前回の続き。
昭和47年度のシーズンが幕を閉じると間もなく、阪神タイガースの監督兼投手村山実が引退を声明して、あの見慣れた、
-背番号11
はファンの前から姿を消して、永久欠番になった。関西球界隋一の人気男村山は、14年間の阪神生活に別れを告げた。
(そして)引退試合は、翌48年3月21日、甲子園球場でおこなわれた。晴れた日、4万8千人の大観衆がスタンドを埋めつくした。三たび野球のドラマの舞台になった阪神対巨人戦が引退試合に選ばれた。
■大和球士さんは、阪神・ 村山実
の引退試合について「三たび野球のドラマ」と書いた。
一度目は、1959年(昭和34年)6月25日の天覧試合に、村山が巨人の 長嶋茂雄
にサヨナラ本塁打を浴びたこと。二度目は1966年6月8日に、今度は村山が長嶋から記念すべき1500個目の三振を奪ったこと。そして三度目は、1969年8月1日、村山が同じ相手、長嶋から2000個目の三振を奪ったこと、である。
大和球士さんは、 「大スターは、自分で作ろうとしなくても、劇的なストーリーの主役になれるものだ」「ドラマチックなストーリーは、これだけで終わっても一篇の佳作として推すだけの価値があった」
と村山を褒めちぎり、さらに、「 天覧試合という忘れえぬ試合に、無念一代のサヨナラホームランを打たれた相手から、自分の1500個目の三振を奪い、さらに2000個目の三振を記録する・・・野球ドラマの秀作でなくてなんであろうか」
と書き、締め括っていた。
■村山と長島のライバル対決を、ボクは何度もテレビで見たと思う(さすがに天覧試合の頃は生まれていないが)。しかし、どんな対決だったか、その詳細はまるで覚えていない。わずかに覚えているのは、村山の小さい体を目一杯使って投げる投球フォーム(ザトペック投法)である。
村山が長嶋に対して敵対心をもったのは、天覧試合だけが理由ではない。高校時代に立教大進学を目指すも、身長が低いという理由だけで落とされたことが、立教大のスター・長嶋へのライバル心に火を点けた。そして、その気持ちが力感溢れた投球フォームに反映したように見えるし、スター選手にのし上がる一助となった・・・、ボクにはそう思える。
ちなみに、村山は関西大に進み、全日本大学野球選手権で優勝した。全試合完投のおまけ付きである。女房役は、後に阪急監督になった上田利治だった。
■大和球士さんは、この項の最後に過去に引退試合をした選手たちの名前を、以下のとおり書いていた(~1968年)。どれも凄い選手たちゆえ納得するが、近年頻繁に行われている引退試合の多さには、少し違和感を感じてしまうのだ。
千葉茂、藤村富美男、西沢道夫、大下弘、服部受弘、川崎徳治、別所毅彦、飯田徳治、金田正一、杉浦忠。
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