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意識進化するということは、パラダイムシフトした価値観で生きるということです。霊的成長を目的として生きる、いわば生まれ変わる魂として生きるということ。 名誉やお金を目的とすると外側を自分の思い通りに変える必要がありますが、霊的成長のために外側を自分の思い通りに変える必要はありません。 ある人が言いました。「もし神様がいるのならどうしてこの世にはこんなに不幸なことがあるんだ」と。 この人は、現象そのものに固定された意味があるという観念が基本になっています。これがこれまでのパラダイムの考え方です。 霊的成長をこの世で実現するためには、愛を形にする必要があります。 霊的成長を目的とすると、どんな出来事、状況も自分の愛を形にする選択のチャンスであり、感謝できるということがわかります。 誰でも苦しいことが愛を形にするチャンスだということはわかると思います。エリザベス・キューブラー・ロス博士も言いました。引用開始--------------------------ほとんどの人は、人生の中で直面するあらゆる苦しみ、あらゆる試練や困難、あらゆる悪夢、あらゆる喪失を、呪いであり、神からの罰であり、何か良くないことだと考えています。でも、自分の身に起こるものに悪いことなど何一つないことに気づかなくてはなりません。本当に何一つないのです。どんな試練も困難も、最も辛い喪失も、また「もしそのことを知っていたら、とてもやってはこれなかった」と言わせるようなことも、全てあなたへの贈り物なのです。たとえて言えば、鉄は誰かが鍛えなくてはならないのと同じです。これはあなたが成長するために与えられた機会であって、この成長こそが、地球という惑星に存在することの唯一の目的です。美しい花園に腰を下ろして、銀の大皿に盛られたごちそうを待っているだけでは、成長なんてありません。病んだり、苦しんだり、大切なものを失ったりを経験して、現実を回避することなく痛みを受け入れ、呪いや罰ではなく、非常に特別な目的のために与えられた贈り物なのだと考えることを学んだときに、成長することができるのです。エリザベス・キューブラー・ロス著「死後の真実」日本教文社刊から引用終了-------------------------- でもそれだけではなく、喜ばしいこともチャンスなのです。 たとえば、私は講演会で知り合った人やメールレクチャーなどで、何人かの人に苦しみを超えるお手伝いをさせていただきました。 きっと相手の方は、私に感謝しているかもしれません。でも、同時に私もその方が私に愛を形にするチャンスを下さったことを感謝しています。 それは本でこんなことを読んだからです。 それはある弁護士だったかが、知名度も上がり資産も増えて、この物質世界の幸せを感じていたときに、浮浪者になった古くからの友人がお金を無心に何度もやってきたのだそうです。 この方は後日、退行催眠で、中間生での魂としての自分とその友人の約束を思い出しました。 その友人の魂は、高度なレベルに達したソウルメイトで、もう霊的成長のためにこの世に生まれてくる必要はなかったのですが、愛を実践するチャンスをソウルメイトである彼に与えるために、わざわざもう一度、この世に生まれてくることにし、しかも、浮浪者としての苦しい人生を選択して彼の前に現れたのです。 これまでの価値観であれば、名士で資産家の弁護士の方が人間的にも上で、浮浪者はダメな人間と思いがちです。しかし、魂の視点から観たらこんなこともあるのです。 そのことを知ってから、私は人から褒められたり感謝されたりしたときは、そのことをありがたく受け取りつつも、相手の方に感謝するようにしているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 27, 2010
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イエスは言った。「汝の敵を愛せよ」 それを信じた人々は、敵を愛そうと努力した。「あいつは憎らしい敵だ、だがイエス様がそうおっしゃったから愛さなければならない。好きになるように努力しなければ・・・」 かくして、この人は日々、苦しい努力を重ねる。そして苦しみを溜め込んでしまう。 そうじゃない、イエスが言ったのはそういうことではない。 イエスや仏陀は覚者だ。覚者は意識を変容させている。彼らのパラダイムはシフトしている。悟りや愛(神の愛、無条件の愛)は、シフトした意識だ。 だから、今の自分のパラダイムで単純に解釈してはいけない。それでは、その意図を理解できはしない。 もっと奥、彼らのその言葉、その方便で伝えたいこと。月をさす指が示しているものを見ようとしなければならない。 イエスは言った。「汝の敵を愛せよ」 敵を愛する?それはおかしくないか?ヘンではないか?敵とは、深い恨みを抱いている相手ということだ、敵とは、そもそも愛することなどできないものだ。 あなたは、まずこの矛盾に気がつかなければならない。そして、『イエスは、こんな矛盾めいた言葉で何を伝えたかったのだろう?』と考えを進めるのだ。 そこまでくればあとは簡単だ。 イエスはすべての人を愛した人だ。敵すらも愛した・・・ん?敵を愛した? またこの矛盾めいた状況が出てきた。パラドックスだ。だが、イエスには矛盾はない。あなたの解釈が矛盾を生み出しているから、矛盾に見えるだけなのだ。 あなたの解釈を調べてみよう。イエスは、すべての人を愛した。・・・これは真実だ。イエスは、敵さえも愛した。・・・これは実はあなたの解釈だ。 常識に囚われていると、このことに気がつけないのだ。 あなたがイエスが愛した敵をイエスの敵だと解釈しているに過ぎない。敵という解釈はあなたがつけたもの、そのレッテルはあなたが貼ったものだ。 人は敵でも見方でもなく、ただありのままにそこにいる。解釈、レッテルはそれをつけた人にのみ有効なのだよ。 だから、本当は、イエスはすべての人を愛した。私が『あの人はイエスの敵ではないか』と思うような人まで愛した。というのが真実だ。 あなたはあの人が美しいという。だが別の人は、美しくないという。 どっちが正しのだろう?あなたは言う。「どっちということはない、美しさの解釈は人それぞれなのだから」と。 それがわかるなら、素直になれば同じことだとわかるはずだ。 それは同じことだ。今のあなたには信じられないかもしれないが、すべての二元化はあなたが創り出した幻影なのだ。善悪さえもだ。 つまり、イエスは敵だとは感じていなかったのだ。 あなたが「世界をありのままに受け容れること」を拒んでいるのは、あなたが心の中に二元化の幻影を創り出しているからなのだ。 それがあなたが愛になれない理由だ。愛とは、二元性を超えて、ひとつになることだ。 そう、イエスが言ったのはこういうことなのだ。「あなたが敵だと感じている人を、愛せるようにしなさい、敵だと決め付けるのを止めなさい。その囚われを手放しなさい。 そうすれば、あなたは敵(だと思い込んでいた人)さえも愛することができるでしょう」 これでひとつ、あなたの霧が晴れたかな?(^-^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 23, 2010
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