先ほどの続き・・・
。
2月7日にテレビ朝日が放送した 『日本中が見た泣いた壮絶10・19
ロッテ近鉄死闘』
、いろいろ思い出すことがありました。20年あまりの
時間の経過とともに、ついフェイドアウトしそうだった記憶が、また甦る
いい機会になりました。
特に印象に残ったのは、 梨田昌孝
が語っていた言葉です。
「喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり、抱き合ったり、いろんな表情を
見せてもらった・・・」
ボクもこの言葉に共感できます。あの「10・19」は何だったのか? そのこと
を思う時、梨田が言った言葉がぴったり当てはまるのです。
そして、その言葉のような試合がなぜ起きたのか? そんなことを考えました。
たぶん、それまでの球団・選手・ファンそれぞれの歴史や思いがこの「10・19」
に結実したのであり、その裏には人と人の確執や、挫折を味わったそれぞれの
苦い経験が礎になって、選手もファンも同じように感動できる類稀れなドラマが
生まれたんだろう。そんな仮説を立ててみました。
あまり整理できていないので、テーマを以下のとおり、ランダムに分類して
みました。
例えば、
(1)近鉄の選手たち
「10・19」が、現役生活の中で最も輝いたように見える選手がたくさんいました。
阿波野秀幸
、 村上隆行
、 鈴木貴久
、 吹石徳一
などの「生え抜き」組が
そうでしたし、 淡口憲治
、 新井宏昌
などの移籍組だって、ひとつひとつのプレー
に魂が込められていて、とても輝いていました。
(2)近鉄の首脳陣たち
何と言っても 仰木彬
監督が「10・19」の主役でした。18年にも及ぶコーチ生活
を経て、やっと監督に就任したその年に「10・19」が生まれました。西鉄時代の
同僚・ 中西太
がヘッドコーチを務めていたこと自体がドラマでした。ただ、 三原脩
を師と仰ぎ、勝利のためなら投手を酷使する流れを汲む仰木さんの手法は、
権藤博
・投手コーチとの確執を生み、そのまま、「10・19」を迎えていたようです。
(3)ロッテの首脳陣・選手たち
ロッテがなぜ、「10・19」にあんなに必死になれたのでしょう?
有藤道世
監督の執拗な抗議、「ジス・イズ・プロ野球!」と呼ばれた 水上善雄
。
そして本塁打を放ち、首位打者になるべく打率を稼いだ後は、一切試合に出場
しなかった 高沢秀昭
は、それで本望だったのでしょうか?
(4)近鉄球団
「パ・リーグのお荷物」と言われた時代から「10・19」まで。55年に及ぶ球団経営
を、いったいどう総括したらいいのでしょう?
(5)ファン
そして、「10・19」にあれだけ燃えることができたのは、それまでの近鉄球団への
「自虐的な(屈折した)思い」が一層拍車をかけていたのではないか? そんなことを
思ったりしています(笑)
※いずれにせよ、これらはボクの勝手な思いです。
近鉄のことを書くとき、この新テーマの 『近鉄バファローズを忘れない!』
を
自由に使って、かつてファンだった皆さんが勝手に思いを書いて、「寄せ書き」
みたいになれば嬉しいです。
そして10年後も20年後も、近鉄への思いを(少しずつでも)書き連ねることが
できたら、きっとその先に何かいいことがある!![]()
そんなことを期待したいと思います。
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