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ウクライナ戦争を考える……2PTSDウクライナに限りません。戦争は仕掛けた側、仕掛けられた側を問わず、破壊という物理的行動による損失、経済的損失、そして人的な損失など、社会経済的に攻める側、攻められた側を問わず、大きな損失を生むのですが、ここで忘れてならないのが、戦地の民衆のみならず、戦争に動員された兵士たちとりわけ若い兵士や銃後の輜重部隊の隊員たちに広がるPTSDの被害を見落とすわけにはいきません。一時を除いて、ほとんど報道されなくなっているのですが、初めて自衛隊が戦地に派遣されたイラク戦争はご存知と思います。このイラク戦争に派遣された兵士たち(3ヶ月交代の任務で、工兵部隊のような仕事を担当していましたから、戦場には出ておりません。)のかなりの部分が、帰国後PTSDに陥って長期にわたって、療養生活を余儀なくされているのです。戦場には出なくても、安全地帯の駐屯地から出て作業に向かったりする過程で、いくつもの肉片となって飛び散った死体や、苦し気にのたうちながら呻いている断末魔の人たちを目にはするでしょうから、精神をやられる自衛官が出るのは、むしろ精神的には健全のように思えます。五体に傷などありませんから、懸鼓そうに見えながら、精神は深く傷ついている。真面目で精神的に健全な若者だからこそ、むごたらしい死体の衝撃は極めて大きいのです。戦争は勝敗に関係なく、戦場に遭遇した健全な若者たちとプラスアルファの人たちに、再起不能かもしれない大きな心の傷を残すのです。すなわち輝かしい未来を棒に振る、たくさんの若者を生み出すのです。イラク戦争の一つの場面に過ぎないのですが、私の目に焼き付いてしまったテレビ報道の一場面があります。若い純真そうな米軍兵士が、走ってきた乗用車に向かって発砲し、両親と幼い子供2人を乗せた普通のイラク市民の車を蜂の巣にして、惨殺してしまった映像です。おそらくこの兵士はゲリラの攻撃に怯えてしまい、この車からゲリラが銃撃してくると錯覚して、咄嗟に銃撃してしまったのでしょう。自分の行動が生んだ悲劇に気づき、「こんなはずではなかった。僕には銃を構えたゲリラの顔がはっきり見えたのに… と首を振りながら呆然としていた兵士の顔を、今もはっきりと覚えています。純情なこの青年は、おそらく一生を棒に振ってしまったと、当時0代前半だった私は受け止めました。重度のPTSD患者になって今も苦しんでいるのか、あるいは自ら命を絶ってしまったのか、知る由もないのですが…激しい地上戦が行われ、ヤケッパチのロシア軍の無差別爆撃や空爆は、ウクライナの人々に、消せない傷を残すでしょうし、ロシア軍の兵士にも、多くのPTSD患者を生み出すでしょう。こうした面からも、戦争は早期に終結させることが、今となっては最も望ましこととなるのです。戦争にプラスなんてないのですから… 続く
2022.06.21
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ウクライナ戦争を考える…13月に数日書いて、プッツリ中断してしまいましたが、その後の3ヶ月、戦争は継続し、東部や東南部を中心としたウクライナの惨状は、悪化の一途を辿っています。通常侵略者は、侵略した地域の支配を狙うならば、その地域の破壊は最小にとどめることで、侵略地の住民の憎悪感情の極大化を抑えると共に、その地域を復興するための費用を可能な限り低く抑えることに努めるものです。そう考えると、伝えられるロシアの都市機能や農地の保全を全く顧みずに、ひたすら廃墟にしてゆく戦術は、東部および東南部の永続的支配はもはや無理と考えて、ヤケを起こして、撤退前にひたすら破壊してゆくという、理性のかけらもない破壊的所業にしか見えません。ただしそれが、プーチンの命令に基づくのか、最高指導部の関知しない現地司令官と実行部隊の判断なのかはわかりませんが…これは最悪の状況です。戦闘地域並びにロシア軍の占領地域の住民は、日々暴行を受けたり、殺されたり、家財を奪われたり、女性は凌辱の辱めを受け続けたりの、生き地獄に近い日々を過ごさざるを得ないのですから…これはどんな戦争であっても、戦場や戦争中の占領地住民が陥る状況です。兵士にとって戦場は、命のやり取りをする場です。やるかやられるかの場です。そこでは一瞬の躊躇が命取りになります。一瞬でも理性が働いて、引き金を引くのが遅れれば、命を落とすことになる場です。いわば一瞬の迷いもなく理性を捨て去らなければ生き残れない、そういう場なのです。敵味方の死骸、それも五体満足なものではなく、肉の塊となり果てた大量の死体の海の中で、生き残った者たちの精神構造がどうなるか? その時点の彼らは、まさに人間ではなく、野獣そのものといえるでしょう。こうなるとやることは見えています。そんな日々が何か月も続いてよいものではありません。一刻も早く休戦、そして和平交渉が始められるように、いつどこでもやめたといえるような、そんな環境をプーチンとゼレンスキーに用意することが、今は大切です。ロシアの行動は許されるものではありません。倫理的に大きな責任を負い償いが必要なのは確かにロシアです。しかし、今そこにこだわってプーチンを追い詰めれば、追い詰めるだけ彼は降りられなくなり、戦争は絶えることなく継続し、ウクライナ住民が被害を受け続けるのです。今は和平への道をあっちにも、こっちにも作るべき時期なのだ。それもできる限り早くに…今はこう考えています。しかし、欧米の大国は、口はともかく本音ではウクライナ住民のことなど、少しも配慮していませんね。自国というより、自らの政権の利害が、彼らにとって一番のように見えます。岸田総理には、そんな欧米にべったりの路線から、3分の1歩でよいから離れて、独自の和平への働きかけを、インドやオーストラリアなどと考えてほしいですね。インドのモディ首相も、対中国との係争の関係で、ロシアカードは絶対に手放せませんから、ロシア非難には絶対同調できませんが、プーチンに「名誉ある」撤退の道を用意することには、2つ返事で乗るに違いないのですから… 続く
2022.06.12
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皆様お久しぶりです。目の調子を悪くし、2か月以上、ラジオとCDを友達とする日々を過ごしていました。ようやくそうした日々から解放されましたが、液晶の画面を見る時間は、当分制限付きですので、ブログのアップも、皆様のブログへのご訪問も、トビトビになると思いますが、お許しのほどを。本日はご挨拶と、状況のご報告まで…
2022.06.06
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ウクライナ問題あれこれ (4)続き< 歴史の続き >さてこうして、誕生したブルジョワ自由主義者中心の政府は、穏健派ソヴィエトの協力の下、直ちに平和をと、軍務を離れようとする兵士を、革命の祖国を守るためだから戦地に留まれと説得して、世界戦争を継続します。いやいや説得に応じた兵士たちは、せっかく革命が勝利したのに、なお長く戦地に留まり、なおかつドイツ軍への攻撃にすら駆り出されることに不満を募らせます。首都やモスクワ(当時のロシアの首都は、ペテルブルグにありました)などの大都市の民衆は、平和とパンを求めて穏健派ソヴィエトの指導に従わなくなります。こうして、兵士や都市民衆の支持は、次第にソヴィエト権力の樹立を主張し、即時和平の主張を掲げる、急進派ソヴィエト(その中心がレーニンらのボルシェヴィキでした)に移っていったのです。その到達点が、急進派ソヴィエトによる権力の奪取、ロシア歴の十月革命(西暦では十一月革命)になったのです。ソヴィエト政府は、直ちに全国各地に、夫々の州や県の単位でソヴィエトの政府を建てることを命じ、実行してゆきます。ウクライナでもそれは同じでした。ところがウクライナは、自治権を利用して、中央ラーダという組織が権力を奪取していたのです。ラーダとはウクライナ語でロシア語に訳すとソヴィエトになるのです。ただし、ボルシェヴィキではなく、穏健派ソヴィエトに近い存在だったのです。当然、ボルシェヴィキ中心の政府は、中央ラーダ権力が気に入りません。こうしてウクライナ在住のロシア人中心に(彼らはウクライナでは少数派でした)、強引にボルシェヴィキ派のソヴィエトを組織させ、ソヴィエト赤軍を投入して中央ラーダを攻撃し、少数派ソヴィエトの政府を建てたのです。追いつめられた中央ラーダ派は、遂には反革命派に加担するに至り、ソヴィエト権力が確立するにつれ、戦い敗れ諸滅に至ります。結局力で押し切られたウクライナは、ソヴィエトの権力に対して面従腹背の姿勢をとり続けたのですが、第2次大戦時にヒトラーのドイツに占領され、ソ連軍の巻き返しで、ドイツ軍が追い出される過程では、完全にソ連軍を一体化して戦うに至り、反ドイツ、反ナチの姿勢を貫いたのです。この大戦中の新ソ連の姿勢が、スターリン死後のソ連指導部のお気に召し、ソ連政府と一心同体であり続けるならと、19世紀からロシア、ソ連領であり続けたクリミア半島を、1954年にソ連から譲ってmらえたのです。ですから、ロシアを袖にして西欧につくのなら、お前に預けておいたクリミア半島は返してもらうよ。ここは反ロシアの国に撮られては困る、ロシアにとってとっても大事な地なんだからねと、2014年に軍を派遣して取り返したのです。これがロシアとウクライナ、そしてクリミア半島のまつわるいきさつです。 続く
2022.03.17
