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天の王朝
ハーバード経済日誌(6)
授業についていくには、大量なリーディングの宿題をこなさなければいけないことはすでに書いた。時々あまりにも大量なので閉口することもあるが、カルブとパターソンの授業のリーディングに関しては、テーマによっては非常に面白く、学生のほうからもっと読みたいと要求することもあった(もちろん私は要求しなかった)。
最初の「報道の自由と責任」で私が驚いたのは、アメリカ人の間で報道機関に対する不信感がかなり高まっているということだった。報道機関は司法、行政、立法に次ぐ第四の権力になっているが、果たして選挙によって選ばれたわけでもない報道機関の人間が、これほど力を持っていいのか、という議論を展開した。
報道機関に対する不信感は、「わざと暗いニュースを流している」「政府を批判ばかりして何もしない」「政治的なバイアスがある」「会社の利益を優先しており、信頼できない」といった不満などから来ているようだった。最後の「会社の利益を優先しており、信頼できない」というのは、ディズニーのメディア王国を見るまでもなく、近年の米国の報道機関ではまさにその通りになってきたように思う。
「これほどの力を持っていいのか」に対する私の考えは明瞭である。ニュースメディアが反権力の立場であり続けるかぎり、つまり権力の監視者としての立場を失わないかぎり、ニュースメディアは第四の権力としての価値がある、いやむしろ強いに越したことはないというものだ。
しかし、そのようなニュースメディアが現在、アメリカに存在するのか、非常に疑問だ。9・11以降の大手アメリカ報道機関の有様は、権力にべったりくっついたブッシュの広報宣伝機関になり下がった。
最近でこそ少しまともになったが、戦前の日本の大本営発表みたいのような発表を繰り返すか、ブッシュ政権のプロパガンダに踊らされる報道機関がほとんどだった。それ以上にひどいフォックステレビの扇動的、超愛国主義的な“ニュース”や“解説”など論外である。一つのテロによって、ここまでアメリカの報道機関が堕落するとは、私は驚き、落胆し、あきれるばかり。マービン・カルブもさぞ嘆いていることだろう。
●メディア論番外
無知と傲慢
今日ほど無知により、そして傲慢な結果として生き物が殺されていく時代を私は知らない。イラクでは、ありもしない大量破壊兵器のために何万人という人々が殺された。中東では毎日のように、そこに昔から住んでいるパレスチナ人が、途中からやって来た者に邪魔物扱いされ殺されていている。アメリカが“テロリスト”の側に分類したせいで、多くのアフガニスタンの人々は非情な爆弾の犠牲となった。
殺される前には常に、もっともらしい理由が付け加えられる。「やつらは大量破壊兵器を今にも使おうとしているのだ」とか、「やつらは拷問により人々を苦しめている残虐な圧制者である」とか、「やつらは人間を平気で殺すテロリストだ」とかいった理由だ。つまり、殺される側がいかにひどい人間であるかを強調するプロパガンダが展開される。悪いことに、ほとんどのメディアはそれを煽ることしかしない。
何かが狂っている。
だがこの狂気は、ごく身近にも迫っているのだ。
身勝手な人間に捨てられたという“理由”で、数え切れないほどの犬や猫が殺されている。人間が過剰に植林した杉などのせいで、昨秋には多くの熊たちが射殺された。
東京都では、人間の出したゴミのせいで四万羽という聖なるカラスが殺された。そして今度は、カラスを殺しすぎたという理由で大量のハトが飢え死にさせられようとしている。青森のサルに続き軽井沢でも、「人間様が先に住んでいる」という理由でサルを駆除する動きがある。そして、いつものようにメディアは、ハトのフン害の“恐怖”、カラスやサルの“凶暴性”を「それみたことか」と書き立てる。
朝日新聞「私の視点:軽井沢のサル 駆除で住民の暮らしを守れ」(一月二十九日付朝刊)で関谷富蔵氏は「軽井沢には元々サルはいなかった」と言う。人間は被害者だ、サルを駆除して何が悪いというわけだ。そうかもしれない。だが、もっと大きなスパンで見れば「軽井沢には元々、人間はいなかった」のではなかったか。
