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出戻るかもしれませんが、ブログを引っ越します。ここは、このままで。そして、新しい場所へ。http://stayuplater.blogspot.com/うるさい広告のないところへ。少し透明感のあるところへ。無駄のないところへ。
2011/06/07
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あなたがいないのにあなたが死んだというのに時間の流れには何の支障もないようです。ただ不思議です。だってあなたが死んだというのに。もう少し世界がきしんだりつまずいたりするのが道理ではないでしょうか。あなたが死んでしまったんですよ。もっと一切合切めちゃくちゃに狂って滞るものかと思っていたのに死ぬ前の日や死んだ日とそれからは全く同じに一日は朝から始まってきちんと昼になってから夜で終わる。そして最も納得がいかないことに少し待つだけでまた正確に次の朝がくるという。あなたが死んでしまったというのに時間は進みます。何も地球の自転公転にあなたが影響を及ぼすとは考えないけれど、ちっとも影響がないとなるとそれはそれでどうしてだろうと首を傾げたくもなるのです。
2011/03/15
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広義では地震の夜であるが、狭義では地震の夜に入らない、私の場所。気をもむ先が地震の夜のただ中にあり、現地の惨状や不便を見聞きする目に目に、海外からぞくぞくとやってきてくれる救助隊が映る。同じ国にいて、あんなに大切な人のためにどうして何もしてやれない。あまつさえ知人のひとりはまだ見つかってもいない。平和教育という名のもと、精神的にまだ卵の白身くらいだった私たちは放射能の恐ろしさ、激しさ、というよりもむしろその結果として起こる人体的所見のグロテスクさをいやというほど刷り込まれている。こうして少しずつ削られて無気力になってしまうのか。そんなことをしたら本当にこの国は沈む。どこにいて心臓をどうしているか分からない災地の彼も私が沈んでいたら、物理的に沈んで死んでしまいそうだ。桁が違う情勢ニュースが続くなか、自分の抱いていた「災害に際してのもろもろの数値の桁」がもろくもゆらいですぐに麻痺する。10000人行方が分からない。2000人見つかった。8000人に「減った」。8000人?その町の、その数だけでもおそろしいのに。8000に減ったことに安堵しかけて止まる。2000人見つかったことよりも、得体の知れない「行方不明」という恐ろしい塊が減ったことに意識がとられる。わからない。分からなさすぎて、数枚の札を募金箱に押し込んだ。人工呼吸の、心臓マッサージのように。
2011/03/15
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旅行という名前で正式に呼べるような旅行は、とんとしていない。目的地あるいは目的を持ってどこか遠くまで出向くことになぜだか強い魅力を感じていないのだ。随分年上の人は、「行けるだけ行っておきなさい」と言っていた。でも、その意味するところが実感できない。何事も体験だとは言うものの、私は、かなり頭の中でひとりきりで、いろんな物事を済ませてしまう。いろんなところに行ってしまう。だから、わざわざ、という形容詞を選んでしまうのだ。旅行という文字に対面した瞬間ごとに。ただ、移動は好きだ。車もいいし、自転車も悪くないし散歩もいい。しかし、飛行機よりも新幹線よりも、私が好きなのは長距離バスなのだ。ビジネスホテルを好きな理由に似ている。長距離バスに乗っていたり、ビジネスホテルに泊まっていたりすると、それがたとえどの地域でのことであれ、均しくさみしくなれる。根無しの感覚になれる。それは自由の感覚である。長距離バスであれビジネスホテルであれ、空気には常に一抹の不安と緊張とが混じっている。その中で、私の心は最大に解放される。もしも移動そのものを旅と呼ぶなら、旅も悪くないかもしれない。最寄りの駅のビジネスホテルであっても、泊まり慣れていない場所ならば立派な旅になる。遠くへ行きたいのでもなく、日常から離れようと構えるわけでもなく、ただ、どこにも何にもきちんと属していない、中間地点であり中継地点であり何かの途中である、未決の境地に自分を置いていたいだけなのである。ただ、空港との間を長距離バスで往復する。息の詰まった挙げ句にはそんな休日を持っていたことを思い出した。私はひとりで飲みに出かける。そして気に入った店に暫く通い、常連になりそうになったらぷつりと行かなくなってしまう。それに、そこで出会った人以外の、たとえば前から知っている人間の存在や、遭遇の可能性を少しでも感じると足が遠のく。そこで出会った人であれ、誰それがいると確実にわかるような場所にはやはり、あまり行く気がしなくなる。そのことと、きっと源は同じである。私はいつも、少しだけ、不慣れでいたいのだ。
2010/08/26
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自分の身ほど可愛いものもなく自分の身ほどぞんざいにできるものもない。自分を大切にしなよ、とかぜったい大丈夫だよ、とかそういった、5年も前なら白笑いして受け入れなかったであろう歯が浮くほど典型的な言葉が今すごく欲しい。
2010/07/19