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ウクライナ問題あれこれ (4)< 和平交渉 >急に和平交渉を巡る報道が、難航から急進展に変わってきました。ネット時代の報道ですから、日本の報道姿勢の問題ではなく、実際にロシア、ウクライナ双方の姿勢に変化がみられるようですね。ロシア側の姿勢の変化が大きいようですね。さすがのワンマン大統領も、国際的な包囲網にあって、経済制裁がが今後も長期に継続される事態の深刻さに気付いたこと。欧州側のスクラムが予想に反して当分崩れそうないこと、中国の支援も期待の半分程度に留まる事などに気づき、軍部や側近、さらには財界からの早期停戦による名誉ある撤退を進める忠告に、耳を傾けざるを得なくなったのでしょう。いうならば「遅かりし 由良之助…」ですが、評判の悪すぎる戦争をさらに続けるよりは、ずぅーとマシです。和平が実現することを、皆様とご一緒に待ち望みたいと思います。< ウクライナ戦争で、最も漁夫の利を得るのはどこか >これは衆目の一致するところですが、イランです。「核合意」の復活に向けて交渉中ですが、対露制裁で不足が目立ち、冒頭を続ける原油相場を冷やす最大の隠し玉が、イラン産原油も国際市場への登場です。世界でも5指に入るイラン産原油の再登場は、ロシア産原油の禁輸措置に踏み切れない欧州諸国に、最低限ロシア産原油の購入制限を飲ませる上で欠かせないからです。アメリカは、イランとの合意に向けて、さらに一歩踏み込んだ譲歩に出るでしょう。ただ、アメリカ側の足元を見て、イラン派交渉条件をつり上げてくる可能性もありますから、この点では注意が必要ですが…< 歴史の続き >ロシアとクリミア半島を繋ぐ位置にウクライナがあります。クリミアを領有したロシアは、大国化の過程で、ウクライナもその支配下に加えました。ただ当初その支配はゆるく、貢納の義務を課しただけで、ウクライナ人による自治政府の存在を認めていたので、両者の関係は円滑だったのです。この蜜月は、ロシア革命によって、ソヴィエト政府が誕生したことによって、崩れます。ロシア革命は西暦で1917年3月(ロシア歴では同年2月… ロシア歴に13を加えると西暦に、西暦から13を引くとロシア歴になります)、即時平和を求める兵士たちとパンと平和を求める首都の人民によって始まりました。その兵士と民衆が結集したのがソヴィエトでした。ソヴィエトは社会主義者が圧倒的多数を占めていましたが、ソヴィエト内には穏健派と急進派がおり、当初は穏健派が多数派でした。穏健派は、今のロシアは社会主義を実現するほど経済が成長していないので、先ずはブルジョワ自由主義者の政府に、閣外から協力する形が望ましいと考えており、ただちにソヴィエトが権力を握るべきだとする急進派と一線を画していたのです。所用が出来ましたので、続きは後程 続く
2022.03.17
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ウクライナ問題あれこれ (3)< プーチンはどうなる >戦局がどうあれ、プーチンは晩節を汚してしまいました。歴史には彼の悪名が残るでしょう。1950年代には、フランスがヴェトナムとアルジェリアで、何とか戦前の植民地を維持しようと無理に無理を重ね、ボロボロになって撤退する運びとなりました。そのヴェトナムを社会主義封じ込めのためと引き継いだアメリカも、ジャングルの戦いに持ち込まれて、不正義の戦争に兵士がついて行けなくなり、まさにボロボロになって撤退する羽目になりました(73年)。アメリカの栄光に影が射した最初のケースでした。次は、79年にアフガニスタンに侵攻したソ連です。こちらは山岳地帯のゲリラ戦に対応しきれず、遂に全土の制圧が出来ず、89年に撤退。結局はこの愚行がソ連の崩壊に繋がりました。ライバルが勝手にこけたのに、自分たちが勝利したと勘違いしたアメリカと西欧は、今度はイスラム敵視姿勢をとって、世界のイスラム教徒が尊崇するムハンマドを戯画化し、愚弄するという、破廉恥な行為をあえて行った無頼漢のような作者と版元を、表現の自由の名で擁護するという、何とも愚かな誤りを犯しました。こうして全世界のイスラム教徒を敵に回してしまったのです。自分たちのイエス・キリストが辱められたとしても、表現の自由として黙認できるのでしょうかね。そうしないイルラム教徒の方は、はるかに紳士的に見えます。イスラム教徒の怒りが、21世紀の幕開けに起きたNYのツインタワーへの攻撃となりました。9/11です。そして怒りに任せてアメリカはソ連が失敗して崩壊にまで至ったアフガンを攻撃し、またもや泥沼にはまり込みました。そして、フセインのイラクにも攻め込みました。イラクは山岳地帯もジャングルもありませんから、攻略しやすいはずでしたが、嫌われ者アメリカは面従腹背にあい続け、ここでもいたずらに消耗を続けました。リビアやシリアでも事情は同じでした。力尽くの介入は、住民の根強い抵抗にあって、大国の国力を蝕み、遂には手ひどい失敗に追い込まれ続けてきているのです。こんな分かりやすい現実を、どうして理解できなかったのでしょう。何とも理解しにくい今回のプーチンの行動です。まして、ウクライナは政治家の質はともかく、民意は高い国です。一時丈に軍事力で制圧しても、地下に潜ったウクライナ国民のレジスタンスによって、プーチンのロシアは、手痛い占領の失敗に追い込まれるでしょう。2/23の線で止まっていれば英雄になれたのに、プーチンは自分の栄光を自ら放棄してしまったようです。< クリミア半島とウクライナ > 明日詳しく書きますが、18世紀にロシア領に編入された以後、この地域がロシア、ソ連の手を離れたのは、第一次、第二次の二つの世界大戦当時に、ドイツやトルコに一時的に占領された短い期間しかなかったのです。黒海の制海権確保に必要なクリミア半島と世界有数の小麦の生産拠点であるウクライナが狙い撃ちされたのです。 続く
2022.03.16
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ウクライナ問題あれこれ (2)また数日経ってしまいました。ロシアとウクライナの関係は、歴史的な由来を理解しないで、現在だけ見ていても、不正確な評論しか出来ないことになります。そこで、16世紀に遡って記すことにしますが、選戦局もめまぐるしく動いていますので、織り交ぜて記すことにします。<戦局> ロシア軍の苦戦が続きますが、戦力の開きは大きいです。注意すべきは経済制裁の効果ですが、ロシアの庶民生活に大きな影響を与えることは事実ですが、1998年に起きたアジア通貨危機の余波で、ロシア国家がデフォルトみ陥った時のような、ロシア国家のデフォルトは期待できません。あの経験に懲りて、ロシアは金準備を積み上げてきました。現在は世界第2位の金準備を誇ります。ロシア経済全体のGDPは、既に韓国にも抜かれており、完全に2等国レヴェルに落ちていますが、軍備大国であることは確保しています。金での支払いも可能ですから、デフォルトはありえないとご理解ください。<歴史 その1> タタールの軛さて、ロシアにとって、ドニエプル川とドネツ川の河口を抑えることが、国家の安全に死活的な重要性を持っているのです。昔映画にもなりましたガ、イヴァン雷帝(イヴァン4世です)の時代、ロシアがモンゴル系のキプチャップ汗国から独立し、モスクワ大公国と名乗っていた時期の話です。この頃クリミア半島やドニエプル、ドネツ両大河の河口は、タタール系のイスラム教徒が支配しておりました。操船技術に優れる彼らは、船で両大河を遡り、流域を荒らしまわるのが常でした。防備の甘いモスクワ大公国領も何度も被害に遭ったのですが、一度など首都のモスクワまで占領され、略奪された上に火をかけられて、首都が全滅する被害に遭っているのです。イヴァン雷帝は、この屈辱を忘れず、何時か両大河の河口まで、ロシアの領土を拡げる。阻止なければ本当の意味でのロシアの安全は確保できないと決心したのです。これはイギリスに対抗するために、西へ西へとフロンティアの開拓を進めたアメリカ合衆国の拡大政策と良く似ています。この悲願が実現するのは、ロシアの大国化を大きく進めた18世紀初頭のピョートル大帝と同じく18世紀の末に活躍したエカチェリーナ2世です。エカチェリーナの時代にクリミア半島支配は現実のものとなり、ロシアの黒海艦隊も創設されたのです。以来クリミア半島は、ずっとロシア領としてロシアが支配してきました。社会主義革命が成就し、ソヴィエトが権力を握ってもこの構図は変わらなかったのです。 続く
2022.03.15
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ウクライナ問題あれこれ (1)大変ご無沙汰しました。 腰椎手術のためのワイフの入院から、自宅のバリアフリー化のための改装と、落ち着かない日々を送っておりましたが、来週半ばの工事の終了と、彼岸中のワイフの帰宅の目途が立ち、やっと落ち着いて、書き物が出来るようになってきました。ブログもまた買い始めます。長く続けることになると思いますが、ウクライナ問題をロシアとの歴史的関係も含めて書かせていただこうと考えています。 その1回目ですが、この問題は、先月、2月23日までと、翌日の2月24日から、つまりプーチンロシアのウクライナ侵攻が始まった日から、まったく別の問題になりました。つまり、この日を境に、ゼレンスキーはピエロから英雄になり、プーチンは老練な政治家から、ギャングのボスに変じました。日を追ってきて行きますが、23日まで私はプーチンとロシアの主張を理解できるし、それは当然だろうと考えていました。その事情もおいおい書きます。そこまでのプーチンの打つ手も詰将棋のようで見事でした。米国も、EUも、そしてゼレンスキーも、打つ手がなく、ただマスコミを使って、ロシアの横暴を吠えるだけ、ロシアの圧力になすすべを知らずの状況でした。プーチンはここでやめておけばよかったのです。それなのにあーあ。プーチンは調子に乗って、最悪の手を打ってしまい、おそらくは自らの政治生命まで縮める結果になってしまいましたね。なぜ、こんなドタバタ劇が始まったのか。その結果、ウクライナの市民とウクライナとロシアの兵士たちに数多くの犠牲者を生む、無益な戦争が今日も続いているのです。こうした瞬間にも現在はウクライナ時間で夕方でしょうから、ドンパチが続き、犠牲者が出続けていることでしょう。ウクライナ戦争は、いくつものボタンの掛け違い、4者夫々が相手を軽く見過ぎるという過ちを冒し、その修正を怠った結果だと私は考えています。それだけに恐ろしいのです。相手の評価を間違えると、今回のような事態が起きる。戦車を先頭に、21世紀の整備された他国の道路を他国の軍隊が進撃するのです。19世紀の亡霊が出てきたような悪い夢としか思えない事態です。しかし、20世紀の政治家に比べて、明らかに質が落ちる現代の政治家が、近隣の諸国の評価を間違え、互いに相手の出してきたサインを誤解する事態は、どこででもありそうに思えるからです。戦争に巻き込まれる危険は、明らかに大きくなってきていますね。皆様ご注意を… 続く
