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――<概念システム>への問いの試み
(田澤安弘著「概念分析によるロールシャッハ解釈」査読論文)
[要約]
本論では、田澤論文において記述された「概念分析」の方法論が依拠する概念システムの明示化にその主たる目的を限定する。その結果、論文評価は0となった。本論では、上記目的に限定したため、「概念分析」の方法論と事例分析との対応関係の検討が十分遂行できなかった。この作業を行うためには、まず田澤氏の論文が依拠する概念システムの明確な把握が必要であると考える。検討の結果、田澤氏が依拠しているウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念とは整合不可能な<基礎的レベル>が見出された。田澤氏が、厳密な意味において、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念のみに依拠することが望まれる。
[キーワード]
概念システム 言語ゲーム、基礎的レベル
0 はじめに
本論は、田澤安弘著「概念分析によるロールシャッハ解釈」の査読論文であるが、田澤論文が提唱し焦点化している方法論が依拠する概念システムの明示化にその主たる目的を限定する。筆者は、田澤氏が遂行している「概念分析」としての事例分析の内在的評価は行わない。換言すれば、本来は専門的な「ロールシャッハ解釈」の知見をベースとした上で求められる提示された「概念分析」の方法論と事例分析との整合的な対応関係の吟味検討が少なくても十分には遂行できないということであり、この点で田澤氏の論文に対して0評価以外のより肯定的またはより否定的な評価を成すことができなかったことは残念である。
1 田澤氏による「ロールシャッハ・システム」の位置づけ及び方法論的前提の設定
まず、田澤氏による既存の「ロールシャッハ・システム」の位置づけを見てみたい。田澤氏によれば、従来の「ロールシャッハ・システム」は、被験者自身が「スコアに結果するプロセスを生きている」というレベルの忘却という問題点を持つ。田澤氏はこの問題点を「まさにその瞬間における意味の生成」「「いま、ここ」における「行為的直観」」のレベルの忘却という現象学的用語を使用して敷衍している。
田澤氏が「目指すのは、具体的なロールシャッハ状況において被験者の反応とテスターの解釈とが同一の出来事として生起する、反応過程と解釈過程の同時性」である。これは文字通りの「出来事の同一性」または二つの過程それ自体の「同時性」というより、むしろ解釈プロセスの不可分な運動過程としての「同一性」の一般的な強調であると理解すべきだろう。というのも、それ自体としてリアルな、単純に実在論的な意味での<生きられた体験>としての「いま、ここ(での体験・共感)」「瞬間」という前提(「規則」「構造」「理論」「日本語」それ自体という前提も同様)は――カントの『純粋理性批判』における超越論的批判やヘーゲルの『精神現象学』における「感覚的確信」の批判はいうまでもないが――田澤氏が依拠するウィトゲンシュタイン(から始まる知的伝統)やデリダが遂行した「現象学批判」を通過した現在、少なくてもそのままでは維持しがたい。もちろん、田澤氏も単なる実在論的な前提を括弧に入れる態度を表明してはいる。しかし、言語ゲーム的(田澤氏により概ね等値される)=解釈学的循環のレベルの提示へとつながるこれら論の端緒の時点における方法論的前提の多義性が、ここにおいてすでに露呈している。
2 ウィトゲンシュタインの諸概念の方法論的取り込み
田澤氏は、ウィトゲンシュタインの「概念分析」を「家族的類似性」という意味における「反応のカテゴリー化」として方法論的に取り込んでいる。もちろん、このカテゴリー化は、実践的な解釈学的循環過程(田澤氏により概ね等値される)=言語ゲーム過程のただなかで生成するものである。問題は、この「反応解釈のプロセス」それ自体の「記述のレベルの確定」であり、それは他ならない田澤氏の論文「概念分析によるロールシャッハ解釈」自体の記述レベルの位置づけへの問いになる。この根源的な問いは、田澤氏が設定する複数の「テクスト・レベル」と「包括的テクスト空間」の多義性への問いであり、本査読論文が問題提起という形でしか示すことのできないテーマである。