殺す側は、動物を駆除するのは最後の手段だと主張する。すべての手段を尽くした上で「どうしようもない」から殺すのだ、と。どこかで聞いた言葉だ。確か人間もあの時、戦争は最後の手段だと叫んでいた。
行き着く先は誰でも想像できるはずだ。臭い、汚い、目障りだという理由でホームレス狩りが実行され、人間の生活圏から鳥や野良猫がいなくなる。次は、国益のためだといって私たちの自由は奪われ、自国に都合の悪い真実を書けば、愛国的でないという理由で社会的に抹殺される。
「どうしようもない」という理由で私たちが殺される時代は、すぐそこにまで迫っている。
●NHKと朝日新聞の抗争
9・11テロ後、アメリカ報道機関の名声は地に落ちたと先に述べたが、では日本の報道機関の現状はどうか。現在、NHKと朝日新聞の間で特定の政治家がNHKに圧力をかけたか、かけないかで醜い争いをしている。
だが、そもそもNHKを中立な報道機関、つまり“不偏不党”の報道機関だと考えるほうがおかしい。NHKは昔も今も、事実上の政府の御用報道機関であり、与党の広報機関的色彩が極めて強い。それを不偏不党のニュースを伝えているなどと称しているほうがおこがましいというものだ(NHKの災害報道だけは、一応のまともなニュースと呼んでもよい)。
安倍、中川という特定政治家がNHKに“圧力”をかけたのかどうか、私は知らない。しかし、国会で多数を占める自民党の“ご承認”がなければ予算も通らないきわめて弱い立場にNHKはある。承認がなければ、番組を作るどころか職員に給料を払うこともできないのだ。時の政府に逆らえるはずがない。その意味で、圧力がなくとも、NHKは自民党に実質的に牛耳られているのだから、自民党幹部の言葉は「神の声」である。中川や安倍の言うように「圧力」などではなく、ただの有無を言わせぬ「神の声」であったのだろう。
もちろんNHKにも、かなり公平で素晴らしい番組はある。特に教育テレビのドキュメンタリーには時々、目を見張らされる。しかし、ニュース7とか、ニュース10を見ると、吐き気を催すような権力者べったりの報道が多いのも事実だ。北朝鮮中央放送と違い、多くの日本人はそれを不偏不党なニュースだと思い込んでいるだけ、たちが悪いといえる。
今のシステムで、NHKが本当に独立した不偏不党の報道機関でありたいなら、予算が承認されなくとも我々は真実の番組を作るのだという決死の意気込みを、報道に携わる局員が持つことよりほかにないであろう。それは、給料をもらえなくとも真実の報道をするという決意である。
今のNHKにそれができるとは到底思えない。それがNHKの実態である。それでも受信料を払いたいと思う人は払えばいい。
●テレビという巨大メディア
近年のアメリカのメディアを論ずるうえで、テレビの影響の急激な増大を取り上げないわけにはいかない。それがマービン・カルブの授業の第二週で議論した「テレビの隆盛とその力」だ。
現代の政治家のイメージはテレビによって作られる。テレビが政治家を選び、人気や不人気を作り出し、そして最後にその政治家の政治生命を奪うというように、政治家の殺生与奪の権利を握っているのではないか、という問題提議があった。
テレビニュースが登場した当初は、確かにそれほど政治に影響を与えるケースは少なかった。おそらく、そのテレビの役割を決定的に変えたのが、一九六〇年の米大統領選でジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンが行った初のテレビ討論会であろう。それまでも政治家は、効果的にテレビを利用してきた。しかし、この討論会以降、テレビを使ったより洗練された(狡猾な)利用方法が必要であると認識されたという意味で画期的であった。
ニクソンには不運な面と慢心した面があった。八月に膝を怪我して入院、体重が落ち、第一回目のテレビ討論会があった9月26日になっても膝は完治していなかった。ニクソンは病人のように見えた。加えて、ケネディがスタッフと入念な打ち合わせをし、休息を十分に取っていたのに対し、ニクソンはほとんど休まず、選挙運動や討論会のための資料を読むなど緊張した時間を過ごした。
ダークスーツを着たケネディは日焼けして、若くて健康的に見えたのに対し、グレーのスーツを身にまとったニクソンは化粧が必要なほど青白く、不健康で疲れて見えた。
