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昨年より1週間早く八重桜が満開になった。今日は晴天で、柑橘類スモモ、柿の消毒を行う午後は縞ウリ・スイカの苗植え付け完了八重桜の向こうに東九州道を走る車が見えるが、4月24日全線開通とのこと (あと5日)
2016.04.20
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中津藩の炭谷庄助、新村平次郎両人は豊後の国香々地より新式の漁具で漁をする魚師を雇い入れ小倉藩の漁場で魚を一挙にすくい取り、小倉藩の漁民は魚が取れなくなり困っているので、中津藩の両名に掛け合ったが、聞き入れないので 中津藩の境目役人に願状を送った中津藩の漁人に「新式の網を使わないように申し聞かせてほしい」という内容である。がその返事は拒否するというものだった。
2016.03.18
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安政2年、九州は中津藩今津浦の漁師と小倉藩宇島・八屋の漁師が漁の方法で諍いとなり40数名が乱闘となり多くの怪我人と死者が1名でた。両藩の話し合いはならず、ついに死者の出た中津藩今津の漁師は幕府に出訴し裁定を求めた。幕府では宇島の漁師40数名を江戸まで出府するように命令をした九州から関門海峡を渡り、中国道、東海道を通って、江戸までの道中のでこごとを小倉藩庄屋碩蔵が思うにまかせて書き残したものです。続きは次回
2016.03.17
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ぶどうの木の下に昨年のかぼちゃ種から発芽しているのを発見畑に移植 ナメクジ まき貝多いので薬剤まく
2015.04.07
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出版記念の高校同級会がありました。そんなことしてくれなくていいのにと思うのですが口に出して言うと叱られそうなので黙っていました。サインを求められうまれて初めての経験 サインのしかたも知らず恥ずかしい限り無事終わりホットしていますが次は26日の講演会もう一山越えなければなりません。うまく喋れるように練習中です
2012.05.13
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地元歴史愛好会に要請により講演を5月26日にすることになりました「中津藩奥平家の歴史と宇都宮騒動」について です色々な話を織り交ぜて1時間30分の予定です。
2012.05.06
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へびが畑にいました。死んでいるのかと思って棒でつりあげてみるとそうでもないらしいでも全く動く気配がなく反応しません。なぜ?自分なりに考えてみました。数日前の暖かさに誘われて穴からでてきたものの急に午後から寒くなって動けなくなってしまったのでは私の拙い知識だと蛇は冷温動物で寒さに弱いから?と思いましたまだ70cmくらいの子蛇で経験不足だったのでしょうか ビニールをかけてやり土を被せてあげましたがこれでよかったかどうか判りません
2012.03.04
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内蔵之允は自宅にて療養を続けていた。一日中臥せっていると事件のことが片時も頭からはなれず、痛みとともに悔しさが込み上げあれこれ考え 痛憤の情はますます昂じいよいよ頭は熱くなるばかり 。妻は心配し「事件のことは忘れなさいませ 体に毒です。体をお揉みいたしましょう」などと気遣っていた。腰痛のほかに屈辱の刀傷を負い肉体的にも精神的にも辛い毎日を送っていた。そして、 床に臥せっているとあれこれ思い出し、叉いろいろ考えるため 冷静さは日を追うごとに失われていったそして事件から20日後の4月22日家族の留守中白帷子に着替え先祖の仏壇に手を合わせ自刃して果てた。帰宅した妻が血の海となった座敷にうつ伏せに倒れている夫内蔵之允を発見した。そのとき既に息は途絶えており、妻は呆然とその場所に座り込んでしまった。その後帰宅した息子源八は屋敷の雰囲気が何か違うものを感じていた。つづきは文芸社 浄瑠璃坂の仇討ち クリックで
2012.03.04
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と大男の玄蕃に大喝されると双方とも刀を納めそれぞれの親戚・友人たちに引き取らせた。内蔵之允は出血がはなはだしく子息源八や親戚衆に手当てをうけ抱きかかえられながら駕篭にて帰宅した。翌日内蔵之允方より菅沼次太、桑名友之丞を通じて事件に至った経緯が目付衆に報告されたが、その内容は夏目外記より筆頭家老夏目勘解由へとどけられた夏目外記手簡内容は一、奥平内蔵之允が申されるには 今日目付衆へ連絡したとおり奥平隼人と私は親戚ではありますが近年仲が悪く付き合い致しておりません。 道で出会っても他人同様そ知らぬ顔でやり過ごしてきました。先日葬儀の前日文字の詮議をしていた時に、たいへん無礼な物言いで侮辱されました。その場で討ち果たしたいと思いましたが御葬礼前でしたので、必死で耐えていましたが(法事が終わり)外でまた出会い会釈しましたが無視され堪忍もこれまでと思い刃傷に及びました。法事中の寺での行いは不調法のように思われますが、右のような経緯です。覚悟は出来ております。仰せ付け通りに致します。一、右は菅沼次太、桑名友之丞をもって内蔵之允方より図書殿、主米殿へ申し入れたものです委細は伝蔵にお尋ね下さい。三月六日夏目外記花押夏目勘解由様つづきは http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106115065/subno/1
2012.03.03