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ばかをしていた。首にファンデーションを塗りながら。ばかをした。それで今までのことが掻き消えるわけではないのに。ばかをせずにはいられなかった。ピアスを開けることは自分に許せないのに。ばかをして空しくなった。3年半のログは、簡単にリセットできるはずもない。後ろめたさを感じる、自動的な帰属。このごろ、ちょっと駄目だ。私に箍をはめていてくれたのは、きっと彼だったんだろう。体の組成が編目になって、すかすかと、密度のあったものがすべて下に流れ落ちてしまう。
2010/07/12
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ここでだけはいましばらく、感傷的で、感情的で、悲観的で、大いなる自意識に振り回されていて、大げさで、くさくて、青くて、煮え切らなくて、言葉に縋っている、しょんべんくさい女子中学生の、2年後には目も当てられなくなるような徒然詩集みたいに振る舞っていてもよしとする。どうころんでもファンシーにならない自分であることだけが救い。ここはミクシでもツイッターでもない。顔も名前も無く、ただただひとつの、吐出口、脱出口として。なぐさめと、やぶさめとは、そういえば響きがよく似ているけれどそれ以上のことはとりたてて無い、とか付け爪もエクステンションも付けまつげも、自然に伸びるものであるからこそ長さ短さの持つ意味がある、といった体の部位を人工的に付け外しするようなものにはどうしても馴染めないんだよなあ、とか初めて会う人の半分くらいはまず、私の肌が白いことか髪の長いことかを話題にしようとするけど正直、そのやりとりは飽きているしここがぎりぎり安穏な日本で良かったねと最近では意地悪にも思ってしまいそうになるよな、とかそんなようなことを考えては真剣な思考に陥らずに眠りに移行できるようにと実はがんがんに意識してしまっている、とか。やくたいもない。誰かのためにめっきの賢さを振りかざさなくてもいいし誰かのためにつぎはぎの愛嬌を取り繕わなくてもいい。ただそれだけの場所で。口だけは外に大きく開いた、奥に長い鍾乳洞みたいな場所のどこかで。
2010/07/05
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屋上の手すりから地面まで伸びた、括ったカーテンのような布を伝って昇らなくてはならない。セメントの校舎の屋上まで。そして、屋上で時間割を確認しなければならない。よっ、と到着したその時に、壁面側に向き直った私の視界ぎりぎり左端から飛び降りる男がいた。思わずあっと声を上げたら下から妙に派手な音が聞こえた。男は私の声に驚いて狙いを外し、途中の、渡り廊下か何かの屋根にぶつかって助かってしまったのだ。怒りと恥とに血相を変えた男が、狂ったようになってこちらに昇ってくるのがわかる。静かに絶望しているのではなく、結局は人の目しか気にしていない彼のような男にとって、自殺という派手な演出は一世一代の見せ場であり、ぎりぎり一回分の思い切りしか用意していなかった筈で、そうして間抜けな姿を見られて、かといって2回目に挑むまでの本質的な動機などないいじらしいほど同情を誘うその失態への動揺をどこにぶつければいいか分かるほどの頭も無い筈なので私は素直に「悪いことしたなあ」と思ってはいる。だが、そんな奴がムキになると厄介なのだ。経験が無いから、免疫が無いから、余裕が無いから手加減を知らない。自罰的ではなく、どこまでも他罰的な類の人間だ。恐ろしい、と私の足が震える。どうにか行き違いになるようにと、慌てて私は、またカーテンのようなのを伝って地面に降りる。しまった、と思う。私はまだ、屋上の時間割に目を通していない。また昇らなくてはならいのだ。何がどうあれ。
2010/07/05
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遠くで虫の声がした。ほんの2匹ほどらしかった。大勢と一斉に張り上げるよりは、多少さみしくても気が楽なんだろうか。暴力的な車の音の合間に、やけにはっきりと鳴いている姿を思った。少なくとも一匹ぼっちではないことにやけに救われるような心持ちがした。
2010/07/05
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整理しておこう。この3年半恋人と呼んでいた人を、もうそう呼ばないことにした。音楽や文化の師匠では引き続きあるし、好ましい人ではあるが、いわゆる恋人という響きに含まれる期待を、私は諦めた。別れた、と呼べば人にこの変化を伝えやすいのかもしれないが、それはそれでかなりの誤謬になると私は考えている。長い付き合いの中の、恋人の期間がゆっくりと、腫れていた箇所が元に戻るみたいにして、やんだような。弟が東京からこの家に戻って来て、週末に私が行く筈だった山の家に、彼がどうしても行くことになったり、私と飲む約束は反故にして、こちらの友人と出かけてしまったり。彼みたいな性格を私も持っていたら、どんなに良かったかと思う。人と新しい関係結び、深めてゆくこと。そもそも誰かに興味を持つことが、すっかり疎かになっている。新しい関係に期待ができないのだ。私は今の今、自分に恵まれた友人に非常に満足していて、そして、彼らから、遠い。あれほどの仲であるからこそ貴重で快いのであって、そこまで深くなれないのなら新しいのは要らないとさえ思ってしまう。どうしても私は、新しい他人に期待ができない。自分みたいな人はどこかにいないかと探す。でもどこにも見つからない。はしゃいで騒いでというんじゃなく、のんびりと、目に見えないものの話ができればいいのに。私は自分の勝手な言い分によって、さみしい。何を偉そうに。私の目にはどうしてほぼ全てが浅く映るんだろう。無駄な達観や諦観をどこかへやりたい。それらがあるからこそ私が、理性と平静を保っていられるのもまた一方の事実。まだ青いのに、人嫌いしてちゃ駄目だ。そう思ってみても、これが性格なんだろうか。雨がざあざあ降っている。私みたいな人は、この雨の中のどこにいるんだろうか。どこに居て、何を思っているんだろうか。