2022.03.11
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クロニクル 週刊新潮は明日発売です1956(昭和31)年2月5日66年前のこの日、週刊誌『週刊新潮』が創刊されました。「赤トンボ」のメロディをバックに、ラジオから流れ出るコマーシャルが、柔かな子どもの声で「週刊新潮は明日発売されます」と繰り返していました。谷内六郎さんの表紙も、ほのぼのとした温かみのある絵でした。記事の中では、日本特に東京に滞在する外国メディアの特派員という設定で、ヤン・デンマンというペンネームで書かれたコラムが秀逸でした。週刊誌の売り上げが不振に陥って久しいのですが、週刊文春と共に、今でも頑張っていますね。
2022.02.06
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クロニクル インターポール設立1923(大正12)年2月5日99年前のことです。9月1日に関東大震災が発生した年です。この日国際刑事警察機構(ICPO)の前身である、国際刑事警察委員会(ICPC)が発足しました。この組織が1956(昭和31)年に改組されて国際刑事警察機構(ICPO インターポール)になりました。ルパン3世の銭形警部が所属する組織です。1946年以降事務総局はフランスのパリにありましたが、フランス革命200年にあたる1989年以降は、リヨンに置かれています。日本は1952年に加盟し、75年からは事務総局に警察庁職員を派遣しています。1996年~2000年までの4年間、兼元俊徳(警察庁国際部長。退任後は内閣情報官)氏が、ICPOの総裁を務めました。現実のICPOは、各国警察の協議体であり、国際指名手配などは行ないますが、捜査主権は各国警察に委ねられており、ICPO自体は捜査は行ないますが、逮捕権はありません。銭形警部のような恰好の良い捜査官は、残念ながらいないようです。
2022.02.05
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クロニクル ロッキード事件発覚1976(昭和51)年2月4日46年前のこの日、米国上院の多国籍企業小委員会が開いた公聴会で、ロッキード社が日本への航空機の売り込みのために、70年頃から、違法と知りつつ、多額の政治献金を行っていたことが明かになりました。 ロッキード社の秘密代理人だった右翼の大物で、政界に顔の広い児玉誉士夫に21億円、代理店の丸紅に10億円が支払われたリストも示され、児玉のサインのある「100ピーナッツ受領」というふざけた領収書も証拠として提出されました。 さらに、ロッキード社のコーチャン副社長は、児玉に渡った資金の一部は、政商という噂の絶えなかった国際興行社主の小佐野賢治に渡ったと思うし、丸紅への資金は政界工作に使われたと思うと、証言した事も明らかになりました。 ピーナッツが1千萬から1億の隠語であるという、コメディアン顔負けのセリフ回しが受け、お茶の間や夜の盛り場の話題を、しばらくは独占したのですが、小佐野賢治が前首相田中角栄の刎頚の友であることは、知る人ぞ知る周知の事実であり、また児玉誉士夫が後の首相中曽根康弘と入魂の仲でもあったことから、捜査の手が、2人の有力政治家に伸びるのかどうかが注目を集めました。 捜査は、児玉ー小佐野ルート、丸紅ルート、全日空ルートの三方向から進められてゆき、やがて田中前首相が逮捕、投獄され たことは、御存知の通りです。
2022.02.04
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クロニクル マッカーサー憲法草案の起草を指示1946(昭和21)年2月3日76年前のこの日、連合国日本占領軍司令部(GHQ)のマッカーサー総司令官は、GHQ民生局に、日本国の憲法草案の作成を指示しました。マッカーサーは、前年10月に矢継ぎ早に対日統治方針を発表し、その中で日本側に新憲法草案の作成を促していたのですが、日本側の作成した新憲法案(いわゆる松本私案)が、あまりに旧態依然としたものであったため、これを拒否、GHQの考える新憲法案を日本側に示す必要があると判断して、この日の指示となったのでした。日本側でも、民間学者の私的団体「憲法研究会」の憲法草案要綱や高野岩三郎の「改正憲法私案要綱」などが発表されており、GHQ民生局は、そうした案の内容を取り入れながら、象徴天皇制、徹底した平和主義、女性の権利などで、さらに一歩踏み込んだ内容の憲法草案を、2月10日には完成し、日本側に提示しました。この流れから見て、昭和憲法を「おしつけ憲法」とする主張が、「松本私案」を是とする明治憲法体制を古き良き時代とする人々の主張から派生していることが理解できます。
2022.02.03
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クロニクル 南アフリカ政府マンデラ釈放を決定1990(平成2)年2月2日32年前のこの日、アパルトヘイト(人種隔離政策)で知られる南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、ANC(アフリカ民族会議)の指導者で、終身刑を科されていたネルソン・マンデラ氏ら、ANC活動家の無条件釈放を決定しました。同時に黒人解放運動を続けていることを理由に、非合法化して長期にわたって弾圧し続けてきた反アパルトヘイト運動の諸団体を、全て合法化することも合わせ発表されました。長くかつ苦しかった南部アフリカの黒人解放運動への、静かな支持の高まり、そしてANCに結集した黒人たちの団結と努力が、遂に南アフリカの白人政権を揺り動かした瞬間でした。2月11日、釈放されたマンデラ氏は、ただちに精力的な活動を開始、10月には日本を訪れ、国会で衆参両院議員を前に、人種差別撤廃を訴える演説を行いました。4年後、1994年の4月、南アフリカで初めて全人種参加による選挙が行なわれ、ANCは圧勝、マンデラ氏は大統領に就任し、全民族の融和を推進し、99年に政界を引退しました。2013年、95歳で死去。天国のマンデラさん、昨今の南アの混乱振り、残念がっているでしょうね。昨日の記事、コメントありがとうございました。慣れない家事もろもろで多忙につき皆様のブログに訪問できず申し訳ありません。 今しばらくお許しのほどを…コロナは東京一極集中も変えつつあります。リモートワークの進展で、東京23区の人口は、戦後初めて減少に転じました。都下や近県の都市部人口はまだ増えています(首都圏では千葉県流山市の増加が目立っているそうです)が、時間と共に地方への移住者が増えていく流れに転じたようです。
2022.02.02
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クロニクル 東京1千万人都市へ1962(昭和37)年2月1日60年前になります。この日、東京都は都の常住者人口が、推計ながら1000万人を突破した模様であると発表しました。定住人口が1000万人を突破したのは、世界ではじめての事でした。過密都市トーキョーの名が、世界を駆け巡ったのは、それから間もなくのことでした。
2022.02.01
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クロニクル 江川ー小林電撃トレード1979(昭和54)年1月31日小林繁投手、2010年に57歳で亡くなりましたね。死因は心筋梗塞による急死。細身の横手投げ。しかし強気で内閣にシュートをボンボン投げ込むピッチングでした。その小林投手。ジャイアンツのエース級でしたが、43年前の今日。キャンプインの前日に、タイガースへ電撃移籍されました。例の江川事件、空白の1日を突いたと言う、ジャイアンツのドラフト破りに、コミッショナーーが下した結論が、江川選手はタイガース(その年のドラフトで指名権獲得)に入団し、しかる後に速やかにジャイアンツにトレード移籍させるというものでした。こうしてタイガースが指名したのが小林投手でした。キャンプ地に向かおうとして、突然の行き先変更。何も語らなかった小林投手でしたが、それだけにプロとしての腹の据わり方が見事でした。タイガースに移籍した年は、ジャイアンツ戦に登板した年は、全て勝利で、年間成績も22勝9敗。見上げたプロ根性でした。惜しい野球人の早死。残念です。
2022.02.01