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興禅寺での刃傷事件その後一同仏殿に進み読経の後焼香の儀も順次滞りなく終り退出した。その折 内蔵之允は廊下にて隼人と行き逢い顔を合わせると今までの隠忍自重の重石がはずれ堰をきったように今までの無念の思いが溢れ出しもはやこれまで「日ごろの悪態思い知れ」といきなり太刀を抜き払い突然隼人に切りつけたしかし、体の不調に加え極限の興奮状態のため間合いが十分でなく一撃は届かず空を切り床に剣先をたたきつけてしまった。隼人はすかさず抜刀し立会い逆に内蔵之允に切りつけ傷を負わせた。そこに隼人の後に従っていた弟の主馬允も抜刀 兄の隼人に助太刀し内蔵之允に一太刀あびせ更なる負傷を負わせたところに騒ぎを聞きつけて老臣兵藤玄蕃(ひょうどうげんば)が駆けつけ割れんばかりの大声で「双方とも控えられよ」さらに大声で「控えられよ」と中に割って入り「お静かに、お静かにまずは刀を納められよ」続きは明日
2012.02.04
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奥平忠昌葬儀の当日前夜より奥平内蔵之允は持病の腰痛が悪化し激痛に苦しみ伏臥していた。そのため息子源八に主な方々へ腰痛の為立つ事もかなわず明日の葬儀には出席できない旨挨拶に回らせた。そして当日 息子源八が代理で参向した。隼人は全座を見渡し内蔵之允の参席が無いのを見届けると大声で怒声を張上げ罵り始めた。参列者は顔を見合わせ不快な心持で聞いていた。(こまったものだとおもいながらも)「いかなる理由にて参列ぜざるや」息子源八は「昨日病気の為出席かないがたき旨申し上げ先刻ご承知のはず」というと「大事なご葬儀の前日の慎むべき時にも憚らずいずれ酒を飲みすぎて動けないのであろう 不謹慎この上も無い」などとまくしたてた。葬儀の時刻が近づきつつあるとき内蔵之允が夏目外記(げき)、奥平伝蔵に援けられ入座してきた。「拙者俄かにさしこみ本日は焼香かなわぬ旨息子源八を通じて奥方様ほか皆々様にお詫びのご挨拶を申し上げていましたが、いくぶん動けるようになりましたので今日は大事なご葬儀の日 何としても出席せねばとの一心にてかように手をおかりして出席した次第 遅参におよびたる儀恐縮致しております。」と挨拶するとまたまた隼人は「貴殿一人の為ご葬儀が遅れてしまっている。 亡き殿に不敬であろう」とわめいた。続きは明日
2012.02.02
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奥平忠昌公葬儀の前日藩の重役諸氏が集まり葬儀の段取りを話し合っている折 杉浦右門兵衛の殉死が話題となった。藩重役の奥平内蔵之(くらの)允(じょう)は「なんたるたわけたる事をなすものか」と嘆き悔やむと、同じく藩重役奥平隼人(はやと)はこれを聞き追い腹は武士の美徳である 戦場で殿の馬前で討ち死にかなわざれば黄泉路(よみじ)のお供は臣たるものの忠義であり あっぱれなるものである」と返した。内蔵之允は教養があり先例や公儀の通達にも明るく「殉死禁止令は5年前公布され『殉死あらば亡主の不覚悟たるべし』とあるを知らざるや」と言えば隼人は「主を慕う忠臣を公儀が咎めるはずも無かろう」と返す蔵之允は「いやいや 幕府が天下に布令した掟に一つの例外認めるはずも無い 認めれば政道は曲げられ収拾がつかなくなり幕府の権威も地に落ちてしまうことになる。幕府の知るところとなれば藩主の責は糾明され藩は窮地に陥ることとなると言っているのであり杉浦右門兵衛の純粋な気持ちを解るが、もしも世継の昌能様がお咎めを受ければ不忠極まる軽挙と言わざるをえまい。」隼人は「なんの わが藩の君臣の絆の強さを天下に示した天晴れな振舞いぞ」と応じた。中に入るものがありこの日はこれまでで どちらも矛を収めた。母親が姉妹のいとこでありながら日ごろからそりのあわない二人であった。隼人は戦国気風をもった武闘派で腕力もあり人を見下した態度は藩内では影で嫌われていたが、特に内蔵之允をみると犬になったかのように喧嘩腰になり吼える、噛み付く 困った性格である。また内蔵之允は文人派であり教養もあり人望も厚かった。隼人にしてみれば不愉快な存在であった。この鞘当て翌日の葬儀当日にも続くことになる。
2012.02.01
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このときの様子を伝えた古文書(奥平家上級藩士荒尾家に伝えられている)この先は文芸社「浄瑠璃坂の仇討ち・武士たちの復讐」をご覧下さい
2012.01.31
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奥平忠昌の死その忠昌寛文8年2月19日宇都宮藩主奥平忠昌は江戸にて病死した。その知らせは早馬にて翌日20日夜には宇都宮の藩重役にもたらされたがその折側近の1人の杉浦右門兵衛が追い腹を切り殉死した。これが騒動の原因になろうとは誰も夢にも思わなかった。戦国時代もだんだん落ち着き平和な時代に入ろうとしていたが、依然として全国各地で殉死がありこれを憂慮した幕府はこれより5年前殉死を堅く禁じていた。忠昌の子昌能はこの殉死の件を一門衆と相談したところ「公儀より詮議これ有り後に申し上げては如何」との意見を受け公儀には殉死を届けずにいた。忠昌の時代は奥平家が徳川の親藩大名としてその地位をいよいよ固めつつある時代であった。つづきはまた明日
2012.01.30