まず、田澤氏による「言語ゲーム」の位置づけを見ておく。田澤氏によれば、「ロールシャッハ状況」とは、「言語とそれが織り込まれる行為の全体」としての「言語ゲーム」に他ならない。「そこで展開されるのは、共通する特徴が現れたかと思うと消えうせ、今度は別の特徴が現れるような、そうした10通りの言語ゲームである」。また、「10通りの言語ゲーム間に(…)何らかの家族的類似性が見出されるはずである」。さらに、ここでの「解釈」に関して、「あくまで具体的なロールシャッハ状況における直観を目指す概念分析は、施行するときがすなわち解釈するときなわけであるから、その意味で一定水準の習熟を前提とするのは言うまでもないことである」と言われる。
ここから垣間見られるのは、やはりここでも上記の「まさにその瞬間における意味の生成」「「いま、ここ」における「行為的直観」」というレベルが、<総体>としての概念システムにおける基礎的レベルとして維持されているのではないかということである。おそらく、ここでの「行為的直観」のレベルは、「家族的類似性」のダイレクトな把握として、この類似性の「記述」の手前のより根源的な層において、またはその記述に先立つレベルとして維持されていると考えられる。それは、ウィトゲンシュタインの「語ることのできないもの」を「示すこと」というテーゼにおけるその「示されることしかできないレベル」を想起させるが、ウィトゲンシュタインとはその位置づけを異にするものである。
ここで論証することはできないが、ウィトゲンシュタインには、<自然>(後の表現では「自然というテクスト」)を含むいかなる<全体>へも回収され得ないものとしての、「語ることも示すこともできないレベル」、すなわち<この言語ゲーム>の「一回性(偶発性)」という究極のレベルがあると考えられる。我々はここでは、「語ることも示すこともできないレベル」それ自体の焦点化はおろか、「語ること」と「示すこと」との関係性、あるいは「語ることのできないもの」「示されることしかできないもの」といったテーマそれ自体へと踏み込むことはできない。ただ、これら二つのレベルの差異をめぐる避けがたい問いが、田澤氏においては複数の「テクスト・レベル」が包括された<総体>(より厳密に言えば<全体>)としての「テクスト・レベル=ロールシャッハ状況」において解消されているのではないかと問うことが可能である。すなわち、たとえ実践的な「ロールシャッハ状況」が言語ゲーム的なレベルとして、さらには(あるいは、にもかかわらず)「臨床場面」の総体が「解釈過程の「入れ子ループ」モデル」として位置づけられていても(あるいは、位置づけられているからこそ)、根源的には、ウィトゲンシュタインの言語ゲームレベルとは相容れないある種の<基礎的レベル>が措定されているのではないかということである。
そこで、次に田澤氏による「テクスト論」の吟味に移りたい。
3 「テクスト・レベル」と「包括的テクスト空間」の多義性の問題
出発点あるいは前提を成すテーゼとして、田澤氏は「ロールシャッハ・テストは、解釈の可能なテクストをもたらす、つまり、ロールシャッハ・テストを媒介として、そこに自然というテクストが現れるのである。ここでは、ロールシャッハ・テストを、自然というテクストとテスターとの相互作用として、「解釈学的モデル」によって理解してみよう」と述べる。つまり、「自然というテクスト」とテスターとの相互作用のレベルが、いわばメタレベルの「包括的テクスト空間」すなわち「(いわば大文字の)ロールシャッハ状況」として措定されることになる。これは、「記述(解釈)可能なテクスト空間」の<総体>(あるいは<全体>)というレベルであると考えられる。
