前回の記事 の続き。
東西対抗戦の戦績を、少しだけ触れておきます。
(第1戦)1945年11月23日、神宮球場
■東軍 13-9 西軍
戦中、明治大の学生だった 大下弘
がいきなり東軍のスタメンに名を連ねた。
しかも5番打者として。そしてこの大下が左中間フェンスに直接打球を当てる
三塁打を放ち、観客の度肝をぬいた。
この試合のオーダー表 → こちら
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「度肝を抜いた」とは、決してオーバーな表現ではない。当時の神宮球場、
現在より4~5mほど大きく、特に左中間や右左間が深く作られていた。
そのため戦前の東京六大学野球でも、滅多に本塁打が出ることはなかった。
後のスーパースター・ 長嶋茂雄
さんでさえも、立教大時代にこの神宮で打った
本塁打数は4年間で8本に過ぎなかった(ただ、しばらくはこの8本がリーグの
最多本塁打記録だったが)。
(第2戦)同年11月24日、新川球場(群馬県桐生市)
■西軍 14-9 東軍
(第3戦)同年12月1日、西宮球場
■西軍 9-6 東軍
(第4戦)同年12月2日、西宮球場
■東軍 4-0 西軍
戦後初めて行われた職業野球(東西対抗戦)は、両軍とも2勝2敗の成績で
幕を閉じた。そして最高殊勲選手賞と首位打者賞は、15打数9安打と打ち
まくった 大下弘
が受賞、賞金(合計200円也)を受け取った。
(参考:『昭和20年11月23日のプレイボール』鈴木明著、光人社刊)
大下弘
。
明治大野球部の出身と先に書いたが、下級生だったため球拾いばかりで、
東京六大学の公式戦に出場経験はない。戦後に復学した際、明大グラウンド
で大飛球をポンポン打ち上げる大下に 横沢三郎
さん(戦前のセネターズで
活躍した明治大の先輩)が目をつけ、大下を職業野球の世界に導いた。
契約したのは45年(昭和20年)10月だったというから、東西対抗戦が開催
されるわずか1ヶ月前のこと。観客も選手たちも、だれも大下の名前を知らない
まったく無名の選手だった。後にこの大下が日本の野球ファンに「ホームラン」
の素晴らしさを伝える「伝道師」になることなど、この時点では誰も気づいて
いなかった。
(参考:『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』青田昇著、ザ・マサダ刊)
この記事は「ボクにとっての日本野球史」の中で、次の期に属します。
→ (第5期)
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1)、 INDEXは こちら
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