2010/07/02
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ようやく取りまとめた祖母の入院話が、取りまとめの最大の功労者である母の留守中に、父と叔母との判断で急遽白紙となった。悔しいし納得できない。そのことについて父も叔母も、一切触れようとしない。何事もなかった顔をしている。痴呆が進み入院に際して混乱など支障を来す祖母の姿に可哀想だ不安だといって肝心の治療を取りやめてしまうのは、結局は我が身可愛さなんじゃないか、祖母が治らないことで最も大きな負担を被るのは父でも叔母でもなく、母であることをわかっているのか。家族に対してこういう思いを抱いてしまうことに自己嫌悪しながらそれでも簡単に飲み下せる筈もなく、悶々としている。悔しくて数年ぶりに母の前で泣いてしまった。祖母は、もう母の名前も分からない。
2010/06/06
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だめだ、突然、おそろしいほど孤独だ。
2010/05/19
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フジコヘミングを聴きに母と。もっと際物かと思っていたのに淡く柔らかい。少女のよう。自意識と音色とに境目の無いふっくらとした。センチメンタルというかロマンチック。やわらかい。霧雨煙る生温かな灰色の朝に瞬きにつれまつげに雫がしたたる。青生がやわい。その雫越しに、もう見えない人を見送っている。そんな「別れの曲」。別れと、走馬灯と、客観的視点との三部構成。丸一曲で別れを乗り越えられ消化できるような。まるで数学的でない、人為的にオルゴールをまわしているようなペダルの多い、最もスラーなバッハ。なぜか涙が出る。しっかり埋めてくれそうなショパンの葬送行進曲。どっしりとしたfirmな歩みで墓場に向かう。生きて活動するタームの役目を終えた身体をいかめしく厳かでありつつも尊敬と愛情とを込めた節くれ立った手で、温かく湿った土深くに横たえ固定してくれるよう。途中に差し挟まれるほどけるようなメジャー調で、ああ、良い墓地を選んでくれたのだなと見えぬ地上の日当りの良さやのどかな心地が感じられる。きわめてすばらしい、この世の音楽。地に足が着いているからこそのロマンチック。
2010/05/17
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つかれて消えかけて手放すんじゃなく、ぐらぐら煮え立つように惜しいうちに力ずくで終わらせておけば良かったとそのうち思ったりもするんだろうか。さびしさに負けそうなんじゃなく、さびしさが勝ちそうだ。
2010/05/11
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またひとりで飲んでいた。知らない人たちと話した。誰とでもすぐに友だちになれそうだね。友だちが多そうだね。そんな風に言われる。これはもう慣れっこだ。ただ、私は絶望的に友だち作りに消極的である。親しければ親しいほど沙汰をしないし、新たに親しくなるまでの一連の雑多さが面倒である。他人に関心を持ちにくいことも一因だ。かわいそうに、私は自分で完結してしまいがちだし。そのくせ、他人が居る場所では空気ばかり読む。場面と関係を読みに読んで、許される範囲内でざっくばらんになってやる。そのせいか、大抵において寛いでいない。はしゃいでいればいるほど、寛いでいない。寛げる僅かな友人の前では、喋らなくて平気だ。声だって、張らなくて平気だ。他人に関心を持てず、寛ぐことが苦手。自分の街で新しく、友人と呼べるような友人を持つには、さて、どうしたら良いものか。
2010/05/09
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いろいろ血迷って、半年ぶりに会えた恋人に「あのひとと結婚してしまえ」と言ってしまった。約3年半が経とうとする今回のケースに関して、私は、自力での踏ん切りの付け方が分からない。
2010/05/04
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NHKで以前放送された「無縁社会」の、フォロー番組にあたるドキュメンタリが今夜、放送された。家族のいる中でチャンネルを合わせて見ていたけれど、いたたまれなくなって変えてしまった。孤独、孤独と言うけれど。無縁、無縁と言うけれど。人とのつながりは、ちょっと踏み出せば作れるものだ。看取ってもらえるかどうかなんて保証はないけど、自分からつながろうとしない人が嘆く孤独は嘘くさい。誰かが、いつのまにか、仲良くなってくれると思ってるんだろうか。ある人などは、食事は殆ど毎日外食だと語っていた。あれ、と私は引っかかる。毎日外食などしていたら、友だちが出来ないほうがおかしいじゃないか。私は寂しいとき、ランダムに他人と知り合いたいときにひとりで外食するぞ。しかし、その後のナレーションにかかる映像が吉野家だったので、ちょっと納得した。というか、仕方がないかな、と思った。