次のテーゼが基本的である。「ロールシャッハ状況は、テスターの対象化活動から独立して自存する生の自然というわけでは決してない。というのは、被験者との相互変容的な相互作用という言語ゲームの真只中で、解釈されるべきひとつのテクストとして、すでにそこには自然が分節化しているからである」。
それでは、言語ゲームの真只中で、解釈されるべきひとつのテクストとしての「自然というテクスト」あるいはその「分節化のレベル」を我々はどのように理解すればいいのか。この問いを前にして、我々はかなり困難な状況に位置することになる。特に、田澤氏が、ウィトゲンシュタインの概念システムに留まることなく、以下のような野家啓一氏の概念枠をも取り込んでしまうとき、解消困難に思われるテクスト・レベルの多義性が発生することになる。
以下に、やや長くなるが、可能な限りの典拠をもれなく示すという目的から、田澤氏が取り込んだ野家氏の概念枠(田澤氏によるその敷衍を含む)及びそこから田澤氏が展開した基本的な概念枠を列挙して記述する。
(1) テクストが「文字に書き記されることによって、『話し手・聞き手』という志向的関
係から切り離され、『テクスト・読者』という解釈学的関係に転移することによって、無数の読者の可能な読解へ向かって開かれることになる」
(1)-2「われわれがロールシャッハ・テストを施行してプロトコール化する翻訳作業は、「話し手・聞き手」という志向的関係から「テクスト・読者」という解釈学的関係への転移であると、再把握することが可能である」
(2)「ここでいうテクストとは、「一義的な読解(理論と事実との正確な対応)ではなく、複数の可能な読解に対して開かれている」力動的構造体のことである(…)テクストとは文章化されたプロトコールにとどまるものではなく、生活形式によって制約されロールシャッハ・テストの規則によって構造化された、被験者とテスターとの相互作用の形をも含むものである」
(3)「「『知覚』が制約を受けるのはわれわれの生理学的機構と生活形式(言語をも含む)によってだけである。それゆえ、パラダイムは科学的事実を創り出しはするが、知覚的事実を創り出すことはできない」(…)つまり、種々異なる読解による変化は、直接的な知覚経験の構成すなわち日常の知覚的事実にまでは及ばないということである」
(3)-2「依拠するロールシャッハ・システムは異なるとしても、われわれは同一の知覚対象を基盤としているのであり、そこには「同じこの世界について語っているという単純な一事」があるだけである。こうした「実践的状況の不変構造」あるいは「生活世界の分節化の『構造的安定性』こそが、『自然というテクスト』の同一性」を保証している」
以下の記述は、以上の概念枠を前提にした、田澤氏による「テクスト・レベル」の定義である。
(4)「まず、具体的なロールシャッハ状況における「テクスト・レベル1」である。このレベルのロールシャッハ状況とは、被験者とテスターの志向的関係のうちにロールシャッハ・テストという言語ゲームが営まれる、直接的経験の世界、知覚的事実の世界のことである。ここに現れる自然という同一のテクストを、テスターは後述する「テクスト・レベル3」との媒介過程において再構成し、同じく後述する「テクスト・レベル2」において、それを多様に読解することになる。だが、それ以前にテスターは、ロールシャッハ・テストを媒介とした被験者との絶え間ない相互行為において分節するひとつのテクストを、つまり生成の只中にある自然というテクストを、この「テクスト・レベル1」においてすでに生きているといえる」
(5)「以上は「話し手・聞き手」という志向的関係である。しかし、ロールシャッハ状況におけるテスターは、被験者に耳を傾けながらそれを文字として書き写す「話し手・書き手」という別の役割をも生きているので、ひとつの志向的関係において「聞き手」と「書き手」という役割の二重性を生きているというのが適切であろう。そして、そのようにして聞きとりながら文章化されたものがいわゆるプロトコール(トランスクリプト)である(…)」
