あま野球日記@大学野球

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2013.10.23
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テーマ: 日本野球史(139)
カテゴリ: 日本野球史

前回の続き。


パ・リーグでは、ロッテが後期に優勝して、前期優勝の阪急とプレーオフをやり、三戦ストレート勝ちして、49年度の選手権に駒を進めた。監督金田の試合ごとに見せた”激情”は、選手たちの闘志をかきたてずにはおかなかった。

4月27日、川崎球場で行われたロッテ対太平洋三回戦で、大乱闘の主役を金田正一があいつとめました。




■このロッテと太平洋の遺恨試合は、前年の昭和48年(1973年)から続いていた。そもそも、この遺恨関係になったきっかけは、太平洋とロッテが1973年の開幕前、ロサンジェルス・ドジャースでプレーしていたジム・ラフィーバーの獲得を巡り熾烈な争いを繰り広げたことにある。最終的にラフィーバーはロッテに入団し、獲得に失敗した太平洋はドン・ビュフォードを獲得したが、これがいわば「しこり」となり、この2年間の遺恨試合騒動の端緒となった。

平和台球場の観客は、ヤジだけならともかく、石やごみ、さらに小便の入ったビール瓶までグラウンドに投げ込む事件が相次いだ。これに黙っていなかったのが 金田正一 である。観客のヤジに言い返したり、砂を投げたり、時にはバットで金網を殴ったりした。事態は次第にエスカレートし、4月27日を迎えた。再び、『野球百年』から引用する。

四回裏、ロッテの走者弘田澄男が走り込んだ時、太平洋の捕手宮寺勝利が、左足をあげたかたちでホームをブロックしたため、軽量の弘田は足を引っかけられて、三メートルも吹っとんだ。

これを見た監督金田が宮寺に猛進して体当たり一番、ついで長い左足で蹴りわざに移った時、太平洋三塁手ビュフォードが、金田の背後からとびかかって首締めのわざにでた。両軍総動員で、おり重なっている金田、ビュフォードに突進したから主役二人はスクラムの底辺にあって踏まれ、かつ蹴られた・・・。金田とビュフォードは退場処分にされ、宮寺は走塁妨害のペナルティ-を科された。

『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』によれば、太平洋のフロントが遺恨を利用し、伸び悩んでいた観客増を図ろうとして乱闘シーンの写真をすかさず宣伝ポスターに利用していたそうだ。だが、乱闘騒ぎのたびに平和台に呼び出されていた福岡県警が大激怒。太平洋に「警備に自信が持てない。平和台での試合を中止するよう」申し入れ、太平洋は慌ててポスターを自主撤去した。



(写真)4月27日、ロッテ・金田正一監督が太平洋・宮寺勝利捕手に蹴りを入れたシーン。
~『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』(ベースボール・マガジン社)より~



■ちなみに、当時の太平洋のオーナーは、2年前までロッテのオーナーだった 中村長芳 。監督は 稲尾和久

ここで中村長芳について少し触れておく。(wikipediaより)

71年、岸信介の秘書をつとめていた中村は、岸の盟友永田雅一(大映社長)の後を受けてロッテオリオンズのオーナーに就任した。翌72年、西鉄ライオンズの買収を発表。野球協約の定める1人または1団体による複数球団の保有禁止条項に抵触するため、ロッテオリオンズ球団のオーナーを辞任し、中村の保有株を正式にロッテに譲渡した上で、ライオンズの運営会社西鉄野球を西日本鉄道から買い取り、西鉄野球改め福岡野球のオーナーに就任して経営にあたった。

資金力を高めるため太平洋クラブとの提携を取り付けて73年から「太平洋クラブライオンズ」を、77年からはクラウンガスライターをスポンサーとして「クラウンライターライオンズ」を運営。78年、堤義明率いる西武鉄道グループ・国土計画(のちコクド、現プリンスホテル)への売却まで経営を続けた。

なぜロッテのオーナーだった中村が西鉄ライオンズを買収するにいたったか。その理由は、




■乱闘を利用して試合のPRをするのはあまりにせこいが、穿った見方をすれば、中村がその直前までロッテのオーナーだった縁で、あらかじめ仕組まれた出来レースだったのかもしれない。そのシナリオに金田が一枚かんだ。そして、平和台の観客が踊らされた・・・。

「黒い霧事件」以来、西鉄は衰退の一途をたどり、かつての西鉄ファンの不満は爆発寸前だった。そして「黒い霧事件」は、パ・リーグ全体を暗い空気で覆っていた。そんな状態だったから客が集まるはずもない。だから、起死回生の策として集客できるならどんな方法でも、と中村が考えてもまったく不思議ではない。

巨人を中心としたセ・リーグの人気に比べ、この時代のパ・リーグはその程度のもの、悲惨なものだった。



■ここまで書いてアップしようと思い、あらためてwikipediaを読んだら、「舞台裏」という欄にまさしく、そのことが書いていた。以下に引用します。

この遺恨試合は黒い霧事件以降、観客動員や財政面で苦戦を強いられていた太平洋が話題作りに仕組んだことが発端だった。太平洋クラブライオンズの球団社長だった青木一三は「球場に足を向けさせるには客を興奮させるような仕掛けが必要」と太平洋、ロッテ両球団の「対立」を演出することを着想。これには当時の太平洋のフロントの主要メンバーがロッテ出身者だったことも役立った。

青木が金田に「スタンドのファンを刺激してほしい」と持ちかけ、金田も応諾。金田は観客に罵声を浴びせたりバットを振り上げたりはしたものの決して手は出さなかった。青木はこの企てに関しては金田以外には知らせなかったというが、金田は仲のよい稲尾と「2人で舌戦を繰り広げて盛り上げる」ことで合意し、出来レースの罵倒合戦が始まった。稲尾は生前「金田さんも適当にあしらえばいいのに、人が善いから真剣に怒ってしまっていた」と述懐していた。

また、前述した「乱闘」ポスターが世に出た際には「乱闘まで営業材料にする必要はあるまい」と球団の経営方針に相容れないものを感じるようになっていたと著書に記している。フロント同士にも暗黙の了解はあったものの、ファンには何も知らされておらず、結果としてファンが球団の思惑に振り回される格好となってしまった。1973年5月の朝日新聞の署名コラムでは「両球団関係者の応酬は客集めに効果があるかもしれない半面、悪質なファンをあおるだけにすぎまい」とすでにその意図と「副作用」を推測、懸念する指摘がされていたが、それが的中した格好になった。

この遺恨カードの演出を主導した青木は後に自著でこの事実を明かし、「今から思うとムチャなことをやったものだ」と記した。青木は「遺恨試合」を仕組んだ理由として「稲尾監督では人気が出ない」と考えたからだとも述べている。もうひとりの主導者である坂井は自著で事実について一部触れてはいるが、当時の裏話に関する談話を直接求められても「そのことは話したくない」とコメントを拒否し続けている。






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Last updated  2013.10.23 16:51:48
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