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冠を正して桃の肌ざわり 以前、仕事で初めてアメリカに行った時、デトロイトの空港で次の便に乗り換えるのに、空港内のバスに乗った。僕はバスの出入り口の所に立っていたのだけれど、その途中のバスストップで、扉が開くと同時に乗り込んでくる人から、「Is this bus ・・・?」と訊かれた。まだ英語に慣れていない頃で、それしか聞き取れなかったけれど、このバスは、どこどこ行きかと訊いているのが、その表情と手ぶりでわかった。思わず、「I don't know」と答えた。あとで考えると、自分の乗ったバスがどこ行きか分からないというのもおかしな話だ。もっともこの時は、先輩に連れられて行ったので、実際に知らなかったのだけれど。 この時、黄色っぽいジャンパーを着て入口に立っていたので、車掌と間違われたのかも知れない。
2015.09.10
音もなく過去より降りぬ秋の雨 「家に帰っても、冷たい布団に一人眠る女の気持ちが、あんたなんかにわかるはずがないっ!」居間を通ったら、そこだけのせりふが、妻が見ているテレビから聞こえてきた。サスペンスドラマの終盤の場面らしい。しばらく、そのせりふが頭から離れない。外は雨が落ちてきた。冷たそうな雨が、窓の透き通ったガラスに落ちてきた。涙のような粒が、涙をこらえるように、ガラスにへばりついている。あともう少し強く降ると、流れてしまいそうな水滴が、先ほどのせりふのせいで、遠い昔を思い出させる。もう少し思いやりがあれば、もう少し信じあえれば、道はまた違ったかもしれない。ガラスにへばりついていた水滴が、頬を伝うように落ちてゆく。 秋の雨は遠い過去から降ってくる。 いつのまにやら、庭の虫の音もやんでいる。
2015.09.08
新涼は足の裏からやつて来る 言わぬが花、という言葉がある。はっきり言ってしまうと趣が損なわれる。ノー、と言えない日本人。はっきりとしない日本人。特に日本人は昔から、直接、断りの言葉を述べるのではなく、まわりもった言い方で、やんわりとそれとなく相手が慮るのを待つ。それは長くこの国の民族性として道徳観として、培われてきたものだから。やはり尊重するべきだとも思う。茶道、華道、俳句、能、などにしても、この国の文化にははっきり言わない所に、奥ゆかしさや奥深さを見出してきたようなところがある。そういう、「うやむやさ」が、見る人それぞれの価値観で味わいの幅を広げてくれる。床の間に、いつも妻が庭の花を摘んで生けてくれる。感謝している。感謝ははっきりと言葉にした方がいいのはわかっているけれど、いつも「うやむや」になっている。明日は思い切って言葉にしてみよう!
2015.09.06
間遅れの返事たぎらせちちろ鳴くこの世には男と女がいる。面倒なことだ。トイレや更衣室、銭湯など、同じようなものを二つ作らなければならない。この頃は電車にも専用車両がある。面倒なことはそれだけではない。年老いて、認知症になった妻を介護している男がいる。妻の認知症をいいことに、男には愛人がいた。愛人は男の家までずかずかと訪ねて来るようになる。男ははじめ拒否していたが、やがて妻と同じ屋根の下で愛し合うようになる。それをたまたま目にした妻の心に、激しい嫉妬の炎が燃え上がる。たぎる炎は、忘れかけていたものまで鮮やかに、妻の意識に呼び戻す。そんな本を最近読んだ。 この世には、男と女、しかいない。それもまた、面倒なことなのかもしれない。
2015.09.02
