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ラジオから流れていた「Dragon Night」や「Hey Ho」の曲がすごくいい!と思っていたら、同じバンドの曲だった。というところから始まって、先日ドームライブのTVを見てすっかりはまってしまったHANNAです。 TVで歌詞がちゃんと文字で出て、よかった。何せ聞きづらくて、ながいこと「Drag the Night」だと思ってたので(夜を引きずって、か、いいなあ、なんて思っていた)。ドラゴンだと知ってから、急にTMnetworkの「Dragon the Festival」(1985年)を思い出したのですが、このころ私自身がドラゴンの詩をたくさん書いてみたりしたので、この曲のイメージも大好きだったし、それが年月を飛び越えて急によみがえってきた感じです。 で、やっと歌詞がちゃんと分かったのですけど、百万年に一度の奇蹟の休戦、そのスパンのあり得なさが切ないですね。安直に「友達になって」ではなく、「友達のように」歌い踊る「ぼくたち」は、夜が明けたら敵同士に戻って戦わないといけない、そんなキビシイ状況がほの見えます。 クリスマス休戦にヒントを得た曲だそうですが、ほんとの戦争でなくても、この世界いつも何かで競い合い弱肉強食しているわけで、それをやめたら自分の存在が危ない。それこそ99回負けても戦わないと、そして結局100回負けてしまうんだけど(「Fight Music」)。 われらは時代の移り変わる中を長い敗北の戦いを戦ってきたのです。 J.R.R.トールキン「指輪物語」よりガラドリエルのせりふ 明日押しのけ(られ)てしまう競争相手と、明日には食べてしまう動植物と、今宵限りの友達休戦。そんなこと考えると、イマドキは中二病(?)とか言うんでしょうか。でも若いときにそういうことをちゃんと悩むのって、ある意味健全な特権ですよね。 というわけで、とりあえずがんばろう的な歌が多いような気がする今日この頃、セカオワの歌にはたいてい、どうにもならないキビシイ事実(自分が居れば他者が居るという原罪的な認識と、世界/自分には必ず終わりが来るという諸行無常性)が底流にあって、だからこそ、歌わずにはいられない「今」の貴重さが、切ない。 80s世代が聴くとセカオワの全体の感じは、レトロでノスタルジック、移動遊園地とか、エレクトリカル・パレード(ディズニーランド)とか。去年の紅白でちらっと見たらピエロの人がいたので、ああ、トリックスターだな。と、自分の好きなイメージがまたフィットしました。 おもしろうて、やがて悲しき。終末と再生とがめぐりつづける永遠。光/闇、善/悪などの表裏一体性。それを現実社会のあれこれにあてはめると理不尽で不条理なSFになりますが、もっと普遍的なイメージに変換してカメラを引いて眺めるとファンタジーになる。セカオワのいろいろな曲を聴いて、そんなことを思いました。 ところで娘は「眠り姫」が好きだそうなんですが、この歌詞で私には、眠り姫=子供時代の無垢な自分、と読めてしまいました。思春期というのは、子供の自分と目覚めた自分(大人になる自分)とが同居している、疾風怒濤の冒険時代。今までのワタシとこれからのワタシが手に手をとってその時期をくぐりぬけると、大人のワタシができあがり子供のワタシは死んでしまう(たぶん)。それで、思春期には「死」と「再生」のイメージが満ちている、というのは、いつものように河合隼雄の受け売りですが、グリムの「眠り姫」もガラスの棺の「白雪姫」も、そういうイメージでとらえることができます。 セカオワの「ぼく」は、もうじき目覚めなくなる無垢なる子供の自分を、心のどこかで早くも悼みつつ、冒険時代をまだ戦っている。やがてくる「黄金時代(楽園世界)の終わり」を敏感に感じ、すべてに疑問を感じながら手探りでダンジョンを進んでいる。 そんな気がします。
May 16, 2017
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前に「小学館オールカラー世界の童話シリーズ」を話題にしましたが、同じくらい古い記憶に、「こどものうた」(小学館の童謡絵本)があります。10ページぐらいしかない絵本で、表紙に赤い服を着た女の子が、色とりどりに塗り分けたおもちゃの鉄琴をたたいている絵がついていました。 そういう鉄琴を、確か自分でも持っていたような気がします。ドが赤で1番、レが黄色で2番、となっている定番のおもちゃです。 どんな歌が載っていたのか、全部は覚えていませんが、最初の方のページにある「かなりや」がとても好きでした。 ♪うたをわすれたかなりやは うしろのやぶにすてましょかという、西條八十のあの歌です。 一行目から衝撃的な歌詞です。歌わない鳥を捨てるとは。私の家はそのころ、よく鳴くカナリアを飼っていました。