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クロニクル 米兵至近距離で農婦を射殺 1957(昭和32)年1月30日 この日は、第1次南極観測隊が、南極大陸に上陸した 翌日です。事件は群馬県相馬ケ原の米軍射撃場内で 起きました。日本がまだまだ貧しい時代でした。 貧しさ故に、基地周辺に済む貧農たちは、立ち入りを 許された基地内に立ち入り、空薬莢(からやっきょう)や 砲弾の破片を拾い集め、生活の足しにしていたのです。 射殺された坂井なかさんも、そうした一人でした。 坂井さんが射殺される瞬間を目撃した農婦達の証言に よって、射殺犯W・ジラード三等技術兵は「ママさん、 大丈夫ヨ」と、わざと坂井さんを近くに呼び寄せたうえで、 至近距離から射殺したことが明らかにされました。 当然国内世論は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。 米兵に巣食う、日本人に対する極端な優越意識(この意識は 今日でも、在沖縄米軍などに色濃く残り、それが婦女暴行 事件や、車輛による人身事故などとなって現出するようです) の存在を、これみよがちに見せつけられたのですから……。 世論の怒りに、米国に弱い日本政府も、ここは強気のポーズで 米軍に当たらざるをえません。 しかし、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障 条約によって、日本は米軍の日本駐留を認め、その駐留米軍には、 日米行政協定(当時、現日米地位協定)によって、治外法権が 認められていたのです。即ち米兵は、勤務中か否かに関わらず、 その行動によって生じた係争は、米国の法規で米国の司法でのみ 裁かれることになっていたのです。 ここに、いかに日本側が「ジラード陸士は故意の殺人犯なので、 裁判権を日本側に委ねよ」と主張しても、駐留米軍はガンとして 聞き入れず、ジラードは米軍機で密かに帰国、日本側はウヤムヤの 内に押しきられてしまったのでした。 米軍基地と日本の主権との関係が、ここに大きく問題化したのでした。 当時中学生だった、我々や少し上の世代には、いまだにこの事件は、 心の底に熾りとなって残っており、いわば草の根の反米感情を 消し去ることが出来ないでいるのです。
2007.01.30
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クロニクル こどもの国開園1965(昭和40)年5月5日49年前の今日、横浜市青葉区の小田急線鶴川駅の近くに、国営の「こどもの国」が開園しました。近くにはTBSの緑山スタジオがあります。我が家から歩いて行くと、1時間半はかかりません。こどものための施設なので、あえてこどもの日を開園日に選んだのでしょうね。敷地は、旧日本陸軍最大の弾薬製造貯蔵施設だったところで、戦後米軍が接収し、田奈弾薬庫として使っていたのですが、1958年に返還されました。翌59年の皇太子ご成婚を記念して、国立のこどものための施設を建設する計画が持ち上がり、米軍から返還された田奈弾薬庫の跡地が候補とされ、6年後の1965年に開園となりました。施設は、特殊法人「こどもの国」協会が運営と維持・管理に当たっていましたが。81(昭和56)年に民営化され、それ以後は、社会福祉法人に衣替えした「こどもの国」教会が、運営・維持・管理に当たっています。
2014.05.05
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…7こうしてバースでは、ナッシュの定めた11ヶ条の『全員の合意で決定された規則』に皆が素直に従っていたのです。このためいつの頃からか、ナッシュは「バースの王」と呼ばれるようになったのです。バースは「バースの王」が差配し、「バースの法」が支配する特別の空間でした。ここでは来客は身分の区別なく、上は高貴な身分の人たちから、小金持ちの商人や株屋までもが、互いに交じり合って挨拶を交わすのです。ここには仮面を被らない仮面舞踏会のような世界があったのです。こんなことがありました。ジョージ2世(在位1727~60)のちょっと変わり者だったアメリア王女が、午後11時を過ぎても「もう一踊りを」とせがんだ時、ナッシュは規則を楯にこれを断ったのです。王女は「私は王女よ」と強気に出たのですが、ナッシュは「仰せの通りでございますが、ここは私が統治しております」。バースの法はリクルゴスの法(リクルゴスは古代スパルタの伝説上の王です)のように堅固なのです」と、一歩も引かなかったのです。引き下がったのは、王女の方でした。以来、ナッシュの人気は不動のものとなったと言われます。こうした「バースの行動と服装の画一性は、貴族社会に接する異分子に、一時的に擬制的な資格を付与することを許します。このことによって、外国貿易や海外植民地への赴任で蓄財に成功した資産家達が、地主社会に接近したり貴顕たちと交際することを可能にしたのです。上の絵は、バースの賭博場での一齣です。 続く
2009.04.25
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クロニクル 三菱重工ビル爆破事件1974(昭和49)年8月30日この日、午後0時50分頃、東京丸の内の三菱重工ビル正面玄関前で、時限装置付きの爆弾が爆発、死者8名、重軽傷者380名という大惨事が起きました。昼休みの終りに近く、そろそろ勤務先に戻ろうかという男女でにぎわうオフィス街に、突然大音響が轟き、爆風がビルの谷間を吹きぬけました。10階建ての三菱重工ビルをはじめ、付近のビルの窓ガラスおよそ2500枚が、こなごなになって飛び散り、ガラスの破片で多くの通行人が巻き添えとなって負傷しました。三菱重工には、爆発の約10分前、0時40分頃に爆破予告電話があり、同社が防衛庁納入実績でNO,1の防衛産業であることが、爆破の狙いであることが伝えられていました。しかし、僅か10分では対応のしようのないことも、また事実でした。1ヶ月後、「東アジア反日武装戦線 狼」と名乗るグループから犯行声明が出され、その後も同じグループに属する「さそり」…といったグループによって、三井物産ビル、大成建設ビルなどで爆破事件が相次ぎ、都心部の会社員達は、しばらくの間、命がけの心境での通勤を強いられたのでした。
2007.08.30
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クロニクル レーガン・ゴルバチョフ会談始まる1988(昭和63)年5月29日24年前のこの日、モスクワにおいてレーガンとゴルバチョフによる、米ソ首脳会談が幕を開けました。この会談は、前年12月のワシントンでの会談を受けたもので、ゴルバチョフの新思考外交の展開を受け、米ソの全般的な軍縮を進めるための会談でした。会談では、中距離核戦力(略称INF)の全廃条約がまとまり、6月1日の批准書の交換に漕ぎつけました。またこれを機に,両国のミサイルの廃棄も始まり、米ソの雪解けは一挙に前進を見ました。こうした相互の信頼関係の増進が、翌89年12月のマルタ会談(ゴルバチョフ・ブッシュ)による、冷戦の終結宣言に繋がって行きます。
2012.05.29
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クロニクル イタリアで前首相誘拐事件発生1978(昭和53)年3月16日34年前のことです。この日、イタリアの左翼過激派「赤い旅団」は、首相在任時に仲間を逮捕・投獄したモロ前首相を誘拐し、仲間の釈放を求めました。しかし交渉は決裂し、モロ前首相は、5月9日に射殺死体となって発見されました。今でもマフィアの跋扈する国だけに、やることも派手ですね。はたして、こういう国で長期に渡る緊縮財政政策を、とり続けることは可能なのでしょうかネェ。モンティ首相、頑張っているようですが、なにしろ物騒な国だけに、人事ながら心配になるこの頃です。
2012.03.16
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ルイ14世の宮廷生活 (53) ルイ14世の宮廷、国王の統治に戻ります。フランスの宮廷、特にブルボン朝の宮廷では、広く国民の前に国王自らが姿を晒し、親愛感を持たせることで、王の統治に対する求心力を高めるのが常でした。そうはいっても、フランス国内を隅々まで巡幸することは不可能です。そこで廻りきれない主な都市や、新に征服などによって国土に組み入れた所領などについては、ルイ14世の銅像を建てるのが常でした。また16世紀後半から急速に発達した印刷術を利用して、ルイ14世の肖像画を印刷し、王の様々な絵姿を各地で配布したのです。国王の肖像まで、統治に利用されたのです。コルベール以外にも、ルイ14世には、知恵者の腹心が揃っていたのですね。ではこの時代、前代に誕生し次第に隆盛に向かっていたサロンは、どうなったのでしょうか。文化の問題を含めて、記して行く事にしましょう。 続く
2012.03.28
