マリィのつぶやき

2006年08月15日
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カテゴリ: 日記
靖国




今日は8月15日だそうだ。
正直うんざりである。


今上天皇、皇后の姿を戦没者慰霊祭で見たが、あの人が天皇になって18年、その「立場」をある種職業とみなしたら、たいへんな仕事である。なぜならその人生にはいつも、そしていつまでも「戦争」の二文字がついて回る。


私は小泉総理が今日参拝したことに関して、なんか彼のすっきりした心を考えると、内外の批判に負けず(いや、負けたりもしたけど)今日参拝できて、よしっ、それでこそ小泉だ、というような気持ちにもなる(笑)


ここ数日、靖国や戦争関連のTV番組をみたけれど、どう考えても「死んだら英霊となって靖国にまつられる」という文句でつって、戦争に参加させてただけじゃない。

死んだ兵隊たちの霊も(間違って生きている人も多くまつられているらしいが)いわゆるA級戦犯たちの霊も、もはや一つのものになっているから分けることは出来ないなどと、分かったような分からないようなことを(詭弁?)靖国サイドは言っているという。

しかしだよ、死んだ人じゃなくて生きている誰かが勝手にまつったといって、なんのことはない「まつった」といっているだけのものだ。骨があるのでもなんでもない。
それにすべての兵隊がまつられているわけでもなんでもない。




戦友を亡くして靖国にお参りに来ている人や遺族には、靖国は大変重要な場所だということも、理解できる。

A級戦犯の戦争責任や有罪かどうかということも、そして靖国にまつるということも含めて、それはそれなりの議論も必要かもしれない。



だけど、私は「靖国で会おう」といって死んだ人たちが、もし靖国にいるとしても、こう考えてもらいたい。

英霊になって、と言って、国はいわゆる靖国というものをうまく利用して若者を兵隊にとったんだ。


国に有事があった際は命をかけてでも国家を守るという精神を私は批判する気は毛頭ない。

確かに多くの人たちはそういう気持ちで臨んだのだろうし。


しかしやはり「操作」させられた、ということも否定できない。
それが「靖国」に象徴されているのではないか?


もし平和を望むなら、戦争へと駆り立てていった、駆り立てられていった時に、そのときに「靖国」が道具として使われた、そのことを考えると、遺族の方々など、逆に靖国におまいりしないほうがいいのでは?などと思うのです。



小泉参拝が韓国や中国でも話題になって相当批判されているようだけど、私はこの点については「いいかげんにしろ!」といいたい。

これも自国の中に目を向けさせないために他国を批判するという常套手段で、またそういう風に国民の関心を向けさせるという点ではまさに情報操作をしているんじゃないの?





なんで高い金出してヘリを飛ばしてまで、車まで上空から撮影しなければならないの?

おかしすぎる!

報道しないというジャーナリズムはないのだろうか。


そしていつもいつもアメリカの影、61年前終わった戦争もあれば、今戦争中のところもある。


やすいという意味はチープではない、平安という意味なのであるよ!







特攻


もちろん、私は「霊」と交信できるというような者ではないけれど。


でもおじさんたちに向かって聞いてみた。


おじさんたち、どこにいるの?


おじさんたちは会ったこともない姪の私にきっとこう言うだろう。


『魂とはどこか特定のある場所にいるんじゃないんだよ、


おれたちを思う人のそばにいつもいるんだ。』




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最終更新日  2006年08月15日 23時44分21秒
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