(6)「次に「テクスト・レベル2」である。素人のテスターを例証として、「テクスト・レベル1」においてすでに日本語としての言語構造が分節化していることを述べたが、もちろんこのことは経験のあるテスターにとっても変わらないことである。しかしながら経験のあるテスターであれば、単なる日本語としての言語構造にとどまらないロールシャッハ反応としての反応構造が分節化して現れ、素人とは違ったかたちでテクストを読解するはずである。つまり、このレベルにおけるテスターは、もはや知覚的事実にとどまってはいないのである。というのは、ロールシャッハ理論という「テクスト・レベル3」のフィルターを通してみた知覚的事実から、ロールシャッハ反応というひとつの分節構造を、すなわち科学的事実を抽象しているからである。ここに、「テクスト・レベル1」における同一のテクストがテスターとの相互作用によって多様に読解される、テスターと自然というテクストとの解釈学的循環が成立することになる」
(7)(以下は、典型的な<階層論モデル>の記述として特に注目に値する)「具体的なロールシャッハ状況は、「話し手・聞き手」+「話し手・書き手」、それから「プロトコール・読者」という二種類の志向的関係(「テクスト・レベル1」)と、それに対応する二種類の解釈学的関係(テクスト・レベル2)が、理論の鋳型を当てはめて知覚的事実を意味づけるような構成的規則としての機能を果たすロールシャッハ理論(テクスト・レベル3)に媒介されながら、重層構造をなしていることが特徴である」
(8)「次に、「事後的な解釈場面」である。これは、ロールシャッハ・テストを施行した後の段階で、テクストとしてのプロトコールとテスターとの相互作用が営まれる場のことである(…)事後的な解釈場面も、具体的なロールシャッハ状況と同様にして、「テクスト・レベル1」「テクスト・レベル2」「テクスト・レベル3」の重層構造によって理解可能である。つまり、日本語としての言語構造が分節化しているレベル、ロールシャッハ反応としての反応構造が分節化しているレベル、そしてロールシャッハ理論のレベルである(…)われわれテスターは、「テクスト・レベル2」において、どのロールシャッハ・システムに準拠しているのかに応じて、どのようにテクストを解釈すべきか規制されている(…)「テクスト・レベル2」のロールシャッハ反応が、実は「テクスト・レベル1」の知覚的事実を「テクスト・レベル2」のロールシャッハ理論のフィルターを通じて見る媒介過程をへて分節化したものであること」
以上から、田澤氏の描くところの「包括的テクスト空間」は、提示されたそれぞれのレベル相互の位置関係の整合性の読み取りが強度の多義性に晒されるものである。このテクスト空間が、<総体>あるいは<全体>としての可能性の空間にとどまるのであれば、その都度の現実的・偶発的な「ロールシャッハ状況」としての「概念分析」の現場(臨床場面)というレベルとの整合性をどのように理解すべきなのかという問題があらためて浮上してくることになる。そこで、次に田澤氏による「概念分析とは何か」を検討してみたい。
4 「包括的テクスト空間」から「概念分析」の現場へ――「臨床場面」の<総体>の「解釈過程の「入れ子ループ」モデル」への回収
田澤氏は、「臨床場面」における「概念分析」の方法論を記述する際に、ウィトゲンシュタインに全面的に依拠しているように見える。そこで、先ほどと同様に、以下において、可能な限りの(実際には必要最小限の)典拠を示すという目的で、田澤氏がウィトゲンシュタインから取り込んだ概念枠(田澤氏によるその敷衍を含む)及びそこから田澤氏が展開した基本的な概念枠を列挙して記述する。
(1)「端的にいって概念分析とは、反応を組織化するにあたって概念を表す語がどのように使用されているのか、その文法を探求することである。つまり、見通しのよい、展望を与える記述によって、ロールシャッハ状況における日常言語の用法を具体的かつ明晰に理解するのである」
(2)「現象学におけるような現象の本質直観へと向かうのではなく、「現象の可能性(§90)」としての「現象について行われた種々の言明」を探求するということである(…)ロールシャッハ状況における概念分析とは、そこで使用される様々な語の使用の深層文法を解明することでもある(…)概念分析は、あくまで語の使用について展望を持ちながら、そこに家族的類似性を見て取るところにとどまる」
