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秋山真之(さねゆき)は海軍少佐として日露戦争を迎えた。常日頃よりロシアの主力艦隊を破るべく工夫を重ね、その作戦を得たとき日本海軍は彼の能力を信頼し、東郷平八郎率いる連合艦隊の参謀にした。日本海海戦の名口上である、 「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。」 という電文の起草者でもある。 真之は秋山家の五男として明治元年に生まれる。前回述べたように三男好古の懇願により、寺に入れられることもなく元気なわんぱく者として育ったという。幼名を淳五郎という。 「秋山の淳ほど悪い奴はいない」 というのが近所の評判だった。 小柄で、色が黒く、目が小気味よく光り、走ると弾丸のように早く、こらしめようにも捕まえられない。 その反面、ことばを記憶する能力や鋭さが7,8歳の頃から誰よりも優れていて、歌詠みの才能に秀でていたようである。7,8歳の頃、便所に行くのが面倒で北窓を開けて放尿した。 雪の日に北の窓あけシシすれば あまりの寒さにちんこちぢまる という歌を詠んだという。父親はこの息子は歌詠みになると思っていたらしい。 町の子供達を集めて自分達で打ち上げ花火を作って打ち上げてしまい、町の人達を驚かせたりもした。子供達の中でも親分肌のようである。 しかしそんな真之にも天敵はいる。 兄の好古(信三郎)である。真之は好古に助けられたことを両親からさんざん聞かされていた。それについては真之も (信兄さんのためなら命もいらん) と子供心に思っていた。だがそういう自分にとっての重すぎる関係の兄だけに顔を合わせるのも恥ずかしいのであった。 好古はすでに士官学校に入っており入隊すれば少尉となる。 好古「二年経ってあしが少尉になると、淳は小学校を出る。金を送るけん、淳を中学に入れてやって下され」 好古はどこまでも弟を世話しようとした。 後年真之は東京に出ることになり、兄の下宿に住むことになる。既に兄は騎兵将校として士官学校の教官になっていた。にも関わらず家にある家財は鍋と釜と茶碗が一つずつ。これしかないのだから食事をするにしても兄が終わるまで待つというような生活だったらしい。 日本人離れした骨相で西洋人としばしば間違われたこともある好古にとって、最も嫌ったことは、自分が美男であるということを人から言われる事だった。男にとって必要なのは「若い頃には何をしようかということであり、老いては何をしたか」である。好古はそう考えていた。 「だから茶碗は一つでええ」 好古はそういう人であった。 そういう兄を持つ弟の真之はこれから厳しい生活が始まろうとしている。
2004年08月14日
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この物語は秋山兄弟と正岡子規が中心人物ではある。しかしその他の登場人物の多さもこの話の面白みを増す要因の一つだと思う。 その多くの登場人物の中でゼロマの一番のお気に入りはやはり「秋山信三郎好古(よしふる)」。今回は若い頃の信さん(好古)のエピソードをご紹介。 前回の日記に書いたようにラストサムライとしても片鱗が幼少の頃からもうかがえる。この人は一生を通してスタンスが変わらない凄みがある。多分普通の人には真似出来ない物であり、一筋の道を迷わずに突き進むパワーが当時の日本を強国に押し上げた原動力だったんだろうと想像出来る。 彼の生涯は・・・ 「秋山好古の生涯の意味は満州の野で世界最強の騎兵集団(※1)をやぶるというただ一点に尽きている」 とフランスの軍人が言わしめたように、一点の迷いもなく目標に向かっていける人であった。 好古(三男)と弟の真之(五男)を結ぶ最初のエピソードがある。 秋山家は松山藩の貧乏士族で維新後はその生活は窮乏を極めた。その折りに真之が生まれた。 「いっそ、おろしてしまうか」 当時、町家や百姓家では間引きという習慣があり、産婆に頼んでおけば産湯をつかわせている時に溺死させてしまうのがある。だが武士にはその習慣はなく、さすがに実行はしなかった。そのかわり・・・ 「いっそ寺にやってしまおう」 ということになった。 (以下原文) それを十歳になる信さん(好古)が聞いていて、「あのな、そら、いけんぞな」と、両親の前にやってきた。