人と地球にやさしい生活

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2.干潟八萬石 ― 椿の海の干拓 ―





房総をしらべる


2. 干潟八萬石 ― 椿の海の干拓 ―


  千葉県の東部、JR総武本線の干潟(ひがた)駅から東北にかけて「干潟八万石」と呼ばれる広大な水田地帯があります。千葉を出て銚子へ向かう総武本線の列車左側の車窓から広々とした水田が見渡され、秋ともなれば黄金の稲穂が波打ち、遠方はかすんで見えなくなるほどです。

  この広大な水田地帯は、昔は「椿の海」あるいは「椿の湖」といわれた湖であり、これが江戸時代の初期に干拓され「椿新田」として開発されたものです。

  椿の海は、玉の浦(九十九里浜の古名)の入湾が砂州によって入り口をふさがれてできた湖で、東西12km、南北6km、周囲が40kmもありました。利根川下流地域の潅漑水源と漁業に使われ、渡し舟もありました。

  『利根川図誌』によれば、
「太古此所に最大なる椿樹あり。高さ数百丈、枝葉三里の間に扶疏し、華咲く時は天紅にして、散る時は地に錦を敷くかと疑はる。―― 此木寿尽きて根と共に自ら倒る。根の跡湖水となる。因って是を椿の海といふ」
とあります。


  また、神々についての伝説も残っています。

  「遠い昔、海上(うなかみ)、匝瑳(そうさ)、香取の三郡にまたがる枝をもった大きな椿の木があった。この木は、猿田彦命が国を分ける時に、国境に植えたものだと伝えられている。日本の三大木の一つにあげられ、いつも天上には雲や霞がかかり、昼でも夜のように暗かったそうだ。

  鬼満国(おにまんこく)の魔王は、日本の国を滅ぼして、自分の国にしようと、この椿の木に住みついて長い間狙っていた。そこで、海上の国におった猿田彦命は、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)、鹿島の建御雷命(たけみかずちのみこと)の力をかりて、魔王を退治することにした。

  さっそく、二神は魔王に戦いを挑んで、天(てん)の鹿島弓(かしまゆみ)という力の強い弓に、天の羽々矢(ははや)という羽の広い大きな矢をつがえて

――  中 略  ――
魔王目掛けて打ち続けた。魔王は、堪らず椿の木を根こそぎ引っくり返して、東の海へ飛び去ってしまった。

  そして、椿の木が抜けた跡に水が溜まり、大きな湖となり、それが椿の湖と言われるようになった。椿の木の倒れた方向によって、上の方が上総、下の方が下総と呼ばれている。現在の旭市に矢指(やさし)という地名があるが、魔王を退治した天の羽々矢が飛んでいった方向だと言われている。

  見事に魔王を退治した香取、鹿島の二神は、これよりこの地方の守護神として崇められるようになった」


  この椿の海の干拓が計画されたのは元和年間(1615~23)で、杉山三右衛門が幕府に願い出たのが最初でしたが、許されませんでした。

  次いで、40年ばかりたった寛文年間(1661~72)初め、江戸の町人白井次郎右衛門が数回にわたって椿の海の干拓を幕府に願い出ました。幕府はようやくこれをとりあげ、当時幕府の中で地方(じかた)支配の第一人者といわれた伊奈半十郎を現地検分に派遣しました。

  伊奈の結論は、開発に対して否定的なものでした。「湖を干拓すれば広大な水田を得ることができるが、一方ここを水源としている沿岸村々の田畑は渇水して荒地となる。それを差引すると、開発の方が損となる」というもので、開発計画はまた不許可となりました。

  さらに、白井次郎右衛門は、当時幕府の大工棟梁を勤める辻内刑部左衛門(つじうちぎょうぶざえもん)と連名で椿の海の開発を願い出ました。この2人の結びつきや、どちらが主導権をとったかは、諸説あるところです。辻内の主君桑名藩主松平定重の力を得て、2人は幕府の内諾を得ることに成功しました。

  寛文9年6月、勘定頭妻木彦右衛門頼能(よりよし)を中心とする調査団が、再び椿の海開発の検分に出発しました。調査団は、椿の海を用水源としている下郷11ヵ村の代表を呼び出し、干拓工事をしても差し支えないかどうかを聞きました。代表たちは、「これまで通りの用水が確保されれば、差支えがない」と答えたので、妻木は「今までより2割多い用水を確保すると開発請負人が約束している」と言い、農民はありがたく頭を下げて引き下がりました。