(3)(「縦軸を個々の反応、横軸をその属性としたクロス・テーブル」の手法に関して)「関心を抱いた言語表現の箇所をそのまま切り抜いて記載したものが、横軸の属性ということになる(…)次に行われるのは、個々の属性をより抽象度の高い概念を用いて命名することである(…)可能であれば(…)各カテゴリーを比較して下位概念をさらなる上位概念に包摂する作業に進む。ここでは「あいまい」と「主語の変化」を、「主語・述語の揺らぎ」として包摂している」
(3)-2「大切なのは、質的にまったく異なる多様な現象がひとつの共通する機能を果たしていることを、具体的なロールシャッハ状況において見て取ることである(…)この作業は、具体的なロールシャッハ状況においては個々の反応を具体的に意味づけながら被験者との相互作用のうちで即時的に行われる(…)解釈としての概念分析は、あくまで具体的なロールシャッハ状況においてなされるものである。事後的な解釈場面を含めるとすれば、それは反応をすべてコード化した時点ですでに終了しているといえるであろう」
(4)「「文法にではなく、自然のなかで文法の基礎をなしているものに(§46)」(Wittgenstein,1980)関心を払う、そうした既存の枠組みに拘束されない視点によって、そのテクストはこれまでにない新しい分節様態においてテスターの前に姿を現すことであろう。このようにして直観的意味が開示されることを、三木(1987)は「発明」として次のように述べている(…)」
(5)「このような閃き(発明)は、いままでおぼろげに感じていたものが有意味な何かとして分節化することを意味している。理論が生まれるときである。これまではボトム・アップが重視されていたが、意味を形成された概念的ゲシュタルトがこれを転機として理論化し、今度は自明となったそれがトップ・ダウンに反転することによって、テスターの認識関心を既存の枠組みとして拘束するようになるはずである」
(6)「ロールシャッハ・テストは、臨床にはじまり臨床に終わる、解釈過程の閉じられた円環のうちにある。つまり、具体的ロールシャッハ状況に始まり、事後的な解釈過程をへて、その解釈を心理療法につなぐことで終わるのである」
この「臨床にはじまり臨床に終わる、解釈過程の閉じられた円環」は、田澤氏が提唱する「解釈過程の「入れ子ループ」モデル」として、以下のように記述されている。
(7)「私が概念分析で強調する段階は、あくまで「具体的なロールシャッハ状況」である。したがって(…)それは「データ収集」の最初期を占めるにすぎない(…)共感が事後的にも有用であることを認めるにやぶさかではないが、本来的にいって、共感は直接的な対面状況においてこそ役立つのではあるまいか。そこで私が提唱したいのは、解釈過程の「入れ子ループ(nested loop)」モデルである。つまり、具体的なロールシャッハ状況を最も重視される円環として、事後的な解釈場面をそれを取り囲む円環として、そして高次の経験を整理する段階をさらに大きな円環として、これらすべてを臨床に始まり臨床に終わる入れ子ループ状の円環として描くのである。図示することは好まない。読者の構想力に、その視覚化を委ねたい」
先に、田澤氏の描くところの「包括的テクスト空間」が、<総体>あるいは<全体>としての可能性の空間にとどまり、その都度の現実的・偶発的な「ロールシャッハ状況」としての「概念分析」の現場(臨床場面)というレベルとの整合性をどのように理解すべきなのかという問題があらためて浮上してくると述べた。この点に関して、とりわけ上記「クロス・テーブル」の手法に依拠した田澤氏による「深層文法」の探求の実際が注目に値する。そこで提示されている下位概念・上位概念(「より抽象度の高い」=メタレベルの概念)という階層的カテゴリーによる包摂システムは、「規則」「構造」「理論」「日本語」それ自体といった前提(その都度の言語ゲームに対するメタ言語のレベル)を認めないウィトゲンシュタインから異質な方向へと乖離している。