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クロニクル 米兵至近距離で農婦を射殺1957(昭和32)年1月30日65年前の出来事です。第1次南極観測隊が、南極大陸に上陸した翌日のことです。事件は群馬県相馬ケ原の米軍射撃場内で起きました。日本がまだまだ貧しい時代でした。貧しさ故に、基地周辺に済む貧農たちは、立ち入りを許された基地内に立ち入り、空薬莢(からやっきょう)や砲弾の破片を拾い集め、生活の足しにしていたのです。 射殺された坂井なかさんも、そういう一人でした。坂井さんが射殺される瞬間を目撃した農婦達の証言によって、射殺犯W・ジラード三等技術兵は「ママさん、大丈夫ヨ」と、わざと坂井さんを近くに呼び寄せたうえで、至近距離から射殺したことが明らかにされました。 当然国内世論は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。米兵に巣食う、日本人に対する極端な優越意識(この意識は今日でも、在沖縄米軍などに色濃く残り、それが婦女暴行事件や車輛による人身事故の多発に繋がっているように見えます)を、これみよがしに見せつけられたのですから……。世論の怒りに、米国に弱い日本政府も、ここは強気のポーズで米軍に当たらざるをえません。しかし、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障条約によって、日本は米軍の日本駐留を認め、その駐留米軍には、日米行政協定(当時、現日米地位協定)によって、治外法権が認められていました。即ち米兵は、勤務中か否かに関わらず、その行動によって生じた係争は、米国の法規で米国の司法でのみ裁かれることになっていたのです。ただ余りに強い、日本国民の反発を和らげる必要を意識した米国政府が譲歩し、ジラードを厳罰に処さない条件を付けて(当然日本国民には内緒で)、軍部の強い反発を抑えて、ジラードを日本側が起訴して、日本の法廷で裁くことが決まったのです。米国に住むジラードの両親は、この決定を不服として、米国内で裁判をに訴え、米国での裁判を主張したのですが、裁判所はこれを却下。ジラードは前橋地方裁判所で裁かれることになったのです。しかし、可笑しなことに、ジラードの起訴状は、明確な殺人罪であるべきなのに、何と障害致死罪となっており、判決も懲役3年執行猶予4年とされ、彼は一度も刑務所に収監されることもなく、執行猶予中にもかかわらず、結審した年のうちに本国に帰国してしまったのです。後になって、ジラードの刑を軽くし、傷害致死として立件することなどの密約が結ばれた結果、米側が日本での裁判を受け入れたことが明らかとなり、国民の疑念は正鵠を射ていたことが明らかとなったのです。 米軍基地と日本の主権との関係が、ここに大きく問題化したのです。当時中学生だった、我々や少し上の世代には、いまだにこの事件は、心の底に熾りとなって残っています。
2022.01.30
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クロニクル 曙横綱に昇進1993(平成5)年1月27日29年前になるのですね。この日、前年の九州場所と1月の初場所で、2場所連続優勝した大関曙が横綱に推挙されました。ここに初の外国人横綱が誕生しました。それから今日まで29年、外国人力士の中心は、ハワイ勢からモンゴル勢に代わりましたが、上位陣の多くがが外国籍の関取に占められている状況に変化はありません。最近ようやく日本人力士で、上位に進出する関取も出てくるようになりましたが、今でも主勢力はモンゴル出身者が占めていますね。
2022.01.27
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クロニクル 帝銀事件1948(昭和23)年1月26日74年前のことです。この日、銀行が既にシャッターを下ろした午後3時半頃、帝国銀行(帝銀)椎名町支店(東京都豊島区)に、東京都防疫課員を名乗る男が現れ、行員と住込み行員の家族等合わせて16人に、赤痢予防の薬だと称して毒物を飲ませて、12人を毒殺、現金16万円余と額面1万7千円の小切手を奪って逃走するという事件が起きました。世にいう帝銀事件です。犯人は毒物について、相当専門的な知識を持つと推定できましたし、犯行に使われたピペットは、旧陸軍の物であることも分かりました。そこから、犯人は満州で生物化学兵器の開発と人体実験を行っていた731部隊の関係者であろうとする見方が有力になりました。ところが、この方面の捜査には、何故かGHQの横槍が入り、捜査は難航します。8月21日、捜査当局は、画家の平沢貞通容疑者(当時53歳)を逮捕。彼の単独犯と発表しました。平沢容疑者は取調べで自供し、物的証拠はないまま、自白を唯一の根拠として起訴されます。しかし、裁判では一転して犯行を否認、自白は拷問によって強制されたと主張したのですが、認められず、そのまま死刑が確定します。当時の取り調べでは、なお多くの拷問の事実が出ているのですから、自白が唯一の証拠という場合、有罪判決には無理があったのですが、その後何度も出された再審請求は認められず、かといって再審を支持する世論の声も無視できず、死刑の執行は出来ないまま、平沢氏は刑務所に収監され続け、1987(昭和62)年5月,獄中で病死しました。戦後が30年も、40年も経ってもなお、再審への道が、まだほとんど開かれていない段階だったのですね。なお、帝銀は、この年8月、新帝銀と第一銀行に分割され、新帝銀は後に三井銀行と改名しています。第一銀行は第一勧業銀行を経て、合併でみずほ銀行へ、三井銀行は同じく三井住友銀行となっています。
2022.01.27
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クロニクル 朝日新聞創刊 1879(明治12)年1月25日今日が創刊134年の記念日になるのですね。そうなんです。朝日新聞が大阪江戸堀にて、創刊第1号を発行したのが、134年前の今日でした。ここに、大阪朝日新聞と、東京日々新聞(毎日新聞の前身)という、自由民権運動を支持する二つの新聞が肩を並べることとなりました。なお創刊当初の新聞は どの社も現在の謄写板印刷のような、B4用紙の両面印刷でした。
2022.01.25
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クロニクル ゴールドラッシュ始まる1848(弘化5)年1月24日174年前になります。この日カリフォルニア(当時はまだ州になっていません)のサクラメント渓谷で砂金が発見されたのです。川床にキラキラ光っていた金の発見は、大ニュースとして世界に発信され、我こそはとアメリカ各地から、さらには欧州その他から、30万人近い人々がカリフォルニアに集まり、カリフォルニアは2年後の1850年には州昇格の基準を満たし、アメリカ合衆国31番目の州となったのです。サクラメント渓谷に程近いサンフランシスコを例にとると、金発見の2年前1846年には、人口僅か200人に過ぎない小さな開拓村だったのですが、それが1852年には人口36,000人を擁する堂々たる新興都市に成長しています。実際にゴールドラッシュと呼ばれた現象が本格化するのは、翌849年の事で、この年カリフォルニアにやってきた新住民の多くは、鉱夫として採鉱に熱中し、フォーチィナイナーズと呼ばれました。
2022.01.24
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クロニクル 「ゴキブリホイホイ」発売1973(昭和48)年1月23日アース製薬の「ゴキブリホイホイ」、ご存知ですよね。当時好感度no1と言われた由美かおるをCMに起用し、大ヒットした商品です。今でも関連商品の売れ行きは好調で、殺虫・防中関連商品でのアース製薬のシェアは、50%近いと言われています(2020円段階でも市場でのシェアは48%を保っています)。実はこのアース製薬、ゴキブリホイホイ発売の3年前、1970年に会社更生法を申請し、一度倒産しています。この会社を買収し、再建を引き受けたのが、大塚製薬でした。こうして大塚製薬の傘下に入ったアース製薬は、ゴキブリ捕獲器の開発に社運をかけ、除虫菊の成分から、ゴキブリ誘引剤を取り出すことに成功したのです。この発見が、誘引剤で誘い込んだゴキブリを、粘着剤で動けないようにして、箱ごと捨てる「ゴキブリホイホイ」の誕生に繋がりました。「ゴキブリホイホイ」は他社製品に比べて、捕獲力が高く、しかも誘引剤であるため、殺虫成分を含まず、薬剤の使用に問題のある小児や小動物のいる家庭にも歓迎され、爆発的大ヒットになりました。勿論アース製薬の経営再建も、ここに軌道に乗りました。
2022.01.23
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クロニクル 血の日曜日1905(明治38)年1月22日117年前のことです。明治38年ですから、日露戦争の最中。戦争の相手国だったロシア帝国の当時の首都ペテルブルグで起きた惨劇のことです。当時のロシアは、ギリシア正教に近い、ロシア正教を国教としていて、西暦とは少し異なるロシア暦を採用していました。西暦の暦から13日を引くとロシア暦に、ロシア暦に13日を加えると西暦になります。レーニンを指導者とするボリシェヴィキ(後のロシア共産党)が権力を掌握したロシアの革命を十月革命と言ったり、十一月革命と言ったりするのは、前者がロシア暦を基準に叙述しているのに対し、後者は西暦を基準に叙述するからの違いで、どちらも正しいことになります。ややこしいですね。で、血の日曜日事件は、西暦でいう今日1月22日に起きましたから、ロシア暦では1月9日のことになります。20世紀初頭のロシアは、フランスからの借款を頼りに工業化を進めていましたが、日露戦争当時は不況に喘いでおり、そこに戦争の負担が重なって、貧民の暮らしはどん底状態にありました。そんな民衆たちは、この日ロシア正教会の司祭ガポーンの指導の下に、自分たちの苦しみを訴えに、ツァーリ(皇帝)の下へと請願行進を行なったのです。民衆は、ツァーリを信頼し、ツァーリに直接訴えれば何とかしてもらえると。信じていたのです。今の窮状は、悪い官僚やツァーリ側近が、嘘の報告を繰り返し、ツァーリが実情に気付かないようにしているせいだ。こう考えていたのです。そのため、ガポーンの打ち出したツァーリへの請願行進は、貧しい民衆の心を捉え、この日の行進には、近在の村々を含めて、10万人以上の民衆が参加したのです。こうして雪の冬宮前広場は、群集で埋め尽くされます。武器を持たない素手の人々の集まりでしたが、あまりの大群衆の出現に、恐怖心に襲われた守備隊は、隊長の命令と共に、無抵抗の民衆に一斉射撃を浴びせたのです。雪の冬宮前広場は、血で染まり、大勢の犠牲者を出したのです。この事件の様子は、ロシア各地は勿論、広く世界に報じられ、ロシア各地では、次第に抗議行動が広がり、ツァーリに対する民衆の盲信が崩れるきっかけとなったのです。この血の日曜日事件をきっかけとする、ロシアにおける革命情勢の進展(最終的には失敗に終りますが、第一次ロシア革命と呼ばれます)は、ロシア政府をして、日本との戦争の継続は困難との認識に導きます。その結果が、アメリカ西海岸ポーツマスでの、日露交渉の受諾に繋がりました。この血の日曜日事件がなかったとしたら、日露戦争の帰結は、また違ったものになっていたように思われます。
