2009年05月20日
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カテゴリ: ADHD障害
朝、起きたら、体調が、良くない。
昨日、少し良くなったので、大丈夫だと思ったのに・・・・。
でも、行きたいから、少し様子をみようと、
リンゴジュースを飲んで、薬を飲んだ。

1時間様子を見た。
TVを見ていたのだが、視線を急に移すと、一瞬ボアっとしてしまう。
これは、高速道路は危ない。
熱を測ったら37度あった。
平熱が36度4分だから、少しある。
やっぱり無理かなあ。
伺って、ご迷惑をかけたら、楽しくないし・・・・。

勇気を出して、延期のお願い電話をした。
友人の優しい言葉が、胸にしみた。
「お大事にね」
快くキャンセルして下さった。

本当にごめんね、行きたかった・・・・。
お店を予約してくれたり、多分彼女のことだから、
色々、考えてくれていたに違いない。
申し訳なくて、悲しかった。

そしたらすぐにメール。
「こうして断るの、辛いの解るよ、だから気にしないで」って。
泣いちゃった。
私は本当に、お友達に恵まれている。
こんなどうしようもない人なのに、みんな優しくしてくださる。
心から、本当に心から感謝した。

頑張って体を治そうと、お医者さんに行った。
やはりいつもの、風邪の菌が腸に入ったそう。
先生は、「熱もあります」って言ってるのに、
いつものことだから・・・・と「じゃ、下痢止め出しときますから」って。
新型インフルエンザだったら、どうするんだよね~。

一日寝た。
本当にまだ寝るの?ってくらい寝た。
下の和室で寝たのに、パパがお昼に帰ってきたのも夢うつつ、
会社に帰って行ったのも知らなかった。

チビが大きな方の駅前に携帯電話の修理をしに出かけたので、
デパ地下で夕食を頼んだ。
夜、8時過ぎ、やっと起き上がって夕食を摂った。

TVで、ADHD障害者の特集をしていた。
パパが「おーい」と呼ぶのでリビングに行ったら、
私が最初にADHD障害者のサイトで出会った方が出ていた。

アダルトADHD障害者の自助団体「SOAA」の代表者白井さん。
私は8年前、ADHD障害者と診断された時、
パソコンで見つけたのが、唯一のこの「SOAA」だった。
掲示板にも、何度も書き込みをして、同じように苦しんでいる人たちを知った。
どれほど、生きる力になったろう。

TVでは、その方の生活や、それまでの人生をドラマ仕立てで放映していたが、
あまりに自分のことのようで、見ていられなかった。
録画して、別の番組を見ていたら、
パパが、納得したように言った。
「おまえを見てるみたいだ」。

夜一人で見た。
全く私の幼少期と同じ・・・・だった。

幼稚園のころ、皆がお絵かきしているのに、砂場の遊びが面白くてやめられず、
一人園庭にいても、回りが気にならなかった。
反対に、皆が表で遊んでいる時、一人で折り紙に夢中になって教室から出なかった。
母が呼ばれ、
「45年、保母をしておりますが、こんなお子さんは初めてです」
と言われた。

小学校の時は、毎日の忘れものに先生が呆れた。
落ち着きはないし、忘れものはするし、先生にはうとまれた。
授業中は、神経がどっかに飛んじゃっていた。
自分の世界に入り込み、全く授業中に、勉強しなかった。
心配した母は、あちこちの教育相談所に私を連れて行った。
知能指数を測ったり、先生と遊んだり、ロールシャッハテストをしたり・・・。
でも結局、何の問題も見つからなかった。
まだ当時、ADHD障害は、認知されていなかったから、
非常に個性の強い子として扱われた。

中学になっても、忘れ物は相変わらず、でもその分賢くなったから、
体育着は隣のクラスの子に借りたり、教科書も借りたりして対処できた。
でも相変わらず、授業中は、全く聞いておらず、自分の世界に閉じこもった。
だが、どういうわけか、友人は多かった。
それも、男の子の友達が多くて、とうとう誘われてサッカー部のマネージャーになったり。
そのころ、自分の物が片付けられなくて、両親に
「どうして、もっときれいにできないんだ!」
「どうしてそう、だらしないんだ」と責められ続け、
自分でもどうしてできないのか解らなかった。