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宇都宮つり天井事件元和5年〔1616年〕将軍秀忠は家康が祀られている日光に参拝の折、宇都宮に立ち寄った。このとき忠昌は生涯で3度目の拝謁を賜りその隙間なく行き届いた接待に将軍秀忠はたいへん喜び下総の国古河に1万石加増して11万石として転封を言い渡した。(古河領6万5千石 下妻領2万5千石 小山領2万石の合計11万石である)城代として家臣逸見右衛門を下妻城に 同じく桑名主米勝成を小山城に配したこの転封には家康の側近であった本田正純の深い関与があったと思われる。宇都宮は岩槻、古河とともに将軍が日光参拝時の道筋で重要な位置である。特に宇都宮は将軍宿泊の場所として一番大事な場所で、幕府直轄領であってもおかしくない場所である。家康の側近であった本田正純は家康が祀られている日光の膝元の宇都宮はぜひ自分が守りたいと願っていた。そして将軍秀忠に何度も誓願しついにその望みをかなえた。だが、亀姫(忠昌の祖母)はたとえ1万石加増されても奥平の宇都宮転出には不満であった。宇都宮と古河では幕閣のなかでの地位は大きく違うということを亀姫は知っているからであり、また正純もそのことを十分認識していた。本田氏には大久保氏との確執もあり、亀姫は長女の嫁ぎ先である大久保氏と組んで弟の将軍秀忠に圧力をかけたと思われる。秀忠は日光参詣の帰路、恐妻お与(ごう)が急病ということで急ぎ江戸に戻るにあたり、宇都宮を素通して帰城した。これも仕組まれたことかもしれない正純は将軍が立ち寄るというので城をリニュアール、改装してその来着をお待ちしていたのだがそのことが逆に、大久保派、亀姫のつけいる口実を与えてしまったようだ。ご法度のお城改築を幕府に無断で行った。そして天井に仕掛けをし、将軍の暗殺を企てたといいたて、ついに本田正純を失脚させて再び奥平家を宇都宮に戻した。宇都宮城吊り天井事件のあらましである。続きは明日 (このような時代背景の中でいよいよ事件がおきます)
2012.01.29
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忠昌が初めて将軍に拝謁するにあたり家臣・重役はとても心配し作法言葉使いを教え将軍との模擬応対を練習したがのみこみ覚えが早く一同感心しきりだったという。しかし本番では練習以外のお尋ねが将軍よりあり、傅役や重臣一同手に汗する思いでやりとりを聞いていたがすらすらと応じた。指南係りの山崎信興は涙を流してその敏才を讃嘆したという8歳の折には(元和2年3月)駿府に傅役桑名主(もと)米(め)勝成を従え病床の曽祖父家康を見舞った。このときも謁見の儀礼を1日に3回練習を重ね想定問答の練習を数日行った。忠昌の見舞いに家康は大いに喜び寝所に招きいれ対面した。謁見の儀礼も首尾よく終わり、雑談に入った時想定外の質問にも臆することなく堂々と応答した。家康は忠昌の受け答えに始終上機嫌で「だそうな」といちいち相槌をうったという。そして、その利発さに感動し枕箱より印籠を取り出し自ら授けたさらに葵の御紋入りの鞍と源為朝がもちいていたといわれる白鳥鞘の槍をも授けられこれにより奥平家の徳川親藩としての地位はいよいよ磐石となっていった。(白鳥の槍は織田信長より家康が拝領し奥平家の家宝としていたもので現在鳥居強右門の磔の絵図とともに現在大分県中津城に展示公開されている。)ちなみに当時の俗謡に「奥平に過ぎたるもの二つ有り、桑名主米に白鳥の槍」とうたわれたとのことこの白鳥の槍は特別待遇が幕府より与えられている。それは大名が江戸城に登城する際は一般の武具は下馬所で全て預け置かなければならないが、白鳥の槍だけは玄関まで持込が特別に許されていた。また日光参詣時にも例外的に持参が認められていた。このことは奥平家が譜代大名の中でも特別な位置にあったことがうかがえる。続きは明日
2012.01.28
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ちなみに当時の俗謡に「奥平に過ぎたるもの二つ有り、桑名主米に白鳥の槍」とうたわれたとのことこの白鳥の槍は特別待遇が幕府より与えられている。それは大名が江戸城に登城する際は一般の武具は下馬所で全て預け置かなければならないが、白鳥の槍だけは玄関まで持込が特別に許されていた。また日光参詣時にも例外的に持参が認められていた。このことは奥平家が譜代大名の中でも特別な位置にあったことがうかがえる。つづきはまた明日
2012.01.27
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忠昌が初めて将軍に拝謁するにあたり家臣・重役はとても心配し作法言葉使いを教え将軍との模擬応対を練習したがのみこみ覚えが早く一同感心しきりだったという。しかし本番では練習以外のお尋ねが将軍よりあり、傅役や重臣一同手に汗する思いでやりとりを聞いていたがすらすらと応じた。指南係りの山崎信興は涙を流してその敏才を讃嘆したという8歳の折には(元和2年3月)駿府に傅役桑名主米勝成を従え病床の曽祖父家康を見舞った。このときも謁見の儀礼を1日に3回練習を重ね想定問答の練習を数日行った。忠昌の見舞いに家康は大いに喜び寝所に招きいれ対面した。謁見の儀礼も首尾よく終わり、雑談に入った時想定外の質問にも臆することなく堂々と応答した。家康は忠昌の受け答えに始終上機嫌で「だそうな」といちいち相槌をうったという。そして、その利発さに感動し枕箱より印籠を取り出し自ら授けたさらに葵の御紋入りの鞍と源為朝がもちいていたといわれる白鳥鞘の槍をも授けられこれにより奥平家の徳川親藩としての地位はいよいよ磐石となっていった。(白鳥の槍は織田信長より家康が拝領し奥平家の家宝としていたもので現在鳥居強右門の磔の絵図とともに現在大分県中津城に展示公開されている。
2012.01.26
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奥平家昌の死忠昌の父家昌が亡くなったのは慶長19年(1614年)11月11日だった。時あたかも大阪冬の陣がいよいよ始まろうとしていた時期で家昌は江戸城の大切な留守居役を任ぜられていた。38歳の若さでの急死である。忠昌はその時6歳この大役は無理なのでこの任は解かれた。その後忠昌への家督相続が認められ わずか7歳で宇都宮10万石の藩主に就任した。このとき大叔父である将軍秀忠より「忠」の字を賜り忠昌と名乗るようになった。将軍から名前の文字を賜ると言うことはたいへん名誉なことであった。ちなみに一般庶民は殿様の名前の漢字を自分の名前に絶対使ってはいけないし、殿様に子どもができた際、この文字は使用厳禁のお触れが出るくらい重要なことだ。将軍の名前の文字となると超重要なことである。 そのことは奥平家が徳川幕府にとって重要な家の一つであることがうかがえる。つづきは明日また