由来、伊予ことばというのは日本でももっとも悠長な言葉であるとされている。 「あのな、お父さん。赤ん坊をお寺にやってはいやぞな。押っつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」 ウチというのは上方では女児が自分を言うときに使うのだが、松山に行くと武家の子でもウチであるらしい。 「お豆腐ほどのお金」 と言う例えも、いかにも悠長な松山らしい。藩札を積み重ねて豆腐ほどの厚さにしたいと、松山の大人どもは言う。それを信さんは耳に入れていたらしい。(以上) いわば弟の真之は兄の好古に命を助けられたのである。この行動がなければ、今の日本はどうなっていたのだろう。連合艦隊はロシア海軍に敗れ、日本列島はロシアに蹂躙されていたかも知れない。 この好古は弟を可愛がった。というよりも甘やかすことは一切無く、父親以上に父親であったかも知れない。真之は自由奔放で怖い物知らずの剛胆な男であったが、生涯を通してこの兄上の前に行くと口答えは出来ず、この上下関係は軍隊以上のものであったという。 後に好古は教員として故郷を離れるのだが、自分の給料のほとんどを実家に送っている。自分自身は「あしは酒が有ればよい!」と言い放ち、貧乏生活を極めた。その仕送りで真之は学校に行けることになり、それが故に真之は一生兄に頭が上がらないのである。この作品では不思議な兄弟愛を描いている点も面白い。 また好古は多くを語る男ではないが、筋の通らないことは嫌う。彼のプライドには凄みを感じる場面がある。 好古の下宿(寮)での出来事。一室に書生が2,3人は住み着いている。その書生とのやり取り・・・(以下原文 一部抜粋) 書生「士官学校(※2)を受けるんじゃと?」 と、法律を勉強しているという書生が、鼻で薄く笑いながら言った。 書「よせ、筋の通った人間のゆく所じゃない」 好古「はあ」 好古は、わざとにぶい顔をし、取りあえずは飯を食うことに専念した。 書「土百姓や物売りの子が兵隊になる世の中じゃ。そいつらの尻拭き仕事じゃぞ。」 好「しかし官費(タダ)ですけん」 書「ただなら、馬のくそでも食うというのか」 好古はだまった。 飯を食い終わり、箸を置くと、 好「貴方(あん)さん、お覚悟があって右のごときご暴言を吐かれたのかな」 と、静かに言った。 好「ひとを故なくののしりなさる以上、命をお賭けになっておるのじゃろと思いますがな。私もここで命を捨てる覚悟がでけ申したけん、チクと表にお出でませ」 相手は、真っ青になった。 (以上) 好古が切れた場面である。 明治の人の切れ方は半端じゃない。自らの命をかけて相手に立ち向かう。この気持ちは明治の日本人の気質であったと言って良い。それ故に欧米人には戦前に日本人の勇猛さを計り知ることが出来なかった。 筋が通らないことに対しての命懸けの抵抗は、これからも様々なシーンで出てくる。日露戦争自体が理不尽な大国の論理に飲み込まれそうになる小国の、命賭けの抵抗なのである。 その賭けに何とか勝つことが出来た日本はそのこと自体が奇跡であり、実力などではなかった。その奇跡を過信した昭和の軍人達が明治の栄達の作り上げた財産を一気に崩壊させてしまうのである。 歴史を正しく、客観的に分析出来ない昭和の後輩達は「侵略戦争」という横暴に出ることになった。 では平成の後輩達はこの歴史自体を知らない人も多い。(自分も含めて) まずはこの奇跡の人達、奇跡の歴史を少しずつ紐解いてみよう。 ======================================= ◆補足説明◆ ※1 世界最強の騎兵集団 いわゆるロシアのコサック騎兵のこと 詳細は「其の一」の補足説明を参照。 当時の騎兵は馬体の大きなロシアの馬と小さな日本の馬とでは勝負にならなかった。 好古はその弱点をよく知りつつも、コサック騎兵を打ち破るために日夜研究を続け、それを日露戦争に於いて実践した。 ※2 士官学校 陸軍士官学校、海軍兵学校はそれぞれ近代軍隊における将校育成学校であり、その学費は国からの費用(官費)で賄われて生活費も支給された。その伝統は今でも防衛大学校に受け継がれている。 薩摩・長州以外で軍人になる場合にはこれらの学校を出ることがエリートの近道であった。しかし好古にとってはタダで勉強出来ることが最大の魅力であった。
2004年08月12日
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