刈られても刈られてもまた猫じゃらし今、眠れたら、と思う時の眠りほど、深あく沈む心地良さはない。車の運転をしていて、どうあがいてももがいても、音楽の音量を上げても、窓を開けても、もうどうしようもなく睡魔が襲ってきて、勝手に両目蓋が落ちてくる時がある。そんな時にどこかに車を止めて、そのまま座席を後ろに倒して眠る。スコーンと後頭部あたりから意識が抜け落ち、深遠な記憶まで失いそうな眠りに入る。そして、どれくらい眠ってしまったのかと、ハッと目覚めて時計を見ると、ほんのまだ五分か十分くらいしか経っていない時がある。それでもよく眠った感覚がある。今眠れたらと思う時に眠れるほど、幸せなことはない。仕事にしても受験勉強にしても、たいがいは、睡魔との闘いであることの方が多いけれど。
2015.09.01
君見舞ふ百日紅の名虚しけり 古き友を見舞う。若き頃、同じ職場で同郷の縁もあって、お互いに仕事に精を出した。徹夜徹夜でろくに寝てなくても、居酒屋で遅くまで杯をあげた。帰りの電車を二人して終点から引き返し、また終点まで眠ったまま車掌に起こされた。ベッドに横たわる意識の無き君。あちこちに管を通されて口には、プラスチックのマスクをされて、髪は抜け落ちすっかり痩せこけて、君はそんな姿を僕には見せたくなかったろうなあ。そばにご家族の方がいなければ、君のそばに横たわり、二人で酔いつぶれたあのころに、もう一度戻ってみたかったよ。病院を出て、ふり向いた君の病室の屋上に、真っ赤な百日紅が風に揺れていた。無念の君が、手を振っているような気がした。
2015.08.28
どんぐりの湯舟につかる赤子かなかわいい、と思った。初めてわが子を湯につけた時、まだ焦点の定まらない瞳で、僕の顔を見上げていた。妻の里で、義母はおぼつかない僕に、手取り足取り教えてくれた。小さなたらいの湯気が、ほんわりと顔を包み、取り囲んだみんなの笑顔に、この家の初孫の喜びがあった。
2015.08.27
天空のざわめく笹や竹の春竹林を歩く。枯れた葉が地面を覆い、歩くと竹のいい匂いがする。竹林浴というのはないけれど、竹の節々を下から見上げると、なんだか背筋がすっと伸びるような気がする。上の方では、笹が風に吹かれてざわざわしている。下の根っこの方では不気味なくらい静かだ。竹林に入ると、どこからか誰かに見られているような気がする。隠れる所がない。
2015.08.26
読売新聞朝刊より 2015.08.24 枝豆の豆拾ふ間のゴールかな2メートル近い大男が、100メートルを世界記録で突っ走る。それも、一気に0・11秒短縮とテレビが言う。1秒の100分の11が「一気」とはおそれいる。凡人には、たった、と言うよりまだ短い。一瞬の世界にしか見えない。暑い日盛り。高校野球やら、プロ野球やら、世界陸上やら・・・。枝豆でもあてにして、ビールを飲むのが何よりの楽しみである。それにしても、子供の頃の運動会は楽しかった。走るのは苦手で、いつも後ろの方から数えた方がはやかったけれど、村の親戚の人たちのいる応援席に向かって、大きく腕を振り回してコーナーをわざと大回りして見せたりした。みんながどっと沸いてお祭り気分だった。そう、昔の運動会は、重箱にご馳走を用意して、大きなゴザ敷いて、畑仕事もみんなお休みにして、父も母もおじいちゃんもおばあちゃんも、おじさんもおばさんも、み~んな集まって、村の一つのお祭りだった。もちろん、今、北京で開催されている世界陸上には、世界の人が集まっているけれど、お祭り、という性格のものではない。100メートルを10秒もかからずに走られてしまうと、隣のおじいちゃんなど、息つくひまもない。もっとも、おじいちゃんからはとうに秒の世界は消えているし、ましてや100分の1の世界など、止まっているに等しい。そんなことを思いながら、コップのビールを一気に飲み干す。一気に、と言ってもせめて、この大男が100メートルを走る時間くらいはかけて、その味を味わいたいものだ。ぷはぁー!
