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向田邦子と台湾旅行
最近すぐに「死のう」という言葉を口にする。
当然ながら、なにも本当に死んじゃいたいほどに辛いことや思い悩んでいることがあるわけじゃない。例えば、こんなときに使ったりする。
衆人環視の中、わたしが何かしらのオッチョコチョイなヘマをやらかす。それを見て、みんながドッと笑う。決まりが悪いわたしは、自分で自分を笑うのは屈辱的だし、かといって笑われていることに対して本気で怒ってしまっては場がシラける。そこで、みながひとしきり笑い終えた頃を見計らって「死のぅ」とボソッと言う。するとみんな「まあまあ、そんなに思いつめないで」やら「大したことじゃないって」などと言いながら、朗らかな表情でわたしを慰める素振りを見せる。ま、なにかと使い勝ってがよかったりするのだ。
さて、あまりに軽々しく「死」という言葉を口にしすぎることに対していささか後ろめたさというか不謹慎さというか、そんなものを感じたのだろうか。先日、会社のトイレのなかで真剣に「死」というものについて考えてしまった。思えば「死」ほどに、リアルな質感や実感を伴わず不確かで、それでいて確実に訪れるもの、不可避なものというのも無いのではないか。自分と他者を、そして自分とそれをとりまく世界というものを認識するようになったのはいくつのときだったのか。とにかく以来こっち、わたしは常に一人称で世界を見、物事を考え、ときには空想の世界へと舞い込んだりしてきた。自分の周りに存在するもの、いや、わたしそのものですら、自身の認識においてのみ存在し得たものだ。では自分が死を迎えるとき、すなわち認識が閉じてしまうときというのは、全てが崩壊するときのなのではないか。それでもわたしの死後も、この世界というのは存在し得るのだろうか。わたしの住んでいる家も、空も大地も、そして今わたしが腰掛けているこの便座も……なにかそれはとてつもなく不自然なことのように思え、そんなことはありえないことのような気もするが、でもやっぱりそうなんだろな……などと考えているうちに、人の出入りをセンサーで感知して自動的に点灯し、そして一定時間が経過すると自動的に落ちる仕組みになっている我が社のトイレの照明がパチンと落ち、わたしは真っ暗なトイレの中でひとり、死について思案していた。
そういえばわたしは幼稚園の時分、やはり死というものについて考え、あまりに怖くなってしまって夜中に布団をかぶって泣いたことがある。翌日泣きはらした目で幼稚園に行ったら、先生が心配してその訳をたずねてきた。「死について考えてたら泣いちゃいました」と答えるのはヤバそうだ、というのはさすがに幼心にもなんとなく見当がついていたので「お母さんに怒られた」などと適当なことを言った気がする。
そんなことを思い出したりした日からほどなく、わたしは一本のドラマを見た。「向田邦子追悼ドラマ」と銘打たれたもので、今回ですでに十何作目かを迎える人気シリーズだ。向田邦子は『寺内貫太郎一家』などの作品を生み出した放送作家だが、先述のドラマの脚本は向田邦子が書いたのではなく、彼女の遺作やエッセイなどを元に、別の放送作家が「向田邦子的な世界観や人間観」を基調として書き上げたフィクションだ。わたしは別にこのシリーズの常連というわけではないが、今回は「作家」町田康が役者として出演することと、「戦時中という時代と封建的価値観に翻弄されながらも、支えあい、ときに欺きながらもたくましく生きる3姉妹とその母親の生き様を描いた」という触れ込みに惹かれ、見たのだった。
町田康のギョロついた目玉が気になったり宮沢りえの演技がちょっと鼻についたりはしたが、題材そのものがわたしの心のツボを押して止まなかったので、十二分に楽しめた。そしてドラマは最後――このドラマそのものは、3姉妹の三女の回想という形で進行するのだが――以下のような三女のナレーション(声は黒柳徹子)で幕を閉じる。
『生涯独身を通した○○お姉ちゃん(長女)は、平成○年、養子夫妻とわたし、そして△△お姉ちゃん(次女)に見守られて永遠の眠りにつきました。息を引き取る直前、○○お姉ちゃんはわたしの手を握って「とっても楽しかったね」と言ったのでした』。
この徹子の声を聞くに至ってわたしは、肩をしゃくりあげながら泣いてしまった。「如何にして死を迎えるか」は、生きとし生ける物にとって永遠の命題であろうが、わたしはこの言葉にひとつの解答を見た気がしたのだ。つまりは、自身の死というものを全面的に受け入れ、最愛の者の手を握っりながら「楽しかったね」と言いつつ彼岸へと旅立つ。これぞ死の美しい形なのではなかろうか、と。いまでもこのときの徹子の声を思い出すと、わたしは鼻の奥がツンとしてしまう。
このドラマを見てからおよそ一週間後、わたしは社員旅行で香港へ行ったのだが、その帰りの飛行機がびっくりするほどに揺れた。その前の週、わたしはちょうど富士急ハイランドでいろんな乗り物に乗ったのだが、そのどれよりも激しく上下運動した気がする。「ガンダム・ライドくらい揺れた」といえば、わかる人にはわかってもらえるだろうか。あまりに揺れるので不安になったころ、機内アナウンスが入った。「乗客のみなさん、機長の○○です。ただいまジェット気流に入りました関係で大変揺れやすくなっています。シートベルトを着用してください」。
ま、これくらいの揺れはよくあることなんだろう、と思っているとさらに揺れが激しくなり、ガクンと機体が急下降するたびに内臓が3センチばかり上がったような感じになる。わたしの前方に座っている女の子たちはキャーキャーと悲鳴を上げるし、またまた「機長の○○です。客席係員たちも着席し、シートベルトを着用してください」とのアナウンスが入るし、スチュワーデスの「お客様、ご着席ください! ご着席ください!」という良く通る声が機内に響き渡る。「本当に落ちるのかも」と思うと心臓のまわりがビリビリと痺れたようになり、その痺れは全身へと広がっていった。自身に「死を迎える覚悟はあるか?」と問うてみたところで、脳みそまで痺れてしまったのか正常な解答が返ってこない。誰かの手を握り「楽しかったね」と言ってみようにも、隣に座っているのは体重120キロはあろうかという、もみ上げと髭が伸び放題に伸びたおっさんである。この人といっしょでは、とてもではないが死後、お花畑にたどり着けそうもない。
結局のところ飛行機は、同じ空港から小一時間ほど先に飛び立った便とほぼ同時刻に、成田空港に着陸した。降りるとき、通路に立っていたスチュワーデスが「今回はホントによく揺れたね~」などと、和やかに談笑していた。
最近、以前に買っていた向田邦子のエッセイ集を読んでいる。今回の原稿を書きながら、ふと思い出した。そういえば向田邦子女史は、飛行機事故で急逝されたのだ。
飛行機の異常事態を知ったとき、彼女は自らの死を覚悟しただろうか? 静かに、凛としてその事実を受け入れたのか、それとも神に祈っただろうか、あるいは鼻水を出して泣き叫んだのだろうか。
そしてドラマの長女と同じく生涯独身だった彼女は、はたして手を握って「楽しかったね」と言える相手と同乗していたのだろうか。
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