表紙の汚れた帳面に記された約束の場所「ナンテの木の下で」

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赤い鳥09

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2009.10.30
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意識とは、具体的な、しかも外面性の中に囚われているところの知識としての精神である。しかし、この対象の進展運動は、あらゆる自然的、並びに精神的使命の展開と同様に、全く純粋本質性の本性に基くものである。ところで、この純粋本質性こそ論理学の内容をなすものである。現象する精神としての意識はその展開の道程において、その直接性と外的な具体的形態から解放され、これらの純粋本質性そのものをその即且向自的の相においてそれ自身を対象とするところの純粋知識となる。これらの純粋本質性は純粋思想であり、自分の本質を思惟するところの精神である。その純粋本質性の自己運動こそ、それの精神的生命であって、これが即ち論理学を構成するものなのである。つまり論理学とは、この精神的生命の叙述にほかならない。



なんて不可解なんて難解・・・そして何と魅力的な

哲学書を参考書片手に読むことは苦しい
哲学書を解説書片手に読むことはむなしい

哲学書は自分の感性で自分勝手に読むものなのだ
ヘーゲルは思想家哲学者なのではなく作家なのだ。







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Last updated  2009.10.30 23:36:59
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