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クロニクル 金大中韓国大統領、北朝鮮を訪問2000(平成12)年6月13日8年前のこの日、金大中韓国(大韓民国)大統領が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問、金正日総書記と会談しました。同じ朝鮮族の兄弟国家でありながら、1950~53年の朝鮮戦争以来、首脳同士の相互訪問は絶えてなかっただけに、両国関係の改善に向けての一歩でした。南北ヴェトナム、東西ドイツと冷戦の申し子だった分断国家が、次々と統一国家建設を進めているだけに、最後の分断国家である南北朝鮮の統一が待たれるところです。とりわけ、この国の分断は、日本の降伏の遅れによって、齎されたものであるだけに(45年8月8日のソ連参戦以前に、ポツダム宣言を受諾していれば、日本の植民地朝鮮が分断されることはありえませんでした。)、何とか早く南北統一を実現して、日本の植民地支配以前の状態に戻ってくれると良いのですが…。 そして、そのことが拉致問題の全面的解決の早道だろうと、私は考えています。 ザビ
2008.06.13
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クロニクル 壱千円紙幣発行1945(昭和20)年8月17日敗戦の翌々日のことですから、65年前のことです。インフレの進行が確実視されたため、戦時中から準備されていた1千円札が、この日発行されました。肖像は、日本武尊命でした。新円切り替えに伴い翌1946年3月に失効しました。その後の1千円紙幣は1950年に発行された聖徳太子像のものです。1963年伊藤博文の1千円札が3番目、84年発行の夏目漱石の1千円札が4番目、そして現在は2004年発行の野口英世の肖像が、使われています。
2010.08.17
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クロニクル 日本登山隊マナスル山頂に立つ1956(昭和31)年5月9日この日、日本山岳会のマナスル登山隊(槇有恒隊長)が、3度目の挑戦で、世界7位の高峰であるヒマラヤのマナスル(8156メートル)の登頂に成功しました。過去2回はいずれも天候に恵まれず断念していました。日本の登山隊が、世界の8000メートル級の高峰の登頂に成功したのは、これが始めてでした。当時の通信事情では、このビッグニュースも、その日の内に日本に届けられることは無理でしたから、当時中学生だった私が、このニュースを最初に知ったのは、翌朝のラジオでした。学校でも専ら、このニュースで持ち切りだったことを、懐かしく思い出します。
2008.05.09
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クロニクル 石橋内閣総辞職 1957(昭和32)年2月23日 この日、前年12月23日に成立した石橋 内閣が総辞職しました。石橋湛山首相が 皇居での認証式を済ませて、間もなく 病に倒れ、国会で新首相の所信表明演説も 出来ず、首相の長期不在では予算審議も ままならないため、この日辞職を表明するに 至ったのです。 歴代首相の中で在任日数が最も短いのは 宇野宗佑首相ですから、石橋首相は第二位 なのですが、国会答弁や演説が1度もないと いう珍しい記録を持つのは、この石橋首相 だけなのです。ご本人の無念はいかばかり だったのでしょうか。 この石橋氏を尊敬し、石橋氏の薫陶を受けたのが、 ロッキード事件時の首相,三木武夫氏です。
2007.02.23
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ハイチに贈る(91)2000年11月、米国でブッシュジュニアとゴアとが歴史的な大接戦を繰り広げ、フォロリダの開票を巡って、選挙結果がなかなか確定しなかったまさに同じ時期、同年11月に行われたハイチの大統領選で、アリスティドは91,8%もの得票を得て当選しました。しかし彼は解放の神学を奉じる改革者です。米国はハイチの改革の進展、第2のキューバ化を極端に恐れました。米ソ冷戦の時代は終っているのですから、小さな島国の、しかもその3分の1でしかないハイチの改革に、米国が干渉する必要などまるでなかったというのに。今と違い、なお米国の息のかかっていたOAS(米州機構)は、ハイチ選管による投票結果の発表後に、「選挙は票を数える方法論に問題があり、不公平であった」との報告書を発表しました。他方で、国際的な私設のボランティア組織「独立監視団」は、「戦況はスムーズに行なわれ、目だった不正はなかった」と、OASとは全く異なる見解を発表しました。選挙で勝てないと見た反アリスティド派が、選挙ボイコット戦術を取ったことは事実です。しかし、OASの選挙監視団の行動と報告書は、どう贔屓目に見ても、いただけるものではありません。「票を数える方法」という開票方法を問題にするなら、開票の過程で問題を指摘し、是正することが出来たはずです。それもしないで、開票終了と結果の発表があり、全てが済んでからの報告書の中で、「選挙が不適正であった」と発表したことは、この間に何らかの圧力を受けたからだと考える方が自然です。アリスティド派は、「OASの報告書は、大統領の政策に敵意を持つ勢力、特に米国によって企図されたものである」と、強い調子で非難しました。しかし、アメリカとフランスの意を汲んだ欧米諸国の多くは、OAS報告書を唯一の拠り所にして、「ハイチの選挙にはあからさまな不正があった」と、ハイチ政府を非難したのです。この非難を受けて、当時のクリントン政府は、「アリスティド政権は不正によって誕生した政府であり、援助資金が不正に浪費される可能性が高い」と難癖をつけました。そして、EUを巻き込んで、米州開発銀行によるハイチへの5億ドルの貸与契約を実行しないように、働きかけたのです。2001年に大統領に就任した2代目ブッシュは、この働きかけを実行し、米国の拒否権を行使する形で、正式に5億ドルの貸与(これは贈与でなく、あくまでも利子つきに貸付なのです)契約を、反故にしたのです。地上の最貧国の一つハイチが、融資などの様々な援助なしにやっていけないことは、誰が見ても明らかなのです。それなのに、自分達の気に入らない政府だからと支援を断ち、内部崩壊を起させるというのは、欧米諸国が中南米やアフリカなどの旧植民地を、経済的に支配するための常套手段が、21世紀の今日でもなお行なわれていることを、白日の下に晒しました。2001年以後のハイチは、アメリカの思惑通り混乱を極めました。 続く
2010.04.21
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クロニクル サダトエジプト大統領暗殺1981(昭和56)年10月6日31年前になります。この日、エジプトのアンワル・エル・サダト大統領が暗殺されました。サダト大統領は、ナセル大統領の死後、その地位を継ぎ、1973年の第四次中東戦争を指導して、イスラエル不敗神話を砕いた後、一転イスラエルとの和平路線に転じて、イスラエルを承認。それと引き換えにシナイ半島の返還に成功しましたが、シリアなどからは、裏切り者とののしられ、国内の強硬派も、同大統領への不満を並べておりました。そうした中での暗殺劇であり、彼の和平構想の展開は、ここからというときだっただけに、大変惜しまれる死でした。
2012.10.06
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学級の誕生 (36) 前回記したように、モニトリアム・システムの欠点は次第に目に付くようになったのですが、ランカスターらの非宗教教育派の「内外学校協会」派と、ベルらの国教会派の「国民協会」派の学校は、互いに競いながら、イギリス全国に初等教育を普及させる上で、大きな役割を果たしておりました。イギリスで、1851年に実施された全国国勢調査によれば、この年の「国民協会」派の学校数は、国教会の強力な支持と資金支援によって、全国で3,448校に達していました。一方、「内外学校協会」派の非宗教系学校も、449校に達していたのです。この間、初等教育の普及を受けて、義務教育化の議論も出てきたのですが、その実現にとってネックとなったのが、宗教教育をめぐる問題でした。共にモラトニアム・システムを採用する、二つの民間団体の相違点は、宗教教育をめぐる態度にあったからです。二つの民間団体の間には、宗教教育をめぐる抗争が常に存在していたのです。そのため、国家が義務教育を実施する場合、宗教教育をどのように位置づけるのか、どちらの団体の方針に沿っていくのか、議員の間でも結論が出せなかったのです。その結果、「民間のボランタリーな選択に任せておこう」と、先送りの態度を続けることに落ち着き、国家による教育制度運営の試みは、幾度となく挫折を繰り返していたのです。しかし、宗教教育の問題を除外してみると、民営の場合も国営の場合も、いずれも全国展開している組織による教育サービスの提供という点で、全く差はないことが理解できると思います。対立する二つの団体は、共に本部で開発した「読み書き」と「計算」のクラス分けに従い、本部で開発した単位時間ごとの教え方のマニュアルの通りに、教師(マスター)の指示の下に、モニターが一斉に教えるというシステムをとっているのです。いうならば、二つの団体が全国展開していることを、共通の基盤としながら、民営か国営化という議論が、展開されていたのです。こうした点で、ボランティア団体による教育と、国家の介入によって始められる教育が、全く異質なものになることは、ありえないことでした。例えば日本などで、国家による義務教育制度として具体化することになる、生徒の組織化の技術、教育内容の策定、全体機構の運営などは、すでに二つの民間団体が備えているのですから。イギリス政府は、こうした二つの団体の技術をたくみに利用することによって、最終的に義務教育制度を発足させたのです。この限り、二つの団体の教育と、国家の介入とは、互いに対立するものではありませんでした。それは、少ない費用で大きな成果を生もうという、経営の合理化の精神を共有する、同一の基盤に乗っていたのです。 続く
