あま野球日記@大学野球

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2010.12.04
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カテゴリ: プロ野球

■いま、プロ野球界で「右打ちの名人」と呼ばれる打者は誰だろう? しばらく考えてみたけれど、ボクにはなかなか思い浮かぶ選手はいない。でもひと昔前なら、 近鉄バファローズ の監督(1959年~61年)をしたこともある、 千葉茂 さんが有名だった。

その「右打ち」を始めた理由を、千葉さんは著書『猛牛一代の譜~無冠のセカンド賛歌』(ベースボール・マガジン社刊)に書いていた。アマチュア時代はバットを長く持ってセンター中心に打つ打法だった千葉さん、ある事情があって、巨人入団1年目にして「右打ち」を覚えた。


■その「ある事情」とは---。

答えを書く前に、千葉さんの巨人入団当時(1938年)のオーダー表を、ご覧あれ。

1(4) 三原 脩
2(5) 水原 茂
3(8) 千葉 茂
4(9) 中島 治康
5(3) 川上 哲治
6(7) 伊藤 健太郎
7(2) 吉原 正喜
8(1)
9(6) 白石 勝巳

藤本定義 監督(当時)から3番を仰せつかった千葉さん、このオーダーにはさすがにビビってしまった。なぜかと言えば、それは自分の前に、三原、水原と「花の早慶コンビ」の大スターが並んでいたから。早慶戦、東京六大学といえば、現在とは比較にならないほどに蝶よ花よともてはやされた時代。中でもこの2人は銀幕のスター並みの人気者だったため、否が応でも自分の打法を変更せざるを得なかった。

■以下、『猛牛一代の譜』より抜粋。

「吾輩の3番はいささか気が重いものがあったものです。というのは、1・2番と吾輩の前を打つ2人は、人気男。早慶戦の 劇的なホーム・スチール で知られる俊敏三原二塁手、ついでは、 リンゴ事件 も華やかな、慶應ボーイのシンボルみたいな水原三塁手兼投手。 花の早慶コンビが、弱輩の吾輩の前で打ち、走るわけですから、さすが甲子園のヒーロー千葉茂も気遅れせざるを得ません。

走者として、三原、水原両先輩が塁にある時は、吾輩はもう必死であります。何としてでもゲッツーを喰いたくないからです、凡ゴロを打ってゲッツーを喰ったりすると、「なんだ、あんな内野ゴロを打ちやがって」と怒鳴られるのがオチだからです。いや、もう相手は天下の大スター。吾輩といたしましては、小さくなるばかり。ゴロを打ったときは、目をつむって、ただもう必死に一塁に疾駆してゲッツーだけは逃れたい一念でありました。

「いっそバントさせてくれれば・・・」
そう思ったことも再三でしたが、藤本監督は大のバント嫌いときていて、吾輩にちっともバントを命じてくれない。「グリップいっぱいにバットを握って振れ!」というのが持論で、吾輩としてはいささかハムレット的心境でありました。
 (以上、『猛牛一代の譜』)


■グリップいっぱいに握って振り回してでもゲッツーを喰うべきか、こちょこちょ打って併殺を逃れるべきか。悩みに悩んでいたある時、 天啓のごとくひらめいたのが、「右翼方面に打って走者を進めること」というライト打ちへのヒントだった。窮すれば通ずる。このときのヒントが、千葉さんのプロ野球選手としてのバッティングを決定づけた。

千葉さんが言うには、もともとセンター中心に打つ打法だったものを、ほんの少しだけ、ヘッドを遅らせ気味に打ち返すのが「右打ち」のコツらしい。身体的な理由も役立った。それは子供の頃、右の中指をケガして、十分に右手が使えなかったため、左手を多く使うことが習慣になっていたこと。そのため左手、左ヒジを自在に使ったバットコントロールができたことも「名人」と呼ばれる要因になった。

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Last updated  2010.12.04 23:42:34
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