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猛暑日が始まった頃、グリーン・カーテンの役割を果たしてくれるオーシャンブルーがピタリと咲かなくなりました。連続する猛暑日が去り(?)、数日前から、オーシャンブルーが、ふたたび咲き始めました。 それと、 ゼフィランサス(たぶん・・・)が今咲いています。 この花、レインリリーとも呼ばれるそうです。わが庭の花の記録として・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。補遺ゼフィランサス :「サカタのタネ」ゼフィランサス :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.09.26
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それでは、東南アジアに目を転じます。まずはパブリックな画像を得られたインドネシアから始めます。冒頭の景色は、スラバヤにある「Sanggar Agung Temple」で撮られた景色です。宝珠に対して2頭の巨大な龍が向き合っています。観光客にとっての記念の一枚!(資料1)龍探しをしていて、これが この巨大な建造物の一部であることがわかりました。 (資料2)インドネシアのバリの Vihara Dharmayana Kuta にある龍彫刻像です。 (資料3)また、「nature picture library」 というサイトで、バリのウブドゥという村に所在する寺院の石造龍彫刻像に出会いました。(資料4)併せて、「POND5」というサイトでは、同村の寺院の古いヒンズーの石造龍彫刻ある橋の動画に出会いました。 (資料5)さらに、ウブドゥにある、「Monkey Forest Sanctuary」の龍の橋という動画も目にとまりました。上掲の資料5と同じ場所かもしれません。(資料6)同サイトには、「The Golden Mountain Temple」内にある蛇と龍の透かし彫り装飾彫刻の動画も閲覧できます。 (資料7)「alamy」というサイトでは、バリ島の龍像を集めたページを見られます。(資料8)「dreamstime」というサイトでは、インドネシアの龍像を集めたページが見られます。(資料9)インドネシアには、龍が溢れているような・・・・。「What an Amazing World!」というサイトの 「The House of Indonesian Treasures」という記事の中に、ジャワ島(JAVA)の龍頭のランプが取り上げられています。 (資料10)また、ジャワ島のバンテン州の都市タンゲラン(KOTA Tangerang)には、インドネシア最大の金龍像(高さ9.9m、長さ153m)が造られています。「INDEPENDENT OBSERVER」というサイトの記事と出会いました。 (資料11)シンガポールに移りましょう。 Thian Hock Keng Templen の入口 屋根の上に龍が飾ってあります。 (資料12)東南アジアに目を転じて、龍探しを始めますと、寺院の屋根の上に龍像、それも全身像を飾るという様式が広がっているようです。「Pinterest」というサイトでも、この寺の屋根の龍像と出会いました。 (資料13)他のサイトを探し巡り見つけた龍たちを列挙します。「ホンサンシー寺(鳳山寺)」(1836年創建)の屋根や柱の龍像 (「Tripadvisor」というサイト) (資料14)「Lian Shan Shuang Lin Monastery」の屋根の龍像 (「holidify」というサイト) (資料15)次の2つは、YouTube動画で出会ったものです。Singapore Marina Bay Lunar New Year Dragon Drone Show Highlights シンガポール マリーナ ベイ旧正月ドローン ショー 2/15 YouTube (資料16)旧正月(2/15)に、ドローンを使って、マリーナ・ベイの上空に龍を現出させるショーが実施されたのです。すごいことを考えたもの!「Singapore Icon: Dragon Playground」というYouTube。子供たちの遊具として、龍を象った滑り台のある風景です。表現は現代的である一方、素材が少しレトロな感じを醸し出してきて、いいですね。 (資料17)こんな記事も目にとまりました。「シンガポール日本人学校クレメンティ校」で、「ライオンダンス&ドラゴンダンス鑑賞会」が実施されたという記事です。そうだ、龍踊り、ここにも龍が!! (資料18)ドラゴンダンスは、日本でも数か所で実施されていますね。調べてみました。補遺をご覧ください。この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) Culture of Indonesia From Wikipedia, the free encyclopedia3) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia4) Stone dragon sculpture in a temple in Ubud. Bali, Indonesia :「nature picture library5) Old Hindu Dragon Statues In Temple Site In Ubud, Bali, Indonesia Video :「POND5」6) Dragon Bridge At Monkey Forest Sanctuary In Ubud, Bali, Indonesia :「POND5」7) Detail Inside Of The Golden Mountain Temple, Snake And Dragon Decoration :「POND5」8) Balinese dragon Stock Photos and Images :「alamy」9) Indonesian Art Dragon Stock Photos, Images & Pictures :「dreamstime」 10) The House of Indonesian Treasures :「What an Amazing World! 」11) The Largest Golden Dragon Statue in Indonesia at PIK 2 :「INDEPENDENT OBSERVER」12) Architecture of Singapore From Wikipedia, the free encyclopedia13) Photographic Print: South East Asia, Singapore, Thian Hock Keng Temple, Detail of Dragon Sculpture :「Pinterest」14) シンガポール ホン サン シー寺 :Tripadvisor」15) Lian Shan Shuang Lin Monastery 「holidify」16) Singapore Marina Bay Lunar New Year Dragon Drone Show Highlights シンガポール マリーナ ベイ旧正月ドローン ショー 2/15 YouTube17) Singapore Icon: Dragon Playground YouTube18) ライオンダンス&ドラゴンダンス鑑賞会 :「シンガポール日本人学校クレメンティ校」補遺龍舞 :ウィキペディアdragon dance From Wikipedia, the free encyclopedia4K【長崎龍踊り:東龍倶楽部】第50回 日本橋・京橋まつり ~大江戸活粋パレード~ 2023.10.29 @日本橋一丁目交差点 YouTube鳥肌が立ったぞ!2019長崎くんち 本家、籠町「龍踊り」 YouTube横浜中華街の春節 辰年にちなんで獅子舞ならぬ龍舞も YouTube横浜中華街 春節カウントダウン2024 CNY Yokohama Chinatown 龍舞 & 獅子舞【4K FULL映像】横浜中華街のオススメスポット、迫力の「獅子舞」と「龍舞」! YouTube全長47メートル、練り歩く「龍龍」 神戸で春節祭 YouTube南京町中秋節2022スタート!龍舞LIVE YouTube神戸市立神港橘高等学校 龍獅團 龍舞 @ 南京町春節祭 (南京町広場) YouTube 2020-01-25T16:00 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.24
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金銅龍頭吐首風鐸 高麗王朝時代 the Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料1)韓国での龍探しの旅に移ります。パブリックな画像としてご紹介できるのはウィキペディアで出会ったものがほとんどです。 金銅龍頭装飾 高麗王朝時代 (資料1) 高句麗王朝時代(37BCE~668)の王陵墓の墓室の壁面に描かれた青龍 (資料1,2)この画像の出典は、朝鮮總督府発行『 朝鮮古蹟図譜』2卷 page 116 で、資料1から入手。一方、壁画そのものを撮ったと思われる画像が資料2。こちらは、pdfファイルがDL可能です。発掘調査による出土品の一例としては、平安南道大同郡大同面(現平壌特別市楽浪区域)石巖里9号墳の発掘調査の折に、「金製□具」(一文字変換できず。金の右に交と書く文字で、コウと読みます)が出土。国立中央博物館蔵。 (資料3)「薄い金板の上に数百個の金粒を一つ一つ付けて作った職人の腕を見るたびにため息が自ずから出てきます。中央に1匹の大きな龍がうごめいて、その周りに6匹の小さな龍がぴったりとついています。正確に考案されたデザインと一寸のミスも許さない腕前は驚異的でもあります。大きな龍の胴部は背骨に沿って2条の金糸の上に太い金粒を一列につけて龍の基本的な輪郭がはっきりと見えるよう工夫されています」(資料3)という装飾品です。 龍頭山公園の龍彫刻像 釜山市 (資料1) 竹製龍像 ソウル市龍山(Yongsan)区の首都圏電鉄鉄三角地駅に近い漢江路(Hangang-no)そばに設置。龍山区の124周年記念を祝うためにとのこと。龍探しをしていて、韓国には、景福宮、昌徳宮、徳寿宮、昌慶宮、慶熙宮と称される朝鮮王宮が各所に所在しています。(資料4) 朝鮮王宮に目を転じてみます。この朝鮮王宮で龍と出会えることを、旅行記のブログ記事等から知りました。「ガンタロー旅日記」には、景福宮の恩生政殿の欄間に描かれた龍の絵が紹介されています。赤龍の双龍図です。(資料5)前回ご紹介した旅人のくまさんさんのブログ記事「韓国旅行記28(6/30)」で、徳寿宮にある中和殿前の石段の中央部に設けられた線刻双竜図の敷石と、中和殿の天井中央部の龍のレリーフ像と出会いました。 (資料6)併せて、同氏のいくつかの韓国旅行記シリーズで次の景色にも出会えました。感謝!同徳寿宮の光明門(クァンミョンムン)には大きな梵鐘が吊るされていて、梵鐘の龍頭が凡そですが見られます。また、自撃漏(チャギョンル)と呼ばれる水時計の二本の筒の部分に巻き付く形で昇竜がレリーフされています。 (資料7)昌徳宮の仁政殿には、玉座の左側付近に、金箔地に真向龍図が見られるそうです。(資料8)「読めばすぐ行きたくなる海外旅行ガイド」のサイトでは、昌徳宮の尊徳亭の天井中央部に描かれた双龍と出会いました。 (資料9)「namuwiki」というサイトの「慶熙宮」には、東国大学正閣院(崇正殿)の天井の龍像と復元した嵩正殿の天井の龍像の景色が掲載されています。 (資料10)陶磁器に見る龍という視点で、龍探しをしました。 龍形青磁水差し 高麗朝時代(918-1392) 国宝No.61 国立中央博物館蔵パブリックな画像として入手できたのはこれ1点。 (資料11)探してみますと、次の3か所のサイトで、陶磁器に描かれた龍と出会いました。ragon jar second half 18th century the MET 蔵 (資料12) Korean Dragon Jar Minneapolis Institute of Art 蔵 (資料13)Korean Dragon Jar mid-17th century 「BRITANNICA」 (資料14)さらに、旅人のくまさんさんのブログでは、国立中央博物館の陶磁器の展示として、朝鮮時代(17~18世紀)の「白磁 鉄画 雲龍文 壷」「白磁 青画 雲龍文 壷」と、「白磁 鉄画 雲龍文 壷」2点が紹介されています。 (資料15) 陶磁器の視点で探せたのはこれくらいです。「KOREA.net」というサイトで、「Exhibitions in Seoul shed light on Year of Blue Dragon 」(Jan 09, 2024)という特集記事と出会いました。上掲と重複しますが、ここに挙げておきます。 (資料16)「shutterstock」というサイト(画像販売サイト)では、「south kore dragon」という項目で韓国の龍関連画像を数多く集積して列挙されています。韓国ではどういう形で龍がみられるかのソースとしては役立ちますので、載せておきます。 (資料17)特異な龍の使われ方に偶然出会いました。Daewonsa Temple というお寺です。龍口が入口になっていて、中に入っていくと、そこはお寺のホールだそうです。瞑想する場所、美術品の展示、数多くの黄金に輝く仏像が安置されているとか。龍は100mの長さに及ぶそうです。龍の胎内巡りの趣でしょうか。最後に、「National Folk Museum of Korea」(韓国国立民俗博物館」のサイトで、「Dragon」についての解説記事と出会いました。 (資料19)動画が併載されています。韓国語でのナレーションですので、私には理解できませんが、映像で様々な龍を眺めることができます。上掲で取り上げたもの以外にも様々な箇所の龍が出てきます。さて、この辺りで終わります。韓国の龍を今後も探せて集積できれば、続編をまとめてみたいと思います。つづく参照資料1) Korean dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) World Heritage Koguryo Tomb Murals ICOMOS-Korea3) 金製□具 :「國立中央博物館」4) 国家遺産の紹介 朝鮮王宮 :「国家遺産庁」5) 竜の絵 景福宮の恩政殿 :「ガンタロー旅日記」6) 2014秋、韓国旅行記28(6/30) :「4travel.jp」7) 2014秋、韓国旅行記28(4/30) :「4travel.jp」8) 2010春、韓国紀行21(3/23) :「4travel.jp」9) 韓国の旅 -世界遺産・昌徳宮の見どころ- :「読めばすぐ行きたくなる海外旅行ガイド」10) 慶熙宮 :「namuwiki」11) Korean pottery and porcelain From Wikipedia, the free encyclopedia12) Dragon jar second half 18th century the MET13) Korean Dragon Jar Minneapolis Institute of Art 14) Korean Dragon Jar mid-17th century :「BRITANNICA」15) 2014秋、韓国旅行記28(23/30) :「4travel.jp」 16) Exhibitions in Seoul shed light on Year of Blue Dragon :「KOREA.net」 Jan 09, 202417) south kore dragon :「shutterstock」18) The Dragon Temple: Exploring Daewonsa Temple :「WANDERING TRAVELER」19) Dragon :「National Folk Museum of Korea」補遺Journal of Korean Art and Archaeology Vol. 9 :「JKAA」Yongdusan Park From Wikipedia, the free encyclopedia 龍頭山公園Seoul Metropolitan Subway From Wikipedia, the free encyclopediaYongsan District From Wikipedia, the free encyclopedia李朝陶磁の魅力 友の会通信 :「大阪市立陶磁美術館」白磁青花龍文壺 :「JIN 11」Korean pottery and porcelain From Wikipedia, the free encyclopedia景福宮の動物像に秘められた「高宗のコード」 :「東亜日報」Goryeo From Wikipedia, the free encyclopediaNational Museum of Korea From Wikipedia, the free encyclopediaDaewonsa Temple :「Koreaetour」Daewonsa Temple Pohang, South Korea :「Atlas Obscura」National Folk Museum of Korea ホームページThree Kingdoms period :「BRITANNICA」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.21