2015.08.24
手のひらに新涼のせて洗顔す時々、不思議に思うことがある。手のひらを前にして、親指動けと命令すると親指が動く。次は中指、同じく動く。くすり指、ちょっと単独では動かしにくいけれど、指は思うまま忠実に動く。当たり前のことだと思っている。よく行く釣り池に、片腕のない人が釣りに来る。初めて会ったときは失礼ながら、魚を釣っても、どうやって玉網に取り込むのだろうと、心配半分、興味半分で見ていた。そういう自分が哀れなくらい、彼はりっぱな両足と、工夫して作られた治具で、いとも簡単に魚を取り込んだ。そういう方に限って、性格の明るい人が多い。こちらが教わることも多い。石川啄木ではないけれど、じっと手のひらを見る時がある。
2015.08.23
目疑ひ耳疑ひて草の虫目前で鳴いている虫の居場所がわからない。草むらにしばらくしゃがみこんでじっと耳を澄ます。この場合、目はあまり役に立たない。一瞬、細き草の葉が揺れる。この場合は、獲物を捕らえる獣の目が役に立つ。小さな土蛙。お前ではない。鳴き声はすぐ目の前なのに、その姿を見出せない。なんでもかんでも明らかにしなければ気のすまない科学の時代に、知らず知らず脳みそは探究色に染まっている。俳句など愉しむ資格など、ない。
2015.08.22
歩いては止まりて歩く秋の朝やはり、歩きたくなる季節。自転車でもいいけれど、頭上に秋の青空を冠すれば、無性に足の裏に大地を感じて歩きたくなる。歩くと、今まで流れていた風景が、そこだけ止まって見える。見えなかったものが見えてくる。小さい秋、みつけた。
2015.08.19
落ちの字に染まりて秋は始まりぬ 公園の木々の葉は、まだほとんど緑色をしている。でもその中の、一枚や二枚が黄色に染まって、はらはらと僕の足元でとんぼ返りして落ちる。秋の先発隊はどうやって選ばれるのか知らないけれど、枝を離れる瞬間の身を切る思いが、秋の風にのって指先に伝わってきそうな気がする。落ちる葉は、くるくると手を振るように地面に着地する。やがて大地は、古いアルバムを開いたような秋景色となる。だから、どこかで見たような風景が多いのだろう。
2015.08.18
形だけそれでもいいと思ふ秋 先日の妻の誕生日。娘も年頃になり、この頃は訳もなく機嫌の悪い時がある。普段は姉妹のように仲の良い母娘も、避けるように口を利かなくなる時がある。そんな時の妻の誕生日。「誕生日なんか形だけやんっ!」機嫌の悪い娘が何かの拍子に漏らした。ここで頭ごなしに言い放ったら、せっかくの祝いが台無しになる。極力気持ちを抑えて言う。「そうや、こんなのはみんな形だけのもんや」でもな、それでいいんや。入学式も卒業式も成人式も入社式も、形式ばった形だけのもんかも知れん。一見、しょうもない、なくてもいいようなもんに見えるけれど、人間の記憶って不思議なもんでなあ、そういう型にはまったもんが後になって、得も言われぬ思い出となって甦るもんや。お前の宮参り、七五三詣り、誕生日、幼稚園の運動会、今は亡き父と義父も集まって、これ以上とない宝もんの思い出や。そういう訳で、今年の妻の誕生日は少し苦きものになっちまったけれど、これもまた歳月が過ぎれば娘の心にも、懐かしき思い出となっていつの日か甦ってくるにちがいない。自分も、そうだったから・・・。
2015.08.17
影ばかり拾ふて行けば蝉時雨人の世に、咲くひまわりは、日向の道ばかりとはかぎらない。太陽に向かって人の世もまた、地球と同じように自転する。でも、それは案外、昼の方が短いような気がする。暗い闇に咲くひまわりは、自分の心に蒔かれた種から芽を出す。その種は、俳句だったり詩だったり、絵画だったり、何気ない一葉の言葉だったりする。苦しい時の見知らぬ人の親切だったりする。だから常日頃から、心の土壌にも肥やしを与え、小さな種を芽吹かせるようにしなければ・・・と。そんなことを想う夜もあるべし。