2008.08.19
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バブルを考える(43) 拓銀倒産の余波拓銀の倒産は,北海道経済を揺さぶりました。旭川に近い、上川管内の美深町に本社を置き、「テンモク」さんの名で町民に愛されていた、道内屈指の木材業、天塩川木材工業は、メーンバンクだった拓銀の支えを失い、連鎖倒産に追いこまれました。拓銀倒産から僅か11日後の、28日のことでした。旭川地裁に自己破産を申請し、自らケジメをつけたのでした。木材業は、安価な輸入木材に押され、どこも青息吐息で営業を続けていただけに、頼りのメーンバンクが倒れたとなると、後が続かなかったのです。同社に続いて、98年3月までの4ヶ月間に、道内で25もの木材業者が立て続けに倒産しました。同年12月24日には、函館の漁業資材製造の名門、函館製網船具が函館地裁に自己破産を申請、その日のうちに破産宣告を受けました。年の瀬の破産、突然の解雇は、従業員にとって何よりも辛いものです。こんな時期に資金繰りに追い込まれての倒産は、経営者の無能と、企業家としての社会的責任の欠如を明白に物語っていました。「年末の資金繰りがつかない」として、1ヶ月も早く身をたたんだ天塩川木材工業との、経営判断の差は歴然としていました。芦別市のスーパーかくはた(角幡商店)も、拓銀の破綻で経営環境は一機に厳しくなりました。98年8月末の決済資金が用意できない可能性が出てきたのです。同社は道内最大手のスーパー・ラルズへの身売りを決意します。「雇用契約の継続を希望する従業員は、全員引きうける。ただし、かくはたの債務は引き継がない」というのが条件でした。拓銀破産は、北海道経済に縮小均衡の茨の道しか残さなかったのです。経営陣が保身のために、経営不振企業の延命に手を貸し、その挙句に破産した拓銀は、北海道経済に大きな爪あとを残したのでした。企業のとりわけ、大手銀行の社会的責任とは何かを、考えさせられる出来事でした。経営者に人をえない企業は、従業員にとっても、周辺社会にとっても、迷惑この上ない存在になるのですね。企業は誰のものかを考える際、その社会の公器としての側面を見落とすわけには、いきませんね。
2007.11.11
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19世紀のアメリカ(77) 第3章 南北戦争と再建…3北西部から分離した中西部の住民達には、オレゴンへの移住熱が高かったことは、第2章に記しました。そうした中西部から太平洋への道、それも可能な限り速い道をどのように開拓するか。それが北西部並びに中西部出身の上院議員にとっては、大きな課題でした。イリノイ州選出の上院議員ダグラスは、そこにカリフォルニアと中西部を鉄道で結ぶ、大陸横断鉄道の建設構想をぶつけたのです。西へ』西への拡大要求は、何も南部だけの要求ではなかったのです。1853年ダクラスは、ネブラスカに準州を組織する法案を議会に提出しました。ネブラスカは北緯36度30分の北にありますから、1820年のミズーリ協定の線に即して、当然そこには奴隷州は建設できません。それ故に、自由州の優越を嫌う南部出身の議員たちは、ネブラスカの近い将来における州昇格に道を開く、準州組織法案を潰そうと図ります。一方、可能な限り早く大陸横断鉄道の建設を具体化したいダグラスのグループは、ネブラスカの準州昇格を急ぎました。南部の議員たちはここにつけ込み、ニューメキシコとユタについての協定であった「1850年の妥協」を、ミシシッピー川以西の旧ルイジアナ買収地全体に広げることに成功したのです。即ち1854年5月に成立したカンザス・ネブラスカ法は、北緯36度30分以北にあるカンザスとネブラスカに関しても、自由州となるか奴隷州となるかの決定は、州を編成する際の住民の意思(投票による)で決めると、定めたのです。これは。ミズーリ協定の線からすると、明らかに後退です。下の地図に示したように、この結果、理論的には奴隷州は、36度30分の線を越えてカナダ国境にまで広がる可能性を獲得したのです。当然黒人の存在そのものを嫌う、北部、北西部、中西部の人たちにとって、これは我慢のならないことでした。 続く
2010.07.21
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クロニクル 王貞治選手ホームランの世界新達成1977(昭和52)年9月3日34年前のことです。この日、ジャイアンツの王貞治選手が、後楽園球場でのヤクルト・スワローズ戦で,鈴木投手からホームランを打ち、ハンク・アーロン選手の世界記録755本を抜く、世界最高記録を樹立しました。王選手は1959年、早稲田実業を卒業と同時に長島選手の1年後輩としてジャイアンツに入団、4年目の1962年の後半戦から一本足打法に開眼、ホームランを量産するようになりました。この2年後の1964年(東京オリンピックの年)には、年間55本の国内最高を樹立、年間記録では60本のベーブ・ルースに及ばなかったのですが、1962年から74年まで13年連続本塁打王になり、75年こそ阪神タイガースの田淵幸一選手に本塁打王の座を譲ったのですが、76年、77年の2年間は再び本塁打王の座に付き、実に本塁打王15回を数えるスラッガーとして活躍、この日、遂にアーロン選手の記録を更新したのです。時の福田内閣はこの偉業に喜び、2日後の9月5日には、初の国民栄誉賞を授与しました。王選手は結局引退した1980年のシーズンまでの通算で868本という生涯本塁打記録を残しました。
2011.09.03
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チュニジアからエジプトへ…(8)そして、今年の1月15日、チュニジアで「ジャスミン革命」が始まり、あれよあれよという間に、独裁者ベン・アリが亡命する事態に至りました。ジャスミン革命の詳細について、私は詳しい情報を持ち合わせていません。理解できていることは、ウィキリークスが暴露した情報の中に、チュニジア支配層の贅を凝らした、贅沢三昧の暮らしぶりが入っていたことです。この事実を知って、怒り心頭に発した人たちが、画像をコピーして流した結果、広い範囲の人たちの知るところとなり、twitter やFacebookで始まった街頭行動の呼びかけが、ラジオやクチコミを通じて広がった結果が、ベン・アリ追放に繋がったのですね。ウィキリークスも、twitter やFacebookも、米国で生まれたものです。米国生まれの技術やサービスを使って、アラブの人たちが親米政権を倒したのです。その原因にまで遡れば、米国発の世界大不況がバックグラウンドになっていることは、明らかです。これは何とも皮肉ですね。さて、エジプトに話を戻すと、エジプトの知識層は、自国こそアラブの盟主という意識を、今ももっています。確かに8千万人という人口は、アラブ世界でひときわ目立っていることも事実です。チュニジアに出来たのなら、自分たちもと、考えたとしても不思議ではありません。ここまで記したように、ムバラク政権による反対派の弾圧と圧政は、目にあまりました。そして、金持ち優遇の経済自由化で、貧富の差は拡大し続けていました。そして生活に窮した多数の貧困層。きっかけさえあれば、一斉蜂起が起きる条件は熟していましたから、事態の広がりに時間はかからなかったのです。しかし、ここで考えるべきことがあります。ムバラク圧政は取り除かねばなりません。ただし、ここで弾圧されていたのは、ムスリム同胞団など穏健派ムスリムを含む、ムバラク一派にとって、目障りなムスリム組織と原理主義過激派でした。その他大勢のムスリムの人たちにとっては、言論や信仰の面で、不自由なことはなかったのです。それなのに何故、その他大勢の人たちが反ムバラクで団結したのでしょうか。エジプトの人々にとって大切なことの1つに、アラブの盟主エジプトというメンツの問題があります。そうであれば、アラブの大義にソッポを向いて、親米・親イスラエルの路線をひた走る、ムバラク政権は許せなかったのです。 続く
2011.02.05
