それまで、私に、日本語について色々、娘のように聞いてきたり、
何度も一緒に食事をし、「美味しいね、これ」と顔を見合せ笑顔だった彼女が、
じっとパパの顔を見てから、困ったように空を仰ぎ、言葉につまった。

まだ19歳の幼さの残る、可愛らしい彼女だったが、
こんな若い子にも、まだまだ、中国には日本に対する思いが溶けずにあると思い知った。
「奥さんのような日本人もいるのですね」と言われた時、
一体、この子はどんな教育をされてきたのかと、
日本人のおばさんは、みんなこんなおばさんなんだよと、教えてあげたかったし、
抱きしめてあげたいほど、本当に、心から悲しい思いをした。

本当に、仲良くしたいと、心から思って3日間接してきたし、
娘たちと年の変わらない彼女が可愛くて仕方無かった。
最後に空港で別れる時、抱き合って手を握り合い、お互い涙した。
その後、彼女はその会社を辞めたと聞いた。
一体、今頃、どこで何をしているのだろう・・・。

近くて遠い国、中国。
芳子のように、人生すべてをかけ、中国と日本の架け橋になろうとした強くて悲しい女性がいたこと、
私達は、決して忘れてはならないと、強く思った。







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最終更新日  2009年04月14日 12時40分10秒
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