討論自体はお互いに揚げ足を取られないように、慎重な発言に終始した。討論会をラジオで聴いていた視聴者は、ニクソンの慎重な語り口に軍配を挙げる人が多かった。
ところが、テレビを見ていた視聴者は、老人のようにか弱そうにみえるニクソンに政治家としての豊富な経験を見るよりも、ケネディの中に自身に満ちた若き指導者の姿を見た。テレビの中のニクソンは額や唇をぬぐうなど神経質そうで緊張しているのがはっきりとわかった。
一方ケネディは、リラックスして堂々として見えた。ケネディが視聴者や国民に話しかけているのに対し、ニクソンは目の前にいるケネディにしか話しかけなかった、という印象を与えた。
この第一回目のテレビ討論会が、その後の選挙の行方を変えたのだとする人は多い。実際選挙では、若輩のケネディが僅差ながら外交実績のあるニクソンを破った。これ以降、テレビのイメージを最大限利用しようとする動きが主流となるのもこのためだ。
しかし、昨年の大統領候補テレビ討論会を見ていると、そうでもないような気がする。あれだけ失態をさらしたブッシュは、今でもホワイトハウスに居座っている。もちろんテレビが映し出すイメージは選挙でも重視されているだろうが、フォックステレビなどを見ていると、テレビ局自体を取り込み、年がら年中、視聴者を洗脳するもっと大掛かりなシステムが進行中なのではないかと思ってしまう。
●選ばれし者たち、そしてウソ
報道機関に携わる者が選挙で選ばれた者でないのに対して、選ばれし者たちが大統領や議員たちだ。カルブの授業第三週の「米議会の挑戦と問題点」では、1994年11月に米議会では40年ぶりに上下両院を共和党が支配することになったことを取り上げた(その後も共和党がほぼ両院を支配し続けている)。
それまでの米議会は上院と下院で、うまく民主党と共和党がどちらかの主導権を握るように選挙で議員が選ばれていた。この背景には、米国の選挙民のバランス感覚によるものと理解されていた。確かに選挙では、民主党の大統領が選ばれたときは、議会は共和党が躍進し、共和党が大統領に選ばれたときは、議会は民主党が躍進するというように、うまく選挙民が選び分けていた場合があった。
しかし、どうも1994年ごろから、そのバランスが崩れ始めたようだ。私にはそのきっかけが、クリントンにあったように思われる。クリントンは抜群の人気で、共和党支持者の間にも支持を広げていった。そして、その幅広い人気を支えたのが中道寄りの政策であるといわれている。
これが非常に効果的であったため、それぞれの党が中道層を取り込もうとする政策を掲げはじめた。すると、政策を見ると似たりよったりで共和党なのか民主党なのかよくわからなくなってきた。共和党議員を選ぼうが、民主党議員を選ぼうがもはや、そう大差がないのではないかと選挙民が考えるようになり、それまで保たれてきたバランスも崩壊していったように感じられる。
同時に米メディアもバランスを崩しはじめた。冷戦も終わり、国内では共和党と民主党の政策に大差がない以上、ニュースを盛り上げるためには、より大きな関心事や対立軸を作り出す必要が出てきた。そのきっかけがホワイトウォーターとか、モニカ・ルインスキーといったスキャンダルであった。メディアが飛びつかないはずがない。
クリントンが下半身スキャンダルでウソをついたのは明白だ。それをウソでないかのように弁明する話術はこっけいでもあった。大統領の権威は失墜。米国民だけでなく世界中の人々が注目するお笑い政治ショーとなった。
しかし今から考えると、のどかな時代であったと思う。イラクが大量破壊兵器を持っているからだといってイラクを攻撃したウソに比べれば、クリントンのウソは何とかわいかったことか。より大掛かりなウソが、まかり通る世の中になってしまった。
●新しいメディアの誕生
メディアやコミュニケーションの技術革新は、政治そのもののやり方を根本的に変えたといわれている。カルブの授業第四週の「新しいメディア技術――その機会と危険性」では、ハイテク時代のメディアと政治のあり方について議論した。
たとえば今日のテレビ報道では、相互コミュニケーションができるようになったため、即座に視聴者や選挙民の反応がわかる。すると、進行中の番組の中で、ある政治家の発言に対し、どういう国民の反応があったかが短期間のうちに知ることができるわけだ。その結果、その番組放映中にその政治家は、自分の発言を修正したり、弁明したりすることにより、ダメージコントロールをすることも可能になる。