高校生になると、自分は確かに他の人と何か違うと思うようになった。
それでも初めて勉強が面白くなり、猛列に勉強し始め、
今まででは考えられないくらいの状況に。
だって、この私が数学で先生に当てられ答えられなかったら、
「Fさんが解らないなら、仕方ないな」って先生が黒板に書いた問題を消したり、
歴史で何度も100点取っちゃったり、勉強が面白くて仕方がなくなったり。
おまけに、生徒会の役員をずっと続け、今までの私では考えられない状況になった。
まさに、栄光の高校生活だった(爆)
多分、両親が独立して会社を作り、私などかまっていられなくなり、
今までとは反対に、夕食つくりが私の仕事になり、
「だらしない」とあまり言われなくなったのも起因していたのだろう。


で、就職クラスにいたのに、急に大学に行きたくなり先生のご尽力で、
推薦で大学に入っちゃった。
そのころになると、もう、自分が解っていたから、
大学にきたデパートの推薦の募集は事務職だったが、
入社試験の時に直談判して、売り場に回してもらった。
「面白い方ですね。普通、大卒だと、事務職希望が多いんですけれど」と
試験官に言われたが、事務職なんて冗談じゃない…と思った。
大人しく座ってなんていられないし、事務の仕事も出来ない。

だが、半分事務職の商品券売り場に回され、やはり思った通り、
週に何回か回ってくる、出納の仕事の時は、
いつも会計から呼び出された。
「Fさん、訂正印持って上がってきて」
珠算2級だったことから、この仕事に回されたのだが、
集計表を自分なりに努力して、間違わないようにしても、必ず、どこかに間違いがあった。
おまけに、売り場の引っ越しの時は、商品券をどこかにしまい忘れたり、
本当に綱渡りの毎日だったが、お客様と接することは、とても面白かった。
だが、すでに「だらしない」は、まるで両親の私に対する口癖のようになっていた。

結婚の話になって、パパが挨拶に来た時、
父はパパに
「こいつは、ものすごくだらしないですが、それでも良いんですか」とまず言った。
パパは「冗談だと思った」らしいが、
結婚してすぐに、父の言葉は本当だったんだと思ったそうだ。

そして片付けは、相変わらず出来なかった。
幸い、パパはそういうことが、上手い人だったので、
今日まで何とか来た。
だが、何か片付け始めたら、すぐにほかごとをしてしまう癖は、未だにそのままだから、
パントリーと寝室は、相変わらずくちゃくちゃ。

白井さんと私は全く一緒だったようで、
白井さんがご自分のADHDを認識なさったきっかけの本
「片付けられない女たち」は、私も本屋さんで見付け、読み、
余りに自分そのままの症状に、欝病で通っていた精神科に
「自分はADHDじゃないか」と申告し、
「それじゃ一度、診察してもらいましょう」と主治医に言われ、
たまたまいた児童ADHDの専門医と巡り合い「ADHDに間違いないですね」と診断された。
TVを見て、パパも白井さんと私を比べ、
全く一緒だったことに、改めて私の障害を認識したようだ。

夜、一人で録画したのを見ていたら、泣いちゃった。
白井さんの苦しみが、そのまま私の苦しみと重なって、
身につまされた。
やはり、思ったことが出来なくて、欝病になったそう。
同じなんだ…と思ったら、涙があふれてきちゃった。
「かたづけたい」のに、どうしても片付けられない。
気を抜くと、自分が衝動的に物を言ってしまう。
白井さんも、自分の人格じゃなく障害だったって解った時には、力が抜けてほっとしたって。
私も同じだった。

小さな頃から「だらしない」って言われ続け、
どうしてできないんだろうって、苦しんで苦しんで鬱病になって、
やっとその呪縛から解かれて、
医師に「よく一人でここまで頑張ってきましたね」と言われ、
母に「そんな風に生んでごめん」て言われて、
「私のせいじゃなかったんだ」っておいおい泣いた。
でも次に来たのが、
「障害だから、治らないんだ」って苦しみ。
白井さんも、きっとそうだったろう。

私だけじゃないんだって、その頃は、本当に「SOAA」が心のよりどころだった。
私が診断されたころは、まだ、アダルトADHDが精神医学会で認証されて半年、
私を診断した精神科医が、そう言っていた。

あれからもう、8年も経ったんだなあ。
ADHD障害者が市民権を取れるまで、
まだまだだろう。
アメリカじゃ、ADHD障害者の学生のための補習も行われているのにね。

頑張ろう。
今はただそれだけ。












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最終更新日  2009年05月22日 11時10分27秒
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