2015.08.16
湯浴みする女の声や網戸風 セミの声もやんだ雨上がりの、静かな夕暮れ時。網戸にすると、少し涼しい風が入って来る。その風にのって、どこからかお風呂を使う音。「バスタオル、置いとくよ~」隣のばあちゃんの声。「は~い」少し若い女性の声、息子の嫁か。普段はじいちゃんとばあちゃんの二人暮らし。ほとんど声らしい声の聞こえてこない家から、こんなによく聞こえるのかと思うくらい、人の声がよく響く。お盆で家族が帰省してきたようだ。子供の声も聞こえてくる。湯桶の音のように、ばあちゃんのいつもより少し張りのある声。肩を流れる湯浴みの湯のように、嫁のちょっぴり遠慮と羞恥の含まれた返事。網戸にかけたカーテンが、心地よく風にふくらみはじめた。今年も、それぞれの屋根の下に、それぞれのお盆がやってくる。
2015.08.15
カーテンを開けて我が目の秋蛙カーテンを開けると、蛙が窓にへばりついていた。一瞬、ガラス越しに目が合った。こっちは驚いたけれど、向こうはびくともしない。向こうの方が根性が据わっている。でも元気がない。指でとんとんやっても逃げもしない。お前も夏バテか。よく見ると、ガラスに映る俺の眼は、今のお前の眼にそっくりだ。夏の疲れは、山彦のように遅れてやってくる。
2015.08.14
沈まぬを沈めて暮るる残暑かな うしろ髪引かれる思いで、まだ夏の名残りが夕暮れの空にある。釣瓶落ち、とは言うけれど、この頃は井戸も珍しくなった。夕暮れの西の空をじっと見ていると、海に沈む船のように、初めから一気には沈まない。地平線の裾野までゆっくりと赤く染めたかと思うと、おもむろに一気呵成に沈没し、小さな舳先を最後に空の向こうに消えてゆく。今日はまたことさらに名残り惜しいと見えて、雲が墨汁のように髪を引く。少しばかり、秋がその気になってきたのかもしれない。
2015.08.14
返り血を浴びせもせずに秋の蚊や これさえあれば、というものを持つ人は、生きる力を遺憾なく発揮するけれど、それが、特別であればあるほど、それを失ったときの反動は計り知れない。秋の森。これから多くの草木は、葉を枯らし寒い冬を迎える準備にかかる。動物の世界にも、鋭い嗅覚をもつもの、速く駆ける脚をもつもの、空を飛ぶ翼をもつもの、水中を自由に泳ぐ鰭をもつもの、それぞれに特技のようなものを持つけれど、それは生きる手段であって、切り札ではない。自然界に生きるものたちは、これさえあれば、というものは持たない。太古の昔からあるものの中に身を委ねて、あるがままに生きている。人間だけである。これさえあれば、これさえなければと、生きるのに条件をつけたがるのは。確かにそのおかげで、生きていくのに便利にはなったけれど、剃刀の刃の上を這うような、どこか危なっかしい、豊かさである。 幾十年、幾百年と同じ場所に立ち続ける森の大木が、か弱き「考える葦」を見おろして笑っている。考える力を、これさえあれば、と少し傲慢になってやしないか。人間殿。
2015.08.12
アンパイアの右手が挙がる今朝の秋 信用と体重は反比例する?信用は失うのはあっという間だが、取り戻すには大変な労力を要する。昨今の偽装事件をみるまでもない。体重は増やすのは簡単だが、減らすのには一苦労する。夏はまだ汗をかく。冬は食ったら食った分だけ体重が増えそうな気がする。そして増えたらしばらく減りそうにない。娘たちが小さい頃は、「 いつまでだっこできるかなあ・・・ 」と言いながら抱っこして、「 おお、だいぶ重くなってきたなぁ 」と我が子の成長を喜んだものだ。そのうち、脇の下の手をくすぐったいと言うようになり、やがて、娘たちの成長の証しは、僕の腕から、体重計へと移っていった。年頃には、重の字がタブーとなり、そんなに肥えてもいないのに、ダイエットだ、ダイエットだと言われると、親としてはなんだか淋しく思う。天高く馬肥ゆる秋。