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クロニクル 毒入りカレー事件1998(平成10)年7月25日あれから13年ですか。この日は町内会のボランティアをしている者には、忘れられない事件の起きた日です。和歌山県園部で起きた、夏祭りの振るまいに用意されたカレー鍋に青酸化合物が混入され、毒入りカレーを食べた4人の方が亡くなった、いいえ殺された事件です。会場近くの民家のガレージを借りてご近所総出でカレーを作り、会場へ運ぶまで交替で番をする、一種の炊出し訓練にもなりそうな、共同体慣行の名残でもあるような行事に、水を指す悪質な行為でした。見張り番の人達は、悪意を持って毒物を混入しようとする人を見張るのではなく、匂いに惹かれてちょっとお先にお毒見をと、考えるいたずら好きな子ども達対策だったに違いありません。まさかそこに毒を入れるなんて…この事件の影響で、この年の秋祭りでは、飲食物の提供を見あわせる町会も多く、各地に多大な迷惑を及ぼしました。犯人は年末に逮捕されましたが、この事件は子どもどころか、親世代の人達の幼児化が進み、精神発達が未熟なままで、身体だけが大人になってしまった、未熟児的大人が多くなっていることを、改めて印象付けました。この事件は、そうした善悪の判断、公共空間と私的空間の区別、行為の社会的影響などについての判断が出来ない「人間」の起こした象徴的な事件でした。この種の事件は、日本社会が失ってしまった社会の規範力の再構築なくして、解決しえない問題であることは確かですね。
2011.07.25
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黒船来航(40)日本にとっての第2の幸運は、当時の世界情勢にありました。今まで記してきたように、日本は米国を選んで、粘り強い交渉の末に、1854年に日米和親条約を、4年後の1858年に日米修好通商条約を結びました。そして、最恵国待遇を主張して、米国と同等の条約締結を要求してきた、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも、付き合いの長いオランダのアドヴァイスを下に、同様の条約を締結しました。1870年代に端緒を持ち、1900年前後の時期に頂点に達する帝国主義の時代には、やや早いのですが、1850年代と共に、西欧列強が植民地獲得競争の時代に入っていたことは、間違いのないところです。そうした状況のなかで、日本はこの危機を堂々と切り抜けました。アジアで植民地化を経験しなかったのは、日本とタイだけでした。このうち日本の場合、江戸時代の経済発展が重要な意味を持ち、そこに資本主義発展の萌芽があったからこそ、明治政府の殖産興業政策がうまく機能したことは、大いに強調すべきと事柄です。そこに、世界情勢が日本に時間的余裕を提供してくれたのです。 まず、日本と開国条約を結んだアメリカです。御存知のアメリカ社会を2分した大規模な内戦、南北戦争は1861年に始まり、4年の長きに渡って続けられました。この間は勿論、その後1880年頃まで続いた再建の時代を含めて、米国の外への膨張には、ブレーキがかけられていたのです。次にロシアです。ロシアも米国と並んで、日本との開国条約の締結に熱心でした。そのロシアですが、日米和親条約の締結を挟む時期に、黒海から地中海への進出を目指して、オスマン帝国領への侵出を目指し、英仏両国とクリミア戦争(1853年~56年)を戦い、惨敗したのです。その結果近代化の遅れに気付いたロシアは、1861年に開始する農奴解放をはじめ、大改革と呼ばれた改革の時代に入ったのです。こうして、ロシアの体外発展にも、大きなブレーキがかかっていたのです。オランダは元々、日本の植民地化という野心を持ちませんでしたから、残るはイギリスとフランスです。 続く
2011.07.25
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ユーロの憂鬱 (3)ユーロの迷走は、一昨年に始まり、昨年もずっと市場を騒がせていました。ギリシアやアイルランドなどの処理を誤ったのが、躓きの素でした。昨年ギリシアは、財政が逼迫し、国債(国の借金)の利息も払えません。借金を返す原資も底をついていますと、ギブアップ宣言を出しました。つまり白旗を掲げたのです。つまりギリシア政府はデフォルト宣言をしたのです、それをドイツやフランスなどのユーロ圏諸国が、そんなことをされては困ると、ギリシアの政財界に猛烈な圧力をかけ、デフォルト宣言を引っ込めさせてしまったのです。ドイツもフランスも、勿論他の国々も含めてですが、ギリシアに対する多額の貸付債権を抱えていたからです。大量のギリシア向け貸付債権が、1度に不良債権化したのではたまらないとばかりに、フランスとドイツは共同戦線を張って、ギリシアの債務削減、即ち債権放棄を嫌ったのです。そして独仏中心のユーロ圏諸国は、ユーロ圏諸国とEU,そしてECBやIMFまで巻き込んで、ギリシアへの多額の融資を行なうことで、とりあえず当面のデフォルトだけを回避しました。しかし、それは当座しのぎの一時的な効き目しか持たない措置でした。ギリシアは、緊縮財政による財政再建策などで、危機を脱出できるような状況にはなく、昨年のギリシア救済策は、一時しのぎに過ぎませんでした。1年後、モルヒネの効果は切れ、ギリシアは再び危機に陥りました。この姿、どこかで見たことがありますよね。皆さんも私もお馴染みの、日本政府と大銀行が90年代にずっと続けてきた、先送りです。その結果、かえって状況を悪くすることも、我々は先刻承知です。ユーロ圏諸国は、その日本と同じ道を選択したのです。 続く
2011.08.06
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クロニクル 秩父困民党立つ1884(明治17)年11月1日この日、埼玉県秩父の三峰山の椋神社で、秩父困民党を名乗る貧民達が、借金の返済猶予を求めて蜂起しました。明治14年の政変で、大隈重信に代わった松方正義は、徹底したデフレ政策をとって、財政均衡の回復を目指しました。その結果、商品価格は急落し、農業だけでは生きてけない、商品作物地域の農民の生活を直撃しました。関東平野周辺の山麓部は、土地もやせており、養蚕を副業とすることで、生活が成り立つ地域でした。そうした地帯でも明治15年の春蚕から、生糸の値下がりが起き、それが回復することなく、ずるずると下がり続けました。過去の経験から、借金をして危機を凌ぎ、生糸相場の回復を待って、借金を返済しようとした農民は、借金を返すことが出来ず、借金取りに追われて山野に姿をくらますしかなくなり、いつしか自分たちで困民党を名乗るようになったのです。秩父の農民達は、役所に借金の返済猶予を求める小規模な実力行動を,何度か繰り返したのですが、埒があかず、この上はお上を相手に1戦交える覚悟でと、相談の上、この日の蜂起となったのでした。蜂起仲間には、秩父の猟師たちも加わっていたため、数人の鉄砲隊も存在し、最初の小競り合いでは、駐在の巡査が射殺せれています。翌日には地域の中心大宮郷(今の秩父市)を占拠、秩父郡いったいは困民党に制圧されたのです。この中で、困民部隊は「畏れながら、天頂様に攻敵するから加勢しろ」と、周辺の民を勧誘してしています。こうしてその勢力は1万人を超え、明治期でも最大規模の反政府反乱に成長したのです。驚いた政府は鎮台兵数万を派遣して、ようやく本体を解散に追い遣りましたが、残された部隊は山中谷を通って群馬県中込に出、長野県に入って各地を転戦して、さらに抵抗を続けましたが、遂に11月8日、八ヶ岳山麓野辺山高原で、力尽きました。
2011.11.01
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ユーロの憂鬱 (30)ですから、ユーロ圏諸国やイギリスなどは、ECBやEUによる支援の前提として、ギリシアに大幅かつ大胆な財政赤字削減策の導入を要求しました。当然増税や年金支給年齢の引き上げ、公務員給与のカットに人員の削減なども含まれますから、ギリシア国民は強く反発します。それが分る故に、ギリシア政府もあの手この手で抵抗したのですが、EU諸国の支援なしには、デフォルトが確実なのですから、最終的には従わざるを得なかったのです。しかし、これで問題が解決するわけではありません。ギリシアに半年遅れて、昨年11月~12月にかけて再び問題になったアイルランドのケースが、良い見本なのです。既に指摘したことを繰り返すと、アイルランドはギリシアに先駆けてIMFやEUに支援を求め、要求された緊縮政策を忠実に守っていたのです。求められた処方箋の通りに経済を運営した結果、支援の成果が上がらずに、再び危機を迎えた姿がそこにあったのです。即ち、経済が大きなダメージを受けているときに、財政赤字の削減を優先して増税や緊縮財政を実行すれば、当然国民は生活防衛のために、節約志向を強めて消費を縮小します。雇用と所得の落ち込みという二重の危機が、そこにはあるのです。企業もまた過剰生産を恐れて、設備投資を控えると同時に、過剰設備の廃棄を進めます。この結果、増税にも関わらず、税収の落ち込みが大きいために、増税の効果は期待したほどには伸びないのです。日本の諺にある「虻蜂取らず」状態です。その上ギリシア政府は、受けた融資に対する利払いの義務を負います。その利子は市場金利を参考に決められますから。かなり高い利子を払わなければならないのです。デフォルトの可能性を市場に指摘された国の国債は、信用を失いますから、相当高い金利を提供しないと、誰もリスクをとってくれません。さすがにIMFやECBもむき出しの高利を要求するのは気がひけたのか、市場金利よりは2ポイントほど下げたのですが、それでも5ポイント台です。ギリシアは、EUの支援で借換えは出来ましたが、以前よりも高い金利の支払いに悩まされることになったのです。支援で現時点での破綻は免れました。しかし、ギリシア経済の将来が、保障されたわけではないことに、注意が必要なのです。菅首相、ユーロ圏の状況を、何処まで学んでいるのでしょうね。まるで財政破綻だけが見えて、増税や緊縮財政の弊害は見えない、特殊なメガネをかけているかのような発言をしていますね。これじゃぁ、支持率はまた下がるでしょう。 続く
