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網乾左母二郎は先ほどからじっと今さらって来たばかりの浜路の横顔を見つめていた。
ふくよかな頬にちょんととがった顎が少女の面影を感じさせる。
程よくまとまった鼻と引き締まった唇は気品を感じさせる。
今は閉じて見ることのできない瞳は、大きく輝くようであることを彼はよく知っている。
浜路は気づいていなかったかが、左母二郎が扇谷定正の小姓として仕えていた頃、養母大塚亀篠から彼女との結婚を許す条件に、犬塚信乃の持つ名刀村雨の刀身をすり替えることに成功した。
信乃と浜路の関係を知っていた彼はいわば横恋慕したのだ。
左母二郎はみぞおちを突いて気絶させた浜路の、紅をささずとも美しいぐみのような唇に顔を近づけた。
その時、浜路は目を開き、己に迫ったおぞましい光景に気づき左母二郎を跳ね除け立とうとしてよろけた。
足は荒い縄でしっかり縛りつけられていた。
彼女は草むらの上を腕と腰で這うように逃げた。
逃げながら彼女は叫んだ。
「大塚の母に薬を飲まされ、自由の利かない身のまま花嫁衣裳を着せられ馬に連れられて行くところをあなたは助けて下さった。それなのになぜ?」
左母二郎はにやりと笑いながら言った。
「俺が犬塚信乃だったら良かったと?」
浜路は信乃の名を聞き驚いた。
「あなたは信乃様をご存じなのですか?ならば私と信乃様は結婚の契りを結んだ仲だという事はご存じのはず。」
左母二郎の瞳はギラリと光った。
「お前の優しい母親の亀篠と約束したのよ、信乃のこの村雨を奪えばお前との結婚を許すとな。だがあのばばあ、お前を簸上なんざにくれてやろうとしたから腕づくで奪い取ったまでの事。」
そう言って彼は浜路に近づいた。
「近づかないで。それ以上近づけば私は舌を噛みちぎりこの場で果てます。」
左母二郎は躊躇した。
彼は浜路が愛する男のためなら身の汚れを避けるため、自害もしかねないことはよく知っていたからだ。
「俺だって、親父は網乾佐茂重という扇谷家の町奉行の代官様だぜ。もっとも勘当されて飛び出しちまったが、悪い家柄の者じゃねえ。固いことを言うなよ。」
彼は父親が悪徳商人の扇屋と組んで行った悪事を志茂玲央によって暴かれ、処罰されたことを知らない。
「お侍さん、こっち、こっち。」
白猫の鞠は道節を軽い身のこなしで、複雑な山道を勝手知ったる様に導いて行った。
「こっち、こっち、こっちに誰も知らない岩屋があるんだ。私に着いておいで。」
鞠の余りのすばしこさに道節は息も絶え絶え着いて行くのがやっとだった。
左母二郎は浜路にこう言った。
「浜路、舌を噛んで死ぬと言うのなら死ねばいい。俺はお前のまだ暖かい体はいただくとする。信乃への土産話にな。」
浜路はあまりの恐怖と屈辱に身を伏せて嗚咽した。
その時を見逃さず左母二郎は浜路に駆け寄り、素早く猿轡を噛ませ自害できないようにしてしまった。
左母二郎の腕が彼女の花嫁衣裳の襟もとに伸びたとき、浜路は左母二郎が腰に着けた名刀村雨をさっと引き抜いて切りつけようとしたが、左母二郎はすぐに脇差を抜き浜路の胸に突き立てた。
「お侍さん、こっち、こっち。」
鞠の姿はそこで、煙のように消えた。
道節はそのまま草むらを突っ切り、浜路を刺したばかりの左母二郎の目の前に飛び出した。
一瞬で状況を察した道節は、左母二郎が立ち上がるのも待たず居合とともに彼の首を刎ねた。
「浜路、浜路しっかりしろ、俺だ道節だ。」
浜路はうつろな目で道節を見上げ言った。
「あ、あ、兄様。お久しゅうございます。どうしてここへ?」
道節は消えゆく浜路の命の灯を感じながらこれまでの事を話した。
扇谷の兵に追われ死にかけたところを蘭に救われたこと。
そこで信乃と会い自分も八犬士の一人であることを告げられたこと。
信乃は小文吾とともに相模箱根に八犬士の一人を探す旅に出たこと。
浜路は薄れる意識の中で、久しぶりの信乃の話に安堵と嬉しさ、寂しさの表情を浮かべて聴き入り最期に声を振り絞った。
「兄様、浜路は死して信乃様のもとへ参り最期のお別れをしとう存じます。」
道節は妹の亡骸を抱きしめた。
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