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翡翠龍像装飾瓶 the Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料1)「中国の龍」を一旦終えるにあたって、見過ごしていた作品群についてまとめてみます。翡翠という素材に龍を彫刻した作品が様々にあります。 翡翠雲龍文装飾 前漢時代・戦国期 Aurora Museum 蔵( Pudong, Shanghai)(資料1) 翡翠龍文装飾帯留 南宋時代 上海博物館蔵 (資料1) 翡翠龍文装飾帯飾板 元時代 上海博物館蔵 (資料1) 翡翠龍文円装飾帯飾板 明時代 上海博物館蔵 (資料1) 翡翠龍文装飾帯飾板 明時代 ギメ美術館 (資料1) 翡翠龍像付中国封印 チベット博物館蔵 ラサ (資料1)翡翠の作品以外に、次の3点を取り上げておきます。 雲龍文透彫球形磁器台座付 明時代・16世紀 乾隆帝期 国立故宮博物院蔵 台北(資料1) 青銅龍頭形取手 漢時代 the Metropolitan Museum of Art 蔵 New York (資料1) 梵鐘龍頭 揚州市武当 (資料1)これまでの龍探しで、パブリックに画像を利用できるのはこれくらいです。龍探しをしていて、インターネットの旅情報ブログ記事等で出会ったものがあります。リンクさせることで、ご紹介します。クリックしてご覧ください。4travel.jp のサイトに掲載された旅人のくまさんの中国旅行記.西安市にある西安博物院に、龍像がレリーフされた「四神石棺」と、「龍紋石柱」が掲載されています。いずれも唐時代の作です。西安はかつて長安と呼ばれた都市です。 (資料2)この他にもこの旅行記に掲載されている龍像を探してみました。「玉龍首」(Jade Dragon-head)」 唐時代 西安市雁塔区曲江池・唐芙蓉園遺跡出土西安博物院所蔵 (資料3)『龍紋口沿山水人物居士紋銀碗』(Silver Bowl with Dragon-shaped Lip and Figures and Story Seene Pattern) 晩清代(1644~1911年) (資料4)『馬克杯』(Repousse Mug) 清代(1644~1911年)晩期 (資料4)石灯籠の竿の部分の龍像 と 石造供物台の柱に巻き付く龍像これらは西安の空海所縁のお寺、青龍寺遺址の発掘調査後に、青龍寺が復興され、そこに造立されたものです。(資料5)西安市にある大慈恩寺には、紫禁城でご紹介したものと同種のものがあるそうです。石階段の中央部に双竜や雲文をレリーフした石造装飾が設置されています。(資料6)また、大雁塔の石造壁面には、八角形に刳り抜いた中に真向龍のレリーフ像を嵌め込んだ装飾が見られるそうです。 (資料7)南京博物館で展示中の龍の文化財の画像を見つけました。 (資料8)2024.1.30時点の報道記事ですが、興味深い内容です。また、Medinaさんのブログ記事「中国は大連、南京、宣興、無錫、上海の旅」に出会いました。南京博物院に展示の乾隆帝期の陶磁器、乾隆帝の龍袍、南京夫子廟内の龍壁が掲載されていて、そこに龍がいます。(資料9)「photo AC」というサイトでは、「重慶市の写真素材」という項目で、武龍 天生橋 龍の彫刻というのに出会いました。(資料10)これで中国の龍をひとまず終わります。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) 2019年秋、中国旅行記25(24/34) :「4travel.jp」3) 2019年秋、中国旅行記25(26/34) :「4travel.jp」4) 2019年秋、中国旅行記25(27/34) :「4travel.jp」5) 2019年秋、中国旅行記25(30/34) :「4travel.jp」6) 2019年秋、中国旅行記25(31/34) :「4travel.jp」7) 2019年秋、中国旅行記25(31/34) :「4travel.jp」 8) 「逆じゃない?」=南京博物院で展示中の龍の文化財が議論呼ぶ―中国 :「Record China」9) 中国は大連、南京、宜興、無錫、上海の旅 (Part2 南京編 ):「4travel.jp」10) 「重慶市」の写真素材 :「photo AC」補遺上海博物館 :ウィキペディア上海博物館 ホームページ 英語版チベット博物館 :ウィキペディアQianlong Emperor From Wikipedia, the free encyclopediaYangzhou From Wikipedia, the free encyclopediaWudang Mountains From Wikipedia, the free encyclopedia ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.18
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明皇家瑠璃龍紋瓦当 南京明孝陵 太廟遺址出土 (資料1)建造物の中に見られる龍という観点に目を転じます。冒頭の画像は屋根の先端部分に使われる瓦で瓦当と称されるものです。この瓦当は陵墓から出土したもので、龍像が浮き彫りにされています。 こちらは北京にある紫禁城で撮られた屋根瓦の一部です。上掲と同様に、軒丸瓦の瓦当面に龍像が浮き彫りにされています。その姿は様々なバリエーションが見て取れます。また軒平瓦の瓦当面にも龍像が見られます。 (資料1) 中国古代瓦 双龍文半瓦当 京都国立博物館蔵京博所蔵品の中にも中国古代瓦に龍が見られます。ここに列挙しておきます。(資料2)中国では古代から龍が造形されていたことがわかります。建物の柱にも龍を見ることができます。 柱に装飾彫刻された龍像 蒙古・金朝(1115-1234) (資料1) 孔廟(孔子廟)の柱の龍像 中国・山東省曲阜 清時代 (資料1)曲阜は孔子の生誕地です。 こちらも上掲孔廟に建つ大成殿の柱を装飾する龍像群です。 (資料1)龍が溢れていて壮観です。 こちらは、山西省にある晉祠という寺の建物の柱に装飾された龍像です。(資料1,3) 石柱下部の装飾彫刻龍像 宋時代 Kunming City Museum 蔵(雲南省)(資料1) A B紫禁城 大和殿石階段のレリーフ 北京市 A(資料1)、B(資料4) 紫禁城 乾清宮内部 北京市 (資料4)正面の欄間の箇所に金龍像が見えます。また、正面に見える玉座や背後の衝立と思われる箇所にも龍が彫刻されているようです。さらに調べてみますと、中国の建造物には龍像が様々な形で装飾として使われていることがわかります。「Easy Tour China」というサイトで、「Dragon in Ancient CHinese Architecture」という記事を見つけました。中国の古代建造物に見られる龍像の紹介による旅行案内です。 (資料5)また、北京市に所在する「紫禁城」では、上掲の他にも様々な箇所で龍像を見ることができるるようです。「gettyimages」というサイトに集積された画像からわかります。 (資料6)「iStock」というサイトには、「Chinese Dragon Roof」(屋根上の龍像)という項目で、719枚の写真が開示されています。 (資料7) この辺りで、一区切りと致します。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) 中国古代瓦(J甲508) 京都国立博物館蔵 :「国立博物館所蔵品統合検索システム3) Jinci From Wikipedia, the free encyclopedia4) 紫禁城 :ウィキペディア5) Dragon in Ancient CHinese Architecture :「Easy Tour China」6) 紫禁城 :「gettyimages」7) Chinese Dragon Roof :「iStock」補遺Shanxi From Wikipedia, the free encyclopediaJin dynasty (1115-1234) From Wikipedia, the free encyclopedia ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.16
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龍文扁壺 北宋時代 Capital Museum 蔵 見つけた資料の末尾に掲載されている陶磁器を見過ごしていました。冒頭の扁壺の他に次の7点の陶磁器を続きとして、まずご紹介します。(資料1) 龍文青花瓶 元時代(1271-13689 江西省出土 紅地黄龍雲文蓋付壺 明時代(1521-1567) 龍文青花皿 明時代(1521-1567) Museum of East Asian Art Berlin 蔵 龍文青花椀 Shanghai Museum Pottery Gallery 蔵 双龍宝珠雲文皿 清時代 17世紀末~18世紀初期 National Museum in Warsaw 蔵 火焔宝珠龍文椀 Los Angeles County Museum of Art (LACMA) 蔵 白地赤龍文蓋付壺 清・康熙帝時代 国立故宮博物院蔵 さらに、英語版ウィキペディアで新たな陶磁器関連資料を見つけました。そこで出会った龍もここでご紹介します。北京にある紫禁城所蔵の展示品です。 (資料2) 藍釉白龍紋盤 青花龍文蓋付壺 明・嘉靖帝時代(Jia Jing period) 赤龍文壺 赤龍波濤文壺 緑地黄龍雲文壺 明・萬暦帝時代(Wanli Reign, Ming Dynasty. 1573-1620) 赤地黄龍雲文蓋付壺 龍探しの連鎖として、次の作品と出会いました。 雲龍文壺 元時代(1279-1368) Los Angeles County Museum of Art 蔵(資料4) 陶磁器の領域は、まだまだ龍を見つけ出せるかもしれません。一旦、ここまでを補足といたします。衣服に視点を移します。次の二例は九龍を刺繍した宮廷で着用された上着(court robe)です。 龍袍 清時代 チベット the Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料1) 龍袍 清時代 チベット the Portland Art Museum 蔵 (資料1)龍を刺繍したこのような官服(礼服)は龍袍(ロンパオ)とも称されていますので、この名称で表記しました。東京国立博物館のホームページで、「北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(龍袍) 」というブログ記事を見つけました。ご一読いただくと、龍袍が身近なものになると思います。 (資料2)龍袍を着た皇帝の肖像画が描かれています。 (資料1) 唐太宗(598-649) 立像 唐時代 洪武帝(1328-1398)坐像(明太祖坐像) 明時代 国立故宮院蔵 成化帝(1447-1487)坐像(明憲宗坐像) 明時代 国立故宮院蔵 部分拡大図これら皇帝は龍袍を身に着けています。これらの龍は五本爪。五本爪の龍は皇帝の権威を示す龍だそうです。調べていて、こんなところにも・・・・と。 (資料1) 儀式用甲冑に見る龍 清時代 18世紀 the Metropolitan Museum of Art 蔵時代は異なりますが、冠にも龍が見られます。 契丹冠 遼朝(916-1125) 契丹冠 遼朝(916-1125) この2つの冠にも龍が象られています。東モンゴルに建国された遼という王朝です。モンゴル族系の契丹族の王朝です。契丹という名称の方がよく知られているように思います。現時点で入手できた範囲でまとめとてみました。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) Category:Ceramics in the Hall og Literary Glory From Wikimedia Commons, the free media repository3) Los Angeles County Museum of Art From Wikipedia, the free encyclopedia4) 北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(龍袍) :「東京国立博物館」補遺扁壺 :「文化遺産オンライン」Jiangxi From Wikipedia, the free encyclopediaKangxi Emperor From Wikipedia, the free encyclopediaHall of Literary Glory (Wenhuadian) :「Travel China Guide」 中国・北京、紫禁城内の建物の一つJiajing Emperor From Wikipedia, the free encyclopediaWanli Emperor From Wikipedia, the free encyclopediaLiao dynasty From Wikipedia, the free encyclopedia ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.13
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黒地黄龍文瓶 中国・元時代(1279-1368) ギメ東洋美術館蔵 (資料1) 龍文壺 中国・元時代(1279-1368) (資料2)陶磁器の分野に目を転じてみますと、冒頭の2点に出会いました。ソースに記載の名称は英語表記ですので、私なりに翻案して表記します。専門的な表記ではない点、ご了解ください。パブリックで載せられる画像は他に見つけられませんませんでした。しかし、龍探しをしてみると、それなりに陶磁器に表現された龍図と出会いました。以下、リンクを張り、ご紹介します。クリックしてご覧ください。国立故宮博物院の3D文物鑑賞のページに、「明 永楽 青花穿蓮龍紋天球瓶」が公開されています。クリックしてご覧ください。 (資料3)ボストン美術館のホームページで検索してみますと、Meiping-shaped vase with dragonと出会いました。清時代18世紀初期の作品です。他にも3点がリストに出てきましたが、残念ながら現時点では画像が未掲載でした。 (資料4)大英博物館の所蔵品にも、検索窓口から調べると閲覧できる作品があります。しかし、直接にリンクしてアクセスはできないようですので、キーワードで検索できることだけ触れておきます。google で検索して入手したものについて、リンクできるものをご紹介します。龍波濤文皿 明時代15世紀 (資料5)龍波濤文皿 明時代15世紀 The Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料6)龍蓮文皿 中国 16世紀初期 The Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料7)龍文皿 中国 17世紀初期 Philadelphia Museum of Art 蔵 (資料8)墨彩龍文盤 康熙年間(1662-1722) (資料9)青花龍文皿 19-20世紀 Oriental Art AUCTIONS (資料10)検索中に、東京富士美術館所蔵の作品に出会いました。併せてリンクでご紹介します。白磁龍文盤 明・弘治年間(1488-1505) 景徳鎮窯 (資料11)五彩龍花蝶文方盤 明・嘉靖年間(1522-1566) 景徳鎮窯 (資料11)現時点で、陶磁器に見られる龍に出会えたのはこれだけです。序に、次の1点をご紹介しておきましょう。 雲龍文打出金張水筒 中国・明時代 15世紀 the Smithsonian American Art Museum 蔵(資料1)----- 2024.9.12 追補 -----京都国立博物館所蔵のもので見つけたものを加えます。 (資料12) 青花黄彩雲龍文盤 大清康熙年製銘 中国 ---------------------------これで一区切りと致します。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) Dragon From Wikipedia, the free encyclopedia3) 国立故宮博物院 3D文物鑑賞 4) ボストン美術館 ホームページ5) 龍波濤文皿 :「BRUUN RASMUSSEN 」6) 龍波濤文皿 :「The Metropolitan Museum of Art」7) 龍蓮文皿 :「The Metropolitan Museum of Art」8) 龍文皿 :「Philadelphia Museum of Art」9) 墨彩龍紋盤 :「OLINPIA AUCTION」10) A CHINESE BLUE AND WHITE DRAGON DISH :「Oriental Art AUCTIONS」11) 東京富士美術館 ホームページ12)青花黄彩雲龍文盤(G甲618)京都国立博物館蔵:「国立博物館所蔵品統合検索システム」補遺ギメ東洋美術館 :ウィキペディア国立故宮博物院 :ウィキペディアボストン美術館 :ウィキペディアMFA Boston(Museum of Fine Arts, Boston) ホームページ 検索ページ大英博物館 ホームページ 検索ページ青花 :「コトバンク」中国陶磁室 元~明時代 :「大阪市立東洋陶磁美術館」打出細工 :「コトバンク」「打ち出し」って何? :「BOTTEGA TA:)KA ~METAL ARTS~」打出し香爐「森閑」 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.10