2012.01.25
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奥平家では辛い防戦に耐え織田、徳川両軍に助けられながらもついに強力な武田軍を跳ね返した5月21日は記念すべき日となった。そして毎年この日に「開運記念祭」を行うようになった。また5月5日は救援軍が来るかどうかもわからず、食糧も底をつき風前の灯となった命に絶望的な中で城主貞昌は自分の命と引き換えに城兵助命嘆願のぎりぎりの決断を迫られた日であった。毎年この日 5月5日(端午の節句)には城の堀のタニシを集め城内の山菜・ワラビやヤマイモを採って食し祖先の苦労を忘れず感謝する日とした。この行事は豊前の国中津に国替えになった後も続けられた。戦勝の日 信長、信忠(信長の嫡男)家康は長篠城に入り家康は籠城した奥平貞昌はじめ重臣12名にひとりひとりに声をかけ手をとりねぎらった。このことが後に奥平5老7族として代々陪臣でありながら将軍に拝謁できる嘉例となり、徳川家親藩の中でも異例の地位を与えられることとなった。また織田信長は貞昌に「信」の字を与え信昌と名乗ることを許した。このときより奥平家は運が開けたといえる。奥平親子のいってみれば“賭け”が後の徳川親藩として10万石大名の礎となったのである。さらに この席で家康はさきの条件のほかに名刀『大般若長光』を貞昌に与え称えた。つづきはまた明日
2012.01.24
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中央付近で戦っていた馬場はこれを見て勝頼救援の為急きょ駆けつけ敵の囲みを打ち破り勝頼の逃げ道を拵えるべく奮戦したが馬場の周は僅か数十人の兵になってしまっていた「我こそは武田の家臣馬場美濃守信春である この首を取って手柄とせよ」と大声でわめくと敵方の兵達がたちまち集まりその真ん中で串刺しにされ 首をとられ果てた。これにより勝頼は命からがら甲斐に逃げ帰ることが出来たのである。長篠・設楽原の戦いは織・徳連合軍の圧勝のうちに終わった。つづきは明日
2012.01.23
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これまでの戦では想像もできない鉄砲の使い方である。鉄砲は弾を込めるのに時間がかかりすぎるため戦ではあまり役に立たないものとされ、補助的に使われるくらいであった。信長の戦法は3000挺の鉄砲隊を3班に分け1班が発射するとすぐ3班の後ろに回り弾を込め2班、3班が討ち終わると最前列に出て発射 このローテーションで弾を隙間なく発射させたのであるこの時代の世界の戦でも類を見ない斬新な鉄砲の使い方であった。戦場における鉄砲の威力に気付いていた信長は早くから堺と鉄砲鍛冶の国友村を領地として押さえ鉄砲を量産させていたのだ。武田の猛将山縣昌景は「これはまともに正面から攻撃しても撃たれるだけだ、柵の後ろに廻り込もうと考え敵の右翼を大きく迂回して徳川家康の本陣に肉薄したが、半減した兵力では家康本陣を目の前にあえなく討ち取られるしかなかった。勝頼はもはや退くしかないと決意 退き鉦を鳴らさせ撤退を始めた 退き鉦を聞くと味方の兵達は浮き足たちもはや武器をすて逃げるだけに心血を注ぐようになった。たとえ兵力が5分5分だったとしても兵力差は9対1ないしは8対2くらいの気分になってしまうものである。このような状況の中、勝頼は織田・徳川の連合軍に囲まれてしまったつづきは明日
2012.01.22
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ようやく織田・徳川連合軍28000が長篠城の西1里あまり(5km)の設楽原に到着ここに半里(2km)にわたり馬防柵を設け左翼に木下、中央に前田、右翼に本多右翼後方に家康の陣左翼後方に信長の本陣を配した。しかしこれ以上長篠城に近づこうとはせず様子を見ている。これをみた勝頼は「奴らは武田軍に恐れをなし とどまり様子を伺っているに相違ない 今こそ信長、家康を滅ぼす絶好の時である」とした。しかし、馬場信春や山縣昌景ら重臣たちは『何か策略があるやも知れませぬ また兵力の差もありすぎますれば、ここは一旦甲斐に退き次の機会に出直しましょうぞ」と交戦を避けることを進言したが若い勝頼は聞き入れず、やむなく有力武将達もしたがった。そして長篠城の包囲に3000の兵を残し17000の兵を設楽原に向かわせた。そして勝頼の号令のもと法螺貝をならし鉦太鼓を打ち鳴らし、土煙を上げ猛前と柵を目指し突進んで行ったところがここで勝頼は思いもよらない光景を目にすることとなった。それは柵の隙間から突き出された銃口がいっせいに火を噴き兵馬が次々となぎ倒されていっつた。それでもしゃにむに柵に突撃しようと試みるが間断なく銃が火を噴きみるみる殺傷されて鉄砲の威力をみせつけられた。信じられない光景であった。兵力みるみるうちには激減していった続きは明日
2012.01.21
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強衛門は「ありがたきお言葉」と礼を申し述べた。その夜武田の家臣が強衛門のそばに寄ってきて明日の朝城に近い柵際までゆき大声で「家康様、信長様は救援に来れないので城を明け渡すがよい」と申すように そうすれば勝頼公もお喜びになり褒美も下さり武田家臣として末代まで大事にされようと言った。強衛門はすこし考えているようであったが、「わかり申したさればその旨(むね)申しましょう」と大きく返事をした。家臣は微笑み満足して戻っていった。しかし翌朝武田方にすれば驚くようなことを言ってのけた。 城に近い柵より強衛門は大音声で城方に呼びかけた「鳥居強衛門である城中の衆に申し伝える信長公、家康公1両日の内には着陣致す故、気を引き締め城を守るがよい。今生のなごりなり!」と言ったため城方の兵たちは歓声をあげ活気を取り戻したが 武田方の侍はあわてて口を塞ごうと飛び掛ってきた。しかしもう言ってしまった後どうにもならない。たちまち縄でくくられ城から一望できる寒狭川の岸に磔台にのせられ城兵の見守る中槍でクシ刺しにされ果てた。見ていた城兵たちは磔台で血を流し頭をたれている強衛門に涙ながら手を合わせ読経し感謝したこのことは後世の奥平藩士がこのことを忘れないため後日絵師に描かせ城に掲げたつづきは明日