機械的にこなされるあの類のチェーン店で、人のつながりが生まれるとは思えない。可能性はいつだってゼロではないけれど、簡単ではないだろう。そして気づく。自分が、「個人店好き」だったことに。個人で経営している店は、ともすれば面倒なこともある。常連さん同士が、とか、マスターの機嫌が、とか。でも、ひっくるめて振り返ればそんな人間付き合いに救われるのだ。ネットで色々便利になって、バーチャルつながり感がはびこって、生身のつながり方を忘れてしまったんだろうか。あるいは、それが面倒になってしまったんだろうか。生の人間関係を築かずには生きてゆけない一昔前から、取り立ててそんなものなくとも一応は生きてゆける現在。無縁死は無縁死でひとつの問題として提議することは認める。でも、無縁社会とはやし立てて煽っていくのは違うと思う。こればかりは単純に、行動の問題である。「無縁社会だって」が呼ぶ共感がネット上のものだけであれば、そこには具体的な進歩も希望も何もないのだ。さらに、「無縁社会こわい」と共感しあう人々は、大抵こぞってネットの世界に重きを置く住人なのである。
2010/04/03
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いっぺんに嫌われるよりも、だんだんと忘れられていく方がつらい。
2010/04/03
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今日、口に出すことがすべて、嘘になればいいのに。
2010/04/01
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バブルの頃に建てられた一般庶民向けのマンション、つまり今から見るとどこかしこと古くさいマンション、の5階だか6階だかの一室に越すことになった。いや、まだ荷物もそんなには入れていないし、知らないおじさんに部屋の作りについて色々案内してもらってばかりだったから本格的に越すかどうかは決定していないのかもしれない。心証は、悪い。マンションの廊下に面して、一室なのに扉がいくつもある。なぜかというと、この部屋がCの字をしたマンションを、一階分ぐるりと囲むような変則的な形をしていたり、玄関の隣にはなぜか浴室から廊下に抜けるドアがあったりするからだ。玄関のドアは焦げ茶色で重たい感じがするのに、浴室から抜けるドアはまるで電気系統を収めているように白く頼りない。玄関をあけて進むとまず広い広い広間がある。合宿所みたいにただの板敷きで、広いのにわびしい。それを進むと今度は浴室がある。タイル敷きで、浴室の床に入浴スペースが凹んで掘ってある感じ。やたらと足の裏がざらざらする。それをまた、クリーム色の不衛生そうなビニールのカーテンをめくって進むと部屋がある。こちらはまだ小ぶりで比較的、過ごしやすそうだ。廊下に面してトイレ。そこで部屋は終わりに思えるのだが、実は広間から先に行く道がもうひとつあって、そこを通ると無駄に広すぎる、閉業した銭湯みたいな風呂場。遠い高い壁の天井際に、黄緑色の蛍光色をしたスライムのような粘着質の苔。ああ、これは昔に見た動物園の夢で私たちを病気にしたやつだ、と思い、ホースから水を出してクチを指で狭めて、そいつを遠くから剥がしてやる。足の裏がざらざらとして気持ち悪い。ふと見ると、ベランダどころではないだだっぴろい外のスペースにたっぷり泳げる25メートルのプールまである。こちらは水が殆ど抜けていて、そして土汚れが目立つ。さらに、広間に直接面した扉の向こうにはもうひとつのトイレがあるが、便器が設置されていない。ただがさりと置いてあるだけだ。部品ごとに。あまりに広すぎるし、使い勝手が悪そうだし、それにどこかみすぼらしいし気味が悪くも在るので断ろうと思いながらもみんなでどうにかすれば、最高の部屋になるかもしれない等と根拠もない幻想をどこか捨てきれずに居て、「あのプールを一回満タンにするには、 水道代がいくらほどかかるのでしょうか」なんて具体的な積極的な質問をおじさんに投げていた。あたりは夜。廊下の電球はうすぐらい黄色だった。この部屋も、うすぐらい。蛍光灯なのか白熱灯なのかわからない。真っ白な光ではない。かといって温かい光でもない。2階建てのアパートの角部屋。3階に風呂がある、木造の日本家屋。ここに1つ抜けがある。ど忘れした。線路に面したマンションの清潔な一室。そしてここ。夢の中ではこうして稀に引っ越しをしている。だが、この部屋にはやはり、越したくない。
2010/03/31
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携帯電話のプランを、いっこ小さいやつに変えた。無料通話を少なくした。電話が減った。そういうこと。
2010/03/30
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男が「繊細」なら、女は「滅茶苦茶」だ。
2010/03/28
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PCバッグの外ポケットから、絡まないようにするするとイヤホンのコードを手繰り出していると小さな頃に繰り返しビデオで観た、メリー・ポピンズになった気分がする。のは、置いておいて。今、ものすごい精神状態にならんとしている。醜い気持ちが高ぶりそうで、ふうふうと息を吹きかけて冷ます。そもそも、どうしようもないものがどうしようもないと直面できない部分があったから、こうして遠さに頼っていたかもしれないのに。わからなくなった。手放したいけれどその後も一定の近辺に置いておきたいもの。手に入れる覚悟は無いけれど私に属していてほしいもの。いろんなことが下手な自分は、いちどどこかで大きな思い切りをつけなくてはならないのだが、そして時機を見失うことはこれ以上許されないのだが、そう思えば思うほど線を引いてしまえなくなる。ぶるぶると震えた線に何の効力も無いのだから、私は思い切って太い線をぐいっと一本、引かなくてはならないのだ。