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双龍図 裂地 清時代 the Metropolitan Museum of Art 蔵 (資料1) 龍図 裂地 東京国立博物館蔵 (資料1)最初に、織物の裂地として保存されている龍図を2例ご紹介します。英語版ウィキペディアを検索していて、そこに東京国立博物館蔵の龍図裂地も載っていました。さて、前回ご紹介した事例とも関連する記事を見つけました。補足しておきたいと思います。”もうすぐ辰年!北京市所管の公園で「龍」を探そう”(「北京へようこそ」)という特集記事です。クリックして、ご覧ください。 (資料2)前回ご紹介した北海公園の九龍壁を正面から撮った景色が載っています。併せて、頤和園宮殿の建築物前のブロンズ像、天壇公園の祈年傳中庭で見られる龍、中山公園の習礼亭に取り入れられた龍の要素、香山公園の勤政殿の至るところに描かれた龍の紋様、昭廟に見られる龍の紋様と彫刻、景山公園の寿皇殿建築群の龍の彫刻・彩画・紋様、北京動物園の南門頂部の龍紋が紹介されています。絵巻物の形式で描かれた九龍図に出会いました。 絵巻物の全容がコレ! 陳容筆「九龍図」 1244年作 宋朝 (資料3)Museum of Fine Arts (Boston, USA) 蔵右端から順番に部分図として切り出し、眺めていきましょう。 インターネットで龍探しをしていて、中国の「捜狐(SOHO.com)」というサイトで、歴代の龍の名画家特集と推察するページと出会いました。(私には現代の中国語の知識がありませんので、理解できる漢字を介しての内容判断によります。)クリックしてご覧ください。 (資料4)もう一つ、「美篇」というサイトで、「中華第一龍図」というタイトルと推測できる記事に出会いました。南宋の陳容という画家の作品他を取り上げています。こちらもクリックしてご覧ください。後半で取り上げている龍図は、上掲の「九龍図」のようです。この九龍図はかなり有名な龍図として位置づけられているものと思われます。五龍図というようなバリエーションもあるようです。伝陳容という形ですが・・・・・。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) もうすぐ辰年!北京市所管の公園で「龍」を探そう :「北京へようこそ」3) 中国の龍 :ウィキペディア4) 捜狐(SOHO.com)の記事 (タイトルは歴代画龍名家排名か? :二次推測により)補遺捜狐 :ウィキペディア北海公園 :ウィキペディア頤和園 :ウィキペディア天壇 :ウィキペディア天壇公園 :「Chaina Highlight」香山公園 (北京市) :ウィキペディア昭廟 :「コトバンク」景山公園 :ウィキペディア景山公園 :「Peaple's Chaina 人民中国」陳容 Chen Rong :「コトバンク」伝陳容筆 五龍図巻 :「e國寶」龍図 二副対のうち 伝陳容筆 :「徳川技術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.09
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青銅鏡 唐時代・8世紀 3本爪の龍 米国フリーア美術館蔵 (資料1) 青銅鏡 唐時代・8世紀 3本爪の龍 米国フリーア美術館蔵 (資料2)国内の博物館等で所蔵されている中国渡来品に見る龍はこのシリーズの各項目でも触れてきました。発想を転換し、中国の龍について、中国並びに海外諸地域で所蔵されている中国の龍に絡んだ作品等を探すという視点に広げてみます。まずは、日本でもなじみのある銅鏡を冒頭に取り上げました。入手できたのは唐時代のものでした。 双龍青銅像 秦時代 秦始皇帝陵の近くで出土 (資料1)同様に発掘品と思われるものにいくつか出会いました。 青銅龍(部分図) 古代中国 三星堆出土 現四川省徳陽市広漢県 (資料1)先日、NHKで古代中国における三星堆の青銅器文明の特集番組で、三星堆遺跡を初めて知りました。その中では見ていませんが、やはり龍が造形されているようです。この画像に出会いました。 石材に彫刻された翼をもつ龍像 劉宋(363-422)時代 (資料1) 龍上の兵士 墳墓のタイル 西漢時代 Luoyang出土 (資料1) 墳墓の棺に彫刻された龍 遼時代(916-1125) (資料1) 龍の置物 死後、天に行けるように墓に供えられたそうです。The Walters Art Museum蔵 (資料2)時代を遥かに遡りますと、商(殷)晩期の「蟠龍紋盤」に出会いました。台湾にある国立故宮博物院のサイトで、3D文物鑑賞として見ることができます。(資料3)変わり種は、 古代中国で発掘された恐竜の骨で、「眠る龍」を意味する「メイ・ロン」と名付けられた化石です。(資料2)ヒスイに彫刻された様々の龍像を見ることもできます。 玉龍(龍を彫った玉) 紅山文化の出土品。 (資料2) ヒスイ彫りの龍 周時代(1046 BC - 256 BC) (資料1) 龍のペンダント(ヒスイ) 東周時代 (資料1) ヒスイ彫りの龍 衣服の飾りに使用 戦国時代(403 BC - 221 BC) (資料2) ヒスイ彫りの龍飾り 戦国時代(403 BC - 221 BC) (資料1) 龍・鳥・蛇のヒスイ彫り 戦国時代(403 BC - 221 BC) (資料1) 円形ヒスイの透かし彫り細工 南越時代(203 BC - 111 BC) (資料1)龍の彫刻像そのものを探しますと、 宝珠を手にした金属製の龍 (資料2)金代(1115~1234)に作られたという「座式銅竜」(黒竜江博物館所蔵) (資料4)紹介記事を見つけました。クリックしてご覧ください。その記事によれば、「唐・宋代以降の封建帝王は、みな自ら『真竜天子』を任じ、竜は最高の封建的権威の象徴となった。歴代の工芸品の中に、竜の造型、竜の図案が随所に見られる」そうです。野外に設置された彫刻像にも出会いました。 双竜大理石像 中国・北京市 戒台寺蔵 (資料1) 龍の青銅像 清時代 (資料1)日本で言えば、築地塀に相当する壁面にダイナミックに龍が造形されています。 紫禁城内の「九龍壁」 1772(乾隆37)年建造。紫禁城は北京市に位置し、明清両王朝の皇室専用の宮殿でした。中国で有名な3つの九龍壁の一つだそうです。 (資料5)ならば、残りはどこか? ネット検索しますと、他に3か所があるようです。(資料6) 中国・北京 北海公園の九龍壁。ここは旧皇帝御園だそうです。全長27mの両面ガラス張りの壁だそうです。 (資料6) 皇帝の象徴である五爪の龍が造形されています。 (資料2) 大同の九龍壁 山西省大同市平城区に所在。明代14世紀の建造。中国に現存する最大かつ最古の九龍壁だとか。 (資料6) 平遥古城の九龍壁 中国山西省晋中市平遥県に所在。省都太原から南へ100kmの地点。(資料6)日本には2か所、また世界各地に九龍壁が造られていると言います。(資料6) 序に、青龍を象った壁用のタイルとも出会いましたので、ここで触れておきたいと思います。中国では、青龍は東の方位の守護神と考えられています。その思想は日本にも伝播されてきています。玄武・朱雀・白虎・青龍と並べるとお気づきになりますね。(資料1)「中国の国宝に見られる様々な竜」という記事で龍が特集されています。(資料7)クリックしてご覧ください。ここには、上掲の金代銅座竜(黒竜江省博物館所蔵)が紹介されている他に、上掲の玉竜とは別の玉竜(翁牛特旗博物館所蔵)、曾侯乙尊盤(湖北省博物館所蔵)、□金走竜(西安博物院所蔵)、青花雲竜紋高足碗(吉林省博物館所蔵)が紹介されています。(一文字変換不可。上に流、その下に金という文字を組み合わせてできる漢字です。金箔工芸を意味しています)この辺りで、一区切りと致します。つづく参照資料1) Chinease dragon From Wikipedia, the free encyclopedia2) 中国の龍 :ウィキペディア3) 国立故宮博物院 3D文物鑑賞4) 中原文化の伝播示す 座式銅竜 :「人民中国」5) 紫禁城 :ウィキペディア6) 九龍壁 :ウィキペディア7) 中国の国宝に見られる様々な竜 :「人民網日本語版」補遺三星堆遺跡 :ウィキペディアLiu Song dynasty From Wikipedia, the free encyclopediaJietai Temple From Wikipedia, the free encyclopedia横浜中華街で探す「龍」 九龍陳列窓 :「カナロコ」九龍陳列窓 :「Tripadvisor」大師山清大寺 越前大仏 ホームページ大師山 清大寺 九龍殿・日本庭園◆この庭に隠された仕掛け、アナタは見抜けるか? :「金沢を中心にした観光情報ブログ たのしみや.コム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.07
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京都・中京 誠心院の本堂 向拝 京都・東山 瀧尾神社 中門 京都・伏見 稲荷大社 能舞台 法隆寺 金堂 滋賀 比叡山延暦寺 大講堂 向拝冒頭に列挙したこれらの龍は、京都・奈良・滋賀の寺社探訪の折に出会った龍からサンプリングしたものです。今年1月に、「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」と題して、過去の探訪記録から龍との出会いを抽出してみました。そのシリーズで、次の項をまとめてご紹介しました。上掲の龍はそこでご紹介したものです。 次の各記事をご覧いただけるとうれしいです。 (資料1)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -10 寺社の建物と付属物 京都・洛中(2)/洛東 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -11 寺社の建物と付属物 京都・洛南観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -12 寺社の建物と付属物 京都・奈良・和歌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -13 寺社の建物と付属物 滋賀+α探訪してきた範囲を離れて、寺社の建物にも同様に龍がいるだろうかと関心を広げてみました。そう簡単には行けませんので、インターネットでの龍探しの旅をしてみました。まず、出会ったのが、コレ! 神奈川県鎌倉市腰越にある瀧口明神社の境内に、この「五龍像」を見ることができるようです。祭神は玉依姫命と牛頭龍大神です。 (資料2,3)様々なサイトやブログ記事で、各地の寺社の建物に棲む龍と出会いました。それぞれの地域ではよく知られた龍たちのようです。フリーな画像は得られませんでしたので、それぞれのサイトや記事をクリックして、アクセスし、様々な龍たちと出会ってみてください。事項名の後ろに、サイト名やブログ名を併記しています。☆神奈川の宮彫り ~龍の寺社装飾~ :「観光かながわNow]☆柱に巻き付く見事な龍「先崎鷲神社」(千葉県佐倉市」 :「ゆるっと、狛犬」☆「阿吽の大龍」12年に一度の御開帳 那珂川・鷲子山上神社 :「tochigi-tv.jp」☆徳島県海部郡の神社のだんじりに取り付ける龍の彫刻 :「伊川彫刻店」☆[神崎神社]拝殿内拝天井の龍や本殿に彫られた見事な彫刻 :「とっとりずむ」☆神秘のまち琴浦の至宝ー神崎神社と清元院の龍 :「開運琴浦昇龍めぐり」(琴浦町観光協会)☆蚊屋神社の「龍の彫刻」 :「日吉津村」 蚊屋神社 龍の彫刻 :「文化遺産オンライン」☆五所神社 倶利伽羅不動板碑 :「石仏と石塔!」龍探しをしていて、次のサイトと出会いました。☆木彫刻師 仏画師 菊池□藍 公式ブログ 龍を極める ここに併せてご紹介します。一字変換できませんでした。 「佐原の大祭」に関連する龍像も載っています。今日までの龍探しの旅で、出会えたのはここまでです。各地にある大規模な寺や神社の蟇股の部分には、龍の彫刻がかなりあるのではないかと推測します。これでご紹介の人区切りとします。つづく参照資料1)「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧 遊心六中記:「 楽天ブログ」2) 五頭竜 :ウィキペディア3) 滝口明神社 :ウィキペディア補遺佐原の大祭 :「香取市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.04
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倶利伽羅龍図小柄(クリカラリュウズコツカ) 後藤程乗作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵裏面に「銘 程乗(花押)」が彫り込まれています。 (資料 1-a)冒頭の画像は、刀剣のうち、小柄を装飾する彫刻に見る龍です。刀剣類に龍の彫刻を見ることができます。調べてみて出会うことができた龍をまとめます。 這龍図二所物 (ハイリュウズニトコロモノ)乗真作 紋乗真 光孝(花押) 東京国立博物館蔵(資料 1-b) 三十匹龍図三所物 (ミトコロモノ) 後藤祐乗作 小柄・笄銘 紋祐乗 光孝(花押)室町時代・16世紀 東博蔵 (資料 1-c) 刀 銘山城国西陣住人埋忠明寿/慶長三年八月日他江不可渡之 重文 京都国立博物館蔵(資料 1-d)「倶利伽羅」というワードからの連想で調べて、刀剣と関連する龍に出会いました。宝山寺銅造倶利伽羅龍剣 生駒市デジタルミュージアム (資料2)龍神不動明王・清瀧寺蔵 「倶利伽羅剣を持つ不動明王は、天台僧・安然和尚の『不動十九観』に記されているお姿」だそうです。 (資料3)”伏見・淀「八大龍王弁才天」倶利伽羅龍王の神通力と黄金色イチョウ(伏見)”という記事で、倶利伽羅龍王・岩に立つ宝剣と出会いました。(資料4)田無神社の倶利伽羅龍王(東京・西東京市田無町) (資料 5)こちらは、本殿正面の前方に、「宝剣」巻き付く「倶利伽羅龍王」が木彫像として安置されています。東京都あきる野市にある白瀧神社の境内には、霊泉のそばに石像の倶利伽羅龍王が祀られています。ある探訪記で見つけました。 (資料6)埼玉県の飯能市にある富士浅間神社にも倶利伽羅不動尊の石像が祀られています。これもブログ記事から得た情報です。 (資料7)「蒼龍院の門に立つ倶利伽羅龍王」というブログ記事で、倶利伽羅龍の石仏と出会いました。(資料8)「水辺の神様」というシリーズで埼玉県各地の石仏・石像などを紹介されているブログと出会いました。そこにも、倶利伽羅不動尊として、各地で龍王像が祀られている姿が見えます。(資料9,10) 埼玉県比企郡滑川町羽尾 市野川(右岸) 埼玉県東松山市の下青鳥と正代 川越市豊田本、薬師堂、赤間川(左岸)このまとめの最後に、一つ古代の作品を加えておきます。 龍形帯鉤(リュウガタタイコウ)中国 三国時代・3世紀 青銅 東京国立博物館蔵(資料 1-e)帯鉤とは、「ベルトのバックルに相当する中国の帯留めです。帯鉤裏面にあるボタン状突起にベルトの一端を取りつけ、腰に回したベルトのもう一端を帯鉤の鉤に引っ掛けて使います」(資料11) というものだそうです。このあたりで一区切りと致します。つづく参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 倶利伽羅龍図小柄 後藤程乗作(F-12619) 東京国立博物館蔵 1-b) 這龍図二所物 乗真作(F-13731) 東博蔵 1-c) 三十匹龍図三所物 後藤祐乗作(F-1990) 東博蔵 1-d) 刀 銘山城国西陣住人埋忠明寿(E甲187) 京都国立博物館蔵 1-e) 龍形帯鉤 (TJ-5861) 東博蔵2) 宝山寺銅造倶利伽羅龍剣 :「生駒市デジタルミュージアム」3) お不動様の縁日 :「花咲く祈りの寺☆清龍寺」4) 伏見・淀「八大龍王弁才天」倶利伽羅龍王の神通力と黄金色イチョウ(伏見) :「とっておきの京都プロジェクト」5) 田無神社の倶利伽羅龍王(東京・西東京市田無町) :「龍の謂れとかたち」6) 霊泉に倶利伽羅龍王を祀る~【白瀧神社(東京都あきる野市)】:「ハロちん♪と参拝歩記」7) 倶利伽羅不動尊/富士浅間神社 @埼玉県飯能市 :「ゆる~い日記」8) 蒼龍院の門に立つ倶利伽羅龍王 :「金翅鳥院のブログ」9) 続・水辺の神様の一覧 :「気まぐれ旅写真館」10) 続々・水辺の神様の一覧 :「気まぐれ旅写真館」11) 絡獣形帯鉤 :「文化遺産オンライン」補遺”倶利伽羅(くりから)” 生活の中の仏教用語 :「大谷大学」倶利伽羅龍王伝説 :「倶利伽羅不動寺」帯鉤 :「MIHO MUSEUM」第120回展「帯鉤 ー中国古代金工の美」 :「天理大学付属 天理参考館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.09.01