2015.08.10
洗濯機カラカラと鳴る夏の果 朝起きて時計を見る。あっ、寝坊!あわてて起き上がったところで、なんだ今日は日曜日じゃないかと、記憶がよみがえってくる時がある。習性というのはおそろしい。他に、目が覚めて、天井を見た時に、あれっ、ここはどこだ?と思い、すぐに昨日実家に来たんじゃないかと思い出したりする。熟睡した時や酔っ払って眠った時などに起こりやすい。 子供のころ、夜中におしっこに起きて、本人は便所に行って戸を開けて用を足しているつもりが、実際は裏戸の雨戸の戸板におしっこをかけている。横で母が怒っているのだけれど、本人はなんで怒られているのかさっぱり分からない。寝とぼけた記憶が今でも残っている。妹も小さい時、寝ていた二階から降りてきて、見るわけでもないのに、居間のテレビのスイッチを入れてすぐに二階に戻って行こうとする。僕たちがなんやかんや言っても、どうしてそう言われるのか怪訝な顔をして、最後には怒ったような顔をして二階に上がって行った。あれはいったいどういうことだったのだろう。それにしても、あわてて飛び起きて、その日が休みだったときは、少し得をしたような気分になるけれど・・・。
2015.08.08
合掌す老婆の指の原爆忌 地獄を見た人の、祈る姿には、 不思議と鬼気迫るものはない。 ただ、それさえも包み込んでしまうような、慈悲深い面相を見る。 あれから生き延びてきたもうひとつの歴史が、その節々の皺に刻まれている。震える指は、もう怒りでも、哀しみでも、あきらめでもない。抑えきれぬ慟哭でもない。老衰のままに自然のままに淘汰された生きるものたちの、当然の衰えに過ぎない。寿命を全うする力のいくらかを使い、合掌す。祈る言葉はなくても、あなたのその姿は私たちに強い力で訴えてくるものがある。どうかこの人から、祈る力を奪わないでほしい。
2015.08.06
苦瓜に苦き時代を笑ふなり 何かが、おかしい。 天も地も、人間も。 すべてが同じように荒くれている。 真っ青な空が、 突如、暗雲に包まれたかと思うと、 空に穴があいたように、雨が一気に落ちてくる。 そこらの水路は瞬く間に溢れだし、 場所によっては道が冠水する。 それもつかの間、 すぐにパッタリと雨はやみ、 嘘のようにまた青い空が広がる。 警報を出す暇もない。 忘れた頃にやってくるのがいいことなら、 タナボタでうれしいのだけれど、 この頃の地震は、 忘れる間もなく、追い打ちをかけるようにやってくる。 何かに怒っているように、地べたを揺らす。 そんな、はやり病いのように、 人間も狂ってきた。 誰でもよかった症候群。 「人間が一番、恐かとよ・・・」 おばあちゃんが生きていた頃、よくそうつぶやいていた。 昔は、人間の持つ業に、まだ哀れさがあった。 失うものが何もなければ、それにこしたことはない。 失うもののない淋しさは、時に罪もない他人を道連れに死のうとする。 俺にはまだ失うものがいっぱいある。
2015.08.03
脳みそが煮えくり返る極暑かな この頃は、街角ごとに自動販売機が並んでいる。夜遅く、道を歩いていると、道路脇にひっそりと明かりを灯している自動販売機に出会う時がある。何も言わないけれど、人通りの絶えた晩など、なんだか淋しそうに見える。そんな自動販売機を見ると、思い出すことがある。だいぶ以前、田舎の国道沿いにうどんの自動販売機があった。季節は晩秋の頃。同僚と二人で仕事に行き、帰りが遅くなった深夜のこと。腹が減って、何か食べようかということになったのだが、現在のようにあちこちにコンビニがある時代ではなかった。