2011.01.06
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クロニクル 「もしもし、こちらニューヨーク」1927(昭和2)年1月7日84年前の出来事です。「もしもし、こちらニューヨーク」と妙なタイトルをつけましたが、実は84年前の今日、ニューヨークからロンドンへ、史上初めて、太西洋を越える国際通話がかけられたのでした。これが、国際電話の事始でした。それにしても、「もしもし、こちらニューヨーク」といきなり呼びかけられたロンドンの方は、さぞ驚いたことしょう。
2011.01.07
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クロニクル 徴兵令施行1873(明治6)年1月10日138年前のことです。この日明治政府は徴兵令を施行しました。前年12月28日に「徴兵告諭」が出されてから、僅か2週間後のことでした。徴兵令では国民皆兵の原則が貫かれ、旧支配層である士族中心の志願兵制を主張は、避けられました。欧米列強の兵制に倣った軍の整備こそが、列強による日本の植民地化を防ぐ道に繋がると考えられたのです。同時に士族中心の志願兵制の主張者(=保守派)への配慮として、薩摩・長州・土佐の3藩の士族から、天皇の身辺警護にあたる御親兵が選抜されました。徴兵令の結果、数え年20歳の男子は、3年間兵役に着くことが定められたのですが、当初は多くの例外規定が設けられていました。即ち、体格が基準に達しない者、病気の者など、当然と思われる事情から、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「代人料(270円)を支払った者」、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」なども、徴兵を免除されたのです。
2011.01.10
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クロニクル 曙横綱に昇進1993(平成5)年1月27日18年前になるのですね。この日、前年の九州場所と1月の初場所で、2場所連続優勝した大関曙が横綱に推挙されました。ここに初の外国人横綱が誕生しました。それから今日まで18年、今や上位陣のほとんどが外国籍の関取に占められていますね。日本人の優勝力士がでなくなって、随分経つような気がしますね。
2011.01.27
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クロニクル 美浜原発2号炉で放射能漏れ1975(昭和50)年1月8日 37年前のこの日は、お正月のお屠蘇気分がなお残る水曜日でした。福井県で関西電力所有の美浜原発2号炉が、放射能漏れ事故を起こし、同炉は運転休止となりました。新聞やテレビは、「あわや大惨事」と大々的に報じ、お屠蘇気分は全国的に雲散霧消、原発の危険がクローズアップされました。その後もこの年は各地の原発で同種の事故が多発、通産省と科学技術庁の縄張り争いによる縦割り行政のマイナス面から、行政の事故対応は遅れがちであるという、問題点も浮き彫りになりました。 その後、電力各社や原子力委員会によって、事故対応の詳細なマニュアルが作られ、現在はマニュアルに基づいた対応が義務化され、現場職員に徹底されているので、大事故は起こらないというのが公式見解となりました。しかしです。世界的に有名になった日本の詰込み教育で育った受験エリートは、マニュアル通りの対応には無類の適性を発揮し、過去の例に習う場合や過去に経験のあることについては、実に見事な対応能力を示すのですが、ひとたびマニュアルが予想もしなかった想定外の事態に遭遇すると、たちまちにして思考停止状態に陥り、立往生してしまうマイナス面も併せ持っています。 その最たる例が、バブル崩壊後の大蔵官僚や金融界、政治家の対応でした。土地神話を信じつづけた彼等は、土地神話の崩壊という現実の前に、ひたすら先送りという最悪の手段にしがみ付き、日本の財政赤字を、大幅に膨らませる(私は詳細に調べていませんが、おそらく1993年~2003年までの10年で、赤字幅は3倍増程度になったものと推測しています)という大犯罪を犯したのです。 阪神大震災や東日本大震災もまた、想定外の事態でした。自然界の異変にしても、人間の行動にしても、想定外の事態はかなりの頻度で発生します。そう考えているが故に、私はマニュアルがどんなに良く出来ていても、マニュアルに頼りきる、そしてマニュアルがあるから大丈夫という発想には、大きな落とし穴にはまってしまう危険があるのではないかと、今も不信感を拭えずにいます。
2012.01.08
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続・メアリー・セレスト号事件2日空いてしまいましたが、メアリー・セレスト号事件の続編です。今回で終りの積りです。海賊の襲撃説や、海上の竜巻に出会ったのではといった説は、船や積荷が無事なことから、すぐに否定されました。乗組員の反乱によって、ブリッグズ船長は殺され、船長の家族は救命ボートで脱出したのではないかとする説も、否定されています。それは、船長や乗組員を知る人々が、こぞって彼らが皆敬虔なピューリタンであり、夫々が公明正大で誠実な人物だったと証言し、異口同音に船内での暴動の可能性を否定していることです。さらに、仮に乗組員の暴動があったのなら、少なくとも船長派か反船長派のどちらかが船に留まっているはずだ。仕打ちで全滅したのなら、何人かの死体が船内に残っているはずですから…こうして、積荷による事故説が、消去法によって残されました。今世紀に入って、科学史の専門家であるロンドン大学のエイゲル・ウィーザー教授が、化学や建築工学の同僚とチームを組んで、樽から漏出した工業用アルコールが、気化して爆発したのではないかという推測を、模型を使った実験によって、検証することことにしたのです。作成した船倉の模型は、人間の棺ほどの大きさだったそうです。彼らは、メアリー・セレスト号の船倉の模型を作り、そこに樽に見立てた紙製の箱を並べ、工業用アルコールとしてブタンを用い、やおら船倉を密閉して実験を始めました。船蔵に充満したブタンは、見事に爆発し、船倉の入口の扉を吹き飛ばし、もうもうと煙が立ち込めました。船倉の天井までギッチリと積まれた辰に見立てた「容器」んいは損傷はなかったといいます。爆発で扉が吹き飛んだとすれば、船内の一部損壊の説明もつきます。船の積荷が工業用アルコールであることを知る船長以下の乗組員は、この爆発と煙に恐怖を感じ、再度の爆発に備えて、一時船を離れ、救命ボートに避難する決断をすることは、大いにありえます。深刻な事態と認識したでしょうから、暗い深夜の手作業ですから、救命ボートのロープもしっかり結べず、ほどけてしまう可能性もありえたでしょう。ウィーザー教授と同僚達の実験は、バイヤー教授の説を補正し、補強したといえるようです。化学に門外漢の神父がまとめましたので、要点を得ないところもあろうかと思いますが、これでお許しください。
2012.12.07
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続々・「北朝鮮」の変化に注目を 「北朝鮮」のリスクは、以前にも書いたことがありますが、米・韓・日の支援がストップしていることによって、いまだに軽水炉に転換できず、旧ソ連製の重水路の原発が使われていることにあります。軽水炉の、(ということは比較の問題ですが、「北朝鮮」の原発よりは安全性が高いと考えられていた)日本の原発でも、大型の地震や津波には脆さを露呈したくらいですから、チェルノブイリと同型の「北朝鮮」の原発は、イツメルトダウン事故を起こすかもしれないのです。フクシマ第一は、日本国内のみでなく、世界にまで多大な迷惑を及ぼしてしまいました。とりわけ、日本に最も近い、ロシアや朝鮮半島の皆さんには、大きな迷惑をかけてしまったことは、肝に銘じておく必要のあることです。核兵器よりも、制御不能になった原発が恐ろしい。私はこう感じています。次に、「北朝鮮」の核は、防御兵器である理由を補足しておきます。もし仮に、「北朝鮮」に限りません。どこかの国または団体が、日本を攻撃しようと考えた時に、最も有効な方法は何かを考えて見ましょう。人工衛星を打ち上げ、静止軌道に乗せたり、観測衛星として利用する実績をしっかり残している、米・中・ロ3国であれば、ミサイルに核弾頭を装着して、日本を攻撃することもありえるでしょう。しかし、それ以外の国や団体は、核兵器など使わずに、使ったのと同じ効果をあげることが、十分可能なのです。それは、得意とする自爆攻撃で、爆弾を積んだタンクローリーなどを、原発の建屋に突入させれば済むことです。海岸線の広い日本です。夜陰に乗じて、どこかに上陸し、先遣隊が用意しておいた車で、集結地点に向かい、盗んだタンクローリーで、原発の拠点に運び込み、ゲートを入ったところで正体を現すなら、建屋に到達できる確率はかなり高いと、私は考えています。それだけ、日本の原発に関する危険度の認識は低いように思えます。ですから、何処に飛ぶか分からない運搬手段での核攻撃よりは、原発を襲撃して爆発させる作戦の方が、ずっと成功確率が高いのです。こう考えていますので、私は「北朝鮮」の核兵器にも、地政学リスクは感じませんし、リスクを考慮する必要もないと考えているのです。 この項終り
