アダム・スミスという人物について、ある程度知られていることは、「国家の利益は商業から発生するものではなく、産業から発生する」という主張をしたという事、「自由競争を擁護し、政府による規制や干渉を退けた」という事、「自由競争によって個々人が利益を追求していっても『神の見えざる手』によって調和が図られ、社会全体の利益の向上が実現するだろう」と主張したというあたりだろうか。
ただ、彼が主張し、擁護した「自由競争」は、「自由放任」とはイコールではないという事は知っておいた方がいい。
スミスは、同時に「道徳情操論」という著作を著している。その中で彼は、人間は他者の視線を意識し、他者から「同感」を得ようとする、と述べ、「公平な観察者」の目から見て問題がないように行動しようとすると指摘している。
また、「富裕な人々は大地が全住民に平等に分配されていた場合の生活必需品の分配を『見えざる手』に導かれて行う」とも述べている。
このケースを、「経済学が道徳、倫理から未分離の状態」と評する人もいるかもしれない。
「マキャヴェリは、政治と宗教・道徳を分離し、政治学は学問として自立した」とも言われるかもしれない。
ただ、「経済学は、道徳・倫理などを顧みなくても良い」と言えるのか?
ECONOMYには、様々な変遷を経つつ、「経済」という訳語があてられた。「経済」とは、「経世済民」の略である。「済民」には、「人民の難儀を救う」(「新字源」角川)という意味がある。
経済学者の中には、「規制緩和」を主張する者もいる。あの「リーマンショック」以後に依然として「規制緩和」を言いつのるというのはもう学習機能がないとしか言いようがない。
前回、現実主義者としてのアリストテレスを紹介した。
彼は、「中庸」を重視している。極端はだめであるという。孔子様も「中庸」を重視されている。
簡単に言えば、規制には必要なものとそうではないものとがあるという事であり、現実の企業の行動を観察することによって必要な規制はおのずから導き出されるという事である。
これは、「帰納法的結論」であり、判断材料は、「企業犯罪」である。
企業がいかにして法(たとえば労基法)の網をくぐろうとしているか。
企業がいかにして自己利益を優先して、地域と従業員とを切り捨てているのか。
企業トップが、いかにして国民を欺いて来たのか。
東電の例だけで十分ではないか。
企業に決して与えてならないのは「自由」である。
無制限の「自由競争」の果てには「独占」が待っている。企業が栄えて国民の大半が貧困にあえぐという図は本末転倒である。
「自由市場を護りたければ、企業には適正な規制が必要であり、内部告発制度も必要であり、労働三法を厳正に守らせるための監視の目を光らせなければならない」というのは、何度も言うが、経験知である。
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MoMo太郎009さん
SEAL OF CAINさんComments