2012.01.20
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そしてこの城に奥平貞能の子 貞昌を入れ500人あまりで守らせた。奥平に裏切られ徳川方に城を奪われた勝頼は家臣の手前 面子(めんつ)にかけても城を取り戻そうと怒りに燃えていた。その結果、長篠城は武田勝頼に包囲され猛攻を受けることになった。多数の死傷者を出しながらも必死に城を守って浜松の家康からの援軍を待ったが援軍は来る気配もなく全員あきらめの雰囲気になっていた。切羽詰った城主貞昌は自分の命とひき替えに武田に降伏し家来全員の助命を勝頼に嘆願しようとも考えた。一方、家康も救援に向かうにも手勢は5000しかなく同盟者の織田信長に救援を頼んでいた。尾張では評議の場で長篠見殺しを言う家臣もあり救援が遅れていたが信長は武田が衰退に向っているとの判断で援軍を差向ける事とした。評定の席で援軍を見合わせるべきという家臣の意見に『面白き積りかな』=(妙な事をいう奴らだ)「この節根切り眼前に候」=(武田を根絶やしにするのは目前である)と信長が言ったと古文書にある。長篠城内ではとにかく岡崎の家康のもとに援軍を頼もうということになった。このとき鳥居強(とりいすね)衛門(えもん)という雑兵がただ1人手を挙げ使者の役目をかって出た。夜陰にまぎれ城からこっそり出て城の下を流れる寒狭川にはいり武田方に気付かれないよう間道60Kmをひた走り岡崎にたどりついた。そこにはすでに織田信長も着陣しており鳥居強衛門は信長に拝謁し城内の状況を知らせ救援を乞うた。信長はたいへん誉め「両3日内には必ず救援に出発する。危険だから戻るに及ばず。」と言ったが 「このことは戻って城内の苦戦している城将貞昌や家臣のみなに知らせたい」として勇躍して戻っていった。 そして昼夜を駆けに駆け再び寒狭川にはいろうとした時武田方がし掛けてあった鳴子に足がかかり見つかって捕らえられてしまった。強衛門は勝頼のまえに引き据えられ尋問されたが、堂々とした態度で正直に援軍を請いに岡崎までいったこと、援軍が来ることを申し述べた。勝頼はその自若とした態度に感銘し殺すには惜しいとし武田の家来になるよう勧めた。つづきは明日
2012.01.19
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本日の毎日新聞 文芸社広告に載りましたのでご覧下さいさて昨日の続き お話しましょう奥平氏は奥三河南設楽(みなみしたら)作手(つくで)で北設楽田峯菅沼氏、南設楽長篠菅沼氏とともに山家(やまが)三方(さんぽう)衆(しゅう)と呼ばれ弱小豪族でありながらも今川氏の配下にあり今川のために戦にたびたび駆出されていたが比較的平凡な日々であった。ところがこの平穏な暮らしは桶狭間で支配者である今川義元が織田信長により討たれると一挙に不安定なものになってきた。そんな中、奥三河は武田と徳川の中間にあり山家三方衆は今度は強力な武田信玄の圧力を受ける事となり武田の配下となって戦に駆り出されることを甘受せざるを得なくなった。今川家の人質であった徳川家康は今川氏から解放され岡崎に戻り着々と地盤を固めつつ、織田信長と同盟を結んだ。ところがまたも予測できない出来事が起こってしまった武田信玄は将軍足利義昭の呼びかけに応じ大軍をもって上洛の途上にあったが、信州駒場で病にたおれ元亀4年4月12日年死去したのである。「3年間は隠すべし」と信玄は遺言しておりその死は厳重に秘密とされた。 しかし武田軍の動きがにわかに止まったため “武田に何かが起こった”と徳川家康をはじめ周辺の城主たちは情報を得ようと躍起になっていた。家康は武田方の城に攻撃を仕掛けたり武田領に火を放ったりして再三刺激してみるが何の気配もなく静かであった。ふだんなら怒った信玄が報復にのりだして来るのだが全く反応がない。しかし信玄の身に何かが起きたという確証がないまま時間が過ぎていった。そんな折武田の配下にあった奥平貞能・貞昌親子は信玄の後を継いだ勝頼では武田家が衰運に入るであろうと読んだ そして徳川に寝返ることを決意した。まもなく勝頼を見限り 手土産として“信玄死亡”の情報をもって徳川の陣に駆け込んだ。それは武田の人質となっていた貞昌の許婚(いいなづけ)と弟・叔父が怒り狂った武田勝頼に殺されてしまうという辛い選択でもあった。やはり「信玄は死んでいたのか」と家康は思ったが、味方になったり裏切ったりが日常のこの地域の豪族をまともに信じるほど家康は単純ではなかった。慎重で且つ石橋をたたいて渡る性格の家康は確実を担保するため人質が欲しいと思った そこで彼は貞能を人質として浜松に留め、なおかつ 破格の条件をだした。それは一、 貞能の息子貞昌に家康の娘亀姫を娶わせる二、 奥平の知行はそのまま認める三、 さらに山家三方衆の知行も今後の働き次第では与える四、 このほか三河と天竜川以西の地を来春より与えるというものだった。ここでまたこの地区の勢力図が変わってしまった。他の山家衆はまたも動揺することとなった。無節操のようだが、風で揺れ動く葦のように今川についたり、武田の家来になったり、徳川の陣営に入ったり生きる為には仕方のないことだった。徳川家康は武田方についていた長篠(ながしの)城主菅沼正貞を攻撃する一方で山家衆には調略を執拗につづけた。ついに長篠城をおとした家康はこの城の軍事的価値を高く評価していたので武田から三河を守る最前線とし城を強固にするための改修工事を行った。
2012.01.18