2010/03/27
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泣いてみようかとふと思った。すると無性に泣きたくなった。泣く理由も無いのだが、泣かない理由は更に無かったのである。腹の底に溜まり、四肢に散らばった材料をかき集めて喉まで持ち上げ涙に繋げて排泄してしまえば、楽になれるような気がした。一切合切の雑をまとめれば、いっぺん泣く分には足りそうでもあった。
2010/03/26
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大学時代に近所だった女友達とのことを考えていたら、七年住んだアパートのことを思い出した。家具をどう配置していたか。カーテンの柄、せわしない模様替え、最初の日は明るいうちに、豚肉とにんにくの芽のオイスターソース炒めを赤い皿に盛って食べたこと。ダイニングの試行錯誤。DIYしたトイレ。壁のクロスに映えた芍薬。満杯の押し入れ。たくさんの食器とたくさんのタオル。収まりきらない本と服。窓のある広いお風呂とカラフルな入浴剤。 バスマット。洗濯機の上のスチールラック。アパートの前の小さな花壇には季節の花。今なら沈丁花。思い出。冷蔵庫と洗濯機の運び出し。最後の夜のパソコン。きれいなままだったフローリング。最後の施錠。晴れた昼。恋人の車。白いスーツケースと黒い革のバッグ。大家さんとのお別れ。
2010/03/24
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私が今、恋愛と呼び続けているものや、頑張って恋人と呼び続けている人は、はたして本当にそうなのだろうか。17日ぶりに電話をかけてみる。いつもなら10回待つ呼び出し音のあいだになぜかどきどきと怖じ気づいて、7回目が鳴り終わるやいなやぷつりと切ってしまった。
2010/03/20
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本好きな子どもというのは、きっとまだまだ居る。でも、本好きな子どもが成長して、みながみな本好きな大人になるわけでもない。本好きだった大人が、そうでなくなる日だってくる。いつの間にか。私はまだ本が好きだ。でも、本を読まなくなっていっている友人も少なくない。寂しいけれど仕方が無い。みんな、忙しいのかもしれない。もっと楽しいことを見つけたのかもしれない。本を読むというのは効率が悪いことなのかもしれない。でも私はまだ本を読んでいる。優先順位の問題なのかもしれない。でも、本の話が出来る相手がどんどん減って、今、私に新しい情報をくれる人はもしかしたら、たった一人。寂しい話だ。孤独を紛らわせるために読書していた筈が、本を通してより多くの人と会話するようになり、そして今、また一人になりかけている。
2010/02/20
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友人が一人、たいへん参っているようだ。私は不眠症では体が焼けるほど苦しんだが、幸いにも深い鬱には陥らずに済んだ。と思っている。振り返れば物心ついた段階で既に憂鬱な子どもだったのできっとなにがしかの耐性があったのだろう。彼女は別の場所で苦難の毎日を記している。私はそれを読みはするものの言葉が見つからない。手元にどっさりと残された、抗不安薬や抗鬱剤や睡眠導入剤や睡眠薬をまるまる送って解決するような話でもない。それに、残念ながら違法だ。急いで元気になってほしいとは思わない。ただ、これが「底」であってほしいと願う。
2010/02/19
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菊花の契り、みたいだね。もう書いたかもしれないけどまた書くよ。食器について、私は潔癖性だ。家にある食器を皆で使うのは構わない。多少、他の家人のものを使おうがお互いあまり気にしない。友人が来宅すれば家の食器のうちからもてなす。家に迎える、家族の仲間にするのだから構わない。季節や行事ごとにしか使わない特別な皿類があることも好ましいと思う。ただ。自分が買いそろえた、ひとり暮らしの間に使い込んだ食器だけはどうしても家族がこれに触れるのに抵抗がある。まるで近親 相姦だ。他人と血を共有するため、繋げるための食器を家族と使うなんてもってのほかだ、とどこか嫌悪してすらいる。仕方が無く家族に私の食器を使うときには、まるで他人同士のような距離をもって食卓の向こうの人間を見つめる。そして食事が済むと、ゼロから少し関係を築いた誰かのように見えるのだ。私は混乱してしまう。自分の食器をいまだに、隔離している。
2010/02/09