2022.01.22
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クロニクル ルイ16世処刑1793(寛政5)年1月21日フランス革命200年の1989年は、日本では昭和から平成に移行した年、国内的にはバブル景気に浮かれ、何人ものバブル紳士が、そうとも知らずに束の間の我が世の春を謳歌していました。そして世界では、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧革命の年として、ソ連圏とソ連の影響力とが、音を立てて崩れ落ちていった年でした。今日取り上げるのは、200年以上も昔のことになったフランス革命からです。229年前のことになります。丁度日本では、松平定信の寛政の改革に対する庶民の怨嗟の声が高まり、夏には彼が失脚する年に当たっています。そんな時でした。フランス革命が本格化してから3年半のこの日、国王ルイ16世が、革命広場(現在のコンコルド広場)のギロチン台に引かれ、処刑されたのです。
2022.01.21
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クロニクル 地下鉄丸の内線池袋~御茶ノ水間開業1954(昭和29)年1月20日68年前のこの日、東京の営団地下鉄(現東京メトロ)丸の内線で、池袋~御茶ノ水間が開業しました。東京の地下鉄としては、同じく営団地下鉄銀座線、浅草~渋谷間に続く、2番目の路線です。池袋から御茶ノ水,東京、西銀座(現在は銀座)、霞ヶ関を経て四谷で中央線に接続、新宿に至るルートをとって、さらに方南町方面と荻窪に至るのですが、先ずは池袋~御茶ノ水間が先行開業したのでした。 その後、首都圏の地下鉄は、地価の高騰と騒音問題の高まりの中で、あちこちで建設され,今ではネットで調べないと、何線がどこを通っているのか、どれが都営で、どれが旧営団の東京メトロかも分からない程になっているのですが、この当時はピカピカの1年生並みの丸の内線と、何か旧式で古めかしい 銀座線が好対照をなしていました。 私事になりますが、私がはじめて丸の内線に乗ったのは、この年5月、小学校6年生の時でした。ソロバン塾の先生の引率で、仲間5人と全珠連の3級の検定試験を受けに明治大学まで行った帰り道でした。京浜東北線の王子駅と当時は赤羽線といった現在の埼京線の板橋駅のほぼ中間点にソロバン塾があったのですが、「帰りは新しい地下鉄に乗せてやる」という先生の飴玉作戦に乗せられて、悪ガキ5人が地下鉄乗りたさで特訓に耐え、揃って見事に3級に合格したのです。 池袋までの10分少々の時間でしたが、先頭車両で暗闇の線路を見ながら、車輛のきれいさと、地下の神秘を堪能して、興奮して戻ったことをうっすらと覚えています。 今になって、このソロバン塾特訓のあり難い事は、三桁くらいまでの計算は、頭にソロバンの珠を置くことで、計算機を使うまでもなく、暗算でまずまず正確に処理できることです。あの時の地下鉄の誘惑、熱心だった先生に感謝しているこの頃です。先生も亡くなられ、丸の内線もすっかり古びて、古参地下鉄になってしまいました。
2022.01.20
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クロニクル 地下鉄丸の内線池袋~御茶ノ水間開業1954(昭和29)年1月20日68年前のこの日、東京の営団地下鉄(現東京メトロ)丸の内線で、池袋~御茶ノ水間が開業しました。東京の地下鉄としては、同じく営団地下鉄銀座線、浅草~渋谷間に続く、2番目の路線です。池袋から御茶ノ水,東京、西銀座(現在は銀座)、霞ヶ関を経て四谷で中央線に接続、新宿に至るルートをとって、さらに方南町方面と荻窪に至るのですが、先ずは池袋~御茶ノ水間が先行開業したのでした。 その後、首都圏の地下鉄は、地価の高騰と騒音問題の高まりの中で、あちこちで建設され,今ではネットで調べないと、何線がどこを通っているのか、どれが都営で、どれが旧営団の東京メトロかも分からない程になっているのですが、この当時はピカピカの1年生並みの丸の内線と、何か旧式で古めかしい 銀座線が好対照をなしていました。 私事になりますが、私がはじめて丸の内線に乗ったのは、この年5月、小学校6年生の時でした。ソロバン塾の先生の引率で、仲間5人と全珠連の3級の検定試験を受けに明治大学まで行った帰り道でした。京浜東北線の王子駅と当時は赤羽線といった現在の埼京線の板橋駅のほぼ中間点にソロバン塾があったのですが、「帰りは新しい地下鉄に乗せてやる」という先生の飴玉作戦に乗せられて、悪ガキ5人が地下鉄乗りたさで特訓に耐え、揃って見事に3級に合格したのです。 池袋までの10分少々の時間でしたが、先頭車両で暗闇の線路を見ながら、車輛のきれいさと、地下の神秘を堪能して、興奮して戻ったことをうっすらと覚えています。 今になって、このソロバン塾特訓のあり難い事は、三桁くらいまでの計算は、頭にソロバンの珠を置くことで、計算機を使うまでもなく、暗算でまずまず正確に処理できることです。あの時の地下鉄の誘惑、熱心だった先生に感謝しているこの頃です。先生も亡くなられ、丸の内線もすっかり古びて、古参地下鉄になってしまいました。
2022.01.20
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熊沢天皇後日談熊沢天皇こと熊沢寛道氏は、熊沢天皇を名乗ったことで、彼を利用しようとする一部の人たちにチヤホヤされ、屋敷もあてがわれます。気をよくした彼は、次第に天狗になり、無為徒食に明け暮れるようになります。元々は雑貨商で、戦中戦後の混乱で商売は立ち行かなくなっていたのです。勤勉な妻子は、働くことを放棄した彼を見捨て、離縁してどこかに去ってしまって以来、表面に出てこなくなりました。自称天皇は、1966年に少数の後援者に見守られて、ひっそりと亡くなリました。 このニュースは、諸外国にも配信されました。ですから、熊沢氏の子孫は、現在もどこかで生活しているだろうと推定できますが、歴史の舞台に登場されることは、もはやないでしょう。8代将軍吉宗の落とし種を名乗った天一坊事件の方が、社会的影響も、事件としてのスケールも大きかったように思えます。
2022.01.19
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クロニクル 熊沢天皇登場1946(昭和21)年1月18日焼け跡が各地に残る、敗戦後の混乱期のことです。敗戦の年が明けた1月1日には、天皇の人間宣言が、各紙の一面トップで大きく取り上げられ、天皇制の雰囲気がなお色濃い、日本国民を驚かせて間もない頃でした。76年前のこの日、名古屋で雑貨商を営む熊沢寛道さんの、「自分は南朝の子孫で、南朝こそが日本の正統の皇位継承者である」とする主張が、新聞各紙で大きく取り上げられ、また国民を驚かせました。各紙は彼を熊沢天皇として紹介したのです。彼は、前年11月にGHQに、自己の主張を記した嘆願書を出しており、それに眼をつけた米誌「ライフ」の記者が、彼にインタビューした記事が、「ライフ」に大きく取り上げられ、日本の各紙が「ライフ」に追随した結果が、この日の記事に繋がりました。子供の頃の、小中学校での歴史の授業では、彼のことが語られましたが、戦中の授業では、南北朝の騒乱は、教科書からも抹殺されていましたから、国民は隠されていた天皇家の騒乱を、ここから学んだのですね。逆賊とされてきた足利尊氏の再評価も、この後のことでした。
2022.01.18
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クロニクル ロサンゼルス大地震1994(平成6)年1月17日ロスを含むカリフォルニアは地震の多いところです。ロサンゼルス地震も大きなものが何度も起きています。それでも28年前、1994年の大地震はマグニチュード6,8で、被害規模も大きな地震でした。それは阪神・淡路大震災の丁度1年前のことでした。早朝5時台と通勤時間帯の前だったことも共通しています。その結果、被害の拡大が防げたのは、不幸中の幸いでした。ロス地震では、窓ガラスが大量に割れ、市内各地の病院で、窓側のベッドを使用していた患者の被害が最大となった点に、大きな特徴がありました。役所や警察、消防署の窓ガラスも割れており、通勤時間帯でしたら、通行人に大きな被害が出ただろうと、指摘されています。またもし日中であったら、学校という学校で、相当数の児童・生徒・学生が怪我を負っただろうとされています。耐震強度の高いガラスが、この後急速に普及するようになったのは、まさにこのロス地震の副産物でした。
2022.01.17