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少し間口を広げて「彫刻」という視点で龍探しを続けます。彫刻という視点であっても数がまとまりそうなものについては別項目でまとめたいと思っています。冒頭にご紹介するのは、佐藤朝山作 「龍頭観音像」 昭和時代・20世紀 東京国立博物館蔵 (資料 1-a) 今までに諸寺や博物館で数多くの仏像を眺めていますが、龍を彫刻した観音像は「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColeBase)」(資料1)で出会ったこの像が私には初めてです。そこから、十二神将像を連想しました。十二神将に十二支が関連づけられていることを思い出したのです。十二支の辰は龍を意味します。 十二神将立像(辰神) 明治まで浄瑠璃寺に伝来した像といわれています。鎌倉時代・13世紀の作。辰・巳・未・申・戌の5体を東京国立博物館が所蔵。 (資料 1-b)残り7体は東京・静嘉堂文庫に所蔵されているとか。 頭部の兜に龍像が彫刻されています。 余談です。十二神将は薬師如来の従者で、12人の武装した守護神、いわばガードマン集団。12という数字は、薬師如来が人々を救うために立てた12の誓いに対応するそうです。「東南アジア地域では、古くから時間や方角を12に区分し、それぞれに12種類の動物を当てはめる風習がありました。・・・この十二支が薬師如来のガードマンたちにも割り振られました。つまりいつでもどの方向にも、目を光らせていることを意味している」(資料 1-b)のです。奈良・新薬師寺の十二神将立像(塑像)は特に有名ですが、こちらの像の頭部には動物たちは造形されていません。ホームページで確認してみました。奈良国立博物館の収蔵品データベースを検索しますと、「十二神将像」が登録されています。こちらの像には、それぞれの頭部に動物が彫刻されています。波夷羅(ハイラ)神将が辰神に相当します。 (資料2)彫刻として、こんな物もあります。 銅龍頭 室町時代・嘉吉3年(1443) 東博蔵 (資料 1-c) 銅製鋳造品です。長い棒の先端に取り付けたものかな・・・と推測します。 龍頭 室町時代・15世紀 東博蔵 (資料 1-d)こちらは木造で彩色されたもの。仏教彫刻に分類されている作品です。 自在龍置物 明珍宗察作 江戸時代・正徳3年(1713) 東博蔵 (資料 1-e)鉄製の鋳造品。床の間や違い棚などの置物、飾りでしょうか。自在に形を変形できる置物のようです。 自在置物 里見重義作 明治時代・20世紀 東博蔵 (資料 1-f)銀製・鍛造の近代工芸品。彫刻という視点で、こちらもここに取り上げておきましょう。 龍燈鬼立像(模造)森川杜園作 明治時代・19世紀 木造、彩色 東博蔵 (資料 1-g)龍燈鬼立像のオリジナルは、奈良・興福寺の国宝館で常時公開されている「木造天燈鬼・龍燈鬼立像」です。国宝に指定され、鎌倉時代の作。桧材の寄木造、彩色、玉眼の作品。(資料3)この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 龍頭観音像 佐藤朝山作(C-1840) 東京国立博物館蔵 1-b) 十二神将立像(辰神) 東博蔵 1-c) 銅龍頭(E-19802) 東博蔵 1-d) 龍頭(C-1081) 東博蔵 1-e) 自在龍置物 明珍宗察作(E-20016) 東博蔵 1-f) 自在置物 里見重義作 (E-13097) 東博蔵 1-g) 龍燈鬼立像(模造)(C-17) 東博蔵2) 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」3) 法相宗大本山 興福寺 ホームページ補遺十二神将 :「新薬師寺」十二神将 :「コトバンク」十二体の守護神が守る隠れた古刹「新薬師寺」|奈良観光コンシェルジュが奈良市のお寺をご紹介:Shinyakushiji-Temple in Nara City|Nara YouTube20130912 千羽千尋 日本佛像 奈良 新藥師寺 十二神將 YouTube20130913 千羽千尋 日本佛像 奈良 新藥師寺 十二神將 2 YouTube新薬師寺 十二神将バサラ YouTube十二神将 南北朝時代 福岡チャンネル YouTube本山慈恩寺 ~薬師三尊・十二神将web拝観~ YouTube室生寺「金堂十二神将像勢揃い」/ 室生 弁財天石楠花まつり YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.30
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五龍図巻 伝陳容筆 中国 南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (資料 1-a)絵巻の形で龍が描かれています。 ウィキペディアの「五頭竜」の項にこの板絵が載っています。(資料2)鎌倉市深沢にかつて五頭竜が棲んでいて、改心後に五頭竜大神となったとか。江の島の弁才天様と絡む伝承です。模本という形で、さらにいくつか見つけました。掛軸物とは少し異なる分野での絵のように思います。 探幽/丸形龍図 佐々木文藏模 東博蔵 (資料 1-b) 探幽/丸ニ龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-c) 探幽/円窓龍図 伊川模 東博蔵 (資料 1-d)これらの模写から連想したのは禅宗寺院の法堂の天井画です。その下絵の模写でしょうか。 探幽/水中龍図 養州模 東博蔵 (資料 1-e) 楊月澗/龍図 会心斎模 東博蔵 (資料 1-f)これらは屏風絵あるいは襖絵の下絵の模写かな印象を受けます。 探幽/富士越龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-g)これは掛幅(掛軸)の絵になりそうです。 龍図 亜欧堂田善筆 江戸時代・19世紀 東博蔵 (資料 1-h)一つ、異色な絵に出会いました。紙本銅板墨摺の作品です。この他に、調べていて龍に出会ったサイトがいくつかあります。1. 戸隠神社の社殿の天井画として「よみがえった暁斎の龍図」です。(資料3)2. 九州国立博物館の「[特別展] 生誕270年 長沢芦雪」において、襖絵に描かれた龍虎図としてえ、龍図が展示されたようです。特別展紹介ページに龍図が載っています。(資料 4)3. 「京博のお正月 辰づくし-干支を愛でる-」という企画展で、絵としては、高奇峰筆昇龍墨意が須磨帖のうちとして展示されたようです。 (資料 5)4. 京都国立博物館のホームページに博物館ディクショナリーというページがあります。そこに、染織の作品の紹介として「皇帝の龍(こうていのりゅう)」が、工芸室の河上により紹介さあれています。この龍を絵ととらえて、ここでご紹介に加えておきたいと思います。 (資料 6)絵画視点での龍探しとしての落穂拾いをこれで終わります。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 五龍図巻 伝陳容筆(TA-363) 東京国立博物館蔵 1-b) 探幽/丸形龍図 佐々木文藏模(A-3828) 東博蔵 1-c) 探幽/丸ニ龍図 模者不詳(A-3834) 東博蔵 1-d) 探幽/円窓龍図 伊川模(A-3097) 東博蔵 1-e) 探幽/水中龍図 養州模(A-3829) 東博蔵 1-f) 楊月澗/龍図 会心斎模(A-5679) 東博蔵 1-g) 探幽/富士越龍図 模者不詳(A-3397) 東博蔵 1-h) 龍図 亜欧堂田善筆(A-8574) 東博蔵2) 五頭龍 :ウィキペディア3) 戸隠神社6 ~よみがえった暁斎の龍図 :「週刊長野記事アーカイブ」 4) [特別展] 生誕270年 長沢芦雪 :「九州国立博物館」5) 京博のお正月 辰づくし-干支を愛でる- :「京都国立博物館」6) 皇帝の龍(こうていのりゅう) :「京都国立博物館」補遺亜欧堂田善 :ウィキペディア信州戸隠山 戸隠神社 ホームページ 五社の一つとして、九頭龍大神を祀る九頭龍社があります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.27
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「北斎画の龍」をこの龍探しの旅で最初に取り上げました。その他の浮世絵師が龍を描いているだろうかと発想を転じ、龍探しを続けてみました。冒頭の絵は喜多川歌麿筆「上り龍」です。 (資料1-a)インターネットで龍探しをしていて、「浮世絵情報検索」という立命館大学のデータベースと出会いました。画像ダウンロードが可能となっています。(資料1)そこでここから画像を引用させていただきます。 歌川広重筆 「富士越龍図」 (資料1-b)広重筆で、絵の名称に龍を含んだものは浅草金龍山関連の風景画として結構出てきます。そこには龍自体は描かれていませんので省略します。 歌川国貞筆「豊国揮毫奇術競」「雲龍九郎」 (資料1-c) 歌川国貞筆「強盗首領雲龍九郎景純」 (資料1-d) 歌川国芳筆 「入雲龍公孫勝」 (資料1-e)このデータベースには、国芳筆の浮世絵で名称に龍が入っている絵が登録されています。「出林龍鄒淵」、「九紋龍史進」、「斎藤龍☆ 沢村訥升」、「入雲龍公孫勝」、「布袋市右衛門 中村芝翫龍玉」などですが、人名などに由来するもので、龍は描かれていませんのでこれらも省略します。今までに参照してきた国立博物館所蔵品統合検索システム(Col Base)でも、次の浮世絵を見つけました。 (資料2) 歌川国芳筆 「本朝水滸伝剛勇八百人一個・宮本無三四」 東京国立博物館蔵(資料2-a) 歌川豊国筆 「素戔鳴尊」 東京国立博物館蔵 (資料2-b) この屏風絵にも出会いました。 曽我直庵筆 「龍虎図屏風」 東京国立博物館蔵 (資料2-c)これは、ウィキペディアでもみることができます。(資料3) 「龍虎図屏風」の「龍図」を載せます。さらに、「Cultural Japan」というデータベースにも出会いました。こちらでも龍をみつけました。リンクを張ることはOKですが、それ以外の利用条件は個別に設定されている方式です。そこで、出会った龍については、リンクを張る形でご紹介します。(資料4)☆歌川広重筆 「雲龍図」 ボストン美術館蔵このサイトで、次の屏風絵に出会いました。☆龍虎図屏風 宗雪筆 東京国立博物館蔵☆雲龍図屏風 今治市立図書館蔵☆龍虎図屏風 吉村周山・大岡春卜筆 関西大学ORCAS蔵この屏風については、龍図の方をこちらのサイトで見ることができました。 (資料5)「UKIYO-E KURASHIKI」というサイトとも出会いました。そのトップページに、「UKIYO-E KURASHIKI / 国芳館」とコレクションの紹介があります。 (資料6)そこに☆ 歌川国芳 「龍宮玉取姫乃図」 嘉永6年(1853) が開示されています。この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料1) 浮世絵情報検索 :「立命館大学」 1-a) 喜多川歌麿筆 (上り龍) 1-b) 歌川広重筆 「富士越龍図」 1-c) 歌川国貞筆「豊国揮毫奇術競」「雲龍九郎」 1-d) 歌川国貞筆「強盗首領雲龍九郎景純」 1-e) 歌川国芳 「入雲龍公孫勝」2) 国立博物館所蔵品統合検索システム(Col Base) 2-a) 歌川国芳筆 「本朝水滸伝剛勇八百人一個・宮本無三四」 東京国立博物館蔵 2-b) 歌川豊国筆 「素戔鳴尊」 東京国立博物館蔵 2-c) 曽我直庵筆 「龍虎図屏風」 東京国立博物館蔵3) 曽我直庵 :ウィキペディア4) Cultural Japan のホームページ5) The Web KANZAKI music & knowledge sharing6) UKIYO-E KURASHIKI ホームページ補遺喜多川歌麿 :ウィキペディア浮世絵師「喜多川歌麿」の生涯 :「刀剣ワールド浮世絵」歌川広重 :ウィキペディア浮世絵師「歌川広重」の生涯 :「刀剣ワールド浮世絵」歌川国貞 :ウィキペディア浮世絵師「歌川国貞」の生涯 :「刀剣ワールド浮世絵」歌川国芳 :ウィキペディア浮世絵師「歌川国芳」の生涯 :「刀剣ワールド浮世絵」歌川豊国 :ウィキペディア浮世絵師「歌川豊国」の生涯 :「刀剣ワールド浮世絵」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.25
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探幽/龍図 模者不詳 東京国立博物館蔵 (資料 1-a)軸物で龍探しをしていますと、かなりの模写が残されています。これらを眺めていますと、絵師たちが模写するということで技法を修得するという修行をしていたのだなと実感します。そして、気づいたのは、誰の絵を模写するかということで特定の傾向があるようだということです。集められた範囲では、狩野探幽と陳所翁の絵を模写した作品が大半でした。そして、牧谿と李雄の絵の模写が各1点得られました。 探幽/龍図 義房模 東博蔵 (資料 1-b) 探幽/龍図 雅信模 東博蔵 (資料1-c) 探幽/龍図 雅信模 東博蔵 (資料1-d) 探幽/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料1-e) 探幽/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料1-f) 探幽/昇龍降龍図 小林清心模 天保九年 東博蔵 (資料 1-g) 探幽/昇降龍図 小林玄琢、並川甫仙(二代)摸 天保八年十月廿五日東博蔵 (資料 1-h)) 探幽/昇龍降龍図 良重模 天保七年十二月六日 東博蔵 (資料 1-i) 陳所翁/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-j) 陳所翁/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-k) 陳所翁/龍図 喜斉模 東博蔵 (資料 1-l) 陳所翁/龍図 休湖模 東博蔵 (資料 1-m) 陳所翁/龍図 参竹模 東博蔵 (資料 1-n) 陳所翁/龍図 学仙模 東博蔵 (資料 1-o) 陳所翁/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-p) 牧渓/龍図 模者不詳 東博蔵 (資料 1-q) 李雄/雲龍図 晴川模 東博蔵 (資料 1-r)これで掛幅(掛軸)での龍探しを一区切りと致します。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 探幽/龍図 模者不詳(A-3839) 東博蔵 1-b) 探幽/龍図 義房模 (A-3832) 東博蔵 1-c 探幽/龍図 雅信模(A-3837) 東博蔵 1-d) 探幽/龍図 雅信模(A-3846) 東博蔵 1-e) 探幽/龍図 模者不詳(A-3842) 東博蔵 1-f) 探幽/龍図 模者不詳(A-3848) 東博蔵 1-g) 探幽/昇龍降龍図 小林清心模(A-3826) 東博蔵 1-h) 探幽/昇降龍図 小林玄琢、並川甫仙(二代)摸(A-3835) 東博蔵 1-i) 探幽/昇龍降龍図 良重模(A-3844) 東博蔵 1-j) 陳所翁/龍図 模者不詳(A-5341) 東博蔵 1-k) 陳所翁/龍図 模者不詳(A-5344) 東博蔵 1-l) 陳所翁/龍図 喜斉模(A-5348) 東博蔵 1-m) 陳所翁/龍図 休湖模(A-5351) 東博蔵 1-n) 陳所翁/龍図 参竹模(A-5352) 東博蔵 1-o) 陳所翁/龍図 学仙模(A-5353) 東博蔵 1-p) 陳所翁/龍図 模者不詳(A-5354) 東博蔵 1-q) 牧渓/龍図 模者不詳(A-5412) 東博蔵 1-r) 李雄/雲龍図 晴川模(A-5507) 東博蔵補遺狩野探幽 :ウィキペディア牧谿 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.21
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龍きん起雲図 円山応挙筆 江戸時代・寛政6年(1794) 東京国立博物館蔵 (資料 1-a)冒頭から漢字変換できない文字「きん」が出てきます。口へんに横ならびに金と書く漢字。手元の『角川新字源』によりますと「どもる(吃)。せきこんで、ことばにつまる」という意味をもつ字です。 双龍図 狩野山雪筆 江戸時代・17世紀 東博蔵 (資料1-b) 雲龍図 中国 京都国立博物館蔵 (資料1-c) 波に龍図 中国 京博蔵 (資料1-d) 龍図 京博蔵 (資料1-e) 龍図 狩野探幽筆 江戸時代・17世紀 東博蔵 (資料1-f)次の作品は3点セットになっていますので、龍に着目する形でのご紹介。 維摩・龍虎図 狩野休伯〈昌信〉、狩野休円〈清信〉、勝田竹翁筆 江戸時代・17世紀東博蔵 (資料1-g) この3点セット、誰が何を担当して描いたのでしょうか・・・・。 龍虎図 狩野伊川〈栄信〉筆 江戸時代・18世紀 東博蔵 (資料1-h)こちらも龍虎一対として描かれていますので虎図も載せます。 龍頭観音像 河鍋暁斎筆 明治時代・19世紀 東博蔵 (資料1-i) 鑑貞/龍図 養信模 江戸時代・文化10年(1813) 東博蔵 (資料1-j)これは養信という絵師による藻本と明記されています。軸物として装丁されていますので、ここに取り上げてご紹介します。同様に、次の作品も摸本です。 毛松/虎図、月澗/龍図 勝川、晴川院模 東博蔵 (資料1-k) 一対の軸物になっていますのでそのまま載せます。 陳所翁/龍図 会心模 東博蔵 (資料1-l) 併せて、こちらにアクセスして「主題:龍 美術家:陳所翁」(日文研データベース)をご覧ください。ほかにも模写状態の作品にかなり出会いました。それらを次回にご紹介します。最後にこの掛幅を加えておきたいと思います。 龍虎二大字 後陽成天皇筆 文字として現れる龍です。安土桃山~江戸時代・16~17世紀 東博蔵 (資料 1-m)つづく参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 龍きん起雲図 (A-11820) 東京国立博物館蔵 1-b) 双龍図(A-12442) 東博蔵 1-c) 雲龍図 (A甲1532) 京博蔵 1-d) 波に龍図 (A甲372) 京博蔵 1-e) 龍図 京博蔵 1-f) 龍図 狩野探幽筆 (A-251) 東博蔵 1-g) 維摩・龍虎図 (A-281) 東博蔵 1-h) 龍虎図 狩野伊川〈栄信〉筆 (A-933) 東博蔵 1-i) 龍頭観音像 (A-205) 東博蔵 1-j) 鑑貞/龍図 養信模 (A-1921) 東博蔵 1-k) 毛松/虎図、月澗/龍図 勝川、晴川院模 (A-5213) 東博蔵 1-l) 陳所翁/龍図 会心模(A-5340) 東博蔵 1-m) 龍虎二大字 (B-2880) 東博蔵補遺円山応挙 :ウィキペディア狩野探幽 :ウィキペディア狩野山雪 :ウィキペディア狩野休伯 :「コトバンク」狩野休円 :「コトバンク」勝田竹翁 :ウィキペディア狩野栄信 :ウィキペディア狩野養信 :ウィキペディア鑑貞 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.18