2012.04.17
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クロニクル イギリス、アメリカ植民地の独立を承認1783(天明3)年9月3日アメリカ合衆国の独立記念日は、皆さんご存知の通り7月4日です。ただこの日は、イギリスの13あった北米の植民地が、連名でイギリス国王に対する「独立宣言」を発表した日、独立の意志を表明した日に過ぎません。それは独立戦争の真っ只中のことでした。 日過ぎて時は巡り、5年後1781年、ヨークタウンの戦いにアメリカ軍が勝利。フランスの仲介に寄ってパリで講和交渉が始まったのです。そして粘り強い交渉の結果、234年前の今日、パリ条約が締結され、独立国家アメリカの誕生を見たのです。しかし、イギリスからの独立が即アメリカ合衆国の誕生に繋がったわけではありません。あのジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したのは、1790年4月のことなのです。......この間6年と7ヶ月、独立戦争を共に戦った13の植民地は、夫々が小さな独立国家になるのか、それとも一つの連邦国家になるのかを巡って、延々と議論を繰り返していたのです。
2017.09.03
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クロニクル サザエさん連載始まる1946(昭和21)年5月22日今日から66年前のことです。今も日曜夜のテレビアニメでお馴染みの故長谷川町子さんの4コマ漫画、「サザエさん」の連載がスタートしました。 敗戦からなお1年に満たず、食糧不足は深刻の度を増し、それに悪性インフレが猛威を振るうなど、厳しい状況が続いていましたが、もう戦争はしなくて良いのだという解放感は、何物にも代え難く、苦しさの中にも明るさが求められていた世相に、サザエさんはピタリと嵌まったのです。それにしても、作者の長谷川町子さんも、こんな大人気を得るとは、思わなかったでしょうね。
2012.05.22
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クロニクル 米ソホットライン協定締結1963(昭和38)年6月20日49年前のことです。この日、米ソ両国は、クレムリンとホワイトハウスを結ぶ、直通電話(ホット・ライン)回線を設置することで合意、協定書を作成して、ただちに発表しました。 前年10月のキューバ危機に際して、あわや3回目の世界戦争勃発かと、大いに心胆を冷やしたのですが、米ソ両首脳は、相互の話し合いを密にする必要を感じ,直通電話の設置を共に了承したのです。 ここに、東西両陣営の緊張緩和策が日の目を見ることになり、キューバ危機の教訓が、大きく生かされたと言えましょうか。誰もがホットした瞬間でした。
2012.06.20
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雪印集団食中毒事件発生 後日談食中毒の原因について、会社側は7月1日にようやく開いた記者会見で、「大阪工場の逆流防止弁の洗浄不足による汚染」によるものと発表しました。大阪保健所もそれ以上の追及はしませんでした。しかし、大阪府警は、逆流防止弁の洗浄不足のみが原因とは限らないと考え、その後も調査を継続しました。その結果、大阪府警は、大阪工場の製品の原料にあたる脱脂粉乳を製造していた、北海道大樹工場の汚染が原因であることを突き止めたのです。大樹工場では、同年3月31日に氷柱の落下によって3時間の停電が発生、病原性黄色ブドウ球菌が増殖して毒素が発生していたのです。電源回復後、大樹工場では生産再開を急ぐあまり、食品加工工場に必要な、ラインの衛生検査を行なわずに、生産を続けていたのです。これが真の原因でした。大阪保健所には、北海道の工場に検査に入る権限はありません。しかし大企業である雪印乳業には、大阪工場の製品による食中毒事件であっても、大阪工場の最終製品に関連する施設、さらには同社の全工場での、衛生状態を点検して安全を確認する程度のことは、企業の社会的責任と自覚し、実践する経営陣が居なかったのです。これが同社の不幸でした。大阪府警の活躍で原因が特定された結果、雪印グループ各社の全生産工場の操業は全面的に停止されました。雪印のブランドイメージは大きく傷つき、全国のスーパーや小売店から、油印の製品は一斉に撤去されました。 消費者の雪印への抗議は、それだけ強かったのです。経営者が対応を誤った結果でした。トップは素早くマスコミに登場し、不明を詫びると共に、全社一丸となって食の安全と再発防止に取り組む姿勢を見せるべきだったのです。それをせず、ひたすらマスコミを避けようとしたトップの姿勢も、厳しく糾弾されました。こうした雪印グループの姿勢が、2年後にはBSE問題に絡んでのグループ会社「雪印食品」の牛肉偽装事件として表面化する事態に繋がりました。こうして雪印グループは無惨に解体され、今日に至ることになります。トップに人を得ない企業が、ブランドだけで生き残れる時代は、既に終っているのですね。
2012.06.25
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クロニクル 『風と共に去りぬ』誕生1936(昭和11)年6月30日76年前、1936年は2,26事件の年です。その年の今日、アメリカジョージア州アトランタで生まれ育った、マーガレット・ミッチェル女史の大河小説『風と共に去りぬ』が出版されました。1900年生まれのミッチェル女史は、母方の伯母を通じて南北戦争の目撃談を詳しく教えられ、そうした記憶を下に、長い時間をかけて、この作品を書いたと言われます。作品は大ベストセラーとなり、3年後の1939年に映画化されました。ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル主演の映画は、3時間を大きく超える長編でしたが、大変な人気を博し、評判が評判を呼んで大ヒットとなりました。日本での初公開は戦後の1952年でした。私が映画館で見たのは、1960年代のリバイバル上映だったように思います。
2012.06.30
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クロニクル プラザ合意1985(昭和60)年9月22日27年前のこの日、ニューヨークのプラザホテルでG5(経済先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)(参加国は米・日・西独・英・仏)の会合が開かれました。当時この会合は、秘密裏に開かれていましたので、とりわけ各国蔵相は隠密行動に気を使っておりました。この会合でG5は、ドル高を是正するために、為替市場への協調介入を強化することで合意、各国政府と中央銀行は、翌週の月曜日から、猛烈なドル売り介入を行いました。この結果、各国通貨は軒並みドルに対して大幅高となったのですが、特に日本円と西独マルクの上昇が目立ちました。 とりわけ、1ドル=240円程度だった円は、12月には180円程度まで値上がり、慌てた日本政府と日銀は、金利を下げ、公共工事を大幅に積み上げるなどの景気対策を実行しました。その結果が、後のバブルの発生に繋がりました。
2012.09.22
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クロニクル 公明党結党大会開催1964(昭和39)年11月17日48年前のこの日、公明党の結党大会が開かれ、原島宏治委員長、北条浩書記長を選任しました。公明党は創価学会を母体として結成された、日本ではじめての宗教政党です。この日の結党大会以前に、既に1959年の参議院議員選挙に6名の候補者を立候補させ、全員の当選を果たして、信仰票の威力を見せつけ。3年後の1962年の参院選では、公明政治連盟という団体を結成して、9名の立候補者全員を当選させました。その結果参議院の議員は計15名を数え、当時の自民・社会両党に続く、参院での第3勢力にのし上がっていたのです。余勢をかって、衆議院への進出を目指し、この日の政党結成となったのです。衆議院への初進出は、黒い霧解散後の1967年1月の総選挙になりましたが、いきなり25名を当選させて、自民、社会、民社の3党に続く、第4党の地位を掴んだのです。
2012.11.17