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クロニクル 森戸事件1920(大正9)年1月13日102年前のこの日、東京帝国大学経済学部の森戸辰男助教授が休職を命じられる事件が起きました。創立から日の浅い、経済学部の紀要『経済学研究』の創刊号に掲載された、森戸氏の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府主義(アナーキズム)の宣伝になっているというのが、その理由でした。氏の論稿は、社会政策を論ずる立場から、単にクロポトキンの無政府主義の考え方を紹介したものに過ぎなかったのですが、御用学者の上杉慎吉らが、危険思想であると騒ぎたて、政治の圧力を招いたのです。これが世に言う森戸事件で、森戸氏と編集発行人の大内兵衛助教授が朝憲紊乱、新聞紙法違反で起訴されました。その結果、森戸氏は禁固3ヶ月、罰金70円の罪に問われ、大内氏は禁固2ヶ月、罰金20円、執行猶予2年を言い渡されました。この事件は国家による学問・思想の自由の弾圧の先駆けをなすものとして知られ、以後こうした動きが強まっていきます。追記 森戸氏は戦後、請われて衆議院議員となり、片山・芦田両内閣で文部大臣を務め、3年少々で議員を辞めた後、これまた請われて広島大学の初代学長を務めました。
2022.01.13
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クロニクル 脳死は個体死と認める1988(昭和63)年1月12日34年前のことです。この日、日本医師会の生命倫理懇談会は、脳死を個体死(即ち人としての死)と認め、臓器移植を可能とする最終報告書を、日本医師会長に答申しました。私自身は、人が人である由縁は、考える力(フランクリンの「人間とは道具を作る動物である」という名言は、敷衍すれば、道具の形態や使用目的を考えているがゆえに、実際に道具を作り出す事が出来るという説明を背景に持って、説かれています。それゆえに、フランクリンの言は、デカルトの「吾思う、ゆえに吾在り」と同質の内容を別の言葉で説明したものなのです)にあると、受け止めています。それゆえ、考える力の源である脳が働くなったところで、人の人としての尊厳は失われると考えています。ですから私にとって、脳死が人の死であることは、当然過ぎるほど当然のことでした。そのため、医師会の決定は遅きに失したように思えてなりませんでした。私は変人なのでしょうかね?昨日の日記についての補足。 朝の価格が夕方には書き換えられていたのかという問題提起や、今のブラジルのインフレの方がひどいのでは?といったご意見がありました。1923年のドイツのインフレに匹敵するのは、数年前のジンバブエのインフレのみでしょう。当然、ブラジルのインフレは、ドイツのインフレのレベルに辿り着いていません。ドイツのインフレでは、10月末から、ドイツの会社は社員の要請を認めて給与を日給にしていたのですが、11月に入ると、半日給にしています。昼の価格が夕方には改訂されるので、社員は昼休みに買い物をしたのです。
2022.01.12
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クロニクル ルール占領1923(大正12)年1月11日関東大震災の年の」1月です。来年で100年ですか、99年前の出来事です。第一次世界大戦が終了し、ヴェルサイユ条約が締結されてから4年。ドイツの賠償金支払いが遅々として進まないことに立腹した、フランスがベルギーを誘って、この日ルール地方を軍事占領しました。ルール地方は石炭と鉄鉱石の産地であり、ドイツにとって大事な工業地帯でもあります。占領地の住民は、戦勝国に軍事的に対抗できないことから、非暴力のゼネストで応え、フランス・ベルギー両国(第一次大戦の戦地となり、最も大きな被害を受けたのが、ベルギーと北フランスだったのです)は、占領することで期待した利益を得ることは出来なかったのです。しかし、このゼネストでドイツ経済は完全に破綻するに至り、この年11月にピークを迎える天文学的な数字となる超巨大な悪性インフレに突入していくことになりました。日本がアジア・太平洋戦争に敗北した結果の悪性インフレもお馴染みですが、ドイツの悪性インフレは、日本のそれの比ではない、もの凄ーいものでした。
2022.01.11
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クロニクル NTK教育テレビ開局1959(昭和34)年1月10日63年前のこの日、NHK教育テレビが開局しました。学校教育用の番組製作を看板にした異色のテレビ放送局として…。この年は、テレビ局の新規開局が続き、2月1日には日本教育テレビ(現在のテレビ東京)が、3月1日にはフジテレビが開局と僅か2ヶ月の間に、3つのテレビ局が開局しました。当時はなおラジ放送も頑張っていましたので、私などはまぁ、NHK第2放送の変型版かといった印象を持ったものでした。しばらく休ませてもらいました。ボチボチ復活します。
2022.01.10
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クロニクル メートル法実施1959(昭和34)年1月1日皆さん、明けましておめでとうございます。関東はこの冬一番の寒さでしたが、良く晴れた元日になりました。どうぞ本年もよろしくお付き合いください。 63年前ですね。この年の4月10日が皇太子(現上皇)ご成婚の日。戦後14年目のことでした。この日まで、日本国内では尺貫法が使用されていました。大相撲のラジオ中継では「6尺豊かな大男」など、夏の氷売りは「1貫目でいくら」と、子ども達の悪口では「ヤーイヤーイ百貫デブ!」などと言われ、当時耳慣れた言葉でした。量り売りの商品の単位は100匁でした。1貫=3,75キログラム。1寸は3,3cmで、1尺は33センチ。今では逆になりましたが、当時は、「えぇっと、100グラムなんて書かれても、これって何匁かなと、忙しく頭をめぐらしたものでした。その結果、1貫目は3,75kgではややこしいので、これは4kgにしましょう。だから1貫目の10分の1の100匁は400gでいこうと、こういう形で生活の知恵を働かして、次第にメートル法は定着していきました。メートル法の発祥の地は、フランスです。フランスの革命政府が発議して案を練り、ナポレオン1世が実施に移したものです。このフランス発の度量衡システムが、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大に伴って全欧に広まり、やがて世界的に広まったのです。
2022.01.01
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クロニクル 新宿コマ劇場閉館平成20(2008)年12月31日もう13年になるのですね。13年前のこの日新宿コマ劇場は閉館しました。入場者減に伴う業績不振で、閉館に追い込まれたというべき閉館でした。新宿コマ劇場は、大阪の梅田コマスタジアムの姉妹劇場として、鳴り物入りで昭和25(1950)年10月28日に開場しました。当初はミュージカル公演に力を入れ、大ヒットして全国公演にまでなった、『アニーよ銃を取れ』『努力しないで出世する方法』『南太平洋』『ピーターパン』などの初演劇場として知られました。また演歌の殿堂としても知られ、北島三郎、小林幸子、氷川きよしらが毎年のように特別公演を催し、山口百恵やサザンオールスターズなども、何度も公演を開いていました。しかし、70年代から80年代初頭にかけての最盛期を過ぎると、次第に客足が落ちるようになり、1990年代に入って演歌の人気が下火になると、次第に劇場運営会社の業績が低迷するようになり、何度か経営再建策を打ち出したものの、業績回復の決定打は示せず、この間も客足は減り続けたため、遂に2008年の年末を待って閉館、老朽化した建物を解体し、隣接官と共に大規模ビルを建設することが決まったのです。こうして跡地には2015年月、高さ130メートル、地上31階地下1階、延べ床面積55,390㎡の新東宝ビルが開業しました。
2021.12.31
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クロニクル さらば「銀巴里」1990(平成2)年12月29日「銀巴里」は銀座にあったシャンソン喫茶です。戦後の焼け跡がまだあちこちに残っていた、1951(昭和26)年に産声をあげた、日本で最初のシャンソン喫茶です。石井好子、芦野宏、中原美紗緒、美輪明宏、戸川昌子、金子由香里ら、日本の代表的なシャンソン歌手が、銀巴里を拠点に活動し、多くの観客を集めていました。60年代前半の学生時代、ワンステージに飲み物がついて500円の料金は、学生には高かったのですが、家庭教師のバイト代が入ると、先ずは銀巴里に出かけていました。その「銀巴里」が31年前の今日、49年の歴史の幕を下ろしたのです。シャンソンブームが去り、来客数が激減し、支えきれなくなったのです。「銀巴里」の閉店後、「東の銀巴里、西のベル・エポック」と並称されていた、吉祥寺駅近くのシャンソン喫茶「ベル・エポック」が孤軍奮闘、営業を続けていたのですが、その「ベル・エポック」も遂に音をあげ、12年前の2009年10月31日に店を閉じました。「銀巴里」が店じまいして30年余。シャンソンに活気が戻る日が、いつか来ないかと、待ち望んでいます。
2021.12.30
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クロニクル カラーテレビの実験局開局1957(昭和32)年12月28日 64年前のこの日、NHKと日本テレビが、カラー放送の実験局を開局しました。日本でのテレビの本放送が始まって(当初は1日4時間の限定放送でした)まだ4年。家庭へのテレビの普及もまだ限られていた頃です。日本シリーズや大相撲、力道山のプロレス等の中継があると、テレビを備えた隈のお金持ちの家に、近所の子供達が(なかには大人も)上がり込んで、見せてもらっていたものでした。 そんな時代でした。映画こそ総天然色が謳われましたが、テレビのカラー化など、夢のまた夢の世界だったのです。因みに、国内のテレビ普及率が、ようやく100万台に達するのが58年5月(受信拒否の先ずない時代でしたから、NHKの受信契約数での判断です)、なおテレビよりもラジオの全盛期で、同年11月にラジオの受信契約は1,481万世帯に達していました。それでも、ようやく本格的な上潮に乗りつつあった日本経済の好調もあって、テレビの普及は60年代から急加速します。そうした中、1960年9月にはカラーテレビの本放送が始まり、各テレビ局は一部の番組をカラー放送に切替えはじめたのです。この頃には、テレビの放送時間も大幅に延び、朝6時から夜11時頃まで放送されたのですが、新聞の番組欄の冒頭にカラー放送番組には、cと記されるようになったのです。カラーテレビの普及は、東京オリンピックと重なります。確か早川電機だったでしょうか、「オリンピックをカラーで見よう」というコマーシャルを、何度も何度も流していたことが、今でもつい最近のことのように、思い出されます。当時のカラーテレビ、色はついていましたが、あまり褒められる色ではなかったですね。