もちろん、これ以上のことが実際に行われていると思う。政治家が演説する際、事前にモニターを使って演説の一言一句に対して肯定的な反応をするか、否定的な反応をするかを調査することは常識になっている。
これを、原稿を事前に用意できる演説ではなく、大統領選挙のテレビ討論に応用することも可能だろう。あるテーマについて、国民の心を最も捉える言葉を、モニターを使って瞬時に選び、その結果を候補者に無線でフィードバックする(すでにテレビ討論でブッシュが無線を使った疑惑は浮上している)。候補者はその言葉をさも、昔から考えていたかのように話せばいいのだ。
インターネットを含むコミュニケーションツールの技術進歩は、10年前までは想像もできなかった政治手法を可能にしている。インターネットを使えば、効果的な世論調査を短時間に実施することもできる。逆にインターネットの“世論”を操作する政治も出現するわけだ。一説には、日本人がイラクで人質になったときに「自己責任論」が跋扈したのも、政治的な仕掛け人がいたとされている。
メディアは確実に、より巧妙に、より一般からはわからない形で、政治的に利用されはじめている。細川首相がプロンプターを使って、それまでのいかにも原稿を棒読みしていますタイプのイメージからの脱却を図ったのは、10年以上も前だ。いかにスマートなイメージを作り出すかは、いまでは政治家の日常となった。
そして、ニクソンとケネディの討論会から本格化したイメージ合戦の主戦場であるテレビは、世界をとんでもない方向へと導くプロパガンダの道具へと変貌していくのだが、その話は第12週目の「湾岸戦争」の項に譲ることにする。
●世紀の裁判ショー1(O・J・シンプソン裁判)
「昔の報道機関は裁判など取材しなかった」と、マービン・カルブは言う。かつて(おそらく1950年代~60年代)アメリカでは、裁判はプライベートなことであり、報道機関が踏み込むべき場所ではないという意識があったのだという。しかし今は、そんなことはない。メディアは、可能な限りそのプライベートな部分に踏み込もうとする。
今日では、裁判はメディアが大々的に取り上げるショーとなった。その中でもとくに大々的に取り上げられた出来事が、元プロフットボールの花形スター選手O・J・シンプソン(以下OJ)が容疑者とされた殺人事件の裁判だった。事件のあらましは次の通りだ。
事の発端は1994年6月13日午前零時一〇分ごろ。ロサンゼルス市内にあるOJの元妻ニコール・シンプソンの自宅玄関先で、ニコールとボーイフレンドのロナルド・ゴールドマンの惨殺死体が見つかった。あたり一面は血の海で、犯人のものと思われる靴の跡や手袋の片方(左手用)が落ちていた。
午前5時頃、現場から約2マイル離れたシンプソンの自宅を訪ねた刑事が、敷地内に止めてあったシンプソンの車フォード・ブロンコを見つけ調べたところ、運転手側のドアに血痕が付着していた。家の中には友人のカトー・カエリンと娘のアーネル・シンプソンがおり、シンプソンは前日の午後11時前にシカゴ行きの深夜便の飛行機に乗るといって家を出たという。
シンプソンの家のゲスト・バンガローの裏庭の通路では、右手用の手袋が発見された。死体発見現場で見つかった手袋と同じものだった。フォード・ブロンコ内からも血痕が見つかった。
そのころOJは、確かにシカゴにいた。そこで「事件のことを知って」トンボ帰り。ロス市警の事情聴取を受ける。OJは、死体が発見された日に手を怪我し、その血がフォード・ブロンコに付着したのだと供述した。
物的証拠や状況証拠は、OJ犯行説を裏付けるものばかりだった。OJの自宅寝室からは血のついた靴下が発見され、事件が発生した時間に25分間ほどOJはかかってきた電話に出なかったこともわかった。後に証言を拒否されたが、その時間帯にフォード・ブロンコを運転するOJを目撃したとの証言もあった。OJの家で発見された手袋には被害者の血痕がついていたこともDNA鑑定で判明。現場の靴跡もOJの靴のサイズと一致した。
これだけ証拠がそろえば後は逮捕しかない。六月一七日には逮捕状が交付されたが、OJは制止を振り切り、フォード・ブロンコで逃走。その様子をメディアがヘリコプターから撮影、全米にテレビ放映するなど大捕り物劇が展開された。午後八時前、自宅に着いたOJを警察のSWATチームが取り囲み、一時間後にようやく車から降りてきたOJを逮捕した。