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赤塚古墳 三角縁複波文帯盤龍鏡(重文) 京都国立博物館蔵 (資料1-a) 透彫き龍文鏡 中国 京博蔵 (資料1-b) 連弧文細地き龍鏡 京博蔵 (資料1-c)「き龍」の「き」は変換できませんでした。「き」は虫へんの漢字で、手元の辞典『角川新字源』を引きますと、「まむし(蝮)。毒蛇の一種」を意味する漢字です。 この3点は京都国立博物館蔵。 だ龍鏡 山口県・柳井茶臼山古墳出土 古墳時代・4世紀 東京国立博物館蔵 (資料1-d) だ龍鏡 山梨県甲府市甲斐銚子塚古墳出土 古墳時代・4世紀 東博蔵 (資料1-e) だ龍鏡 出土地不詳 古墳時代・4世紀 東博蔵 (資料1-f)「だ龍」はちょっとトリッキーです。「だ」は漢字変換できませんでした。「龍」が入っているので取り上げた次第です。『角川新字源』を引きますと「だ」という漢字の説明に、「俗名、だ龍」と説明があります。「だ」は、「わにの類。長さ数メートルにおよぶ。かたい皮があって、太鼓に用いる」と説明されています。龍のイメージの連想につながっていく側面はありますね。まあ、これも龍探しに多少はリンクするかもしれません。 神人龍虎画像鏡 奈良県宇陀市 愛宕山古墳出土 古墳時代・5世紀〔中国製・2~3世紀〕東博蔵 (資料1-g) 神人龍虎画像鏡 岡山県瀬戸内市 築山古墳出土 古墳時代・5世紀〔中国製・3世紀〕東博蔵 (資料1-h) 神人龍虎画像鏡 静岡県磐田市 薬師堂山古墳出土 古墳時代・5世紀 東博蔵(資料1-i) 龍文四花鏡 中国 宋時代・10~13世紀 東博蔵 (資料1-j) 双龍香炉文八稜鏡 朝鮮 高麗時代・13~14世紀 東博蔵 (資料1-k) 「泰始七年」神獣鏡 中国 西晋時代・泰始7年(271) 東博蔵 (資料1-l) 龍虎双鳳画像鏡 伝朝鮮平壌市梧野里出土 楽浪・2世紀 東博蔵 (資料1-m) 神仙画像鏡 中国 明時代・14~17世紀 東博蔵 (資料1-n) 神仙双龍画像鏡 中国 後漢~三国時代・2~3世紀 東博蔵 (資料1-o)この12点は東京国立博物館蔵。この1点は、奈良国立博物館蔵です。奈良県天神山古墳出土 天理市柳本町 古墳時代・4世紀 重文 (資料1-p)付録として、次の銅鏡をご紹介します。 三角縁神獣鏡 静岡県菊川市 上平川大塚古墳出土 古墳時代・4世紀 東博蔵 (資料1-q)三角縁神獣鏡は比較的よく知られた銅鏡です。龍もでてきそうですが、どうも想像上の獅子のような獣が彫り込まれているようです。補遺にあげましたが、謎の多い銅鏡だといいます。海獣葡萄鏡(伝坂本龍馬使用) 京博蔵 (資料1-r) 海獣が何を意味するのか.......。これも見ていて龍とは関係なさそうです。ところが、伝坂本龍馬使用とあります。名前の「龍」つながりで、せっかくDLしていますので、最後にご紹介!これで銅鏡に見ることができる龍探しを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1-a) 赤塚古墳 三角縁複波文帯盤龍鏡 (J甲424-5) 京都国立博物館蔵 1-b) 透彫き龍文鏡(J甲438) 京博蔵 1-c) 連弧文細地き龍鏡 (J甲550) 京博蔵 1-d) だ龍鏡 山口県・柳井茶臼山古墳出土 東博蔵 1-e) だ龍鏡 山梨県甲府市甲斐銚子塚古墳出土(J-20303) 東博蔵 1-f) だ龍鏡 (J-35507) 東博蔵 1-g) 神人龍虎画像鏡 (J-2593) 東博蔵 1-h) 神人龍虎画像鏡(J-39212)東博蔵 1-i) 神人龍虎画像鏡 静岡県磐田市 薬師堂山古墳出土(J-6178) 東博蔵 1-j) 龍文四花鏡 (TE-65) 東博蔵 1-k) 双龍香炉文八稜鏡 (TE-66) 東博蔵 1-l) 「泰始七年」神獣鏡 (TJ-2499) 東博蔵 1-m) 龍虎双鳳画像鏡 伝朝鮮平壌市梧野里出土 (TJ-4334) 東博蔵 1-n) 神仙画像鏡 (TJ-643) 東博蔵 1-o) 神仙双龍画像鏡 (TJ-654) 東博蔵 1-p) 奈良県天神山古墳出土品 (727-0) 奈良博蔵 1-q) 三角縁神獣鏡 静岡県菊川市 上平川大塚古墳出土 (J-9527) 東博蔵 1-r) 海獣葡萄鏡(伝坂本龍馬使用)(M甲173) 京博蔵補遺三角縁神獣鏡の謎 考古室 宮川禎一 2021/02/02 :「京都国立博物館」海獣葡萄鏡 :「文化遺産オンライン」最古級の銅鏡が出土した「安満宮山古墳」の謎 柏木宏之 :「歴史人」「出土した岐阜の逸品」No.5国内最古級の青銅製国産鏡である重圏文鏡 :「岐阜県」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.15
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(資料1-a)京都国立博物館に行くと、考古の展示室に銅鏡が展示されています。銅鏡に龍が彫られていることを思い出しました。そこで銅鏡に棲む龍をインターネットで調べてみました。国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase:資料1)には、「双龍鏡」というキーワードで1つのグループとして、銅鏡の龍が9点表示されます。冒頭は京都国立博物館所蔵品の一例です。 (資料1-b) (資料1-c) (資料1-d) (資料1-e) この5点も京博蔵。制作年代は不詳。 (資料1-f) (資料1-g) この2点は、東京国立博物館の所蔵品です。同様に制作年代不詳。 (資料1-f) この銅鏡には「至元四年」の銘があり、「蓮華双龍鏡」と称されています。 (資料1-g)中国・元時代・13~14世紀の作。 東博蔵。もう1つ「龍虎鏡」という名称の銅鏡群が6点あります。 (資料1-h) この2点は京博蔵です。 (資料1-i) (資料1-j)京都府長岡京市 長法寺南原古墳出土 古墳時代・4世紀〔中国製・2~3世紀〕東博蔵 龍虎鏡 東博蔵 (資料1-k) 鳥取県湯梨浜町 馬ノ山4号墳出土 古墳時代・4世紀 東博蔵 (資料1-l) 三角縁画像帶竜虎鏡 岡山市 備前車塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 東博蔵 (資料1-m)この辺りで一区切りとします。つづく参照資料1.ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム 1_a)双龍鏡(E甲54) 京博蔵 1_b)双龍鏡(E甲57) 京博蔵 1-c) 双龍鏡(E甲83) 京博蔵 1-d)双龍鏡(E甲142) 京博蔵 1-e) 双龍鏡(E甲143) 京博蔵 1-f)双龍鏡(E甲259-5))京博蔵 1-g) 双龍鏡(TE-23) 東博蔵 1-f) 双龍鏡(TE-96) 東博蔵 1-g)「至元四年」蓮華双龍鏡 東博蔵 1-h) 龍虎鏡(E甲93) 京博蔵 1-i) 龍虎鏡(E甲163) 京博蔵 1-j) 龍虎鏡 長法寺南原古墳出土 (J-22535) 東博蔵 1-k)龍虎鏡(TE-743)東博蔵 1-l) 変形龍虎鏡(J-37067) 東博蔵 1-m) 三角縁画像帶竜虎鏡 (J-37172) 東博蔵補遺中国・日本歴代銅鏡 :「名古屋市博物館」銅鏡 :ウィキペディア[大人の教養・日本美術の時間]古代の鏡は、素材も用途も今と違う! :「TSUMUGU JAPAN ART & CULTURE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.08.14
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巡行9番は「役行者山」です。 修験道の山伏と山伏姿の僧侶が巡行の先頭を進みます。修験宗の開祖と言われる役行者に因む山ですので自然な姿です。 山の中央、山籠の洞様の所に役行者が座していますので、宵山では見られる御神体(人形)は見えません。その前に鬼形で赤熊(シャグマ)を被り両手で斧を持つ一言主神と、手に台つきの輪宝を持つ女人の葛城神が向かい合って立っています。この山が役行者が一言主神と葛城神を使って、葛城山と大峰山の間に橋を架けたという奈良時代の伝承を踏まえた場面を具現化していることによります。前懸は「岩牡丹胡蝶図」を中央に左右に雲龍文様を配した3枚継ぎです。復元新調品。水引は綴錦の「唐子遊図」。西山勘七作。二番水引の正面は、中央に壽の文字を記した玉を織り出した「波濤双龍文」。平成9年(1997)復元新調。左右側面も龍の文様です。 胴懸は真向龍の図柄で「雲龍波濤文様」の綴錦。 見送は「金地唐美人園遊図」の綴錦。昭和57年(1982)復元新調。 オリジナルは中国明朝の官工場で織られたものと言います。 最後尾の荷車 役行者山のシンボルマーク。この文様は輪宝のイメージでしょうか・・・・。 巡行10番は「鷹山」。令和4年(2022)に196年ぶりに後祭巡行に参加し復興を果たしました。15世紀には、「鷹つかい山」としてその名が記録されているそうです。鷹山もくじ取らずの山です。 「鷹遣」「犬遣」「樽負」の三体の人形(御神体)が山に搭載されます。元治元年(1864)の禁門の変で発生した火事においても焼失を免れて、居祭の形で祇園祭宵山に参加してきた歴史を経ています。 天水引は赤地に八坂神社の神紋を刺繍。一番水引は「金地麒麟図」新調。二番水引は「紺地瑞鳥草花文様錦」新調。三番水引は「白地桐唐草文様金襴」新調。胴懸はペルシャ絨毯で、蓮やザクロ文様とカニの連続文様だそうです。新規購入。裾幕は鷹狩の折、草が風になびく図柄をデザインしたもの。 見送は「鷹図」。皆川月華作で昭和61年(1986)寄贈品。 最後尾の荷車 巡行11番、最後はくじ取らずの「大船鉾」です。最後まで眺めてきますと、後祭で鉾はこの大船鉾1基。曳山へと進展し鉾と同形式になったのが北観音山、南観音山、鷹山の3基。舁き山が橋弁慶山から始まり役行者山までの7基という内訳になります。 この大船鉾が150年ぶりに復興したのが平成26年(2014)年でした。この時に、後祭山鉾巡行が49年ぶりに復活しました。これをまとめていて気づいたことがあります。 2023年は舳先に大金幣が飾られていました。2022年の後祭の宵山では舳先に金色の龍頭が飾られていたこと。この龍頭は2020年度の復興事業として金色の漆箔が施され、2022年の前祭の時に、そのお披露目として大丸の入口脇のショーウインドウに飾られていたこと(拙ブログ記事で再確認)、などを思い出していました。そして、アッと思ったのです。龍頭の上に屋根がかけてあることに。ああこれも雨対策として宵山の状態のままに残されたのだなと気づいた次第。 2019年の後祭で舳先に大金幣を飾った巡行時の大船鉾です。 舳先の上に屋根はありません。屋形の全体がスッキリと見えます。 2018年後祭の宵山にて。龍頭は白木のままでした。 今回は、たま(車輪)が新調されていました。(このことは新聞報道で知りました) 前水引は緋羅紗地「飛龍に波濤の図」。復元新調。前懸は「紅地雲龍青海文綴錦」。平成27年(2015)復元新調。 屋根の前部左右を飾る「軒幕」は龍が刺繍されていて、令和5年(2023)ベトナム国営放送の寄贈品。水引は刺繍裂で渡来赤羅紗地「飛龍に波濤の図」。19世紀の日本製。二番水引は綴織裂で「翔雲文に散らし花文様の図」。19世紀の日本製。胴幕は「緋と萌黄羅紗段だら継」。新調。 艫の上部にも、宵山で架設されていた屋根がそのまま雨対策として使われています。透明のシートも保護カバーとして被せてあります。船尾を飾る艫飾板彫刻三面の「霊獣」は令和3年(2021)新調。舵は金糸刺繍で「五爪の雲竜図」後懸は綴織裂「飛翔龍に波濤の図」。19世紀の日本製。 最後尾の荷車 山鉾巡行の最後にパトカーが随行しています。今まで、パトカーが巡行の前後に関わっていることを知りませんでした。この写真を撮った日時は2024/07/24 11:45と記録されています。この時まで、見物中に雨は降りませんでした。新聞報道は前回ご紹介しましたが、正午すぎに降ったようです。巡行路の到着点、四条烏丸から各山鉾町に戻ろうとする過程で、雨に遭遇した山鉾があったことになります。その頃は、私は雨が降っていることを知らずに、新京極通に居ました。 巡行路 (赤丸は追記。見物していた位置です)今年の祇園祭は、前祭・後祭を通して、思わぬトラブルが幾つか発生する結果となりました。私の見聞範囲では報道記事にもなったのは初めてのことでした。これで覚書を兼ねた後祭の巡行ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*『祇園祭細見 改訂版』 島田崇志編著 都のまつり文化研究会発行 2024年4月* 大船鉾 懸装品について :「大船鉾」補遺祇園祭 役行者山 ホームページ八坂神社 ホームページ鷹山保存会 ホームページ大船鉾 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -1 先導、橋弁慶山 ~ 黒主山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -2 鯉山 ~ 八幡山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -1 役行者山、鷹山 & 点描 へ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -1 くじ取らず函谷鉾~山八番孟宗山 へ 4回のシリーズでご紹介
2024.08.02
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巡行4番は「鯉山」です。一瞬、違和感を抱きました。 山の朱塗り鳥居のところに、あの巨大な鯉が居ません!山は黒ずくめで、正面に赤くて巨大な「鯉」の一字。側面は八坂神社の神紋。見慣れた懸装品が見られない。アレッ! 鯉山は粛々と巡行して行きます。 こちらは2019年の後祭・山鉾巡行で撮った鯉山。当時のブログ記事に載せた写真。後で調べたところ、「京都・祇園祭 鯉山は『全雨仕様』で巡行 黒幕は明治の軍服コートに使われた生地」という見出しで、京都新聞がネット情報を伝えていました。(資料1)雨を想定しての巡行模様だったのです。この姿、初めて見ました。私は山鉾巡行の見物中に、雨には遭遇しませんでした。しかし、ネット検索すると、産経新聞が「鯉山はご神体の鯉を乗せずに巡行」の一文に続き「正午ごろ、突然雷鳴が鳴り響くと雨が降り始め、ほどなくすると先が見えないくらいの土砂降りになった。」と報じていました。巡行路の終点(四条烏丸)に至り、山鉾町へ戻る最中に、雨に遭遇した山鉾があったと推測できます。(先頭到着予定が11:20で、巡行はかなり遅れていましたので) 最後に荷車想定外に戸惑いながら、鯉山の巡行を見送りました。 巡行5番は「鈴鹿山」。今年の宵山巡りでうっかり見過ごしてしまった山です。 女性の神、鈴鹿権現を主人公としていただく山です。 朱塗りの鳥居には「鈴鹿山」の扁額が掲げてあります。鈴鹿権現は、長刀を左手に扇を右手に持って、旅人の往来を妨げる悪鬼を退治する姿をあらわしているそうです。御神体(人形)の鈴鹿御前は、金色の烏帽子を被り、神面をつけています。鈴鹿権現は、鈴鹿御前、あるいは瀬織律姫とも呼ばれています。鈴鹿山の会所にある鈴鹿御前の御神体(人形)を安置する人形蔵には、「瀬織律姫」の扁額が掲げてあります。前懸は二頭の駱駝(ラクダ)が描かれた「黄砂の道」。平成元年(1989)新調。シルクロードを往来する商隊の駱駝が東西交流のシンボルとしてイメージされています。この山の特徴の一つは、水引が使われていないことです。 胴懸は日本画家今井俊満原画による京都の春を描いた「桜図」。平成11年(1999)新調。 見送は皆川月華作で寄進の染彩「ハワイの蘭花」。昭和57年(1982)新調。 最後尾の荷車 巡行6番は、くじ取らずの「南観音山」です。北観音山との関係は既に触れています。 天水引は塩川文麟下絵による緋羅紗地「四神文様刺繍」。肉入刺繍です。四神とは玄武(北)・青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)の方位神。安政5年(1858)作、平成20年(2008)復元新調。下水引は土佐光孚(トサミツザネ)の下絵による「金地舞楽図刺繍」。二番水引は緋羅紗地「巴・剣文様刺繍」。平成13年(2001)復元新調。三番水引は「紺地雲龍文様」の切付刺繍。平成6年(1994)復元新調。 胴懸は「ペルシャ花文緞通」。 南観音山と同様に、後尾の右隅に柳の大枝が挿してあります。 見送は、茶地に日輪鳳凰と五爪龍八頭、雲波などが描かれています。中国・明時代の綴錦。 最後尾の荷車 巡行7番は「浄妙山」です。宇治川合戦における浄妙坊と一来法師の先陣争い場面を題材にした山。 山には木製の幅広の欄縁が、懸装品の水引代わりに額縁仕立てで装着されています。そこには、宇治川の急流の波濤文様が彫り込まれています。山には宇治橋の欄干・擬宝珠が見えます。浄妙坊の頭上を飛び越えようとする一来法師のダイナミックな動きの瞬間を再現しています。