そのうち国道沿いに、うどんの自動販売機をみつけた。まわりはたんぼで近くに民家はなく、夜ともなると車の往来も少なかった。車をとめて、小屋の中にある販売機にお金を入れた。少し時間はかかったけれど、プラスチックのどんぶりに熱々のうどんが出てきた。ちょっとスープをすする。冷え込んだ夜に、うどんの湯気が顔にかかり、そこそこうまかった。便利な世の中になったものだと、同僚と小さなベンチに腰掛けてうどんを食べ始めた。食べていると横の販売機から、また何か機械音がしだした。同僚が二杯食べるのかなと思ったが、そうでもないらしい。金も入れていないのに、うどんが次々と出てきだしたではないか。困った。二杯位なら食ってもいいが、次々と出てくるものまで食いきれない。結局、俺たちは深夜の国道を通りかかるトラックや車を止めて、事情を説明して、食ってもらうことにした。自動販売機の所有者には申し訳ないけれど、みんな無償で配った。もったいない気がした。あの時の自動販売機も道端の片隅に、ひっそりと小さな明かりを灯して、ポツンと立っていた。
2015.07.30
蟻さんとごつつんこして歩く道「世界じゅうの女の首を真珠でしめてごらんにいれます」 真珠王の御木本幸吉。 明治天皇の御前で申しのべたと。「芭蕉は歩いてあれだけの棒杭(句碑)を建てとる。 電車を使う貴様は芭蕉の30人前はやれ」 高浜虚子を叱咤したと、いつかの読売新聞編集手帳に。 明治の話である。 現代は歩いた方がいいように、凡人は思うのだが。
2015.07.26
食卓に土用太郎のつつましさ鰻は好きである。 でも昨年、ニホンウナギは絶滅危惧種に指定されたとのこと。さて、どうする。絶滅するまで食い倒すか、あるいは食いたいのを我慢して、鰻の復活を待つか。わが家の御台所は、そこまでして鰻を食いたいか?の意見。土用鰻飯丸見えのつつましさ去年の句。今年はさらに鰻の切り身だけが椀にのっている。写真を撮ろうとすると怒られた。恥ずかしいからやめてくれと大ブーイング。テレビの特集番組の中で、鰻の完全養殖の研究者が述べていた。完全養殖が成功したからといって、今まで通りの人の口を満たすのは、土台無理な話だと。 土用の丑の日に鰻を食する習慣は、そろそろ勇気をもって改めねばならなくなっている。
2015.07.24
此の夏の空を畳んで納屋の中 つい、半年前は、白一色の雪景色になった日もある庭が、草ぼうぼうの緑の山。今日は妻と庭の草むしり。狭い庭でも、多種多様の植物。蚊対策を施し、庭にしゃがみこむ。妻は長袖に長ズボンに、タオル被って麦藁帽。完全装備。雲が晴れて日が差すと、背中から熱気がのしかかってくる。それでも土の感触は柔らかくあたたかい。蟻やら蜂やら、まる虫、ミミズ、蛙たちが顔を出す。約2時間。汗びっしょりの中、妻はシャワーを浴び、俺は庭の椅子に腰掛けてビール。仰ぎ飲む缶ビールの向こうに、夏の空。この空を折りたたんで、あと半年先まで、納屋の中にでも仕舞っておきたいものだ。日は傾き、妻は冷房のきいた部屋でお昼寝。遠く蝉の声も聞こえ始める、静かなる、夏の午後。
2015.07.20
捥ぎたての息するトマト喰らふなり 日光、日の光。自然でこれほど生物に、恵みを及ぼすものはない。暑い夏。日射しが、字のごとく突きささる。朝から皆、細めた目の上に手をかざす。気温25度、30度、35度で、その日の呼び名が変わる。猛暑日。知り合いの貸農園にはいろんな物が植えられている。この暑さの中、トマトはその薄き皮に赤き色を付けて、平然と日に当たっている。いくら暑くても、中の果肉が蒸発することはない。トマトをひとつ、もいで食べてみる。冷蔵庫に冷やしてもいないのに、独特の青臭きにおいがして、おいしい。太陽をいっぱいに浴びた味がする。トマトを介して太陽のエネルギーを、いただいたような気分になる。そんなことを思うと、日の光の届かない海の底に棲む深海魚などの気が知れない。どんな味がするのだろう。きっとひねくれものの、カビ臭い味がするのだろう。
