変なじじい『ゆきのじょーお』

変なじじい『ゆきのじょーお』

2014/09/04
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 これはわてには、ちょいと長い作品でなーあ、分割して記載しますがな~あ、これが最後でんがなーあ

 剣客として生きる伊勢守でんがな~あ、あまりにできすぎたお話ですがな~あ。ま~あ、かなり割り引いてみましたがな~あ。。

領主が死んだ今は、斬り死にと摩利支天の旗を立てて突入も、ホラ貝を鳴り響いて、信玄の使者が現れた、使者は信玄の娘聟の穴山信君で、伊勢守は内容を聞いた。落城した今は、無益な嵐をして、伊勢守のようなあっぱれな兵法者を死なせてはならぬとの意向だった、これを伊勢守は受け入れた、信玄の仕官の勧めも断り、他家へは仕官せずと誓い、剣の道に行きたいと言った。信玄は剣士よりも麾下に於いて将として使いたかったようだが、伊勢守の意思を尊重して、信の字を与え、伊勢守秀綱を伊勢守信綱に改めたのだーあ。
大胡、上泉はの地と城はおぬしのものゃ、上杉につくなり、武田に付くなり勝手にいたせと、息子に譲り、疋田文五郎と神後宗治の2人を連れて、上州を去った。2人は弟子の中でも双璧の腕のものだ。

剣の修行の旅が始まるのだ、自らの剣法を新陰流と名付けたのだ、竹刀を発明したのも、伊勢守だ、木剣では型を取る練習だが、これだと遠慮なく打ち込める稽古が出来るというのだ。

旅の途中、尾張で無頼漢が赤児を取って立てこもっていると聞き、剃髪して、僧衣を身につけて、僧となっておにぎり2つを持って、立てこもっている無頼漢のところに行き、油断した瞬間を取り押さえるというエピソードが入ってるがな~あ、このエピソードを嘘と見る人もいる書いているところが、気に入ったな~あ。

そして、京都では相国寺に滞在した、試合を申し込むものが数多くあったが、断っている。その中に十河というのがあった。17年前対決した男で、左目はつぶれていた。だが、ただ断り続けた。まーあ、いろんな尾ひれが付いた話があるでしょう。

そして、柳生の招きで奈良に向かったのだ。宝蔵院がが宿舎に当てられて、柳生と宝蔵院はつきあいが深かったのだ、柳生宗厳が一手指南をというと、弟子の疋田に相手をという、だが畿内切手の兵法者の宗厳も疋田に打ち込めなかった。宗厳37,伊勢守56歳という・・・そして、今度は伊勢守が相手をして、3度とも宗厳は打ち込めなかった。柳生の伊勢守への尊敬はさらに高まり、柳生の里にのんびりと滞在したという。

伊勢守に訃報が届く、息子の秀胤が死んだのだ、弟子に漏らすなと訃報もたらした家来に言って、上州に戻った、秀胤は北条に付いたのだが、戦死してしまったのだ。
大胡の城に戻ると、家来たちは復帰してくれると思ったが、19歳になっている千丸を城主として、主水憲元と名乗れと言った。

伊勢守は柳生に現れて、宗厳に新陰流の印可城を与えたのだ、それから、1年経ってまた、柳生に現れた、宗厳に課題を与えておいたのだ、無刀取りの術を自分が会得できなかったので、宗厳に託していたのだ、それが形が見えてきたと疲労されて、納得したのだ。そして、目録を譲り、後継者としたのだ。

伊勢守はふるさとに向かっていき、瀬田のは死にかかった、十河一門が待っていたのだ、十河が試合と掛かってきたが、切り倒した。そして一門の人が21が師の敵と掛かってきたのをすべて打ち倒した・・その後。消息は聞かないという。

「柳生の里」「瀬田の白雨」の2つの節をよみましたがなーあ。

まーあ、ざっと伊勢守の生涯を語った作品でんがな~あ。これをベースに肉つけした作品がいくつかあるようですなーあ。





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最終更新日  2014/09/05 11:44:46 PM
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