言い換えれば、上記の記述において、「具体的(な)」という執拗に反復される表現における「具体性」は、その都度の現実的・偶発的な「ロールシャッハ状況」という言語ゲームそれ自身の現実性・偶発性ではなく、むしろ「具体的なロールシャッハ状況」の一般的属性への指示として、田澤氏の論文においては、「展望される(はずの)もの」として目指されるべき、被験者とテスターとの「リアルな相互作用の過程の全体=X」という可能性の空間にとどまるといえるだろう。
4-2 「事例分析」について
次に、田澤氏による上記「概念分析」の記述及び本論におけるその位置づけを念頭に置いた上で、田澤氏による「事例分析」(「ロールシャッハ状況における概念分析の実際」)の記述を見てみたい。そこで、以下において、これまでと同様に、可能な限りの典拠を示すという目的で、田澤氏による「事例分析」の主要な(注目すべきと筆者が判断した必要最小限の)記述を列挙して記述する。
(1)「精神科医の懸念は(…)いわゆる予後と病態水準に関するものであった。したがって、ロールシャッハ・テストは、それらについて検討し、治療に役立てるために施行された(…)コード化はKlopfer B et al」(1954)および片口(1987)に従っている(…)第一反応にP反応ではない「お面」がきたことに興味を持つと同時に、「何かの」という曖昧模糊とした表現が気にかかる(…)最後に10図版である(…)ここでも彼は、私の筆記と歩調を合わせるかのようにして、「えー」など、間合いをとりながら話している。やはり図版の回転はない。「何か」や「人間」という表現がここにも出てきた」
(2)「この反応は「お面」というよりも、むしろ「顔」であろう(…)「鼻」は下端にあり、この「お面」はアイマスクのような部分的形態をなしているだけである。したがって、見落としやすいが、これは形態として閉じられた全体をなさない、形態質の低い反応なのである。「何かの」という曖昧模糊としたひとつの表現に、このようにして曖昧な概念的境界と、漠然とした知覚が反映されているようである。個体化の視点からいえば、ロールシャッハ状況においてこの反応をした時点で、彼の自己は漠然としたレベルで分節化し、自我境界が不明瞭になっていたということである。このことは、自由反応段階における生気のない茫漠とした態度と一致している。そのような彼が、新奇な、慣れない状況に遭遇することは、「この世のものではない」ほどのグロテスクな相貌のうちにおかれることを意味するのであろう」
(3)「彼の真意は、特に「全体から見たら顔にはならない」という表現の真意は、彼がインクブロット全体に収まりきらない顔を認知している一方で、インクブロット部分が何に見えるのかというロールシャッハ・テストの枠組みに拘束されているということであり、ここでは、不全感を伴いつつそのことを弁明しているのである」
(4)「彼にとって人間は、若者であるか、年をとっているのかが重要なのであろう。男女というステロタイプな区別は、あまり重要ではないようである。病による個体化の危機とは別に、アイデンティティの形成が困難をきたしているのかもしれない。しかし、それに関わる葛藤が示されているわけではないので、彼にとってそれが何らかの困難を意味するのかは定かではない」
(5)「自由反応段階における「鎧というか、顔といいますか」という競合であるが(…)「顔」のインパクトが強いために、両者が統合されずに並存してしまったのであろう。つまり、「顔」という概念と「鎧」という概念は、結合されずに疎隔したままなのである(…)本来は地として背景に退いているはずの見えないものが、見えるものになっているということである」
(6)「私が「これは女性ですか、男性ですか」と尋ねると、彼の答えは「若者でしょうね」というものであった。私は「若者?」と聞くと、彼は「脚がすっと伸びていて、しなやかに見えるからでしょうね」と答えた(…)色彩反応もなく、彼は典型的な運動感覚優位の体験の仕方をするようだ」