  これで、地元農民の同意を得たと思った調査団は具体的な測量に入ると、椿の海の面積を積算し、海面との落差は2丈5尺(7.6m)あって干拓が可能であると幕府に報告しました。また、椿の海の水を九十九浬浜に落とす排水路は、井戸野(いどの)村と仁玉(にったま)村の間と定めました。

  この状況を見た付近農民は、ようやく事の重大さに気付き、この堀割りによって田畑を潰される井戸野村と仁玉村を先頭に猛然と反対運動に立ち上がりました。この強い反対をみて、勘定頭は路線を再検討し、椿の海東端から三川浜(さんかわはま)に落とす排水路、いわゆる三川堀に変更しました。

  そして開発請負人白井と辻内によって工事が始められましたが、この三川堀の堀割り工事は強固な泥岩層などにより予想以上に難航しました。辻内は江戸の木材商野田市郎右衛門と栗本源左衛門の資金援助で工事を継続しましたが、長い間の出資で資力の尽きた白井は開発の権利を放棄し、工事は中断してしまいました。

  辻内と野田、栗本の3人は、神様のお助けによらなければ工事の完成はできないと考え、伊勢皇大神宮へ参り、梅谷左近大夫長重神主に工事完成の大祈願をお願いしました。神主は壱万度の御祈願をすませ、御札に御神木を添えて伊勢から椿の海まで持って来ると湖の中央に浮かべ、これが流れ着いた所に排水路を掘ることに決めました。

  流れ着いたのは、今の新川のところでした。これを神様のお示しと考え、御神木をその場所に立て、御祓大麻(榊)は近くの小高き丘の上にお祀りして、工事の準備に取りかかりました。

  現在、JR旭駅と干潟駅の間にある鎌数伊勢大神宮は、寛文11年に椿の海の干拓を記念して、伊勢皇大神宮より御分霊をうつして椿新田の総鎮守産土神としてお祀りしたものです。


  神様のお助けによって排水路を三川堀から新川に変更する拠りどころを得たものの、資金不足もまた深刻な問題でした。ここに登場するのが江戸白金台瑞聖寺の鉄牛禅師です。

  鉄牛(てつぎゅう)は長門(山口県)須佐の生まれ、幼名を才之助、名は道機といい、中国から渡来して黄檗宗を開いた隠元禅師および木庵禅師の教えを受けました。後に大老となる小田原城主稲葉正則に迎えられ紹太寺の住職となってから、諸大名の中に多くの帰依者を持つようになり、鎌倉五山をもしのぐ実力を持つこととなりました。

  中でも伊達陸奥守、稲葉美濃守、島津薩摩守、毛利甲斐守、池田相模守など大々名といわれた封建領主たちがこぞって鉄牛禅師に帰依しました。それは必ずしも宗教上の理由だけではありません。これら外様の大々名は幕府の監視の目が厳しく、藩政に力を入れるほど、改易の危機を意識していたはずです。鉄牛に帰依することによって、いざというときその危機の緩和ができたのではないでしょうか。宗教の力プラス政治力、これが鉄牛の潜在力とみるのが正しいと思われます。

  鉄牛禅師が在世中得度した弟子は500余名、創建した寺院は九州の薩摩から東北の陸前に及び、相模、武蔵、駿河、山城、陸前、美濃、伊賀、伊勢、遠江、大和、摂津、和泉、肥後、豊後、薩摩、下総の16ヵ国、寺院数36ヵ寺にのぼりました。全国に情報網を張り巡らせ、隠然たる勢力を持っていたと思われます。


  鉄牛禅師は幕閣に顔のきく人物だったので、辻内は伝手を求めて瑞聖寺に参り、椿の海の開発請負の許可を幕閣へとりなして欲しいと頼みました。はじめ鉄牛は開発の失敗をおそれて断ったが、辻内が日参して懇願したので、ついにその熱意にほだされ、老中稲葉正則を通じて大老酒井忠清に働きかけました。その結果、首尾よく幕府から開発許可とともに六千両の資金貸与を得ることができました。