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寛文8年旧暦2月19日宇都宮藩主奥平忠昌は江戸において病死した。その知らせは早馬にて翌日20日夜には宇都宮の藩重役にもたらされたがその折側近の1人の、杉浦右門兵衛が追い腹を切り殉死した。これが騒動の原因になろうとは誰も夢にも思わなかった。戦国時代もだんだん落ち着き平和な時代に入ろうとしていたが、依然として全国各地で殉死がありこれを憂慮した幕府はこれより5年前武家諸法度で殉死を堅く禁じていた。忠昌の時代は奥平家が徳川の親藩(しんぱん)大名としてその位置をいよいよ固めつつある時代でもあった。さて奥平氏の歴史をひも解いてみよう続きは明日
2012.01.17
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浄瑠璃坂の仇討ちこの事件は今から340年前の寛文12年2月3日未明午前4時ごろ江戸 市谷の浄瑠璃坂(現在の東京都新宿区市谷田町2丁目から砂土原町へ上る坂)において旧宇都宮藩奥平家の元藩士の屋敷を同じく元藩士40人が襲い殺害した事件である。藩の上級武士(大身衆)を上級武士(大身衆)の子弟やその家来たちが亡くなった大身衆の息子で当時11歳の少年に加勢のため高禄を捨て、世継ぎの権利を捨てて脱藩して加わっている。これは5年の歳月をかけこの浄瑠璃坂で15歳になった少年についに仇討ちの本望を遂げさせた仲間たちの日本史上まれにみる大掛かりな仇討ち復讐事件だ。大身衆である彼らの親たちは脱藩できないため息子の脱藩を黙認し影から支援していた。大掛かりな仇討ち事件といえばその30年後に起きる赤穂浪士による吉良邸討ち入りがあるがこの事件の場合首謀者大石内蔵助以外はほとんどが下級武士で、亡き主君の無念を晴らすといった主従関係からの仇討ちという点では少し違うと思う。首謀者大石は浄瑠璃坂の仇討ち事件を詳細に研究したといわれている。手口が非常に似通ったところが各所に見られる。両事件とも仇討ちの本懐は遂げたものの赤穂浪士の場合は全員切腹、浄瑠璃坂事件の場合は全員 諸藩へ再就職と大きな違いが出ている。これはその時の幕府の中で力を持っていた者がどのように結論を導いていったかによって大きく変わったようだ。この点は赤穂浪士大石内蔵助の計算違いだったかもしれない。つづきはまた明日
2012.01.16
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雨上がりの水田で案山子たちが運動会をしていました
2011.11.25
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きゅうりのようなかぼちゃと巨大しいたけをいただいたしいたけは一番大きいもので直径15cmくらい(比較するものがないので実感できませんが)スーパーでは売られていません[味がよくないとか〕私は味は同じように思えるのですがかぼちゃもあまくておいしい。これもスーパーではまづみられないと思う
2011.10.19
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本日ピーナツ収穫収納初夏に種を蒔いてより約く半年ようやく収穫カラスに蒔いた種を盗られたり、地中の虫に実を食べられたり、害虫に葉を喰われたりたいへんでした。一番大変なのは収穫です。実をちぎり取るのがたいへんなてまです。10m×5mの畑に植えていた収穫量ですが1人で3日かけて収穫しました。我が家の1年分くらいの収穫量でしょうか買えば中国産で1袋150gくらいで148円 買ったほうがはるかに楽ですが、味がちがいます何と言っても国産取れたてです。ピーナツの国産ものが高価の理由がよくわかりました。味がよく、労働生産性が低いというのが一番の原因でしょう。
2011.10.08
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このところ梅雨のような毎日がつづきます農作業はむしあつく、汗が大量にでてたいへんです。熱中症に気をけながらがんばっています変わったかぼちゃができましたので紹介します。
2011.09.19
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緑のカーテンとして育てた苦瓜となた豆の実が食べ時を逸してなた豆は巨大化、苦瓜は実がはじけて種が落ちつつあります。なた豆の実はまずくて食べられなかった記憶があります、苦瓜の種の周りはプヨプヨして甘いが、食べるのがめんどうだから食べません
2011.09.18
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台風の風も雨もさして影響なく一安心、これから台風の進路に当たっているみなさん警戒怠り無く、被害なく無事に通過すること祈ります今日はスモモの収穫 酸っぱく、甘い果物ですがスーパーではけっこうな値段が付いているようです。変換のときひょっと思い出したのですが『李下に冠をたださず』の李はスモモでしょうか疑われるような行いをしてはいけないということにスモモが出てくるとはなぜでしょうかね?ほかに美味しい果物ありそうですが・・・
2011.07.19
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胡瓜は2代目の苗(1代目は既に収穫終わり 枯れました)ホームセンターで見切り処分で半額の苗を購入 毎年2代目用は処分品です。十分実をつけてくれます。トマトは1代目の芽カキしたものを挿し木していたものから実がなりましたかぼちゃは春先に買ったかぼちゃのたねをばら撒いて出来たもの元手はほとんどかかりません桃は難しいです 実に成った4割くらいは虫食いです。手入れ消毒がたいへんです値段が高いのが納得できます桃はあと10個で終わりです次はスモモです
2011.07.17
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3月ごろ、季節はずれのかぼちゃを購入、ニュージランド産と表示があった。一足早く夏の味を堪能したが種が沢山あったので、畑にばら撒いていたところ、芽がでて、成長し実がついた空き地のあちこちで実がなった。買うとかぼちゃは結構高い こんなに簡単に全く手入れなく肥料なしで出来ると思うとうれしくなる。ニュージランド出身、日本育ちのかぼちゃ楽しみです勢いがよく溝を越え、土手を乗り越えようとしています