2021.12.28
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クロニクル 所得倍増政策閣議決定1960(昭和35)年12月27日61年前のこの日、閣議は、11月1日に経済審議会が答申した「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」を了承して、所得倍増政策を来年度予算編成の基本とすることを決定しました。こうして、10年間で国民総生産を倍増させるという、明るい未来を掲げた経済計画がスタートしました。国民総生産が2倍になるだけでは、その間に人口が増加することが見込めますから、これでは1人当たりの国民所得は2倍になりません。そこで政府は10年間の年平均経済成長率を7,2%とし、10年間で国民総生産を2,7倍、人口増を見込んだ国民所得を2,4倍にすることを目標としたのです。+こうした市場の拡大は好循環を生み、所得倍増政策は10年もかからずに、その達成を見たのでした。池田首相の、「経済の事は、この池田にお任せください」は、当時の流行語になりました。
2021.12.27
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クロニクル ソ連邦消滅1991(平成3)年12月26日もう30年になったのですね。30年前のこの日、ソ連最高会議はソヴィエト連邦の消滅を宣言、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、地上からその姿を消しました。この年8月19日、ソ連共産党保守派がクーデタを起こし、ゴルバチョフ書記長兼大統領を軟禁しましたが、ロシア共和国大統領のエリツィンらが反対、クーデタは僅か4日で失敗に終りました。この事件によって、共産党の権威は完全に失墜、エリツィンはロシア共和国内における共産党の活動を全面的に禁止し、ゴルバチョフも8月24日にソ連共産党中央委員会に自主解散を要求、党資産の全面接収に踏みきりました。こうして共産党は事実上消滅するにいたりました。その後、既に独立を宣言していたバルト3国に続いて、ウクライナやベラルーシなどが、続々とソ連邦からの独立を宣言、12月21日には、バルト3国とグルジア(現ジョージア)を除く11共和国の首脳がCIS(独立国家共同体)の結成を宣言、ソ連邦存続の道が絶たれたのでした。ここにいたって、ゴルバチョフソ連邦大統領は辞任を決断(25日)、この日のソ連邦消滅宣言に到りました。社会主義が一世を風靡した1つの時代が、ここに終了をみたのでした。ソ連邦の解体後、NATOが東方に拡大、プーチンの世となったロシアはその点を憂慮し、現在はともかくウクライナのNATO加盟を阻止することに全力を挙げ、原油と天然ガスを武器に、欧州諸国に揺さぶりをかけています。
2021.12.26
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クロニクル エジプトとイスラエルの和解への1歩1977(昭和52)年12月25日44年前の今日、エジプトのサダト大統領は、イスラエルのぺギン首相の招きに応じてエルサレムを訪問、ぺギン首相との会談によって、両国は和平への道を歩み始めました。サダト大統領は、1970年のナセル大統領の急死を受けて、エジプトで2代目の大統領に就任。1973年の第4次中東戦争で、イスラエル軍に大打撃を与え、イスラエルの不敗神話を撃ち破って、国民の支持を固めると、その後は一転して、イスラエルとの関係改善に勤めました。その結果が、この日のイスラエル訪問となったのです。この訪問がきっかけとなって、翌年のキャンプ・デービット会談での、両国の歴史的和解を実現して、第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の無償返還に成功しました。イスラエルは、エジプトにシナイ半島を返還しましたが、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原は返還せず、パレスティナ人やヨルダン、シリアと抗争を続けており、現在でも中東全面和平への道筋は、まったく見通せない状態が続いています。
2021.12.25
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クロニクル 新宿クリスマスツリー爆弾事件1971(昭和46)年12月24日50年前の事件です。この日、新宿三丁目の警視庁四谷署追分交番近くで、買い物袋に入った高さ50cmほどのクリスマスツリーが爆発し、警察官2人と通行人7人が重軽傷を負う事件がおきました。クリスマス・ツリーに偽装して、時限爆弾が仕掛けられていたのです。この事件の6日前には、土田警視総監邸でピース缶爆弾が爆発する事件があったばかりでしたから、いよいよ新左翼の爆弾テロが、市井の人々を巻き込んだ無差別テロにまで広がり始めたのかと、世間の注目を集めた事件でした。
2021.12.24
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クロニクル ドストエフスキーに特赦1849(嘉永2)年12月22日空想的社会主義者のサークルに所属していたとして、172年前のこの日に結審した裁判で、ドストエフスキーは死刑判決を受けました。ところが判決が出ると同時に、直ちに皇帝ニコライ1世が介入して、彼に罪を減じる特赦が与えられました。ただし、それは無罪放免ととするのではなく、シベリアはオムスクにある施設へ護送する流刑への減刑だったのです。こうしてドヅトエフスキーは1854年まで、4年半以上をシベリアに暮らし、54年の解放後もシベリアで軍務に就き、ようやく58年になってペテルブルグに戻りました。シベリアでの流刑体験から、『死の家の記録」が生まれ、また死刑を宣告された際の恐怖の感情は、『白痴』に表現されています。タイミングが合いすぎていますから、彼への死刑判決と特赦は、皇帝の人気を高めるための意図的な作為で、本気で彼を死刑に処すつもりは、最初からなかったと考えられています。
2021.12.22
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クロニクル 国債依存度30%以内を放棄1977(昭和52)年12月21日不況は財政規律を骨抜きにします。そしてその都度国家財政の赤字を大幅に増やし、破滅の淵へと近づきます。長かった安倍政権も、そして現在の岸田政権も、財政規律を無視した大盤振る舞いの予算原案を発表し続けています。個人と違うので、国家は無くなることはないので、獅子さえ原会い続けることが出来らば問題ないの一点張りで…ここに記したのは、44年前の福田赳夫内閣による、1978年度予算編成方針の決定を指します。この日、閣議は、予算編成における国債依存度を予算全体の30%以内とすることを定めた、佐藤内閣以来の財政規律、国債への過度の依存を戒めるための、内閣の掟を踏みにじりました。国債依存への歯止めをぶち破って、財政状況の悪化を省みずに、第1次石油ショック後の不況対策として、いわゆるバラ撒きを実施しました。しかし、経済規模の拡大した日本経済に刺激を与えるには、予算のバラ撒き程度では、そう大きな効果は期待できません。結局財政赤字を膨らませるだけに終わり、次の大平内閣は、財政再建を公約にせざるを得なかったのです。次に財政規律を無視した大盤振る舞いを実行したのは、日本型金融危機の最中にあった99年度及び2000年度の予算編成に当たった小渕内閣でした。そして、今回が3度目が麻生内閣。続いて2012年末の安倍内閣の誕生からは、底なし沼にどっぷりつかったような大盤振る舞いを続けて今日に至ります。それでも十分な敬愛刺激効果は、見られずにいます。アメリカを遥かに超える財政赤字は、表面の国及び地方自治体の公的債務だけで、GNPの2.3倍を大きく超え、経済先進国では最悪の水準を独走しています。国債の発行残も1千兆円を超えてきています。子孫にツケを残す、最悪の道を走り続けていることに、注意が必要なように思われます。
2021.12.21
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クロニクル ドゴール氏フランス大統領に当選1958(昭和33)年12月21日63年前のこの日行なわれたフランスの大統領選で、対独レジスタンス運動の英雄ドゴール元将軍が当選、大統領として、公約に掲げた泥沼のアルジェリア独立戦争の解決に向けて、全力投球を行う事になりました。ドゴール大統領は、1962年にはアルジェリアの独立を認めて、フランス軍の名誉ある撤退を実現して支持を広げました。1968年に学生主力のパリ5月革命によって、退陣を余儀なくされるまで、10年間にわたって、フランス政界の再編に全力を尽しました。
2021.12.21
