5月1日、この「あま野球日記」に書いた 「歴代の名監督達(勝利数十傑)の
相関関係」
の続きを書きます。
◇関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「歴代・名監督達の相関関係(1)」
(2009.5.1) →
こちら
へ。
下記10人の名監督たちは、それぞれが単独で勝利数を獲得したわけではない。
それぞれが師弟関係をもって協調して獲得した勝利数だったり、お互いがライバル
として切磋琢磨した結果の勝利数だったり。
彼らの連携した(もしくは敵対した)人間関係が複雑に絡み合い積み重ねた結果が、
この「1000」を超える勝利数。
※「プロ野球」という限られた世界のことだから当然なのだけど、それがボクには
とても興味深いのだ![]()
(以下、敬称略ですいません!)
■ 例えば南海時代の 野村克也
(選手)と 鶴岡一人
(監督)の関係。
野村が選手として活躍するたび、それは鶴岡に勝利数を捧げる結果となった。
但し、野村が鶴岡を慕っていたかどうかは別として。というのも、「親分」と呼ばれ
た鶴岡監督は「子分」の限られた選手のみを贔屓する傾向にあった(少なくとも
野村はそう見ていたよう)。そんなことがあって野村は鶴岡との距離を置いていた
ようだった。
野村、1977年に女性問題を発端とした「南海監督解任騒動」が起きた時、
記者会見で 「鶴岡元老にぶっ飛ばされた」
と発言し物議を醸したことがある。
■ また 西本幸雄
と 上田利治
の関係は「先駆者」と「後継者」の関係だった。
1963年から11年間、弱小球団だった阪急を率いて常勝軍団に育て上げた西本。
だが球団から73年オフをもってフロント入りを勧められたが、自ら同じパ・リーグ
の近鉄に売り込み、時間を空けることなく近鉄監督に就任を果たした。
西本と入れ替わりに阪急監督に就任したのが上田利治。ヘッドコーチからの
昇格人事だったが、西本が育て上げた 山田久志
・ 福本豊
らの豊富な戦力を活かし、
勝利数を重ねた。
■ 三原脩
と 水原茂
は永遠のライバル関係にあった。
旧制中学時代(高松中と高松商。実際には、中学時代に2人が対戦したことは
なかったが)、大学時代(早稲田大と慶應義塾大)、そしてプロ入り後も監督どうし
で数々の名勝負(西鉄監督と巨人監督)を残した。
ただ2人の勝利数の内訳をみると、その内容が多少違ったように見える。
西本同様、弱小チームの再建役を負うことが多かった三原。巨人-西鉄-大洋-
近鉄-ヤクルトの監督を歴任したが、巨人以外ではすべて弱小球団からのスタート
だった(と言っても1947年に巨人の監督就任の際の巨人も弱かったが)。
だから巨人の監督として多くの勝利を積み重ねた水原と事情は異なるように思うし、
三原の1687勝という数字は、ボクには一層輝いて見えるのだ。
◇ 三原脩
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「1931年、三原脩のホームスチール」
(2009.4.4) →
こちら
へ。
(参考データ、
2009.4.29現在 )
歴代監督の通算勝利数「十傑」。
鶴岡一人
1773勝 1140敗
2位 三原 脩
1687勝 1453敗
3位 藤本定義
1657勝 1450敗
4位 水原 茂
1586勝 1123敗
5位 野村克也
1500勝 1506敗
6位 西本幸雄
1384勝 1163敗
7位 上田利治
1322勝 1136敗
8位 王 貞治
1315勝 1118敗
9位 別当 薫
1237勝 1156敗
10位 川上哲治 1066勝 739敗
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