浄妙坊の頭上で、一来法師が左手だけで体を浮かした状態を現出しています。さて、どのようにしてバランス良く支えているのでしょう。山は常に揺れながら巡行して行くのです。宵山の会所飾りで浄妙坊と一来法師を横並びに配してあるのを眺めるのとは大違い!! 前懸は長谷川等伯の息子、長谷川久蔵原画の「桜図」。平成18年(2006)新調。 左右の胴懸2枚は、長谷川等伯原画の「柳橋水車図」。昭和58・59年(1984・1985)新調。 後懸は長谷川等伯原画の「楓図」。平成19年(2007)新調。後尾の左右に挿された柳の大枝は、宇治川沿いの堤防の柳をイメージさせているのでしょうか。「流橋水車図」とも照応します。 最後尾の荷車 巡行8番は「八幡山」です。 雨対策として、透明のシートが懸装品等に被せてありますので、見づらいですが大凡は分かります。前面に「八幡山」の扁額を掲げた朱塗りの鳥居、中央に総金箔の社殿、その背後には山籠に真松が立てられています。この扁額は寛文元年(1670)と伝えられる旧扁額。(資料3)改めて写真を見ていて気づいたのですが、鳥居の笠木の両側に向かい合う形で載せられる鳩二羽は、今回装着されなかったようです。これもまた雨対策の為だったのでしょう。前懸は、円山応挙筆「飛鳩図」を中央に左右に山水図を継ぎ合わせたものが使われています。 水引と胴懸は不詳。(少し調べてみましたが情報を得られませんでした) 見送は、宵山の常飾りとして使用されているものが、今回使われています。これもまた、雨対策の一環だったのかもしれません。 最後尾の荷車 巡行時間帯にかかるかかからないかのきわどい時間帯で、雨の天気予報が出ていました。各山鉾の雨対策は山鉾毎に各様の取り組みだったことがわかります。 巡行路と後祭巡行順(赤丸は追記。見物していた位置です) (チラシより)つづく参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*『祇園祭細見 改訂版』 島田崇志編著 都のまつり文化研究会発行 2024年4月1) 京都・祇園祭 鯉山は「全雨仕様」で巡行 2024.7.25 7:14 :「京都新聞」2) 雨の中、力強く進んだ山鉾 感謝と誇りの祇園祭後祭 2024.7.24 17:44:「産経新聞」3) 八幡山の懸装品 :「八幡山」補遺鯉山町衆 ホームページ鈴鹿山 :「京都通百科事典」浄妙山保存会 :「Ameba」八幡山 ホームページ今井俊満 :ウィキペディア皆川月華 :ウィキペディア塩川文麟 :ウィキペディア土佐光孚 :ウィキペディア長谷川等伯 「柳橋水車図屏風」 :「香雪美術館」国宝 長谷川等伯 「楓図」 :「Gallery Aoki」長谷川等伯 「楓図」 :「長谷川等伯」(七尾商工会議所)長谷川久蔵による国宝『桜図』を見る [『サライ』4月号引き出し付録] :「サライ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -1 先導、橋弁慶山 ~ 黒主山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -3 役行者山 ~ 大船鉾 へ
2024.08.01
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7月24日(水)、祇園祭・後祭の山鉾巡行を見物しました。冒頭の図は後祭の宵山巡りで入手したチラシです。追記した赤丸は河原町通の東側歩道脇で見物した大凡の位置を示します。六角通よりも少し南に下がった場所。京都BALというビルの前あたりです。巡行は、山鉾が烏丸御池を9:30から順に出発し、御池通を東に進みます。先頭が河原町御池に10時頃に到着し、河原町通を南進し巡行するという予定でした。 後祭巡行を先導するパトカーが見物地点の近くを通ったのが10:40頃でした。当初予定からすると、少し遅れ気味の巡行です。この見物地点を選んだのは初めて。河原町通の西側歩道に幕を張った席が設けてあり、裃を着た人々が座っていたからここに決めました。後祭巡行順のくじ改めは市役所前ですので、ここは何? という関心から。こういう席が設定されていることを今回初めて知った次第です。 祇園祭の幟を掲げる先導がいよいよ近づいてきました。先導を務める関係者が、ここで挨拶を交わしています。この場所を何と称するのかは不詳です。情報無し。 先導に、荷車が続きます。 巡行1番は、くじ取らずの「橋弁慶山」です。平成26年(2014)度から後祭が復興しました。この時から橋弁慶山が1番で巡行しています。それは平成24年度より約140年前の巡行順の復活になるそうです。(資料1) 前懸は「藍地波濤に雲龍文様」綴錦です。今年(2024)の新調品。元は18世紀、中国清時代の官服を切り継ぎしたもので真向龍丸を刺繍した図柄です。 ご覧のように、この山ニは前祭の山に見られた真松や傘、見送掛けの衣桁などがありません。山の上は、弁慶と牛若丸の五条橋上での闘いの場面を再現する舞台です。 牛若丸は五条橋の欄干の擬宝珠の先端に足駄の前歯ですっくと立って弁慶に対しています。前歯一つで牛若丸を支えているという場面づくりがスゴイ! 見せ場です。 側面の欄縁下の水引は「唐子喜遊図綴錦」。胴懸は葵祭を絵巻風に描写した綴錦で「加茂葵祭行列図」。円山応挙の下絵と言われています。葵祭の「路頭の儀」の様子だそうです。復元新調品。山の前後に二対の金幣が装着してあります。 後懸は、昨年まで前懸に使われていた富岡鉄斎作「椿石霊鳥図」が使われています。 2番はこれもくじ取らずの「北観音山」です。観察していますと、各山で裃を着て行列を先導する人が、山の粽(チマキ)をここで手渡しして、挨拶を交わされています。これが一つの儀式なのでしょう。巡行の進行確認地点を兼ねているのかもしれません。共にくじ取らずである北観音山と南観音山は、現在は巡行の2番目と6番目を隔年で入れ替わり、巡行するようになっています。かつては隔年で交代に巡行するという慣わしでした。ここにも山鉾巡行の歴史がうかがえます。 北観音山は曳山ですので、大屋根の上に立つのは真松です。 天水引は「唐草文」が刺繍されたもの。「雲龍文」の刺繍と隔年で使われています。下水引は、「関帝祭の図」の刺繍。人物風景は京都円山派の絵師、中島来章(1796~1871)が嘉永2年(1849)に下絵を描いた。復元新調。二番水引は、「赤地牡丹唐草文様綴織」の復元新調。三番水引は、「金地紅白牡丹文様唐織」の復元新調。 胴懸は、インド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品。 裾幕の下を眺めますと、張られた綱の上に、辻回しで使われる割竹が載せてあります。こんな箇所を巡行見物中にどれだけの人が見ているでしょうか。 見送は「百子喜遊図」で17世紀末の中国・明時代の名品。チベットの寺院所蔵のものを昭和61年(1986)に新調(購入)されたそうです。北観音山は、巡行の際に楊柳観音像が安置されます。この尊像にちなみ、山の右脇から大きな柳の枝を挿し出すことになっています。これは、後に触れる南観音山も同様です。 最後尾に荷車 3番目に「黒主山」が続きます。謡曲「志賀」にちなむ山。平安時代初期の六歌仙の一人、大伴黒主が桜の花を仰ぎ見ている姿を表しています。 水引は「雲龍文様の繻珍(シュチン)」二番水引は、緋羅紗地に菊、牡丹、瑞鳥などの模様を刺繍したものです。前懸は「五龍爪文様錦」。萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元新調。 胴懸は「草花胡蝶文様の綴錦」 見送は「牡丹双鳳凰文綴錦」。中国製の吉兆をあらわす図柄です。平成16年(2004)復元新調。房が掛けられていて見づらいですが、上部は玉取獅子の図柄です。その下に日輪、双鳳凰が続きます。 最後尾の荷車は、黒地に「黒」の意匠化された文字を白抜きにした布で覆われています。シックな感じです。ピタリと決まる感じ・・・・。黒色が黒主山の名と照応しています。この辺りで一区切りに。つづく参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*『祇園祭細見 改訂版』 島田崇志編著 都のまつり文化研究会発行 2024年4月1) 巡行の順番 :「橋弁慶山」補遺橋弁慶山 ホームページ北観音山 六角会 ホームページ黒主山保存會 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -2 鯉山 ~ 八幡山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 山鉾巡行 -3 役行者山 ~ 大船鉾 へ
2024.07.31
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蛸薬師通から室町通を北に入ると、「鯉山」があります。所在地は鯉山町。町会所は室町通の東側に入口があり、入口の軒先に「登龍門 鯉山」の看板が掲げてあります。 駒札 東方向への細長い通路の先の、左(北)側に、「鯉山」と表記した蔵が見え、会所の中門の右側には「鯉山」の幟が置かれています。巡行の際に先頭を行く幟です。中門を入ると、左側に会所飾りが見え、座敷前の通路が混雑回避として、一方通行の折り返し順路にしてあります。右(南)側は境界の土壁沿いに細長い庭が作庭されています。 石灯籠の基壇の前後には、波濤文様と中央に「鯉」の字を陽刻した瓦(鬼板)がさりげなく置かれています。 通路の東端には「天道大日如来」の小祠が祀られ、その手前右側に小ぶりな石灯籠と手水鉢が見えます。 会所飾りの東端には、山の四隅を飾る房懸け金具と房ほかが飾り台に懸けてあります。 座敷の北東角に、鯉山に搭載される小祠と朱塗り鳥居が安置され、左側には左甚五郎作の大きな鯉が置かれています。ここから、左(西)側の壁面には、懸装品がずらりと展示されています。 見送 胴懸 前懸 扁額「登龍門」とその下には横一列に水引が並んでいます。 胴懸鯉山のこれらの懸装品は参照図録では「鯉山飾毛綴」と総称されています。16世紀に製作された1枚のベルギー製タペストリーが9つのパーツに裁断されて様々に組み合わされ鯉山を飾ってきました。元々のタペストリーは、ホメロスの叙事詩『イーリアス』「トロイア戦争物語」の終盤の場面を描いたもので、「息子の勇者ヘクトールをギリシャとの戦いで喪ったトロイアの王プリアモスが、王妃のヘカベーと共にアポロンの像に祈りを捧げる」場面です。(図録より)胴懸の上に懸かる水引は、元のタペストリーの上辺部と下辺部見送は元のタペストリー中央部の左半分前懸は元のタペストリーの左右側部で、上辺部・下辺部を裁断した残りを上下2枚に裁断して、その4枚を継ぎ合わせたもの左右の胴懸は、元のタペストリーの中央部右半分を上下に裁断し、それぞれを17世紀頃の作と思われる波濤に飛龍文様の幕と継ぎ合わせたものという次第。元のタペストリー復元図は、鯉山のホームページの項目「タペストリー」をご覧ください。(資料1) 尚、このタペストリーに関係する懸装品は、平成元年(1989)の見送から始まり、平成22年(2010)の前額水引をもって、全てが復元新調されています。 後懸 令和5年度に復元新調 鯉山の北側の駒形提灯を眺めて、さらに室町通を室町六角の辻まで上ります。六角通を東方向に眺めれば、 この「浄妙山」の駒形提灯が見えます。会所飾りを拝見に巡ります。所在地は骨屋町。 会所飾りでは、一番奥の屏風の前に、三井寺の僧兵筒井浄妙坊(右)と一来法師(左)の人形(御神体)が並べて飾ってあります。『平家物語』には治承4年(1180)の宇治川の合戦において、宇治橋で浄妙坊と一来法師が一番乗りの先陣争いをしたことが記述されています。これを題材にしたのがこの山です。巡行においては、一来法師が浄妙坊の頭上を飛び越える瞬間をダイナミックに再現するのがこの山の見せ場です。飛び越える際に、一来法師が「悪しゅう候、御免あれ」と告げたとか。そこから「悪しゅう候山」とも呼ばれていたと言います。浄妙坊が着用している鎧の「黒韋威肩白胴丸」は、室町時代の作。重要文化財に指定されているそうです。 右側の壁には、奥の位置に胴懸が見えます。長谷川等伯原画の「柳橋水車図」です。手前に、山に搭載される宇治橋が置かれています。合戦中の場面ですので、橋に矢が突き刺さっています。その前に置かれているのは、木製の欄縁です。懸装品の水引の代わりに装着されるという特徴があります。宇治川の急流の波濤が表現されています。 この懸装品、私には初見・・・・・です(見た記憶がありません)。 こちらは、宵山巡りで見慣れてはいるのですが、私には不詳です。 向かって左側の奥に、山の四隅の房懸け金具と房が飾り台に並べてあります。上下二段に装着される「雲形に鳥獣文様鍍金金具」でしょう。参照資料によれば、天保3年(1832)の作。背後には、後懸で長谷川等伯筆を原画とする「楓図」が見えます。平成19年(2007)新調。一通り会所飾りを眺めて、再び室町通に戻ります。六角通を越えた先に「黒主山」があります。 駒形提灯赤い提灯には「御神燈」と墨書されていますが、白い提灯には「黒」の字が墨書されています、所在地は烏帽子屋町。 会所飾りのフロアーの中央部分です。 桜の花を仰ぎ見る大伴黒主の姿です。謡曲「志賀」にちなんだ山と言います。この御神体(人形)には、寛政元年(1789)5月辻又七郎狛元澄の銘が記されているそうです。 会所飾りを拝見するビルの前、室町通に面して北西隅に「黒主山の桜」と題した駒札が建てられています。「黒主山は謡曲 志賀にちなみ、御神体の大伴黒主が山桜を仰ぎ見る姿をあらわしています。 現在、さくらが植わっている所には、昔黒主山の町家が建っていましたが、昭和47年3月22日に焼失しました。 桜の木に花が咲くと、祇園祭の準備がはじまります。 平成27年3月5日植樹 公益財団法人 黒主山保存会」(転記)元に戻ります。 会所飾りを正面から拝見。右側の壁面には、造花の桜の木に続いて、懸装品が展示されています。 水引は「雲龍文様の繻珍(シュチン)」前懸は「五龍爪文様錦」。萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元新調。 胴懸は「草花胡蝶文様の綴錦」 水引は上掲と一連のものと思います。下の胴懸も同様。 左側の壁面には、手前に後懸「飛龍文様綿入刺繍」を展示。平成12年(2000)の新調。 黒主像の背後の壁面には、部分的にしか見えませんが、見送が懸けてあります。「牡丹鳳凰文様」。平成16年(2004)の復元新調。 見送の左側に屏風が飾ってあります。「天橋立図屏風」です。黒主像の手前、立ち位置から一番近いところに展示されているのが欄縁です。 黒漆塗に四季草花文様の鍍金飾金具が施されています。元治元年(1864)製。ここにも匠の技が凝縮されています。 通りに戻ると、改めて山に目がとまりました。なせか? 山本体が新調されていました! 埓の空隙から山の構造体を撮りました。後で調べてみますと、155年ぶりの山本体の新調が行われ、今年(2024)がデビュー年となったようです。2023年の山建て時点で、山本体の新調が決まっていて、昨年は山建てを1日早めて、部材の採寸と山建てを同時進行する形でその準備と実行が行われたそうです。(資料2)巡行当日は懸装品等で覆われてしまうために、巡行見物人の目に触れない部分です。祇園祭の伝統の継承の見えにくい側面でもあります。黒主山は、荒縄を使わずロープで構造体を縛る方式だとわかります。余談ですが、大伴黒主について、気になって改めてほんの少し調べてみました。*「大伴黒主神社」が滋賀県南志賀2丁目にあります。(資料3,4)*「猿丸太夫の子とも伝えられるが不明。近江にちなんだ作歌が多く、滋賀県の黒主神社にまつられている」(資料4)*大伴黒主は、平安時代の三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の仮名序で紀貫之は六歌仙の一人に取り上げています。しかし、貫之は黒主を「雰囲気が卑しくて、なんだか俗っぽいね」と批評しています。(資料5,6)*歌仙の一人に挙げられながら、黒主は『百人一首』では取りあげられていません。この点、確認して再認識しました。*貫之が仮名序で例示している黒主の歌二首 思ひい出て恋しき時ははつかりのなきてわたると人はしらずや 鏡山いざ立ちよりて見てゆかむとしへぬる身は老いやしぬると この二首は『古今和歌集』に収録されているのですが、問題点があります。 思ひいでて恋しき時は初かりのなきてわたると人しるらめや 735 この歌は仮名序に記載の歌と収録された歌では結句に差異があります。 鏡山いざ立ちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると 899 こちらには「この歌は、ある人のいはく、大伴黒主がなり」という付記が 歌の後に付いています。黒主作でない可能性もありそうな・・・・。 また『古今和歌集』には、もう次の二首が大伴くろぬしの歌と明記されています。 春雨のふるは涙か桜花ちるををしまぬ人しなければ 88 この歌には「題しらず」の詞書があり、伝本に「大伴くろぬし」と記したもの があるそうです。 近江のやかがみの山をたてたればかねてぞ見ゆる君がちとせは 1086*手元の本には、大伴黒主の略伝を次のとおり記しています。(資料6) 「大伴氏。近江国滋賀郡大友郷の人。園城寺の地主。郡の大領となり、八位に叙せらる。寬平の頃醍醐天皇の大嘗会に風俗歌を奉った。六歌仙の一人」*手元に岩波古典文学体系「謡曲」上下2巻があるのですが、謡曲「志賀」は収録されていません。」*また、『能百番を歩く』(京都新聞社編:杉田博明・三浦隆夫著:1990/6/21第二刷)という案内書があります。この中でも百番には含まれていません。*謡曲「志賀」は、「古名 黒主 又 志賀黒主 世阿弥作」として取り上げている書 があるそうです。「重かるべき薪に猶花の枝を折り添へ。休む所も花の陰なり」と、 桜の花・木と黒主の名が出て来ます。謡曲本文のダウンロードが可能です。(資料7) 黒主山のすぐ近くに立つ巨大な幟。これも見応えがあります。側の立て札のメッセージを転記しておきます。「祇園會・無病息災と 誉田屋源兵衛 創業286年を慶ぶ286匹の鯉たちが時空を舞う」 (転記) 山建ての位置図これで2024年祇園祭・後祭の山鉾巡りのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうごいざます。参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 20201) タペストリー :「鯉山町衆」2) 今年度の山建てについて(黒主山) :「no+e」3) 黒主神社~(大伴黒主神社) :「滋賀県神社庁」4) 大津・大伴黒主神社 〈志賀〉 :「謡曲の統計学」5)『クリアカラー国語便覧 第四版』監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 2013年6)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫 7) 志賀 :「無辺光」補遺鯉山町衆 ホームページ浄妙山保存会 Amebaでのブログ黒主山保存會 ホームページ大友黒主 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -1 役行者山、鷹山 & 点描 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -2 八幡山、北観音山 & 屏風祭 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -3 南観音山・大船鉾・橋弁慶山 & 点描 へ
