あま野球日記@大学野球

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2013.10.31
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テーマ: 日本野球史(139)
カテゴリ: 日本野球史
昨日(10月30日)、 川上哲治 氏が老衰のため逝去された。93歳だった。

「打撃の神様」「哲(鉄)のカーテン」など川上氏にまつわる言葉は数多い。「弾丸ライナー」も、そのひとつである。現在では普通に使われているこの言葉も、元々は川上氏の鋭い打球に付けられたネーミングだった。命名者は 大和球士

いま、ボクの手許に大和球士が著した『野球百年』(時事通信社)がある。調べてみると、川上氏の打球を「弾丸ライナー」と書いた記事が312頁、昭和15年(1940年)の項にあった。かなり長くなるが、以下にそのまま引用する。


見出しは、「壮絶な弾丸ライナー」。

4月1日後楽園球場でおこなわれた巨人対名古屋の激突は、名勝負に残しておきたい白熱戦であった。巨人は前年度最高殊勲選手であり猛速球プロ隋一のスタルヒンを立て、名古屋は左腕剛速球の松尾。六尺三寸のスタルヒンと五尺八寸余、二〇貫の松尾がわたりあうさまは壮観であった。

名古屋は巨人を押しに押し、何回となく好機を得たが、スタルヒンの力投に得点できず、巨人は9回裏一死後、3番打者中島安打のあと、4番打者川上が2‐3後の剛速球を痛打すると左翼手吉田の守備位置前に弾丸ライナーとなってとび、あまりに当たりが強かったために、ワンバウンドした球が構えた吉田のスパイクに当たって左翼邪飛線外に高くとび去る二塁打になり、中島生還して巨人が勝った。

川上の壮絶な弾丸ライナーは、いまだに筆者の眼底に焼きついて離れない。打球が強すぎて野手がボールを一瞬見失い、スパイクに当てて高くハジクなどは稀有の出来事に属し、筆者の知る限りにおいては二回あるのみ。他の一回は阪急で強打をほしいままにした宮武三郎の慶応時代、新田球場における対明大戦にはなった快絶の一撃であった。猛葡は砂を噛んで遊撃手の二塁寄りに走ったが、六大学随一の名遊撃手林好雄をもってしても、この猛葡を正確に捕球できず、左足のスパイクに当て、打球は高くはねあがって左翼邪飛線の方向へ転々としたのであった。



■さらに川上氏について、大和球士は「不世出の大打者」「戦前プロの華」とも評している。以下に306頁から引用する。ここでも最後に「弾丸ライナー」と書いていた。

プロ野球における戦前と戦後の打力を比較する場合に、戦前の打撃と戦後の打率を上っつらから比較して、戦後のほうがはるかにすぐれているごとき結論を出す者のあるのは、愚かしい限りといわざるを得ない。まっ芯に当たっても飛行力の乏しい粗悪球は、途中から急落下してしまうのが常であった。この事実を頭に入れて比較検討してこそ、はじめて正しい比較ができる。

終身打率も、同じハンディを頭において熟視しないと、打者の真価を比較することは不可能である。戦後、よく飛ぶボールを使用するようになってから登場した打者なら、終身打率三割を保持することは一流打者であるかぎりは、それほど至難ではない。しかし(昭和)十四年以後の粗悪球時代を経てきた打者でしかも三割以上の打率を保持している者は、稀有の大打者というべきであろう。その意味では、ジャイアンツの川上哲治のごときは不世出の大打者と称して、けっしてほめすぎではあるまい。

川上は用球粗悪化した十四年度に三割三分八厘を打ってリーディング打者になり、翌十五年も三割一分一厘で十傑の二位、十六年度には再び首位打者に返り咲き三割一分を打った。飛ばぬボールを打って右中間を弾丸のように突破する弾丸ライナーを連打した川上の打力のすさまじさは戦前プロの華であった。



‐‐‐合掌。





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Last updated  2013.10.31 23:37:36
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