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自分の子供が病気に罹(かか)る。親の心は心配です。わが身の病気よりも、いっそう心がいたみます。子供の病気は、そのまま親の病気です。それと同時に、子供の全快はそのまま親の全快です。親と子とは、悲しみを通じて、欣びを通して、少なくとも二にして一です。子をもって欣ぶのも親心なれば、また子をもって悲しむのも親心です。
もたずしてあらまほしきは子なりけりもたまほしきもまた子なりけり
と詩人はいってくれています。かわいい子供の笑顔をジッと見ていると、ようまあ子供をもったものだと思います。だがしかし、罪のない悪戯(いたずら)ならまだしも、突然、病気にでも罹って苦しむわが子のすがたをみると、ああ、子供なんかない方がよかった、などという愚痴も出ます。もたない人はもちたがり、もつ人はまた子供で苦労する。まことに「人間に子のあることの寒さかな」で、とかく人間は勝手なことを考えるものです。
仏のなやみは利他的悩み
おもうに少なくとも、さとれる仏陀(ほとけ)となれば、もちろん自分のための利己的な悩みはないでしょう。 しかし、わが身のための苦しみはなくとも、世のための悩み、他人のための苦しみはキッとあるのです。といって、その悩み、その苦しみは、決して私どもの考えているような、苦しみでもなく、また悩みでもありません。その苦しみこそ楽しみです。その悩みこそ悦びです。
「世に恋の苦しみほど、苦しいものはない。だが、その苦しみほど、楽しいものはない」と、ゲーテもいっています。譬喩(たとえ)としては、はなはだ不似合いなたとえでしょうが、私どもは、そこに迷情を通じて、かえって、仏心の真実を味わうことができるのです。
般若の智慧を磨け
要するに、この『心経』の一節は、三世の諸仏も、皆この般若の智慧によって、まさしく、ほんとうの正覚(さとり)を得られたのである。だから私どももまた般若の智慧を磨くことによって、みな共に仏道を感じ、真の菩提(さとり)の世界へ行かねばうそだ、ということをいったものであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)