2011.07.04
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めっちゃ暑くじめじめした日ですがぶどうの袋かけしましたホームセンターで買っていた袋200枚のうち房の数160一気にかけました暑くて、首が痛くて両手が疲れました。このぶどうは病害虫に強く酸味が少なく、甘いのが特徴ですが商品としてはうすい緑色なので傷が目立ちやすく陳列しても見栄えがしないためかスーパーの店頭ではほとんど見かけなかったのですが最近ではぼちぼち見かけられます。10年ほど前ホームセンターで苗を買って植えて軒に這わせていましたが今年は棚を作って広げたところ一挙に広がり食べきれないのではと思います。
2011.06.26
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毎年手入れも消毒もせず50粒ほど収穫 今年もパラパラと実がついたので袋をかけることにした。 これだけはしないと虫や蜂に食べられてしまうから売られているような房付き出では無いが、1粒1粒の味は遜色ない 甘くて美味しければよいと思っています
2011.06.23
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今年も緑のカーテンを作る予定ですが昨年苦瓜が連作のため生育が悪かったのでプランターに植えようと思っていました。節電で多くの人が植えるとのことで種が品切れ ふとTVでパッションフルーツがよいとの報道があり園芸店に電話してみたがどこも無い。そこでインテーネット通販で注文したがお一人様4本まで15cmポットで700円とかなり高いがTV報道のおかげで品不足気味 何とか入手花が咲きました。業者さん今年は大儲け?では・・・ともあれ実はジャムにする予定
2011.06.21
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昭和のはじめ頃まで 農家では蚕を飼っていたそうですが、その株が残っていて大きな木になり毎年実をつける。ことしも沢山実がついているがほんの一部収穫してジャムにした。甘酸っぱくて野いちごの味がする。
2011.06.05
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今年もぶどうの花が終わり小さい実が沢山つきました。これから摘果、袋かけ忙しくなりますが、木は1本のみですので大した作業ではありません。種類はナイアガラという白ぶどうです。病気、害虫に強いので消毒は一応1回のみ 毎年欲張って摘果が少なく実が小さくなり後悔 今年は思い切って摘果するつもり
2011.06.03
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緑のカーテンに今年はパッションフルーツを植えた。テレビで紹介されたので・・・園芸店をあたってみたがどこにも無いのでインターネットで探し注文したところ本日到着早速プランターに植えつけた 昨年苦瓜を植えたが連作障害で葉の繁りも実付きもだめ[連作がダメとは知らなかった] そこでプランターを用意して苗を購入予定だったが、テレビ番組を見て急遽変更ということになりましたテレビの影響か品薄らしく1人あたり4本までと制限だったので3本購入 実なりが楽しみです。ジャムによいと聞いています
2011.06.02
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先日種を蒔いたピーナツがこの2~3日の雨で発芽し、芽が出たとたん ことごとくカラスに食べられた、再度種を蒔き今度はネットと防鳥糸でガードさらにカラスの模型の「怖カラス」を設置今度は万全とおもうが・・・にっくきカラスめ
2011.05.31
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昨年秋 通販で購入したアーモンドの苗30本発芽せず枯れているようです販売元に連絡するとこの秋に代替品をおくるとのことだが おそらく生産者が、落葉の後除草剤を噴霧したとおもわれる落葉して葉がないので枯れることはないとおもい噴霧したとおもわれるが、葉の付け根にある新芽に霧がつくと葉がついている時より枯れやすいということを知らなかったようです。友人に手伝いを頼んで植え付けしたのですががっかりです そのうえ1年がフイになってしまった実は収穫できるとは思っていないのですが、花が美しいので桜のかわりに 花見をしようとおもっていました。芽が出ないアーモンドの苗
2011.05.26
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約100平米の遊休地にピーナツの種を蒔いた午前中耕し畝を作りマルチ張り1畝2列穴が120個、5畝で600穴に種2個と化学肥料 かなり疲れた くたくたです全くの素人だが、収穫が楽しみです すごい量になりそう。そのときは友人知人に分けよう。だが「獲らぬ狸のなんとやら?」かも・・・・種はスーパーで売っている中国産生のピーナツ(1袋¥299を4袋)だが発芽は昨年経験スミ(発芽率約7割)予備の種はキープ
2011.05.21