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贅沢を百も承知で言うと、たまには個人的な愛情のない、心のこもらない、出来合いの、機械的で無個性で不健康なものを食べたくなるのである。毎晩作ったり作ってもらったりする、体によくて味もバランスも見た目もよい、そんな食事に不満がある筈も無い。ただ、なんとなくジャンクフードやファストフードやスナック菓子やコンビニ弁当が無性に食べたくて仕方が無くなるのだ。真心の無いものを体に入れて風通しを良くする。ああ、もう嫌だと嫌気がさすまで食べて飲んで、そうして自業自得でもたれた胃を抱えて撫でさすりながらやはり家に戻りたいと恋しがるのだ。軽い、破壊衝動みたいなものかしら。たまに目的も無くユニクロに行きたくなったり、百円ショップを覗きたくなったり、バスに乗りたくなったり、コンビニを冷やかしたくなったり、ドラッグストアをぶらつきたくなったり、するのと全く同じなのだろうね。没個性な「その他大勢」になんとなく混じりたがる時。思春期の子供が悪がってみせたり男がふいに浮気をするらしいのもきっとそんなようなものなんだと思う。あたたかさは往々にして緻密で目が詰んでいて、だから息が出来なくなる。
2010/02/09
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昨年師走から鍼に通い始めた。一日おき、三日おき、一週間おき、二週間おき、とだんだん間隔を広げながら。微熱と、不眠をどうにかするために通い始めたのだった。飲み続けていた大量の薬を半ば力づくで断とうとする中で、思い出したくないほど辛い数日があった。しかしなんとかここ1ヶ月で、薬を飲まずにそれなりに過ごせるようになってきた。まだまだ万全ではないけれど今日も今日で指先と爪先と舌の先がさっぱりしたし、一時は体中を分厚く覆って気が変になりそうだった感覚の麻痺も、少しずつ霧が晴れるみたいに散って来ている。自分の体に自信が生まれて来た。ほんの少しずつ。
2010/01/21
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ひさかたぶりにミーハー的に、好きな人ができました。今日はその人の誕生日です。20年前に死んでしまっているけれど。生きていたら68歳なのかな。誕生を祝い、冥福を祈ります。グレアム・チャップマンの。
2010/01/08
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私の体について年末年始、調べてくれた医師がいる。彼によればこの不具合というのはどこかが弱っているからではなく、私は心臓が突出して強すぎるため他とのバランスが取れていないのだそうだ。手塚治虫型だね、と医師は言う。寝なくても生きて行けるタイプだと。無理に周囲と生活リズムを同じくしようと矯正するとそこに無理が出てしまうらしい。掌の真ん中に、心臓をすこし弱める鍼を打った。気のせいかもしれないが、掌と背中がさっぱりした。
2010/01/07
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何時に寝たからいいのだとか、何時に起きたからいいのだとか、そういう問題ではなくて。もっぱら気分で生きている私には眠る前の何かと、目覚めるための何かが必要だ。モンティ・パイソンを見れば一日が終わるし、コーヒーにミルクをたっぷりいれてぬるくしたのを飲めば一日が始まる。
2010/01/06
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23になって、ひとりだちをした矢先に会社が不況の風をくらい、年の瀬に仕事を失ってひとまず年末年始の帰省をしている弟。わたしなんかよりもずっとアクティブにいろいろ遊び回っている。どっちが失業者だかわかんないくらいだ。それはさておき。弟は、部屋が真っ暗だと眠れない。私は、真っ暗じゃないと眠れない。小さい頃はふたりで1つの部屋だったので、いざ眠るというときに小競り合いになったものだ。消す、消さない、で。帰省中の弟はもう、もちろんひとりの部屋で眠る。遊び疲れたのか、それともまだ怖いのか、ドアの隙間から明かりがもれている。それも、こうこうと。宵っ張りの私は寝息を確かめてから、そおっと扉を薄く開けて手だけ入れて、明かりをぱちっと落とすのだ。それから、暗くなった部屋でも彼の眠りが変わらないことを2秒くらい静かに確認する。おやすみ。
2010/01/04
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夜も更けてから風が強い。どうどうと音が走って行く。2階にある私の部屋の窓の前まで育った背の高いブルーバードの木の枝が、窓ガラスにごん、ごんとぶつかる。まるでノックの音みたいである。これがノックの音で、カーテンの向こうに恋人がいたら、それはそれで嬉しいけど怖さのほうが勝るな、と考え始めた私はすっかり「恋」を終えているのだろうか。まるで怪談「猿の手」だもの。風にかぶせて犬が鳴く。あんな風に遠吠えをするのはきっと気分がせいせいするだろうなとよその家の犬の姿がありありと浮かぶのである。
2010/01/03
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年の瀬になると母が花を生けてくれる。玄関に大きなのをひとつと、各部屋に小さなのをひとつずつ。私の部屋の机の上にも。右側に飛び出た輪っかがかわいい。このリースみたいにしてあるのがかわいいね。柳?ときくと。柳。芽が出るように。と母。ありがとう。迷惑かけ通しの先が不安な娘でごめんね。
2009/12/31
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何か届いてるわよ、と母が言う。DMか何かかなと思って見に行くと、遠い友人から私に封筒が届いていた。表の右下には、免許、誕生日、新年祝、と書いてある。もしかしていつか話した、とあわてて開けるとやはり、彼の選んでくれたらしい曲を収めたCDRが2枚。離れて連絡も途絶え疎遠になっていたから、とても嬉しかった。私も怠けずに年賀状でお礼を言おう。