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クロニクル 小学校6年制へ1906(明治39)年12月19日1873(明治6)年に学制が発布された時、義務教育とされたのは、4年制の小学校でした。その当時5年制だった中学校や女学校に進学するためには、義務教育を終えた後に、さらに2年間高等科や4年制の高等小学校で2年間学ぶ必要があったのです。しかし明治30年代に入ると、高等小学校に進む児童が増えてきたこともあり、また日露戦争の勝利による教育熱の高まりを受ける形で、115年前の今日、政府は小学校を4年制から6年制に改め、義務教育年限を6年間に延長することを決定、翌1907(明治40)年から、ただちに実施する旨を布告したのです。現在に連なる6年制の小学校は、こうして誕生しました。西郷の話ですが、彼の顔写真、ちゃんと写っている写真は、1枚も残っていないのです。そのため彼の銅像の顔が似ているのか否かは、分からないのです。彼を知る人が語った話というのが、いくつか伝わっていますが、それも食い違いが多々あります。あちこちに乗る西郷の図は、かなりの修正が施されていますから、信用性は低いとお考え下さい。
2021.12.19
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クロニクル 上野の山に西郷どん1898(明治31)年12月18日18日の早い段階でしょうか、気付かないうちに、皆様にご訪問いただいた回数が400万回を超えておりました。ありがとうございました。ブログを開設し、最初の1歩を踏み出しましたのが2006年の10月2日でしたから、15年と2か月半でした。来年には傘寿を迎える身、何時まで続けられるか分かりませんが、今しばらくは続けられそうです。どうぞ今後ともお付き合いください。さて本日は西郷どんです。123年前のこの日は、有名な上野の山(正しくは上野公園)の西郷どんの銅像の除幕式が行われた日なのです。つまり上野の西郷どんがデビューした日なのです。西郷隆盛は、言わずと知れた明治維新の功労者ですが、薩摩の不満分子の先頭に立って、天皇の政府に弓を引いたため、逆賊とされましたが、明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布に伴う大赦によって、逆賊の汚名が解けたことから、銅像建立の議が持ち上がり、西郷を父のように慕った明治天皇の強い意向もあって、宮内省が建立費の一部として500円を補助したことも効果的に働き、全国25,000人の西郷ファンからの寄付も集まり、高村光雲氏に政策を依頼、西郷の従兄弟にあたる大山巌元帥の助言で、最も西郷らしいのは普段着姿で愛犬の薩摩イヌを連れて、大好きなウサギ狩りに出かける姿だとするアドヴァイスに従い製作されました。現在でも人気の西郷どん、渋谷のハチ公像と並んで、待ち合わせの名所になっていますね。
2021.12.18
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クロニクル 介護保険法公布1997(平成9)年12月17日24年前のこの日、介護保険法が公布されました。ただし、実際に施行されるのは、2年3ヶ月後となる2000(平成12)年4月1日とされました。介護保険料の徴収と介護サービスの実施が、この法の柱ですが、実施から21年半経過した今日まで、行政の側は、保険サービスの内容を、何とか赤字にならない範囲に収めようと考えているのではないかと、勘ぐりたくなるくらい、頻繁に要介護者が受けられるサービスの内容を変え、請求書類を変えと、要介護者泣かせの朝令暮改を繰り返しています。この点を改め、使い勝手を良くすることが、すぐにでも解決すべき課題なのですが。政府と担当官庁の動きは鈍いままです。
2021.12.17
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クロニクル 東京・横浜間の電話開通明治23(1890)年12月16日131年も前の事です。この日、東京市内と横浜市内との間で、日本初の電話事業がスタートしました。当時の電話は全て電話交換局を通して相手方に繋いでもらう方式でしたから、この日は、東京市千代田区に設けられた電話交換局が営業を開始した日だったのです。当日の通話回数は分かりませんが、開通に備えて設置された加入電話の台数は、東京が155台、横浜が44台だったことは分かっています。交換局に勤務する電話交換手は女性が7人、夜間通話専門の男性が2人の9人体制でした。当時の電話料金は、定額料金で東京が40円で横浜が35円でした。この時期1円で米が約15kg買えたことが分かっていますので、現在の米価で換算すると、16万円~24万円に相当することになります。当時の電話は、まさに大変高価なサービスだったことが分かります。皆様ご存知のグラハム・ベルが電話機を発明したのが明治9(1876)年でした。日本の工部省は、この情報を得ると、直ちに電話機を購入して実験に移り、電話機の国産化に動いたのです。1890年の電話局の営業開始は、その成果でした。かくして今日12月16日は「電話創業の日」なのです。なお電話の登場以前は、電信での伝達が行われていましたが、電信の営業は早くも明治2(1869)年に開始されています。
2021.12.16
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クロニクル 映画『風と共に去りぬ』公開1939(昭和14)年12月15日今から82年前の1939年は、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻を契機に、第二次世界大戦が勃発した年でした。米国はまだ戦争に加わってはいなかったのですが、ポーランド侵攻後のドイツは、デンマークから北欧の攻略に向かい、フランスの北部国境地帯に築いたマジノ線沿いに展開して、ドイツ軍を迎え撃つ姿勢を築いた仏英連合軍と、ドイツ軍との戦闘は、まだ始まっていない、奇妙な小康状態が続いていた時期でした。こうした異様な雰囲気が漂う中で、この日、マーガレット・ミッチェルの世界的ベストセラーを原作とした、映画『風と共に去りぬ』が、アトランタで初公開されました。主演がヴィヴィアン・リーにクラーク・ゲーブル、黒人のメイド(女中頭)マミーには、ハティ・マクダニエル、監督はヴィクター・フレミングという顔ぶれでした。映画は3時間42分という大長編でしたが、空前の大ヒットを記録しました。戦争中ということから、日本での公開は遅れ、戦後7年経った1952年9月10日に初公開され、その後、何度も上映されています。因みに私は、中学3年だった1957年に原作を読み、映画を見たのは、1960年代に入ってすぐの頃でした。戦前に全編きれいなオールカラーで3時間の映画を撮っていたなんて、アメリカという国は凄い国だ、こんな国に戦争を仕掛けるなんて、何と無謀なことをしたんだろうと思ったことを覚えています。
2021.12.15
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クロニクル 石橋湛山総裁誕生1956(昭和31)年12月14日 60年前のことです。この日行われた自由民主党総裁公選において、石橋湛山氏が第2代総裁に選ばれました。 前年11月15日に、自由党と民主党が保守合同を成し遂げ、鳩山一郎民主党総裁が初代総裁に就任しました。鳩山総裁は日ソ国交回復を花道に辞任することが確実視され、後任には旧自由党総裁にして、当時自民党副総裁の緒方竹虎氏の就任が確実視されていました。ところが緒方氏は、この年1月28日に急性心不全で急死されたのです。そのため総裁選びは混沌とした情勢になりました。ここに総裁選はは、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(シャンソン歌手の石井好子さんは、ご令嬢です)の3氏の争いとなりました。総裁レースは、札束乱れ飛ぶ猛烈な票の奪い合いの中、週刊誌の命名したニッカ(2つの陣営から金をもらう議員)、サントリー(3陣営全てから金を受け取る)の語が流行する中、この日早暁、石橋、石井両派の会合で2,3位連合の密約が結ばれたのです。資金力に勝る岸氏優位の情報の中、両派は激しい2位争いを演じて票を伸ばし、第1回投票で1位となった岸氏の票は、過半数を割り込みました。ここに2位となったた石橋氏との決戦投票が行われ、石橋氏が岸氏に逆転勝利して、第2代自民党総裁に就任したのです。石橋氏は首班指名を受け、内閣をスタートさせましたが、病に倒れて国会での所信表明演説に立つことが出来ず、就任2ヶ月で辞意を表明、札束飛び交う総裁選への世論の批判も強かった事から、岸氏への禅譲を発表したのです。こうして57年2月に岸内閣が誕生する運びとなったのです。
2021.12.14
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クロニクル 婦人参政権獲得期成同盟会の結成1924(大正14)年12月13日97年前のこの日、東京婦人会を中心に、婦人参政権獲得期成同盟会結成されました。理事には久布白落実(くぶしろおちみ)氏や市川房江氏らが名を連ねました。25才以上の男性全てに選挙権を付与する男性普通選挙法の実現は、翌年3月29日のことなのですが、大正デモクラシー運動の大目標であり、全国民的な悲願でもあった普選の実現が近づくに連れ、もう一方の性である女性の選挙権が無視されるのはおかしい、1部先進国は女性の選挙権を認めているではないかと、女性の手による、女性の参政権獲得運動が日本でも始まったのでした。現実に女性が参政権を手にするのは、これから21年後の1945年12月のことです。この時、女性は選挙権と共に被選挙権も獲得しています。そして実際に女性が選挙権を行使して、1票を投じたのは、翌1946年4月10日の事でした。
2021.12.14
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