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クロニクル ナポレオン三世即位1853(嘉永6)年12月3日159年前です。ペリーの艦隊が浦賀にやってきたのと同じ年のことです。この日、ルイ・ナポレオンがフランス皇帝ナポレオン三世として即位し、フランス第二帝政を樹立しました。ルイ・ナポレオンは、大ナポレオン(フランス皇帝ナポレオン一世)の甥(弟の子)にあたります。1848年の二月革命を受けて、同年12月10日に行われた男子普通選挙での大統領選に圧勝(有効投票の74%強を獲得)し、大統領に就任しましたが、二月革命によって成立したフランス第二共和政憲法は、大統領の再選を認めていませんでした。そのため、長期政権を狙うルイ・ナポレオンは、憲法に再選を可能とする条項を盛り込むことを目指しましたが、議会の3分の2の支持を得ることができずに失敗、クーデターで政権を維持する決意を固め、この日のちょうど1年前、1852年の12月2日にクーデターを決行し、終身大統領の地位に着いたのです。そして、事態の落ち着くのを待って、国民投票を実施して、大多数の国民の支持を得たからという理由付けで、この日皇帝の座についたのです。ここに第二共和政は葬り去られ、第二帝政にとって変わられました。
2012.12.02
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クロニクル 東京湾アクアライン開通1997(平成9)年12月18日あれから15年経ちました。川崎~木更津を結ぶ東京湾アクアラインが完成、この日開通式が行われました。途中の海蛍までの川崎側は海中トンネル方式で、それ以後の木更津までは海上を走る方式です・しかし、設定した料金が高く、物見高さに見物を兼ねて海蛍に出向く人々が一巡すると、利用車数は、想定を大きく割り込み、大きな赤字路線となって今日に至っています。当初は料金が高いから、東京湾横断道路を使うという方も多く、無駄な道路の典型になっていました。とりわけ、悲劇的だったのが木更津市で、道路建設を当て込んで、高値に買われた地価は、バブル崩壊の憂き目のなかで暴落。JR木更津駅周辺は、進出したそごうの撤退と共に、閑古鳥が鳴き、寂れた状況が現在も続いています。 現在は、高すぎる通行料が見直され、社会実験価格として普通車が800円に割引されており、その結果、日曜祭日や平日でも夕方のラッシュ時などは、渋滞が生じるほどに、利用が伸びています。しかし大幅な割り引き価格ですから、相変わらず赤字状態が続いています。
2012.12.18
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クロニクル 介護保険法公布1997(平成9)年12月17日15年前のこの日、介護保険法が公布されました。ただし、実際に施行されるのは、2年3ヶ月後となる2000(平成12)年4月1日とされました。介護保険料の徴収と介護サービスの実施が、この法の柱ですが、実施から12年半経過した今日まで、行政の側は、保険サービスの内容を、何とか赤字にならない範囲に収めようと考えているのではないかと、勘ぐりたくなるくらい、頻繁に要介護者が受けられるサービスの内容を変え、請求書類を変えと、要介護者泣かせの朝令暮改を繰り返しています。この点を改め、使い勝手を良くすることが、すぐにでも解決すべき課題のようですね。
2012.12.17
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クロニクル さらば「銀巴里」1990(平成2)年12月29日「銀巴里」は銀座にあったシャンソン喫茶です。戦後の焼け跡がまだあちこちに残っていた、1951(昭和26)年に産声をあげた、日本で最初のシャンソン喫茶です。石井好子、芦野宏、中原美紗緒、美輪明宏、戸川昌子、金子由香里ら、日本の代表的なシャンソン歌手が、銀巴里を拠点に活動し、多くの観客を集めていました。60年代前半の学生時代、ワンステージに飲み物がついて500円の料金は、学生には高かったのですが、家庭教師のバイト代が入ると、先ずは銀巴里に出かけていました。その「銀巴里」が22年前の今日、49年の歴史の幕を下ろしたのです。シャンソンブームが去り、来客数が激減し、支えきれなくなったのです。「銀巴里」の閉店後、「東の銀巴里、西のベル・エポック」と並称されていた、吉祥寺駅近くのシャンソン喫茶「ベル・エポック」が孤軍奮闘、営業を続けていたのですが、その「ベル・エポック」も遂に音をあげ、3年前の2009年10月31日に店を閉じました。
2012.12.29
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クロニクル 資本取引の自由化決定1967(昭和42)年6月6日46年前のことです。この日、政府は外国企業に依る日本国内での子会社や合弁会社の設立、株式の取得などの資本取引を自由化するという、基本方針を閣議決定しました。 この日の決定に基づき、30日には関連法を改正、翌7月1日には施行する手回しの良さでした。おそらく米国政府から相当強い圧力がかかっていたであろうことが予測されます。 ところで、自由化の内容は、ラジオ、テレビなど競争力の強い33業種については、100%の自由化、普通鋼や自動車など17の業界については50%までの外資の出資を認めるというものでした、 為替や貿易制限の撤廃に続く、資本取引の自由化で、日本もここに開放経済の体制に大きく舵を切りました。それでもこのニュースに、マスコミは戦々恐々として日本の自動車産業は米国のビッグスリーに、すぐにでも飲み込まれてしまうだろうといった国民の不安心理を掻き立てる記事を流し続けたものでした。今では信じられないでしょうが、国民の多くがマスコミに同調して頑張れトヨタ、フレフレ日産と、自動車業界にエールを送っておりました。かくいう私もその1人でした。今の自動車業界の様子を見ると、隔世の感があります。
2013.06.06
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クロニクル 徳川幕府,米国軍艦の見物を禁止1854(嘉永7)年2月3日 160年前のことです。この日、徳川幕府は、羽田沖に停泊中の米国軍艦の見物を禁止する旨のお触れを出しました。米国のペリー提督が4艘の黒船と共に浦賀に停泊して、幕府に開国を迫った有名な黒船襲来は、前年1853年6月のことでした。その後翌年の来航を予告して、帰国したのですが、約束通り、翌1854年の1月に3艘の軍艦(蒸気船=黒船)と4艘の帆船からなる7艘の艦隊を指揮して、羽田沖に現れ、江戸に近い神奈川(現横浜)を交渉地として、羽田沖に至る一帯に艦隊を停泊させたのです。緊張する幕府とは別に、怖い者見たさの庶民に混じって、頑迷な攘夷思想に凝り固まって、国際的現実を顧みない国粋主義者が、実力行使に出ることを警戒しなければなりません。そんな幕府の困惑が,この日の見物禁止のお触れとなったのです。 「こちとら江戸っ子でぃ」とでもいえそうな、庶民のバイタリティを示すエピソードですね。
2014.02.03
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三豊百貨店の倒壊クロニクルに記した「三豊百貨店の倒壊」は、手抜き工事などという生易しい言い方では、正確な表現にならないほどの、いい加減な工事に原因がありました。1995年の当時、94年10月の聖水大橋崩落事故(ソウル市内)や95年4月の大邱市の地下鉄工事現場ガス爆発事故など、大型の建築災害が続いており、一時は「北朝鮮」による破壊工作との噂が、まことしやかに囁かれもしたのですが、いずれも施工業者や施主による手抜きに原因があることが分かり、事故翌月の95年7月には、「災難管理法」が成立することになりました。ところで三豊百貨店の工事は、当初は地上4階地下4階のオフィスビルとする予定で、宇成建設が三豊百貨店の親会社から受注したものです。ところが基礎工事の段階で、施主側が4階建てのオフィスビルから、5階建てのデパートへの設計変更を要求し、柱の強度からして5階部分の荷重に耐えられないとして変更に反対する宇成建設と揉め、基礎工事終了の時点で、宇成建設との契約を解除したのです。その後工事を請け負ったのは、三豊百貨店の親会社に当たる三豊建設でした。こうなれば、グループ創業者の意のままに、工事は進みます。先ずは火災予防の観点から、売り場に防火シャッターを設置するため、ビル中央部の柱を4分の1分取り除きました。また店の中央部分に、エスカレーターを設置するため、吹き抜け構造を作り、その部分の柱をここでも25%程度削っていたのです。 そこへ、計画になかった5階部分の継ぎ足しが行なわれます、この部分に使用されたコンクリートだけで3千トンに達していたことが、明らかにされています。その上、屋上に80トンの給水タンクが設置されています。総重量87トンの大型冷房装置も、屋上に取り付けられました。明らかに重量オーバーです。良くぞ5年以上も持ちこたえたというべきでしょうか。事故の前日6月28日に、5階の従業員が天井のひび割れに気付き、翌朝にはひび割れが大きくなっていたために、上司に報告しています。報告を受けた経営陣は、緊急会議を開きますが、この間も臨時休業を選択する意志は見せませんでした。社長に呼ばれた三豊建設の建築士は、閉店後の補強工事で大丈夫と楽観的な見通しを報告しました。以上がおよその事故までの流れです。明らかな人災でした。この結果、施行にあたった三豊建設だけでなく、三豊百貨店の経営陣も業務上過失致死傷害罪で逮捕され、懲役の判決を受けました。最高責任者の会長は、懲役7年8ヵ月、全財産没収の判決を受け、2003年に獄中で死亡しています。またソウル市長が、三豊側から賄賂を受け取り、建築申請を厳しく審査しなかったとして、これまた逮捕されています。事故による補償総額は約4000億ウォン(日本円で約550億円)に及びました。