全米の話題はOJの捕り物劇でもちきり。メディアは当然、トップニュースでこれを伝えた。まさに、これから始まる世紀の裁判ショーにふさわしい幕開けとなった。
●世紀の裁判ショー2(O・J・シンプソン裁判)
1995年1月24日から始まった裁判で、OJは一貫して無実を訴えた。裁判は全米が注目する中、すべてが異様な雰囲気の中で進行した。報道は過熱する一方だった。
その異様さの背景には、1992年に起きたロス暴動があった。黒人男性ロドニー・キングが白人警官四人から暴行を受け、その様子がビデオで公開され、全米の関心事となった。ところが警官は白人住民の多い地域で裁判を受けて無罪となったことから、黒人住民らが暴動を起こしたのだ。
ロス暴動の悪夢を繰り返すことはできない、と様々な配慮がなされた。裁判官には黒人でも白人でもない、日系人を任命。裁判管区も白人優位のサンタモニカを避け、白人の比率が比較的少ないダウンタウンに変更された。その結果、最終的に選ばれた陪審員12人の構成は、黒人8人、白人1人、中南米系2人、白人とインディアンの混血1人となった。加えて検察側は、有罪となっても死刑を求刑しないと宣言するなど異例の事態となった。
ほとんどの証拠はOJが犯人であることを示していた。OJにはアリバイがなく、凶器とみられるナイフも事件前に購入していた。現場の血痕のDNA鑑定もOJに不利であった。しかも、殺人の1月前には殺害されたニコールに対しシンプソンは「お前が別の男と一緒にいるのを見たら殺す」と脅している。
それでもOJは無罪となった。優秀なOJの弁護団が、警察の致命的な捜査ミスと「人種差別主義者の刑事」によるでっち上げがあったと主張。実際に、捜査ミスと黒人差別用語を連発する白人刑事がいることが公判でも明らかにされた。その結果、この弁護団の主張が陪審員に受け入れられ、95年10月3日無罪の評決が下された。
しかしその後、被害者の遺族らが起こした慰謝料請求裁判では、事情はまったく違った。陪審員が白人9人、黒人1人、中南米系一人、黒人とアジア系の混血一人と白人優位の構成となった民事裁判では、OJは二人の殺害に責任があることが認められ、850万ドルの補償賠償支払いと2500万ドルの懲罰賠償支払いが命ぜられた。
以上が一連のO・J・シンプソン事件の顛末だ。この裁判はアメリカが抱える大きな問題である人種問題、貧富問題、制度上の問題の三つを浮き彫りにした。授業でもこの3つの問題点についての議論が白熱したが、その模様は明日の日記で。
●世紀の裁判ショー3(O・J・シンプソン裁判)
O・J・シンプソン事件はアメリカの暗部を象徴する出来事でもあった。一つは人種の問題。黒人に対する(とくに陪審員の)根深い偏見から、黒人が公正な裁判を受けることができないのではないかという不満が黒人社会には渦巻いている。
二つ目は貧富の問題。富める者は優秀な弁護士を雇えるが、貧者はそうした弁護士を雇うのもままならず、有罪や敗訴になる可能性が強まる。三つ目は陪審員制度など司法制度そのものに内包する矛盾という問題だ。
授業の討論でも、やはり人種と貧富の格差問題が議論の中心となった。とくにラテンアメリカの学生から、アメリカ司法制度への激しい批判があったのは興味深かった。それは「アメリカではカネで正義も買える」というもので、それを聞いたマービン・カルブは耳をふさぐ仕草をして「聞きたくない」というジェスチャーをしたのが印象に残っている(ラテンアメリカの国々の司法制度の実態も調べてみれば埃がたくさん出るかもしれないが、授業ではそのテーマで話し合うことはなかった)。
アメリカ人として聞きたくない現実というものが、OJの事件の中に凝縮されている。状況的には完全に有罪と思われる事件の容疑者が、なぜ刑を免れることができたのか。実際民事では、犯人であると事実上断定されている(これには、刑事と民事では立証責任の程度に差があることも背景にある)。
もちろんどの国の司法制度にも欠陥はある。アメリカでは、陪審員の人種構成比が判決を左右するのではないかとの見方が強い。OJの裁判がまさにそれで、陪審員が選ばれる地域により判決が左右されることはほぼ事実であろう。事実、「無罪」の評決が発表された直後にCBSが行った世論調査では、白人の約六割が評決を「誤り」だとしたのに対し、黒人の約九割が評決は「正しかった」と回答したという。