2009/12/29
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事故にあった。右折しようとレーンに入りかけたとたん、後ろから来た右折車にぶつかり、追い越された。相手の車のおじさんは、ハザードもたかずにそのまま行ってしまう。追いついたところで車を停めて降りると、私を悪いとせめてやまない。警察を呼ぶ間もなく、名刺だけ渡すと走り去ってしまった。私の保険屋さんがすぐに来てくれたけれど、もう相手はいないし。とんだクリスマスイブ。
2009/12/24
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茶碗なりペットボトルなり小瓶なり花の活きれば花器となるなり
2009/12/08
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PCの電源をコンセントごと抜いて携帯の電池を空にして本体から外してそれでも私はアンプラグドになりきれないのです。
2009/12/07
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何かを思い出して書こうとして振り返っただけでぽかんと忘れてしまった。そうして不意に思い立って永遠に消えてしまう思いごとこそどうにも惜しく、大切なものだったのではないかと思われるのだ。
2009/12/06
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i made today sad.the absolute loneliness has been active in my mom.she already lost parentS.her hometown is far to often visit.her friends are spread all over.and she, only is here under this group, a family.there was the topic on the table, about the dialect.i hope i'm more good at the dialect, i said.but didn't you learn it during the elementary school days, my aunt pointed.i don't know, i didn't talk with so many there maybe, i answered.your way of speaking standard language would have had made kids keep away, my dad said.then what should i do, what did i have to do, my mom fall flat on her face.and she left the room.and i don't know what to say to her.surely i agree that sharing the same dialect makes it easy to people unite.also i must agree speaking standard language here makes me looksomething like stranger, a geeky stranger.that's what i have felt.and that i still am not good at making friends.though the reason lays on my own character, not the image of myself that my way of speaking cast on other.this's what i want to believe.i have loved reading alone, thinking alone, having had grown up, nothing has changed.i hold big bomb of lonesome in my body and heart,and what a f--king moron i am,i didn't notice that my mom does so, too.having stayed strange place with the unrelated-by-bloods for almost 30 years,she still cannot (or does not?) speak the dialect.it may make her loneliness stiffer.or her way of speaking, her language is her precious identity?anyway, she had taught me the right and straight words.though i'm so thankful for her education,i, as one of the mixed-languages, what can i do for her?
