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2023年01月19日
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テーマ: 柴犬同盟(14070)
カテゴリ: 柴犬カイ
こんにちは。柴犬カイです。

水野忠邦の天保の改革!!
「天保の改革」は、世の中を引き締めようとしてぜいたくを厳しく取り締まった改革。

庶民も派手な着物は着られなくなり娯楽も制限、歌舞伎役者や作家などもびしびし処罰されました。
この「天保の改革」を実行した水野忠邦はもともと、今の佐賀県の唐津市あたりを治める唐津藩の藩主。この唐津藩には外国との貿易を行う長崎を警護する大事な役目があったため、普通ならそれ以外の要職、ましてや幕府の老中になることは難しい状況でした。ところが水野忠邦は、なんとしてでも幕府の老中に上りつめたいと野望をたぎらせます。そしてついに念願通り、老中のトップ、老中首座につくことに成功します。
水野忠邦が権力の頂点に上りつめるためにとった方法とは?

権力の階段の上り方、水野忠邦の場合は、かなり強引でした。自分の行く手を邪魔する者がいれば、情け容赦なく切り捨て。
たとえば、老中になるためには長崎警護の役目がある九州の唐津を出て他の場所に領地替えをすることが必要でしたが、これには家臣が猛反対。藩の財政が苦しい中、巨額の引っ越し費用まで負担しなければならなかったからです。
それでも水野忠邦は、九州の唐津から静岡の浜松への国替えを実行。必死に諫めた家老を、切腹に追い込んでいます。また幕府の中枢に入ってからも、自分に敵対する者を次々に排除。ライバルのスキャンダルを調べ上げたりして権力の座から追い落としていきました。

大御所時代に、幕府の役人を務めた武家は、みな腐敗しており、忠邦の改革を快く思わない人もたくさんいました。そこで忠邦は、改革の支障となる役人たちを追放し、新しい人材を登用します。

人事改革は、旗本・御家人(ごけにん)合わせて約950人が処罰される大規模なものでした。忠邦によって、新しく登用された人材としては、「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」「遠山景元(とおやまかげもと)」「川路聖謨(かわじとしあきら)」などが知られています。

特に町奉行を務めた遠山景元は、「遠山の金さん」として芝居やドラマで現在も親しまれているので、ご存じの方も多いでしょう。

忠邦が実行した経済政策は、主に以下の3点です。

・人返し令
・株仲間解散
・倹約令

人返し令は、米の収穫量を増やすため、都市部へ出稼ぎに来ている農民を農村へ戻す法令です。ただし、発令直後に改革が終わってしまい、効果はありませんでした。

株仲間とは、同業者の組合のことです。忠邦は、株仲間の存在が自由な競争を妨げ、物価を高騰させていると考えました。しかし株仲間解散によって、従来の流通システムが機能しなくなり、かえって物価が上がってしまいます。

倹約令は、享保の改革や寛政の改革でも実施された政策です。忠邦が出した倹約令はさらに厳しく、寄席(よせ)や歌舞伎(かぶき)などの人気娯楽も規制したため、庶民の怒りを買う結果となりました。

忠邦は、外国の脅威に対応するための改革も実行しています。

異国船打払令を出すほど外国船への強硬な態度を貫いていた幕府も、1842(天保13)年の「アヘン戦争」によって考え方を改めます。軍事力が高いと思っていた清国(しんこく)が、イギリスにあっけなく敗れたことは、幕府にとって大きな衝撃だったのです。

現状のままでは、外国と戦っても勝ち目がないと悟った幕府は「 薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発し、外国船の燃料や食料の補給を許可しました。西洋流の砲術を取り入れ、軍備の増強を開始したのもこの頃です。
​多くの民衆から反感を買う​

忠邦の改革は、ほとんどが裏目に出ています。特に倹約令は評判が悪く、多くの民衆から反発を買う結果となりました。

さらに、1843(天保14)年の「 上知令(あげちれい、じょうちれい)」によって、忠邦は大名や幕臣からも嫌われてしまいます。上知令とは、江戸や大坂を治める大名・旗本に、領地の約50万石を返上させ、付近の土地を代わりに与える法令です。

​上知令には、年貢量の多い江戸や大坂に幕府の直轄地(ちょっかつち)を拡張して収入を増やすとともに、外国に幕府の権威を示す狙いがありました。しかし幕府の都合しか考えていない身勝手な内容に、大名・旗本は猛反発します。他の幕閣はおろか、将軍からの信用も失い、忠邦は老中を解雇されてしまいました。
山形へ左遷へ
そして、水野家は、山形県の山形藩に左遷されてしまいます。
山形藩は、周辺の米沢藩、仙台藩などとともに奥羽越列藩同盟に加わったが、同盟の主要な藩が降伏するなか山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏。2代藩主・忠弘は時に13歳と若年だったため、分家出身で当時26歳の家老・水野元宣が一切の責任を負って処刑された。明治3年(1870年) 近江国朝日山藩に5万石で転封 、以後は明治政府直轄の天領となったため、ここに山形藩は終焉した。
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最終更新日  2023年01月19日 13時09分21秒
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