  のちに鉄牛は、幕府から椿新田内に建てることを許された五ヵ寺の内の三ヵ寺を開山しました。その三ヵ寺とは、鉄牛が晩年隠棲した補陀落山福聚寺(ふだらくさんふくじゅうじ・東庄町小南)と如意山修福寺(匝瑳市春海)、仏日山広徳寺(ぶつにちざんこうとくじ・旭市鎌数)ですが、鉄牛と椿の海干拓とのかかわりが、かなり強かったことがうかがえます。

  早速辻内は、寛文10年6月、工事再開のため下総に下ると、失敗した三川堀を放棄して、現在の新川ルートに着工しました。しかし、難関にぶつかるたびに中止、変更を重ねていたので、農民の間に反対の声が高まるのは当然です。幕府は、周辺農民の要求をできるだけ取り入れ、慰撫しながら排水路を実現せねばなりませんでした。工事に出した人足のうち半分は交替で金普請としました。また、旧村の人々には新田一町歩を金5両で売渡すこと、荒撫地の一部は無償で配分することなどを約束しました。

  鉄牛禅師は弟子を伴い、幾度か現地におもむきました。その上信頼できる弟子の大通を常駐させ村の上層部、あるいは人足に出ている百姓と接触を深めるのに努力させました。ようやく工事は順調にすべりだし、堀割工事は進められて、1ヵ月余でほぼ完成してしまいました。


  『椿新田記』によると、寛文10年(1670)11月21日、それは歴史的な日であった。この日椿海の出口を〆切っていた土俵を上げ、それと同時に満々と湛えた湖水が、一度にどっと地響きを立てて堀割に流れ込んだ。その光景はまさに壮観という言葉以外にはなかったろう。しかし湖から流れ出た水は、堀割をのり越えてあふれ、津波のように井戸野から吉崎浜にかけての村々に襲いかかった。あっという間に家は流され田畑は砂に埋まり、逃げおくれた人々はこの水に呑まれて行方不明となり、その数は数えられぬ程多かった。そして堀割を流れる濁流で両岸の土手が崩れ落ちる音は、ごうごうと一里四方に響きわたったという。このすさまじい光景は、とても筆舌につくしがたい。しかもそれは、この一日だけではなく、下流の村々はその後半月以上も水の中に浸かっていたという。

  こうして江戸時代最大の干拓工事が始まりましたが、井戸野村、仁玉村など下流の古村は、苗代が砂地となり用水源を失って稲作ができなくなってしまいました。幕府は辻内らに命じて、用水枯渇に悩む村々のために14の溜池を造成させ、また、溜池の水を相互に補給するための惣堀(用水路)を巡らしました。

  このように椿の海の干拓地の整備が進められ、25年後の元禄8年(1695)に、ようやく検地が行われて18ヵ村の新田村が誕生しました。


  しかし、この後も、少しの雨でも水害に逢う新田内窪地の村々と、排水路の新川に水を絞り取られて旱害に逢う周辺の古村との間には、「新川の川浚い」をめぐっての争いが絶えませんでした。この開発以来300年を越える水争いの苦しみから、この地域の人々がようやく解放されたのは、昭和26年、利根川から揚水する「大利根用水」の完成をみてのことです。

  さて、椿の海の干拓に情熱を傾けて新川を掘削し、水利工事に苦労して、現在の「干潟八万石」の礎を築いたのは、工事途中で病死した辻内刑部左衛門の娘婿の善右衛門、野田市郎右衛門、栗本源左衛門の3人でした。彼らは干拓後、三元締として干拓地を支配しましたが、元禄元年(1688)、不正があったとして幕府によって追放されてしまいました。その理由については、隠し田の保有、相互の不倫刃傷等が言われていますが、明確な資料は残っていません。

  現在は、広大な水田があるばかりですが、当時を偲ぶことができる所としては鎌数伊勢大神宮と福聚寺があり、福聚寺には鉄牛和尚の墓があります。また、溜池の名残は、釣人の格好のスポットとなっているようです。 


(参考)
・八匝教育委員会,「八日市場市の伝説とむかし話」
・八日市場市,「八日市場市史下巻」,1987.
・川名登,「郷土千葉の歴史」,ぎょうせい,1984.
・旭市文書館編,「旭の風土と文化」,1998.
・鎌数伊勢大神宮,昭和48年資料.
・加瀬俊雄,「近世近代郷土史発掘」,千葉日報社,1979.







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