OJの弁護士団は結局、こうした制度上の問題や人種の問題をうまく利用した。メディアも、弁護士の主張を大々的に報じないはずはなかった。だがアメリカの徹底しているところは、陪審員は公判が始まってから結論を出すまでの九ヶ月間、ホテルに缶詰になりテレビはおろか、新聞も読めなくなることだ。つまり陪審員は情報から隔絶された“牢獄”に入り、事実上24時間監視されることになる。これにより陪審員は「メディア操作」から逃れられるというわけだ。
しかし法廷という戦場では、弁護士による情報操作が極めて大きなウェートを占める。高額な報酬を請求する優秀な弁護士であればなおさらだ。
事実、陪審員の中には、「もしテレビなどのニュースを見ていたら、無罪とはならなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている人もいたという。メディア操作がいいのか、弁護士による操作がいいのか、あるいは検察側の情報操作がいいのか、アメリカ社会はいつも究極の選択を迫られているようだ。
●新たな世紀の裁判ショー(マイケル・ジャクソン裁判)
OJ裁判のほとぼりも冷め、静かな新世紀を迎えられると思ったら、今度は新たな世紀の裁判ショーが始まった。児童虐待罪など複数の罪に問われているポップス界のスーパースター、マイケル・ジャクソンの裁判だ。
メディアの注目度・加熱度は、OJ裁判のときと同じ様相を呈してきた。1月31日に開かれた初公判では、無実であることを誇示するかのような白のスーツに身を包んだジャクソンが、裁判所周辺に集まったファンや報道陣にVサインを送るなどのパフォーマンスを見せ、全米メディアが大々的に報じている。
すでにメディアを使ったイメージ戦争は始まっている。OJのときのように無罪を勝ち取れば、それだけ名声を得ることができる弁護団のそろばん勘定。奇行癖など何かと話題性があるため、マイケル・ジャクソンの一挙手一投足を興味本位で取り上げるマスコミの好奇心。「マイケルは黒人の英雄」的なイメージを守ろうとするジャクソン・ファンの熱狂。それぞれの思惑が交錯する中、ジャクソンはこれからも、扇情的なマスコミの犠牲者であるとの「悲劇の黒人ヒーロー」を演じていくだろう。
メディアはこれをどう伝えていくべきなのだろうか。OJ裁判のときは、メディアが提示する事件の真相と、報道から隔絶された陪審員が知りえた事件の真相とは明らかに異なった。しかし、これから選ばれる陪審員もすでに加熱したメディアの情報にさらされている。弁護側や検察側がこれから示す事件の真相の数々も、多分に演出されたもの違いない。
本当に公平で公正な裁判などあるのだろうか。おそらく、世界中どこの国にも存在しないのかもしれない。
その中でメディアができる唯一の仕事は、センセーショナルに書きたてることではなく、検察側にせよ、弁護側にせよ、いかなる政治的な情報操作にも影響されずに、冷徹に裁判を分析していくほかないだろう。もっとも、買収による大企業支配が進む中、すっかりショー化した米ニュースメディアに、冷徹な分析など求めるのは無理かもしれないが・・・。
裁判は評決が出るまで半年近くかかり、もし有罪となれば、20年以上の実刑が科せられる見込みだという。
●大統領と報道機関
マービン・カルブの第六週の授業では、大統領とメディアの関係について議論した。これは取材する側とされる側の永遠のテーマでもある。取材先とどこまで付き合い、どこまで親しくすべきなのか、一方、取材される側も取材する側をどこまで信用すべきなのか、といった問題が常に付きまとうからだ。
記者は大統領をはじめてとする政治家から情報を得ようとする。大統領(政治家)は記者を利用して自分の都合のいいように原稿を書かせようとする。両者の利益が一致する場合もあるが、多くの場合は本当に書きたいことと、書かせたいこととはかなり異なる。
その結果、紙面やテレビで現われるニュースは、大統領(政治家)にとって都合のいいニュースと都合の悪いニュースが交錯することになる。その比率は残念なことに、大統領(政治家)に都合のいいニュースのほうが圧倒的に多い気がする。