2009/12/03
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追って後日
2009/11/30
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耳のうしろ、髪のはえぎわまでの肌の開けた部分。左耳のうしろに、右手をそっと、首をくるむようにあてがってみるといい。まるで日本地図や世界地図を見てフォッサマグナをパズルのピースに見立てたみたいに、しっくりと掌があてはまるよ。誰かを抱き寄せたり、するのに丁度良い肌の形。人間の体はうまくできている。
2009/11/29
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これが笑い顔です、とロボットがスライドを見せる。覚えました、と私は言う。これが泣き顔です、とロボットが別のを見せる。似ていますね、と私は思う。これは寝顔です、とロボットが言う。はい、と答える。これが死に顔です、とロボットが見せる。似ていますね、と私は答える。
2009/11/28
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人間関係には時と場合によるが、とりあえずのところ肌には、結局は波風を立てないのが良いのだと発見。あまりぱたぱた叩いても肌の負担になるし、ぐいぐいマッサージしてもしわの予備軍になる。すべて、粘度に応じてたっぷりと使い、心をこめて丁寧に扱うに限る。
2009/11/27
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思えば学生時分から、服は良いものをがんばって買ってきた。良い物は丁寧に扱うせいもあって長持ちするし、肌触りや仕立ての良さを知ることで人生のある部分が豊かになる。変わった形やつくりの服も揃ってきた。妙な形の服を着ても妙な人に見えないこと、どこか変わった服を着ている人になりたいとは子供のころから。細身のワンピースもあれば、渋好みなれどスパンコールの豪勢なものもある。そういうものが似合ううちは体型を維持するし、体型を維持しているうちはそういうものも似合うのだと勝手に考えて、気持ちが歳を取らないように気をつけている。
2009/11/26
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やっぱり「書く」がしたかったんだよと大きい子供は泣く。でも、家族が笑顔でなくなるようなことはできない。今、家族は「構うもの」を必要としている。笑うこと、を必要としている。私はここずっと体が悪く、それでも、口だけは夜みなが集まれば達者でいられるので構われ、笑わせる者としてここで機能している。恋人とは一緒にいたいが、恋人のところへ行くことはここを離れるということなので怖いしそれに家族のためにも良くない気がしている。チェーンをかけているのが本当に心の中の家族なのかそれともそれは言い訳でただ私が怠けて臆病なのかもうわからないが、後者のような気がすることがある。私は弱気になるより先に怠惰になる、のかもしれない。私の計る怠惰の目盛りが他人とたとえ違ったって比べようがないんだからそんなもんわかりゃしない。初めて病院で眠る薬を貰ったとき、私は医者の前で泣いた。地下室に降りて混ざった集団はそのときこれを知っていただろうか。たかが大学生の、たかがサークルの、と知らない人は笑うだろう。でもあのときから私はすこしおかしくなって、おかしくなり方は時によりけりでは在るけれども今だってまだ直っていない。惰性のまま薬を飲んでいるのかと思いそんな自分が嫌になって薬を断ってみるとあれあれ、夜が更ければ手が震えるではないか。烏が鳴こうが洗濯機が回ろうが、目が覚めたまま体が動かないではないか。立派なヤク中である。家族が悲しむことが怖い。家族が苦しむことが怖い。恋人を失うことが怖い。恋人に対する欲求が摩耗していくことが怖い。それを認めることが怖い。夜が怖い。朝が怖い。セクハラが怖い。パワハラが怖い。声を出して泣くことが怖い。いつか「正直に吐き出してごらん」という磔刑にかかるのが怖い。薬が怖い。1ヶ月後が怖い。3ヶ月後が怖い。もっと先は分からない。生き続けることが怖い。看取ることが怖い。失うことも手に入れることも怖い。どうしても下がらない熱と、かたかた音を立てる歯と、垂直に立っていられない体が気の毒で悪い。だからといって今そのものも、ゆるい土台の上でどうにか一時的にバランスをとっているだけの何かのようで怖い。私は本当は怖いものだらけだ。弟が職を失って、でも私は姉らしく励ますのみで、強気に奔放に気軽に、安心させてやりたいだけで、でも今の私にはそんな根拠なんかなくって。情けなくて。こうしてむちゃくちゃに書いていればそのうち涙の一筋でも流れてすっきりするだろうかと思っていたけどただただ恐ろしさが募るばかりで。きっとこれを書き締めた後になってからああ、これもついでに書いておくんだったなんてそんなことばかり思うんだろうけど今日のところはここまでにします。憂鬱とは違う。悲しくて、怖いんだ。自分の中で誰かが泣いているみたい。たまには本当に近いことを書いたっていいでしょう?ほらみろ、また誰かの許可をほしがっている。
2009/11/25
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2009/11/24
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