2024.07.29
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新町通を下がると、北観音山の南に「南観音山」が見えます。所在地は百足屋町。 駒札南観音山は、別名「下り観音山」と称されます。江戸時代には北観音山と南観音山は隔年交代で祇園祭の山鉾巡行に参加していたそうです。現在は両観音山は共に巡行に参加しています。南観音山も御神体は楊柳観音像で、脇侍には善財童子が祀られます。北観音山の脇侍は韋駄天像で、この点が違います。 北側面 前懸は、金糸、銀糸を含め19色の絹糸を使った幾何学文様の図柄です。 西側面水引は、土佐光孚(トサミツザネ:1780~1852)の下絵による「金地舞楽図刺繍」(多分・・・・)2023年には、後でご紹介する形の展示品として拝見しています。二番・三番水引は、2003年と同じ。三番水引は宛色朱子地「雲龍図」の刺繍(復元新調品)です。胴懸はペルシャ花文の緞通。 南側面天水引は、真向龍の図柄が刺繍されています。山正面の水引は、舞楽が演じられている場所を囲む幔幕の図柄が刺繍されています。駒形提灯の提灯には「百」の字が記されています。百足屋町の「百」と推測します。 新町通の西側には、展示スペースがあり、南観音山の懸装品等が展示されています。今年は、ここに昨年の巡行で使用されていた加山又造の原画による「飛天奏楽図」がここに展示されていました。昨年はここに上掲の下水引が展示されていました。 展示スペースの南側半分には、色紙絵や屏風代わりに団扇絵が恒例展示されています。 新町通の南から眺めた南観音山さらに南へ。四条通を横断し新町通を南に入ると、 「大船鉾」です。所在地は四条町。平成26年(2014)に、大船鉾が150年ぶりに復興されました。昭和41年(1966)に後祭が17日の前祭に合同されることになった時以来、49年ぶりに、この年(2014)に後祭山鉾巡行が復活しました。 駒札宵山では、町会所に御神体(人形)が安置されていて近くから拝見できます。巡行当日は、鉾の屋形中央部に神功皇后、屋形前部に副将として住吉明神、艫部に操舵手として鹿島明神、舳先に龍神安曇磯良(アズミイソラ)の御神体(人形)が安置されます。(駒札より) 大船鉾の今年の舳先には龍頭が金色に輝いています。 前水引は「緋羅紗地波濤飛龍文肉入刺繍」。平成28年(2016)復元新調。前懸は「緋羅紗地雲龍青海文綴織」。平成27年(2015)復元新調。 水引は渡来赤羅紗地に「飛龍に波濤の図」の刺繍二番水引は綴織裂「翔雲文に散らし花文様の図」。19世紀、日本製胴懸は、赤と緑の裁ち布が縫い合わされています。 新聞報道で知ったのですが、今年この鉾につけるたま(車輪)4輪が新調されました。保存会によれば、直径2.13m、重さ685kgで、これまでの記録に残るものよりも少し大きいそうです。樹齢300年のカシのほかケヤキや鉄などを使用。カシの木の乾燥には約7年かかっていると言います。今年は白木のままで使用されました。来年以降には重厚に色づけされたたまを眺めることができることでしょう。(資料1) 南東側から 艫高欄の下部にはダイナミックな浮き彫りが施されています。その下の艫高欄懸けは、刺繍裂で、渡来赤羅紗地に「飛翔鳳凰の図」。17世紀、日本製 後懸は真向龍が6頭描かれた図柄。綴織。楫(カジ)は刺繍裂で、渡来赤羅紗地に「降り龍と波濤の図」 両面とも、降り龍が刺繍されています。 大船鉾の西側を見上げた景色大船鉾復興以来、ほぼ毎年眺めてきており、少しずつ充実していく姿を実感しています。はや10年の歳月が積み上がったのですねえ・・・・。大船鉾から再び四条通を横断し、次は一筋東の室町通を上がります。菊水鉾町の北隣が山伏山町です。山伏山へ行く時に気になっていた建物に少し立ち寄って見ました。 門を入ると、真っ直ぐ東方向に、「京都芸術センター」の表示が見えます。この入口へのアプローチの側の記念碑をみて気づいたことです。この建物、元は京都市立明倫小学校の校舎だったのです。平成5年(1993)3月に小学校が閉校となり、平成12年(2000)4月に京都芸術センターが開設されたのだとわかりました。校舎がリノベーションされたのでしょう。 入口の手前の庭部分に、二宮金次郎像が目にとまりました。 室町蛸薬師の辻で、東方向を望むと山が見えまます。蛸薬師通を東に入りこの山へ。「橋弁慶山」です。所在地は橋弁慶町。右の写真は反対側の東から撮った景色です。橋弁慶山は、舁山(カキヤマ)です。舁山では唯一のくじ取らずの山で、後祭では先頭を行く山となります。 通りの北側、ビルの間に町会所の町家があり、その2階に、武蔵坊弁慶と牛若丸の人形が展示されています。 謡曲「橋弁慶」から取材され、弁慶と牛若丸の五条橋上での戦いの場面が再現されます。 1階も同様に通りに面した戸がすべて外されて、会所飾りがみられます。座敷の中央に、山に搭載される五条橋が置かれています。 正面奥の壁面には、前懸の「藍地波濤に雲龍文様」綴錦。今年(2024)の復元新調。 向かって左側の壁面にも懸装品が懸けてあります。手前は、富岡鉄斎原画の「椿石霊鳥図」綴錦。昭和58年から。今年は後懸として使用。源河は清荒神所蔵の衝立だそうです。奥側にある懸装品は私には識別出来ません。 橋弁慶山では、山の構造体をほぼそのまま見ることができ、「縄絡み」を撮ってみました。この山では、荒縄の他に、通常のロープも要所要所で併用されています。縄の縛り方は比較的シンプルです。この辺りで、一区切りとします。この後、再び室町通に戻り、さらに北に上がります。 山鉾建ての位置図つづく参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*大船鉾 ホームページ *橋弁慶山 ホームページ1) 朝日新聞2024年7月7日(日)記事「祇園祭2024 立派な『たま』初披露」補遺京都・祇園祭 南観音山「あばれ観音」[4K動画] 2024.7.23 京都新聞 YouTube祇園祭-南観音山の名宝 2016年 :「京都文化博物館」大船鉾の復元設計 末川協(再生研理事) 京町家再生研究会 :「京町家.net」演目事典 橋弁慶 :「the 能.com」祇園祭 橋弁慶山の前懸が完成しました 祭礼幕の復元新調 2024/06/19 :「KAWASHIMA Stories」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -1 役行者山、鷹山 & 点描 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -2 八幡山、北観音山 & 屏風祭 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -4 鯉山・浄妙山・黒主山 & 点描 へ
2024.07.28
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新町通を下ると、最初に見るのが「八幡山」。所在地は三条町。駒札を撮りましたが読みづらいので転記します。「町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~88)の製作といわれる。水引は総金花鳥風景文の唐織、前掛はかって上下詩文中央に人物風景文の慶寿裂が用いられてきたが、現在では円山応挙下絵の飛鳩図綴錦にかえている。胴掛は雲龍文の綴錦の継ぎはぎ、見送は日輪双鳳人物文の蝦夷錦のものと、藍地雲龍文綴錦のものとがある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝える。前面をかざる朱塗鳥居の上には、木彫胡粉彩色の鳩がとまっている。そのほか著名な美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園祭礼図屏風、六曲片双を蔵している。 京都市」 宵山の常懸けとして前懸に「鳩」綴錦織が使われています。これを見られるのは宵山だけ。巡行の際には別の前懸が懸けられます。 南側の駒形提灯町会所の座敷に展示された会所飾りを拝見します。(資料1) 飾り台に、山の四隅を飾る房懸け金具と房が展示されています。4箇一組で、菱、岩、花と称される3種類です。右下の少し小ぶりな7つは、見送の裾の房懸けです。飾り台の背後の壁面には、水引と慶寿裂の前懸が懸けてあります。一方、手前には欄縁が置かれています。 さらにその手前に置かれているのは山の舁き棒飾り。舁き棒の先端を飾る「轅先金具(エンサキカナグ)」です。 上掲の慶寿裂は新調されたものですが、会所座敷の西端には、そのオリジナルに相当するものが併せて展示されています。宵山の楽しいのは、このような歴史的な変遷が見られる側面です。 見送は「雲龍波濤図」で江戸時代・宝暦年間(1751~1764)の制作だそうです。 見送の手前に、山ニ搭載される朱塗鳥居の上に止まる木彫胡粉彩色の一対の鳩が置かれています。左側に左甚五郎作のオリジナルの鳩、右側にその復元新調の鳩です。左甚五郎のオリジナルが見られるのは宵山の期間だけ。 鳩の手前に鶴の形をした金物が置かれています。上掲の漆塗り欄縁に取り付けられます。鶴金具の右にある円形の金具は、見送り懸け金具。天保8年(1837)作。 蝋燭台 山に搭載される朱塗りの鳥居と総金箔の小祠。小祠は天明年間(1781~1788)の作と伝えられています。この小祠に、八幡宮の御神体・応神天皇騎馬像が祀られています。運慶作だそうです。この小祠の背後と左側の両壁面にも懸装品(見送、胴懸)が展示されていますが、全体像が撮れないので撮っていません。 会所座敷の北側の庭に、「八幡山」の扁額を掲げた「八幡宮」が祀られています。普段はここに御神体が安置されています。後冷泉天皇の勅願により、源頼義が勧請し創始した「若宮八幡宮」が現在の京都市下京区若宮町辺りに在りました。それが豊臣秀吉の命令で東山に移転。遷座を繰り返し、東山区五条橋東五丁目の現在地に移りました。現在の「若宮八幡宮社」です。昭和24年(1949)に陶祖神・椎根津彦命が合祀されたことにより、陶器神社とも呼ばれています。(資料2)この若宮八幡宮が下京区から東山五条に遷された後に、分祠されてこの町内に祀られたそうです。(資料1) 釣灯籠鳩が、向かい合う形で八の字形に意匠化されています。新町通をさらに下ります。 「北観音山」の駒形提灯が見えてきます。 駒札北観音山は曳山です。所在地は六角町。かつては「上り観音山」とも呼ばれていました。江戸時代の中頃に、障子屋根を取り付けるようになりました。天明8年(1788)の大火で本尊を失うなどの被害を受けますが、直ちに復興。天保2年(1831)に現在のような本格的な大屋根を持つ姿になったと言います。六角町は、当時三井家などの有力商人が屋敷を構えていたそうです。巡行のときには、楊柳観音像と韋駄天像が曳山に安置されます。 西側面全景 天水引は、今年は「観音唐草図」。雲龍図と隔年に使用されています。 下水引は、「関帝祭の図」と伝わり、人物風景は中島来章の下絵だそうです。二番水引は、「赤地牡丹唐草文様綴織」の復元新調。三番水引は、「金地紅白牡丹文様唐織」の復元新調。これで、ともに江戸時代の姿に復帰したそうです。胴懸は、インド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品。 四隅の房掛金具は祇園守の意匠です。 東面の胴懸は、トルキスタン絨毯の復元品。 裾幕が懸けてなかったので、山建てでの「縄がらみ」の伝統技法が生み出す美を眺めることができました。山鉾建てには、釘を1本も使うことなく、構造体の部材を荒縄で括って、木づちでたたきながら縄を締め込んで固定していきます。その結果できる結び方がこの美しさです。基本的な技法は同じですが、各山鉾により独自の工夫があるようです。巡行当日は裾幕で隠れてしまいます。宵山でも山鉾により裾幕が既に付けてあり見られない山鉾もあります。 六角町には、新町通の西側に「吉田家住宅」(国指定登録有形文化財)があります。通りに面した1階のかつての店の間の部分です。ここで宵山には屏風祭が行われています。表の格子戸が外されていて、通りから屏風を眺めることができるようになっています。 店の間の北側を通りから西方向を眺めた景色。今年は「南無観世音菩薩」と白抜きで表した着物が吊されています。 ズームアップして、中庭を撮りました。 店の間の南側には、西側に玄関の間がつづき、ここにも屏風が飾ってあります。屏風の手前に粽が角皿の上に盛って置かれています。祇園祭らしい情緒です。今回初めて、PRチラシを入手しました。吉田住宅という名称も初めて知った次第です。ここは現在、「京都生活工芸館 無名舎」と称されていて、建物内部を拝見できるそうです。ただし、見学予約制で、希望日の3日前までに予約が必要だとか。付記しておきます。 平成元年(1989)に開館したとのこと。宵山巡りをしたときは、屏風祭をその都度、通りから拝見していたのに、うかつにも知らなかった!間口が比較的狭く、奥行きがどんと深い、いわゆるウナギの寝床と称される長方形の住宅形式です。さて、すぐ近くにいつも併せて通りから拝見する町家があります。 こちらは、通りに面した窓が開放されて、座敷に飾られた屏風を拝見できます。ここも同様に奥行きが深い町家です。 山鉾建ての位置 さて、さらに新町通を下ります。つづく参照資料*祇園祭案内チラシ 2024年*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 20201) 八幡山 ホームページ2)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社補遺北観音山 六角会 ホームページ京都生活工藝館 無名舎 吉田家 ホームページ京都生活工藝館・無名舎 :「京都観光Navi」京都 祇園祭 後祭参加の山鉾の組み立て進む 07/19 :「京都 NEWS WEB」(NHK)若宮八幡宮社 ホームページ若宮八幡宮社 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -1 役行者山、鷹山 & 点描 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -3 南観音山・大船鉾・橋弁慶山 & 点描 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -4 鯉山・浄妙山・黒主山 & 点描 へ
2024.07.27