日曜日の朝、みながねぼうしていると、夜のあいだ玄関の暗がりでフロシキをかけてある丸い鳥かごの中から、ピー、チチチチ、チュチュチュチュ、とだんだん高くなる歌声が聞こえ、彼の声域のてっぺんまで上り詰めると、最後はピピピピチーチーチー♪ とミの音で終わる歌でした(幼心に、私にはそう聞こえました)。 そんな、私にとっては身近だったカナリアを、この歌ではいとも簡単に捨てたり、ぶったりするのです。 しかし、挿絵にはそんなおそろしい情景はありませんでした。見開きいっぱいの月夜の水面に、ほっそりと輝く白い小舟、そこにただ一羽乗っかって孤独の中で歌おうとしている、月光の化身のような、レモンイエローのカナリアが描かれていました。 その、幻想的で美しかったこと。カナリアはさびしそうというより、俗世を超越した芸術家のような孤高で清浄な雰囲気で、その絵は「捨てましょか」の歌詞以上に、衝撃的でした。 ♪うたをわすれたかなりやは ぞうげのふねにぎんのかい つきよのうみにうかべれば わすれたうたをおもいだす --西條八十「金糸雀」 この絵本には、ほかに「雨ふり」「花嫁人形」「夕焼け小焼け」があったのを覚えていますが、とくに「花嫁人形」はキライでした。日本の風土的悲しさがいっぱいで、晴れの花嫁姿で泣かねばならない彼女の口に出せない悲しい状況、その歌を歌いながら折り紙の花嫁人形で無心に遊ぶ少女(そんな絵がついていたと思うのですが)も、今は知らないけれどゆくてに希望が見えない・・・そんな印象を持ちました。
April 9, 2014
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初めて音楽について書きます。といっても、やっぱりファンタジーがらみなんですが。 古いジャズIt's Only A Paper Moon(「ペーパー・ムーン」)という曲をこのところなぜか聞きたくて、手持ちのCD「上海バンスキング」(映画もあったけど、吉田日出子の舞台の方)を何度もかけていました。他にもYou Tubeでいろんな人が歌っているのを順番に聴いたりとか。 そしたら発売されたばかりのポール・マッカートニーのアルバムKISSES ON THE BOTTOMにこの曲が入っていることが分かって、衝動買いしてしまいました むかし新書館から「ペーパームーン」という雑誌や本が出ていたことがあって、雑誌の方は印象的な表紙をめくると私の好きな佐藤史生をはじめ竹宮恵子とか萩尾望都とかのSFやファンタジックな作品がいっぱい載っていたのでした。特集本にはトールキンなどもとりあげられていましたっけ。 そのタイトルからの連想でこの曲を知ったのでしたが、実はこの曲をテーマに?した70年代のノスタルジックな映画(画像はそのDVD)もあったりして、「ペーパー・ムーン」という言葉は何だか魔法のような響きを持っていました。 歌詞の大意は 「厚紙の海の上にただよう紙のお月様にすぎなくても、もしあなたが私を信じてくれれば、それは作り物じゃなくなるよ」 「モスリンの木に架かった帆布の空でも、私を信じてくれれば、作り物じゃなくなるよ」 「あなたの愛がなければ浮かれ騒ぎのパレードだけど・・・」みたいな。 この歌詞から私がまた連想したのが、長野まゆみ『少年アリス』で、主人公が真夜中の学校から群青色のビロードでできた「夜空」にブリキの月と貝殻の星を取りつけにいく場面。ありえないと思っていたのに、「教師」に促されるまま空を飛んでみると夜空は本当にビロードの天幕になっており、そこへクレーンの鎖でつるされた月がのぼっていく・・・ さらに、飛浩隆『グラン・ヴァカンス』の舞台、サイバー空間の「ハリガミの海」。 それらは作り物でありながらとてもリアルで、既視感をさそうほどノスタルジックで、魅力的なんですね。 最後に、歌詞や物語に出てくる「作り物」が信頼と愛(!)によって本物よりリアルにいとおしくなるという現象については、ロマン派の詩人コールリッジの言葉「自発的に不信感を停止すること」(willing suspension of disbelief)のファンタジックな解釈なんじゃないかと思うのです。 お芝居の舞台の上で紙細工の月が本物であるためには、演じる人も観る人も、好意的に想像力を働かせてそれを信じなくてはならない。逆に言うと、想像力と愛さえあれば、作り物でもいいんですよね。それどころか、シンプルな作り物ほど、想像力と愛の注ぎようによって、どんなものにでもなれる可能性を秘めています。 CGやSFX、3Dなど技術が進んで映像世界はほんとにリアルになってきましたが、もしかするとそれは逆に、観る側の想像力(そして愛も?)を働かせる余地を奪っているのかもしれません。 いろいろ考えさせられる「ペーパー・ムーン」ですが、そんな思いもポール・マッカートニーの甘くて軽やかな声にとけていきます。いまだに、いい声ですねえ。
February 8, 2012
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