2010.06.29
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クロニクル 三池争議に斡旋案1960(昭和35)年8月10日53年前のこの日、中央労働委員会(略称中央委)は、三井三池争議の斡旋案を、会社側・組合側の双方に示しました。三井鉱山三池炭鉱は、炭坑節でお馴染みの、日本有数の石炭鉱山でしたが、石炭から石油へのエネルギー革命の進展で採算が悪化。生き残りを策した会社側は、希望退職という形での首切りを模索、59年1月、6千人の希望退職計画を、組合側に提示しました。しかし、期限の6月末になっても、退職希望者は、会社側予定を大きく下回っていたため、12月に入って、会社側は組合の活動家を中心に、1278人の指名解雇を通告してきたのです。当然組合はこれを拒否。1月25日に会社側はロックアウトを実施、組合は全山ストライキでこれに答えました。争議は長期化し、日経連の要請を受けた金融界は会社側を支援、組合側には総評がついて、三池争議は、総資本対総労働の争いという様相を呈したのです。3月、会社側の切り崩し工作もあって、組合内部に動揺が走り、約3千人の第2組合が誕生。組合の分裂によって、戦いは会社側有利に傾きました。そのため、この日の斡旋案も、会社側優位のものとなっていました。9月6日、炭労の臨時大会は、斡旋案の受諾を決定。11月1日、争議は最終的に終了しました。1960年は、安保闘争と三池争議の年として、記憶される年となりました。詩人の谷川がんは、夫人と共に、争議の渦中にとどまり、いくつもの詩作を残しました。
2013.08.10
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クロニクル 徴兵令施行1873(明治6)年1月10日142年前のことです。この日明治政府は徴兵令を施行しました。前年12月28日に「徴兵告諭」が出されてから、僅か2週間後のことでした。徴兵令では国民皆兵の原則が貫かれ、旧支配層である士族中心の志願兵制の主張は避けられました。欧米列強の兵制に倣った軍の整備こそが、列強による日本の植民地化を防ぐ道に繋がると考えられたのです。同時に士族中心の志願兵制の主張者(=保守派)への配慮として、薩摩・長州・土佐の3藩の士族から、天皇の身辺警護にあたる御親兵が選抜されました。徴兵令の結果、数え年20歳の男子は、3年間兵役に着くことが定められたのですが、当初は多くの例外規定が設けられていました。即ち、体格が基準に達しない者、病気の者など、当然と思われる事情から、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「代人料(270円)を支払った者」、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」なども、徴兵を免除されました。
2015.01.10
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クロニクル 大相撲の実況放送始まる1928(昭和3)年1月12日87年前のことです。勿論テレビはありませんから、ラジオでの実況放送です。日本でラジオ放送が始まったのは、この3年前の1925(大正14)年の3月22日のことでしたから、およそ3年の経過で、大相撲の実況中継が始まったのですね。前年1927年に、東京と大阪の相撲協会の話し合いがまとまり、両団体が同時に解散して、単独の大日本相撲協会が発足したことが、実況放送に繋がったようです。場所は、1月と5月に東京両国で、3月と10月は大阪で開かれることになり、87年前の今日が、初場所の初日だったのです。さて、この実況中継の開始に当たって、大相撲史に残る改革が実施されています。それが幕内4分の立会いまでの制限時間です。実はこの規定、この1928年の初場所から導入されたのです。今までは無制限でした。理由は、実況中継の時間には限りがあり、限りある時間内に横綱の取り組みまで、全てを終らせる必要に迫られたからでした。横綱の取り組みまで、全てを時間内に放送できるなら…というのが、NHKが出した実況中継の条件だったのです。
2015.01.12
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クロニクル 前首相誘拐事件発生1978(昭和53)年3月16日37年前のイタリアでの出来事です。この日、イタリアの左翼過激派「赤い旅団」は、首相在任時に仲間を逮捕・投獄したモロ前首相を誘拐し、仲間の釈放を求めました。しかし交渉は決裂し、モロ前首相は、5月9日に射殺死体となって発見されました。今でもマフィアの跋扈する国だけに、やることも派手ですね。はたして、こういう国で長期に渡る緊縮財政政策を、とり続けることは可能なのでしょうか。現在、中道4派連立のレンツィ首相、頑張っているようですが、なにしろ物騒な国だけに、人事ながら心配になるこの頃です。
2015.03.16
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クロニクル マリー・アントワネットの処刑1793(寛政3)年10月16日216年前のことです。日本では老中松平定信による寛政の改革が、なお猛威を振るっていた時代の後期にあたります。毀損令による札差イジメが、深刻なデフレを招き、江戸市中にご老中への怨嗟の声が上がっていた時期でした。1月に処刑された夫のルイ16世に続き、この日王妃だったマリー・アントワネットもギロチンの露と消えたのです。コンシュルジュリーの獄に繋がれた王妃は、子ども達とも離されて次第に体調を崩し、かつての美貌はその面影をなくしていました。晩年の様子を表した肖像をご覧下さい。彼女も革命裁判にかけられ、前日の15日に革命裁判所は、死刑の判決を下しました。判決の下った翌日早速刑は執行され、彼女は10月16日午後12時15分に、この世を去りました。
2009.10.16
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クロニクル 逗子市長選富野氏初当選1984(昭和59)年11月11日24年前になるのですね。当時横須賀基地を根拠地とするようになった米海兵隊員用の米軍住宅を、適当なまとまった敷地がないからと、逗子市の池子の森の一部を開発して、米軍住宅を建設する話が持ち上がり、逗子市民や隣接する葉山町民らを中心とする反対運動が盛り上がっておりました。反対派住民は、計画推進の立場を変えない当時の市長のリコール請求を行い、見事に市長のリコールに成功します。そうして、この日迎えた出直し市長戦で、住宅建設反対派の富野暉一郎氏が当選。池子住宅建設問題は白紙に戻り、一から再検討されることになりました。その後、池子の住宅建設は、予算の配分で地方自治体の首根っこを押さえている中央政府の力は大きく、その後の池子住宅文問題は、規模を縮小して実行に移されたのでした。
2008.11.11
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クロニクル 第一回先進国首脳会議(ランブイエサミット)始まる1975(昭和50)年11月15日ちょうど40年になるのですね。この日、フランスのパリ近郊の古城、ランブイエにおいて、米・西独・日・英・仏・伊6ヶ国の首脳による、先進国首脳会議(サミット)が始まりました。首脳同士が泊り込んで胸襟を開いて語り合うことで、現下の関心事に共通の理解・認識を持とうという主旨で始まったのですが、この試みの背景には、73年のオイルショックに端を発した戦後初めての資本主義世界の同時不況がありました。スタグフレーション(不況下の物価高)に苦しむ先進経済諸国が、相互に勝手な行動に走るのではなく、互いに協調しながら不況克服という統一目標に邁進することを申し合わせることに、大目標があったのです。3日間にわたって、6ヶ国の首脳を缶詰にしたこの会議は、15項目に及ぶ合意事項をランブイエ宣言として発表、成果をアピールしたのでした。 ところで、この会議は当初イタリアを除く5ヶ国の会議として計画されたのですが、途中で計画を察知した同国の猛烈なアピールでイタリアの参加が実現したのです。それならGNPの規模からいってカナダも有資格ではないかと、翌76年からは、アメリカの後押しでカナダの参加も認められて、参加国は7ヶ国になったのです。さらに77年からは、EUも参加することになりました。サミットは当初は、経済問題を首脳だけで討議する場だったのですが、経済の立ち直りと共に、次第に政治問題のウェートが高まり、官僚たちによる事前会議も周到に行われるようになって、次第に現在のような大掛りな政治ショーに堕していったのです。現在のサミット、当初の目的とは、かけ離れてしまっていますね。
2015.11.15
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