これは仕方がないといえば、仕方がない面もある。情報を知るものと、それを得ようとするものとの立場の違いが大きなハンディとなっている。情報を得ようとするものは、ある程度取材源に気に入られる必要がある。その度合いが深まると、取材源に染まってしまう。例えば、読売のナベツネなどは完全に取材先の政治家に染まりながら、のし上がっていった政治記者の典型のような人物といえる。また、そうしないとネタを取れないというジレンマもある。
元ワシントンポスト編集主幹ベン・ブラドリーの『マイ・グッド・ライフ』を読むと、アメリカの政治記者にも同じようなジレンマがあるようだ。ブラドリーはたまたま、首都ワシントンDC・ジョージタウンの引越し先で、上院議員だったジョン・F・ケネディの隣人になったことからJFKと親しくなった。その後JFKが大統領になった後もその親交は続き、ブラドリーは大統領から特ダネを次々ともらいスクープを連発する。ケネディにとっても利用価値はあったし、ブラドリーにとっては願ってもない状況だった。当然のことのように、JFKに対する批判記事は少なくなる。
だが、JFKが暗殺され、ジョンソンが大統領になると、形勢は一変する。ジョンソンはわざとワシントンポストのブラドリーにガセネタをつかませたり、重要な情報を知らせなかったりする。ジョンソンはJFKシンパに事実上の報復を始める。
私にはJFKとブラドリーの蜜月的な関係よりも、ジョンソンとブラドリーの緊張感のある関係のほうが健全のように思える。緊張関係があったからこそ、後のペンタゴンペーパー事件では権力と真っ向から戦う姿勢を示せたのだし、ウォーターゲート事件のスクープにつながったのではないだろうか。
●ウォーターゲート事件とメディア
ペンタゴンペーパーのスクープとウォーターゲート事件の報道は今でも、米ジャーナリズムの金字塔となっている。おそらく、これほど米ジャーナリズムがいい意味で脚光を浴び、活気に満ちた時代はなかったのではないか、とも思える。
1971年、ヴェトナム戦争に関する国防総省極秘文書がニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙などに漏れる事件があり、その一部が裁判になった。これをペンタゴン文書事件という。
極秘文書を漏洩するのは国益に反する許されざる行為なのか、それとも国民の知る権利が優先されるべきなのか。裁判では大統領の記事差し止め請求の適否が論点になったが、結局、新聞社側が勝訴した。仮に新聞社側が負けていれば、取材活動は大いに規制・制限され、国民が知らされる“事実”は権力者に都合のいいものばかりになっていたかもしれない。米メディアは面目を保ったわけだ。
ウォーターゲート事件も、メディア側の“勝利”であったといえる。1972年6月、首都ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会本部に共和党筋の人物が盗聴装置を設置するために侵入して逮捕された。逮捕されたのは、フランク・スタージスという亡命キューバ人で、ケネディ暗殺でも暗躍したとされるCIAの非合法工作担当員ら7人。ただの侵入事件ではないとにらんだワシントン・ポストの記者が、ニクソン政権ぐるみの不正行為である疑いが強いことを執拗に暴き続け、一大スキャンダルへと発展した。
裁判の過程では、ホワイトハウスのもみ消し工作と上層部の関与、以前から政敵に対して行ってきた不法な諜報活動が次々と明るみに出た。リチャード・ニクソン大統領自ら「潔白を証明する」ために、執務室の会話と電話のやり取りを記録したテープを提出したが、作為された空白があることがわかってしまうなど逆に疑惑を深める結果となった(私はこの空白の部分にこそ、ケネディ暗殺に関する決定的な発言があったのではないかと思っています。それについてもいずれ、このホームページで公開していきます。すぐに知りたい方は、図書館で拙著『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』近代文芸社をお読みください)。