(7)「次に私は7図版を提示して、「睨めっこしてるのは、男の子ですか、それとも女の子ですか」と尋ねた。すると彼は「そこまでは分かりません。ただファニーな感じがします」と答えた。やはり男女の特定はない。しかし、不気味感ではない「ファニーな感じ」というのは、注目すべきことである」
(8)「謎が解けた。彼の知覚は病によって大きく変化している。色彩反応が皆無であるのは、「気にしない」というかたちで彼が色を遮断しているからであろう。色の喧騒に晒されているからこそ、それが遮断され、そのため、有意味な色の反応概念が自発的には形成されるには至らないのである。そして、彼が「疲れやすい」のは、「すべて意識して」、努力して行動しなければならない自明性の喪失だけでなく、このような遮断に没入しなければならないことにも起因しているのかもしれない(…)知覚によってインクブロットを把捉する営みが途切れてしまい、現実とのコンタクトから後退することを余儀なくされるということである。疲労による現実からの後退、これは自閉の起源ではあるまいか(…)いえるのは、彼のしっかりとした反応の定位と、浮動感や移動をもたらすような意識の濁りがないこと、つまり意識が清明であることの二つである(…)われわれは、ここでロールシャッハ・テストを終了した」
以上では、田澤氏による事例分析の(ロールシャッハ・テスト終了までの)記述から、比較的注目すべき着眼を示しているものを選択して提示している。例えば、そこに記述されているのは、「顔」「部分的形態」「性的差異」といった、「通常の概念分析」に対する強度の抵抗を示し、まさにウィトゲンシュタインの「概念分析」の実践を要求する臨床的諸事象である。しかし、ここではこれらの事象は、「アイデンティティの形成(の困難さ)」「自我境界(の不明瞭さ)」「現実とのコンタクト」「現実からの後退」「自閉の起源」といった、あまりにも一般的であり、ウィトゲンシュタインの「概念分析」によって厳しく批判されるはずの「(自我心理学的)概念フレーム」がその分析の障害となっている。ウィトゲンシュタインに(そして本来そうすべきであったように、それだけに)依拠するのであれば、これらすべての概念フレームを排除すべきであると考える。ここで我々は、フッサールの現象学が、一切の「自然的態度」をエポケーする現象学的・超越論的還元を基盤としていたこと、そしてその現象学が徹底的な批判に晒されたことを想起すべきだろう。
以下は「解説」からの引用である。
(9)「本論ではクロス・テーブルを使用して系統的に描写することはやめた。その代わりに、「言語による物語(§123)」(Wittgenstein,1696)を介して、概念分析の詳細を記述することにした(…)つまり、「ひとつの語が実際にどう使われているかを観察すると、ゆらぎが見られる。われわれはこのゆらいでいるものに対し、それを観察しながら、より固定したものを設定する。ちょうど、像としてそれ自身は絶えず変化している風景について、静止した写像を描くように(§36)」(Wittgenstein,1696)ということである。より固定したものを設定するとは、「不正確な記述」として述べたことであるが、揺らぎのある語の使用を「何か」「昆虫」「撮った」など、認識関心にしたがって有意味な分析単位に切り取り、ロールシャッハ状況に固有の概念として取り出すということである。この意味でいえば、語の使用の切り子面がすなわち概念ということになろう。ロールシャッハ状況において言語ゲームが展開するにしたがって、生成と消滅のなかで類似する特徴が現れたかと思うと、次には別の特徴が現れる。そのようにして現れる概念間の類似性と相違性をそのつどマスターするにつれ、相互に重なり合い、交差しあう概念が順次蓄積されて、家族的類似性が複雑なネットワークを組織していく。いま「ここでひとつの概念をなりたたせているものは、まさにそれら切り子面のあいだの連関、それらの同類関係にほかならない(§36)」(Wittgenstein,1696)ということになるであろう。主として私が行ったのは、このような諸関係をいまここから展望し、たとえば「この特徴は○図版第○反応のそれに類似している」というかたちでそれらをつなぐことによって、語の深層文法を明らかにすることである」