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藩内の世論を背景に源八より喧嘩(けんか)両成敗により隼人にも切腹仰せ付けられるよう藩に請願が出された。老臣兵藤玄蕃もこの事件を憂慮し隼人にも死を賜らなければ藩内の騒ぎはますます大きくなり結局は主家にも累を及ぼすことになるとして藩主に訴えた「長篠以来の五老であり大切な両家の断絶にもなりかねない事態であれば速やかに御処断を願いあげます」と藩主に上訴した。亡くなった先代忠昌公の側近で昌能公のもり役・教育係りの杉浦右門兵衛は昌能公を幼い頃より何かと厳しく指導していた。そのため右門兵衛は昌能公に嫌われていた。 そのことが次の発言となり事件が拡大してゆくことになった。藩主昌能公は父忠昌公が病死した際、「そなた、主君が亡くなったにもかかわらず、いまだのうのうと生きているのか」と罵声を浴びせた そのため右門兵衛は辱められたと感じ同時に憤りをもって切腹して果てた。昌能公はその殉死を公儀の御法度を破った善右衛門の非とした内蔵之允を憎み 対して善右衛門の切腹を当然とした隼人を藩主昌能公は贔屓(ひいき)したのだった。そのため上訴は採用されず「両家とも東照宮謁見・独見の家柄なればひとまず公儀にお伺いの上にいたそう」として幕府の裁定を仰ごうということになった。公儀の内意を伺うべく使者の向かった先は公儀の役人島田出雲守・坂部三十郎であった。この二人、隼人の親戚筋にあたり、隼人から内々工作がなされておりその他役人にも賂が密かに渡されていた模様 これとは別に幕府内の権力者本田正純もこの事件を利用して自らの欲望を達成しようと密かに考えていた(幕府の処分によりこの後宇都宮藩は本田家が奥平家に代わって入ったが後年、宇都宮吊天井事件で再び奥平家が入ることになる。これは亀姫の本田家に対する巻き返しと言われている)このことにより杉浦右衛門兵衛の殉死が明るみに出たばかりでなく、死者が出るような藩内の争い事が公儀の知るところとなり八月二日、藩主昌能公は月番老中久世大和守より翌日四時に登城を命じられた。そして八月三日、月代を整えて登城すると筆頭老中酒井雅楽頭はご法度の殉死者を出したことは「届けでは乱気」とあるが重々不届きである 叉、藩重役による刃傷沙汰で自殺者を出したことは看過できないとしながらも譜代藩であり、奥平家は先祖代々徳川家にご奉公勤めてきた家柄でもある故二万石減封の上 山形九万石を申し渡した。他藩なら取り潰しも考えられるところを二万石だけの減封で済んだのは先祖の功績があったからと、家康の娘で祖母の亀姫の存在が大きいと言えるつづきは明日
2011.05.14
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10年以上前ユズの種を畑に蒔いていたものが成長して今年初めて花がついた感激です。諺どうりです。早く実を見たいものです。柿も種を蒔いたものが3年前くらいから実がついています。これは食べてみないと渋柿か甘柿か解りません実生の木は1本の木に甘い柿渋い柿丸い柿 とがった柿と色々なります不思議です。秋に写真掲載します
2011.05.12
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興禅寺での刃傷事件その後一同仏殿に進み読経の後焼香の儀も順次滞りなく終り退出した。その折 内蔵之允は廊下にて隼人と行き逢い顔を合わせると今までの隠忍自重の重石がはずれ堰をきったように今までの無念の思いが溢れ出しもはやこれまで「日ごろの悪態思い知れ」といきなり太刀を抜き払い突然隼人に切りつけたしかし、体の不調に加え極限の興奮状態のため間合いが十分でなく一撃は届かず空を切り床に剣先をたたきつけてしまった。隼人はすかさず抜刀し立会い逆に内蔵之允に切りつけ傷を負わせた。そこに隼人の後に従っていた弟の主馬允も抜刀 兄の隼人に助太刀し内蔵之允に一太刀あびせ更なる負傷を負わせたところに騒ぎを聞きつけて兵藤玄蕃(ひょうどうげんば)が駆けつけ割れんばかりの大声で「双方とも控えられよ」さらに大声で「控えられよ」と中に割って入り「お静かに、お静かにまずは刀を納められよ」と大男の玄蕃に大喝されると双方とも刀を納めそれぞれの親戚・友人たちに引き取らせた。内蔵之允は出血がはなはだしく子息源八や親戚衆に手当てをうけ抱きかかえられながら駕篭にて帰宅した。内蔵之允は自宅にて療養を続けていた。一日中臥せっていると事件のことが片時も頭からはなれず、痛みとともに悔しさが込み上げあれこれ考え 痛憤の情はますます昂じいよいよ頭は熱くなるばかり 。妻は心配し「事件のことは忘れなさいませ 体に毒です。体をお揉みいたしましょう」などと気遣っていた。腰痛のほかに屈辱の刀傷を負い肉体的にも精神的にも辛い毎日を送っていた。しかし、冷静さは日を追うごとに失われていったそして事件から20日後の4月22日家族の留守中白帷子に着替え先祖の仏壇に手を合わせ自刃して果てた。息子源八は親族友人にその最後を知らせると みな驚き藩重役には傷口より破傷風を起こし急逝したとして届けでたがそもそも本人が藩重役であり一方の隼人も1200石取りの藩重役であるので、隠し通せるはずも無くたちまち藩内に真実は広がってしまい大騒ぎとなった。このことは隼人にとっても日に日に居り辛いものとなっていった。隼人の親戚の奥平武兵衛は隼人を呼び寄せ「この上はそなたも切腹するほかは無かろう」と説諭した。隼人も藩内の空気は自分にとっては厳しいものであり、居り場の無いような雰囲気に覚悟を決めた。しかし隼人の父親半斎は承服せず息子の切腹には同意しなかった。つづきは明日
2011.05.11
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どうも苺畑がおかしい・・・?毎日熟しかけた苺の実がなくなっているような気がするが・・・わからない 足跡もない今日ついに証拠を見つけた。青い苺が鋭くえぐられ捨てられている。まさにカラスの嘴のあと 1年をかけて育ててきたものを収穫時期に盗み取って行くにっくきカラス逮捕することを決意 トラップを仕掛けることにした。今日から知恵比べ必ず逮捕!する
2011.05.11
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雨模様だったが、梨・桃の摘果をした今年は消毒が聞いているせいか害虫や葉の病気が少ないもう少し大きくなったら袋かけ 草きり消毒など忙しくなる ミカンにも花が咲き始めた豊作を期待したい。
2011.05.10
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