さらには、大統領の納税申告における不当な控除やスピロ・アグニュー副大統領の汚職容疑に絡む辞任などがあり、ニクソンに対する国民の不信感は急速に強まった。一方ニクソンは1973年9月、対ソ連、対中国話し合い政策の推進に功績を挙げたヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を国務長官に抜擢、平和外交姿勢を明確にするなどイメージアップ作戦を展開した。しかし、ニクソン最後の悪あがきも無駄に終わり、74年7月には下院司法委員会で弾劾勧告決議が採択され、同年八月八日ニクソンは自ら職を辞した。
ウォーターゲート事件は、大統領対メディアという対立図式でもあった。大統領辞任までには司法や議会の功績もあったが、これほどの大スキャンダルに発展した背景には、ワシントン・ポストの二人の記者の執念があったことは特筆すべきであろう。米メディアこうして、権力の不正に立ち向かうという「輝かしい伝統」をつくり上げた。
しかし、その伝統もつかの間であったのかもしれない。現在の米メディアは権力に飼い慣らされた「尻尾を振る番犬」でしかない。魂を悪魔に売ったファウストのようで、利益優先の大企業にその魂を売り、いつしか権力の宣伝機関となった米報道機関の「屍」の数々を見ると、無性に悲しくなってくる。
●米大統領選とメディア
マービン・カルブの第八週の授業では、大統領選とメディアについて議論した。といっても1996年の大統領選なので、クリントンの再選は半ば決まっていたし、それほど盛り上がっていたとはいえない。ただ、授業と同時並行で選挙戦が繰り広げられていたので、それなりの臨場感があるクラスとなった。
今から思うと、1996年の大統領選はのどかだった。クリントンの対立候補であったボブ・ドールも人のいいおじいさんのように見えた。メディアも選挙を淡々と伝え、可もなく不可もない報道だったのではないだろうか。勝負は初めから決まっていたので、メディア操作をする素地も少なかったのだろう。
その後、2000年、2004年の米大統領選の報道を見ると、牙を抜かれた米メディアの実態がくっきりと浮かび上がってくる。2000年の大統領選ではフロリダ州で不正があったのは明白だ。以前、この日記でも紹介したように私のクラスメートでもあったキャサリン・ハリスと、ジェブ・ブッシュの悪党コンビは、民主党支持者とみられる黒人票を中心に一方的な公民権剥奪という手段を使って「都合の悪い票」を大量に葬り去った。しかし、そのことを報じたのは米メディアではなく、外国のメディア(英オブザーバー紙のグレッグ・パラストの記事)であった。
米メディアはこの件に関しては、概してあまり報じないか、報じても扱いが小さいように思う。なぜ選挙の不正を徹底的に叩かなかったのか。ウォーターゲート事件で見せた執念はどこにも見られなかった。不正は2004年にもあったとみられるが、米メディアはほとんど骨抜きにされたようで、「終わったことはどうしようもない」との姿勢を通しているようだ。
2000年の大統領選では共和党系が支配する最高裁の壁の前に、本当は選挙に勝っていたゴアが敗れた。ゴアは最後までフロリダ州の票をカウントさせるよう戦うべきだったが、アメリカを二分するような亀裂を生じさせないために身を引いた形になった。しかし、このゴアの誤った決断の背後には、メディアによって意図的に築かれた「世論」があったように思う。
「これ以上ゴアが駄々をこねるのは潔くない」との世論をつくり上げたのは、誰であったのか。その一つの答えが、メディアが実施した世論調査だ。あるいは、メディアが報じる「町の声」や「評論家の意見」であった。だが、本当に客観性のある調査が実施されているのだろうか。あるいは、本当にそんな結果になるほど米国民は頭が悪いのか、と思われるような場合が多い。
思えば、1960年の大統領選でもケネディの父親ジョゼフ・ケネディはイリノイ州で不正を働いた疑いが強い。その不正の結果、稀にみる激戦を制して生まれた大統領が英雄になるわけだから、勝てば官軍。悔しかったらどんな手を使ってでも勝ってみろ、ということか。
選挙人名簿から民主党支持者とみられるマイノリティーを大量に除外してしまうような国である。アメリカは、もう何でもありの「不正天国」になったようだ。米メディアが果たす役割は、その不正のための道具にしかすぎないのだろうか。
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