ここでも、テスター(田澤氏)による先行的な概念フレームの投射という(無意識の)行為の結果としての、「切り取られた有意味な分析単位」=「取り出されたロールシャッハ状況に固有の概念」=「語の深層文法」という一連の等値が見られる。この先行的な概念フレームの投射という行為自体を、「有意味性」「固有性」「深層文法性」といった概念がそこに位置する概念システムの<総体>との関連において、あらためて超越論的な批判に遭遇させる必要があるのではないか。
なお、上記のように、ウィトゲンシュタイン自身の引用された記述は「ここで」という文脈を指示する言葉で始まっており、「いま」は田澤氏による記述である。すなわち、ウィトゲンシュタイン自身は、「概念分析」に「いま、ここ(での体験・共感)」を決して求めはしないし、それは彼にとってどこまでもあり得ない。だが、以下の結論的な記述においては、これまでの記述と同様に、まさしくそういった「いまここでの共感的体験」が、「直接的な相互性のうちにすでにある」ものとして、「事後性」をある種の汚染として回避し得る<階層論的基礎レベル>として措定されている。
以下は、その結論的な記述である。
(10)「私は、A男がアダルト・チルドレンであり、なおかつ状態像としては限りなく統合失調症に近い、神経症と統合失調症との境界域にあったように思う。前者は彼の生い立ちから、後者は具体的なロールシャッハ状況とその後数回面接した際の印象からである。印象というのは、相互性のうちにある微妙なずれの感覚である(…)いずれにせよこのような診断は、ロールシャッハ・テストを臨床判断の媒介として利用する概念分析だからこそ可能なのだといえるであろう。つまり概念分析は、具体的なロールシャッハ状況における共感を重視する「体験的アプローチ」(Schachtel EG,1966)なのである(…)その人に関わる理解は、コード化後のロールシャッハ・スコアのなかからはじめて現れるのではなく、直接的な相互性のうちにすでにあるのだ。臨床的な判断は、事後的な解釈場面ではなく、具体的なロールシャッハ状況においてなされるものなのである」
「事後的な解釈場面ではなく、具体的なロールシャッハ状況において」という二項対立な表現が注目される。結局、解釈学的循環すら度外視可能だったのだろうか。少なくてもデカルト以降、あらゆる知的格闘が、人間という有限的存在にとってのこの不可避の「事後性」を巡って成されていたのではないか。ヘーゲルは、よく知られた『精神現象学』の端緒の「感覚的確信」の記述において、「いま、ここ」の確信がそのまま最も空虚な「一般性」へと転化・没落すると批判していた。我々は、田澤氏の大部の記述の終わりに、「A男がアダルト・チルドレンであり、なおかつ状態像としては限りなく統合失調症に近い、神経症と統合失調症との境界域にあったように思う」という「結論」的な記述を見出すとき、このヘーゲルの批判を想起しないわけにはいかない。
5 おわりに
先に我々は、「問題は、この「反応解釈のプロセス」それ自体の「記述のレベルの確定」であり、それは他ならない田澤氏の論文「概念分析によるロールシャッハ解釈」自体の記述レベルの位置づけへの問いになる」と述べた。この作業は、田澤氏自身の先行的な概念フレームの投射という行為自体を、「有意味性」「固有性」「深層文法性」といった概念がそこに位置する概念システムの<総体>との関連において、あらためて超越論的な批判に遭遇させる作業となるはずである。田澤氏が、厳密な意味において、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念にのみ依拠することによって、困難ではあるが、この批判的作業を遂行することが可能になるはずである。
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