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私は溜息をつき、静かに受話器を置いた。お菊を紹介してやったスナックのママからの電話であった。お菊が戻らないのだと言う。そう、あれは半年近く前の話だ。そのママからどこかにいい娘はいないか、いたら紹介して欲しいという相談を受けた。私は大丈夫だろうかと思いつつ、傍らに佇むお菊に声をかけた。
「そろそろ君も働いてみたら?」
「ええ。」彼女はしばらく考えた後、決心した様に頷いた。
彼女は普通の女性ではなかった。幽霊だったのだ。だった...。つまりその時は普通の人間と言っても誰も疑う者はいない程、生身の体になっていた。この空き家を二束三文で手に入れて独りで住み始め暫くしたある夜、喉の渇きで目覚め、水を飲もうと廊下に出た所、庭にある昔井戸だった様な朽ち果てた石垣の傍に佇む女に気がついた。私は霊感があり、こういった事には慣れっ子になってはいたものの、恐る恐る彼女に近づくと、彼女は何とそこで皿を数えていた。
そう言えばここは昔、あの怪談で有名な番町皿屋敷があった場所だ。
「お菊?」ふと漏らした言葉に、彼女は驚いたように振り向いた。彼女を見た途端、あまりの美しさに息を呑んでしまった。薄暗いとは言え、その美しさで光り輝いて見えた。幽霊だから実際にうっすらと光っていたのかも知れない。だが、いくら私に霊感があるからと言っても、見えはするが言葉が通じた経験はなかった。幽霊にしてもそうらしかった。余程の恨みがあり、振り絞る様に必死で、「うらめしや~」と唸らない限り。
それからというもの、私たちは色々と話し、悩みを語り、時には冗談を言い交わして月日が経つうちに、私は奇妙な事に気がつき始めた。だんだん彼女がはっきり見えるようになって来たのだ。もしかして私はとりつかれ、死にかけているのだろうかと思ったが逆だった。彼女がだんだん実体化していたのだ。霊界と現世の者で、ここまで話し合えるという例は今までなく、そんな二人が出会う確率など不確定性原理並みの確率なのだろう。普通怨念が晴れた暁には、程なく成仏してあの世とやらに旅立つのかも知れないが、この前代未聞の出来事では逆の現象となった様だ。
そして、私だけではなく誰の目にも見え、声が聞こえる事も分かって来た。触ってみると、まだひんやりとするが多少なりとも体温を感じる様になっていた。
そうする内に、例のママに紹介するまでになったのだ。長い間苦しみ、孤独で、悩み、悲しみ、しかも大事な青春を捧に振ってしまったのだ。これからは少々羽目を外して、奔放に生きてもいいではないか?そう思ったのだ。それからというもの、彼女はそのスナックで働くようになり、馴染みもたくさん出来た。何せ元は武家の腰元で、物腰は柔らかく、しとやかで、教養もあり、慎ましく、話術も申し分なく、しかも飛び切りの美女ときている。それを放って置く男達がいるはずも無く、大変な人気になり、大勢の客が押し寄せ、店は繁盛し、ママも感謝し、よくこんなすばらしい娘を紹介してくれた、しかもこの世の者とは思えないほど美しいと言うのを、それもそうだろうと、内心ニヤッと笑いながら聴いていた。そして、彼女も文字
通り益々生き生きして来た矢先だった。
ある金持ちだが、ひどいケチでもあるオヤジが、財布を置いてトイレに立ち、帰ってみると確かに10万円入れていたはずの財布に1万円足りないと大騒ぎしだした。挙句の果てにあろう事かお菊を疑い、この女がコッソリ抜いたに違いないと騒ぎ始めたのだという。彼女にしてみればとんだ濡れ衣。実際後からそれは、お菊の人気を妬んだ他のホステスの仕業である事が分かったのだ。しかし、お菊がいくら無実を訴えても、店が客をなだめても、そいつは頑として受け付けず、堪らずお菊は店を飛び出し、それ以来戻らないのだという。
私はママからの連絡を受け、お菊を不憫に思い、そんなつらい目に合わせるきっかけを与えてしまった私を罵った。しかし、お菊はこの家にも帰らずどこに行ってしまったのかと、気を揉む毎日が暫く続いた。
そして蒸し熱いある晩、喉の渇きで目を覚まし、寝床から身を起こし、居間のソファを見ると、何とお菊が座っているではないか。私は喜びのあまり、彼女に駆け寄ったものの、唖然としてしまった。また実体のない、うっすらとした霊体となっていたのだ。しかも、今度はやけにケバい口紅をし、艶かしいチャイナドレスで、スリットから思わずぞくっとする様な大腿を恥ずかしげもなくさらけ出して前で組み、タバコを吸いながら座っているのだ。話しかけても、今度は人が、いや、霊が変わった様に声が届かないのだ。彼女の目にも以前の純粋な、穢れの無い、無垢な輝きはなく、何か擦れた様な陰気な、撥ね付ける様な眼差しであった。しかし、彼女が手に掴んだ札束を見つめて、何か言っているのは微かに聞こえた。
「1マ~ン、2マ~ン、3マ~ン、...9マ~ン.........」
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