2015.07.19
羽ありてここに留めよ夏の風 引力にも負けず、風にも負けず、小さき蜂が空中の一点に静止する。 静止すると、次の花を見すえてその花弁に着地する。ゆくりと蜜など味わう暇もなくまた飛び立つ。見ていて、まことに忙しい。静止と言っても、休憩しているわけではない。その透けた羽は、見えるか見えないかの猛スピードで羽ばたいて、いかにも命をすりきらしているようにも見える。まことに、息の切れそうな生き物である。 我にも羽あらば、命の限り、一生懸命羽ばたいて、 近頃、急流となりしこの時の流れに、しばし留まってみたいものだ。
2015.07.18
かぐや姫孕む若竹笹の舟 竹林に入ると、どこからか誰かに見られているような気がする。ふっと、ふり向いても誰もいない。 天空では笹舟を漕ぎだす櫓の音がする。辺り一面に竹落葉を敷きつめて、何かが生まれる静謐な時空。 小学校の国語の時間に、女の先生がみんなの席の間をゆっくりと歩きながら、読んで聞かせてくれた物語。 あの時の小さな脳裡に浮かんだ場面が、今、そこにある。学校の帰りに、 家の近くの竹林に入った我が居る。 竹林に入って、 じっと何かを見ているのは、竹取翁になってしまった現存の我自身かも知れない。ふり向いても誰もいないはずだ。
2015.07.17
停電のろうそくの火に兜虫 台風接近中。小さい頃、台風の時に停電になって、親がろうそくを灯してくれたことがある。暗闇の中に、父や母や弟や妹の顔が浮かんだ。停電の心細さなど忘れ、ゆらゆらとろうそくの火に揺れる食卓を、みんなで囲んでいることが何より嬉しかったことを覚えている。顔の半分を照らし出された父の顔は笑っていた。瞳に火の映る母の顔はやさしかった。外はだんだんと風も強くなり、あちこちで音がしても、小さい弟や妹は安心しきってはしゃいでいた。ぶしつけながら、あの台風の夜にもう一度もどってみたい気もする。父はもうとっくにこの世にいないし、年老いた母はそんなことなど、ちっとも覚えちゃあいないけれど・・・。空の雲行きがあやしくなると、そんなことを思い出す。
2015.07.16
暑いねえ決まり文句のありがたさ 早朝の公園。 毎朝、同じ時間帯の散歩者たちがそのうち、 うちとけてひとつの輪になり、 この場所でひと休憩となる。 決まり文句もまた便利なきっかけとなる。 総じて、年寄りが多い。 年寄りの寄合いには、公園の鳩も安心して寄ってくる。 木々の枝からは、 ジンジンと初蝉たちも、 命の〆切に追われるように鳴き狂いだす。 残されたベンチに忘れ物。 しばらく歩いて噴き出た汗が、 七月の忘れ物と、八月の置土産を、 思い出させてくれるのだろう。 汗拭く顔の皺には、 いく度となくくぐりぬけてきた、 夏の季節が記録されている。 拭くたびに、 レコード針になぞられた皺から、 かの夏は鮮やかに再生されるのである。
2015.07.15
炎立つ月下美人の一夜かな 花言葉は「儚い恋」。一夜限りの儚い恋のように、咲いては一夜でしぼむ花。他に「快楽」の花言葉。この花が咲くと、目に沁みるような芳香を放つ。原産地では、コウモリがその花粉を運ぶらしい。コウモリは舌を伸ばして花の蜜をいただくかわりに、花粉まみれになった顔で、他の花に移る。知らず知らず花粉を運ぶ。なんだか、だまされたみたいに。天敵の命は命を食って生き延びる。花は他人の背中に運命を任せて、命のチェーンをつないでゆく。それにしても、一夜限りの短命ゆえに、美人と言われる所以なんだろう。美人薄命。今夜は、だまされたふりして、コウモリにでもなってみるか。
2015.07.13
蹴らるるを待ちてひと降り男梅雨 梅雨湿り。 湿気を含んだ微風が、蛞蝓のようにうなじを這ってゆく。 用事を済ませての帰り道には、公園で遊んでいた少年たちも居なくなっていた。どしゃ降りの雨がひとしきり降ってはまた、気のない日差しが雲間から差す。 妻が子供たちを連れて、久しぶりの里帰り。駅まで荷物を持って送ってきた。 畳んだ傘を片手に、取り残されたサッカーボールを思い切り蹴り上げた。キーパーのいないゴールの網が驚いたように揺れ、水滴が花火のように舞い上がった。 蹴り上げたズボンのポケットの携帯が鳴る。 「冷蔵庫にビールが冷えています」 妻からのメール。 急ぎ足で帰る道の上にはまた、次の雨雲が浮かんでいた。
2015.07.11
背中割る力残して蝉登る 今はまだ、静かだ。 何かの合図を待っているかのように、今はまだ、木々の枝葉が風に揺れているだけ。もうあと少しもすれば、土の中で数年間を過ごした蝉の幼虫が、それぞれにそれぞれに、地上に現れる。まるで、スリラーのゾンビのように。背を割って成虫となった蝉は、その短い生涯をこのひと夏に捧ぐ。夏は毎年やって来るけれど、今年の夏は、一度きり。
2015.07.09
向日葵がひまわり見あぐ空の果 新型気象衛星「ひまわり8号」が本格運用を始めたと、今朝の新聞に。美しい地球の衛星写真と共に。こういうのを見ると、そこで暮らす人間なんて、ちいせぇ、ちいせぇと思えてくる。 思春期の反抗期の頃。それまでは親父に何事も上から抑え込まれていた自分が、ある日、何かのことか忘れてしまったけれど、親父と喧嘩になり言い負かしたことがある。そんなことはそれまでにないことだった。自分でも驚いた。ふり返って背中を見せた父の肩が、妙に寂しく見えた。少し父が遠くに行ったように思えた。今になって思うと、あの時、父も息子を遠くに感じたのかも知れない。あの時、反抗期というものが、自分の気持ちの中ですーっと、水に沈むように消えてゆくのが分かった。 親子の情というものは、宇宙より広いと思うときがある。
2015.07.08
浜風の風鈴しょっぱし舟大工 幼い頃、 一時、過ごしたことのある造船所通り。 昔は、そこに勤める人たちで大いに賑わっていた。 地方からの集団就職の若者たちも多かった。 通勤バスも次々と走り、 人の往来も、住む家も、活気に溢れていた。 何十年ぶりかで訪ねた街は、 わずかに建ち並ぶ家々があるだけで、 奥に広がる建屋の中に、 年老いた舟大工が白のシャツ一枚、 頭にタオル鉢巻して、 煙草を吸っていた。 遠い昔、 万葉集にも詠まれた入り江の街に、 風鈴の音が静かに鳴り響いていた。
2015.07.05
子供らの声ももうすぐ夏休み 静かな街の、静かな日曜日。 騒々しさは、 届けられた朝刊の社会面に詰め込んで、 ここだけは平和そうに見える。 玄関先の子供110番の旗も新調して二代目。 おかげさまで今まで一度も、 幼き助けの手を差し伸べられたことはない。 (しつこい押売りの声は幾度もあるけれど) 悲惨な事件が多い。 子供らが安心して外で遊べる社会でないと、 ますます将来が危ぶまれる。 窓から子供らの走り行く声が聞こえる。 もうすぐ夏休み。 そういった声はいくらでもかけ込んで来い。 いつまでも、この旗が役立たないことを祈る。
2015.07.05
目出度さに手向けの紅き薔薇の花 まずは、出航!
2015.06.29
寄り添へば人ならずとも踊りたし ゆるやかに夏の陽射し。 古池に青々と水満ちて、 寄り添う亀や水をかき、 ゆくりとまわり出す。 よきパートナーと水のワルツ。 はじまり、はじまり。
2015.06.28
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