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22日の午後2時頃から祇園祭・後祭の宵山巡りをしてきました。とは言えど、正確には宵々山の昼間です。ここ10年位は宵山の夜に巡ることはしていません。会所飾りを昼間に写真に撮りたいことと、混雑を回避したいためです。冒頭の画像は後祭の山鉾の配置図です。宵山巡りの途次に入手したチラシを部分拡大しました。今回は、三条通を西行し、室町通を北に入り、役行者山を見た後、三条通に戻り、鷹山を眺めて、新町通を南に入ります。新町通を下り、山鉾を巡りつつ、四条通を渡った先の大船鉾まで行きます。その後一筋東の室町通に移り、室町通を上りつつ、東入ルに見える山2基に立ち寄ります。室町通を上り黒主山を最後に巡って終わりました。鈴鹿山をうっかり巡り忘れましたので、10基の山鉾巡りとなりました。 烏丸通を渡り、三条通を少し西にすすむと、こんな休憩所(たぶん)を特設しているのを初めて目にしました。 三条室町の辻で北を望むと、「役行者山」が見えます。この辻の北側に横断幕が張られ、提灯も立っています。室町通北入ルの役行者町に建てられた役行者山と駒形提灯。駒形提灯が宵山の風情です。 駒札 埓(ラチ)の格子の間から前懸を撮りました。 見送 会所の入口には例年の如く、この夏越しの茅の輪が設けてあります。 役行者山の特徴は、会所飾りが会所への通路壁面が展示ケースになっていて、懸装品等が展示してあります。役行者山保存会のホームページを見ますと、常設展示形式にされて、見学会の開催をされています。(資料1)間近に見られるメリットがありますが、網入りガラスと照明の関係で、写真を撮るという観点ではデメリットもあります。会所を訪れる人が多いと写真を撮るゆとりすらありません。訪れた時は見物者が比較的少なかったので、少し撮ることができました。 「金地唐美人園遊図綴錦」の原本(中国明朝官工場製)と復元新調品が左右に並べて展示されています。(資料1) 懸装品の手前に置かれた欄縁の見事な飾り金具です。(鏡面反射して私の脚部も写っています。正面から撮るとどうしても・・・・) 隅飾り金具と房 掛幅が展示されています。ある時代の役行者山の姿なのでしょう。 金色の御幣 水引「唐子遊図」 前懸は牡丹胡蝶図と雲龍文様との三枚継ぎで、これは左右両側の雲龍図。 山の四隅の房掛金具と房 古き時代の「祇園会山鉾分布図」が展示されています。祇園祭の歴史がわかる史料です。会所の常設展示を兼ねた通路を通り抜けると、 山に搭載される御神体(人形)を安置した蔵があります。左から一言主神、神変大菩薩(役行者)、葛城神です。これは、役行者が一言主神を使って葛城と大峰の間に、橋をかけたという伝承を題材にしているそうです。「葛城神は女体で手に台つきの輪宝を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持って」います。 役行者役行者は、巡行の折は、座した姿で山に安置されます。帽子を被り、袈裟をかけ、左手に経巻、右手に錫杖を持っています。 その先にはもう一つの蔵があり、蔵の扉の側に、「役行者腰掛け石」があり、二つの蔵の間には井戸があります。「行者神水」と記した駒札が側に立ててあります。「この石は今より1300有余年前、役行者神が金剛葛城の峯々や大峯山で捨て身の修行に励んだ後、生地茅原の里から井戸伝いにこの地に駆け上がり、この石に座し精神修行をされた有り難い石です。また役行者神は、この石に手を当て全身の凝りを解したとされています。皆様もこの石に手を当てて、役行者神の精神と御徳をいただかれ、全身の凝り、特に肩の凝りなどを解される事を心よりお祈りいたします。 平成24年7月 公益社団法人 役行者保存会 」(全文転記)二つ目の蔵の北側に出口が設けられていて、会所内を一方通行で通り抜け、姉小路通に出られるようになっています。室町通に戻り、山を再度眺めてから、鷹山に向かいます。 三条通に戻る途中で、ビルの前に二宮金次郎像が設置されているのが眼にとまりました。なぜ、ここに・・・・? 今回初めて気づきました。何時頃から設置されているのでしょう。不詳です。町中で見るのは珍しいので、覚書として。三条通に戻り、西に進むと、「鷹山」が建っています。所在地は衣棚町です。 反対側からの眺め。駒形提灯の手前に、テントを設け、さらに手前に「鷹山」と墨書した赤提灯が吊されています。 こちら側に「鷹山」の駒札が立っています。鷹山は令和2年(2022)に、何と196年ぶりに山鉾巡行に復帰しました。応仁の乱以前から山鉾巡行に参加していた山です。当初は舁山(カキヤマ)で、江戸時代に曳山(ヒキヤマ)となり、元治元年(1864)の蛤御門の変に伴う大火により、ご神体の一部を残すだけで焼失してしまったのです。それ以降、居祭を継続してきたのです。平安時代、光孝天皇(在位884~887)のお供で在原行平が鷹狩りをする場面を表すとされる山です。御神体は、鷹匠、犬遣、樽負の三体です。 駒形提灯 山の懸装品には透明の保護シートが被せてありましたので、細部は撮りませんでした。この後、新町通に入り、山と会所飾りを拝見しながら、通りを下っていきます。つづく参照資料*祇園祭案内チラシ*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 20201) 役行者保存会 ホームページ補遺京都・祇園祭 役行者山「護摩焚き」(2024年7月23日 京都市中京区) 京都新聞 YouTube役行者山 :「HIRAMATSU HOTELS]鷹山保存会 ホームページ祇園祭後祭 鷹山の山建て(2024年7月18日、京都市中京区) 京都新聞 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -2 八幡山、北観音山 & 屏風祭 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -3 南観音山・大船鉾・橋弁慶山 & 点描 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 後祭 宵山巡り -4 鯉山・浄妙山・黒主山 & 点描 へ
2024.07.26
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21日(日)に京都国立博物館に行きました。先般、久しぶりに瑞泉寺を訪れたことをこのブログでご紹介しました。あの後、京博で「豊臣秀次と瑞泉寺」という企画展示が行われていることを知ったのです。これは見逃すまいと、日曜日ですが出かけてきました。各分野の通常の企画展示の中で、「豊臣秀次と瑞泉寺」は「豊臣秀次430回忌 特集展示」という位置づけでした。お陰で展示室1F-2~1F-4において、普段見られない瑞泉寺所蔵の寺宝の数々を拝見できました。会期は8月4日(日)までです。 当日、平成知新館で入手したPRチラシこのPRチラシに使われている場面が、冒頭の七条通に面して設置されたPRパネルにも使われています。これは『秀次公縁起』に描かれた三条河原で秀次の妻妾と子供たちが公開処刑される一場面です。秀次の縁者は全て処刑されたのです。豊臣秀吉側の視点による小瀬甫庵著『太閤記』にはこの公開処刑の上掲について、次のように記述した箇所があります。(資料1)「三條河原に著しかば、車よりいだきおろし奉りぬ。各秀次公の御首の前へ、我おとらじと、はらはらとより給ひ、ふしおがみ候しさま、あさからず見えけり。」「人より先にと思へるかたもありて、太刀取もまへへ急給ふものあり。又人よりあとにとおくしたるも有て、さまざま取々に哀なり。こはいかにと見る處に、五十許なる鬚男の、其さまよりも心もあらげなく見えしが、さもうつくしき若君を狗をひつさぐるように物し、二刀さし給へば、御母儀其他一同に鳴立給ひけり」「母上の御膝より奪取て、心(ムナ)もとを二刀さして投(ナゲステ)にけり」さらに続きますが、この位にしておきましょう。この絵の場面と重ねてみてください。『秀次公縁起』の最後には、三条大橋から見える中州に処刑後に処刑した遺体を投げ入れた大穴を埋めて、その上に二段の四角錐形の塚を築いて、塚の上面に秀次の首を納めた石櫃を置いた景色が描かれています。この塚を心ない人が「畜生塚」と蔑称したそうです。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「瑞泉寺」の項に、「その後塚を築いて上に截石(キリイシ)あり。銘に曰く、秀次悪逆塚、文禄四年七月十五日と書す」と記されています。(資料2) 最新刊の「京都国立博物館だより」(2024年7・8・9月号)です。当日入手しました。見開き2ページにわたってこの特集展示を取り扱っています。この表紙の右上に部分図が載っています。この京博だよりからの引用ですが、この図は、 「豊臣秀次および眷属像」として、このように3幅対として描かれた図像の一部です。会場で拝見できました。江戸時代、18世紀の作。『瑞泉寺縁起』全4冊が、第1~3冊が1F-2、第4冊が1F-4に展示されています。当時の瑞泉寺の様子がうかがえます。 これも京博だよりからの引用です。もう一つのハイライトは、秀次の妻妾たちが残した辞世和歌20幅です。1F-2(4幅)、1F-3に(16幅)と2室に展示されています。これはそのうちの2幅です。右側は一の台辞世和歌。一の台とは、菊亭右府の息女です。左側は小少将の辞世和歌。「辞世和歌の掛軸は、桃山時代から江戸時代中期の特徴を示す美しい小袖裂により表装され、『瑞泉寺裂』と称されています。寺伝によると、それらの裂は処刑された妻妾らの遺品と尊ばれてきました。時代の下がるものは、江戸時代を通じて同山の大檀越であった角倉家からの寄進の品かも知れません」(京博だより、山内麻衣子さん記)とのこと。いずれにしても、表装そのものも見応えがあります。17世紀に制作された「立空桂叔像」(掛幅)と「角倉了以坐像」(木像)が出展されていました。角倉了以は立空桂叔と相談して、秀次一族の菩提を弔うために瑞泉寺を建立したと伝えられています。立空上人が開山となりました。伝秀次筆という「三首和歌」「和歌扇面」も出展されています、他にも色々な展示品がありましたが省略します。これだけの作品を身近に拝見できる機会はそうないことでしょう。一見をお薦めします。 1F-5 金工の部屋に展示の鎧兜「縹糸威胴丸(ハナダイトオドシドウマル)」。修理完成記念特別公開として展示されました。展示室で入手したこのリーフレットは2回折り込んだ形でA4サイズの大きさです。つまり、7ページにわたって詳細に解説された内容です。甲冑についての知識を学ぶうえで大変役立つものと思います。実物を見て、このリーフレットを入手することをお薦めします。リーフレットは、縹糸威胴丸についての概説/甲冑の部分名称(イラスト図で説明)/甲冑の素材と技術/縹糸威胴丸の修理/甲冑の修理における現状と課題、という構成です。執筆は京博の主任研究員・末華俊彦さんです。名品ギャラリーとして、その他で私にとって、特にラッキーと思ったのは、2F-1 絵巻の展示室で、「国宝 法然上人絵伝Ⅰ」を拝見できたこと。事前に調べていなかったので、絵伝を見られるとは思っていませんでしたので。現在の展示は7/28まで。7/30からは「国宝 法然上人絵伝Ⅱ」と展示替えで9/8まで続くそうです。もう1つは、2F-4 近世絵画の展示室で、「京都の狩野派-狩野山雪」として、山雪の作品群を鑑賞できたことです。最後に定点記録で締めくくります。 こんな天気の日でした。この日も熱中症警告アラートが出ていました。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料*PRチラシ*「京都国立博物館だより 2024年7・8・9号」1)『太閤記 下』 小瀬甫庵著 桑田忠親校訂 岩波文庫 p230~2382)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校註 角川文庫 p77こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・三条 ふたたび瑞泉寺に -1 豊臣秀次一族の墓所、地蔵堂 へスポット探訪 京都・三条 ふたたび瑞泉寺に -2 本堂、宝篋印塔、消された菊花紋ほか へ
2024.07.23
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22番はくじ取らずの「岩戸山」。岩戸山も辻回しの準備シーンを撮ることができました。天の岩戸を開いて天照大神が出現されるという日本神話から取材した山です。 河原町通での巡行が始まる前です。曳き綱が真っ直ぐに前方に伸び、曳き手は音頭取りの合図がかかるのを待っています。 動いてきました 岩戸山は鉾と同様の形ですが、区分としては山。屋根の上に真松が立てられています。鉾の場合は、真木で、天王台があり鉾頭があります。岩戸山は応仁の乱以前から祇園祭に参加しています。室町時代に狩野永徳の描いた「洛中洛外図屏風」には、岩戸山はすでに鉾と同様の車輪を付けた曳山の姿で描かれています。そして、江戸時代に曳山に鉾の形を模した大屋根をつけたとされています。岩戸山には、三体の御神体(人形)が搭載されます。天照大神と手力雄尊(戸隠大明神)は山に安置されて見えませんが、 太刀をはき天瓊矛をつき出した伊弉諾尊は屋根の上に安置されています。 水引は文化4年(1821)の銘をもつ金地鳳凰瑞華彩雲岩に波紋様の刺繍。二番水引は文化14年(1817)の銘が入った緋羅紗地宝相華文様の刺繍。三番水引は紺金地縞巴木瓜文様の綴織。胴懸は唐草文様インド絨毯です。 見送は日月龍唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍) 巡行の最後を締めくくるのは、23番でくじ取らずの「船鉾」です。四条河原町交差点の中央で辻回しの準備が始まったところです。 船鉾の舳先には金色の鷁(ゲキ)という想像上の瑞鳥が飾られ、船上には大きな屋形が設けてあります。唐破風入母屋造りの屋根です。船端には朱漆塗の高欄が巡らされています。記紀に登場する神功皇后の伝説をもとにし鉾自体が船型です。屋形には神功皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像が安置されています。 河原町通での巡行開始の合図待ちのタイミングです。 舳先の鷁は宝暦年間(1751~1764)長谷川若狭の作。水引は雲龍図肉入刺繍。下絵は西村楠亭(1775~1834)の筆。高欄下の水引は平成21年(2009)に新調されたもの。 艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵が取り付けられています。寛政4年(1792)の作。 殿の船鉾が河原町通を北上するのを見終えて、今年の前祭巡行見物は、The End です。 今回は、初めて、四条河原町の交差点から一筋北の東側歩道の道路脇から見物しました。放下鉾が河原町通を巡行し始めた途中で、道路脇の見物客にこの放下鉾の御札(18mm×90mm)を配っている方がいました。1枚頂けました。初めての体験です。記録を兼ねて付記します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020補遺岩戸山 岩戸山保存会 ホームページ 京都祇園祭岩戸山 Facebook 祇園祭船鉾保存会 ホームページ紙本金地着色洛中洛外図<狩野永徳筆/六曲屏風> :「文化遺産オンライン」洛中洛外図屏風(上杉本)狩野永徳 :「綴TSUZURI」(Canon) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -1 くじ取らず函谷鉾~山八番孟宗山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -2 鉾二番月鉾~山十番蟷螂山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -3 鉾三番菊水鉾~くじ取らず放下鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。祇園祭についてのブログ掲載記事一覧探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -1 御旅所・冠者殿社・斎竹・大船鉾 5回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 6回のシリーズでご紹介探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 御旅所(還幸祭の前に)観照 京都・祇園祭・後祭 山鉾巡行 -1 橋弁慶山・北観音山・鯉山・八幡山・黒主山 2回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 花傘巡行観照 祇園祭・後祭 Y2019 宵山巡り点描 -1 大船鉾・南観音山ほか 5回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 後祭 -1 四条御旅所の神輿、鉾建ての位置決め 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 鉾建てと山鉾町巡りを7回シリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 鉾建て 長刀鉾の鉾建てのプロセス探訪&観照 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 12回のシリーズでご紹介 (八坂神社御旅所、後祭宵々山、還幸祭:御旅所と八坂神社西楼門前)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介 (5つの鉾建て、なわがらみ技法、神輿洗式、前祭宵々山、神幸祭神輿渡御)観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 山鉾巡行 -1 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 花傘巡行 -1 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山 11回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -1 菊水鉾 8回のシリーズでご紹介
2024.07.21
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12番目鉾三番の「菊水鉾」が四条河原町に来ました。町内に昔からある「菊水の井」に因んで菊水鉾の名が付けられたそうです。 ズームアップ!!下水引は、山鹿清華作「鳳凰青鸞図」のうちの鳳凰図その下の二番水引は、皆川泰蔵作の「京都名所の図」 (資料1)胴懸は、七福神のうちの「福禄寿と寿老人」の織物です。 (資料2) 長寿の伝説がある菊慈童の姿をした稚児人形が正面に搭載されています。能装束の舞姿だそうです。(資料1)前懸は、七福神のうちの「大黒天」の織物です。 (資料2) 下水引は、山鹿清華作「鳳凰青鸞図」のうちの青鸞図その下の二番水引は、上掲「京都名所の図」の続きです。 (資料1)胴懸は、「毘沙門天と弁天さま」の織物。 (資料2)裾幕は波濤図です。 見送は、岩澤重夫原画の「深山菊水図綴錦」 (資料1) 私はこの見送を巡行の見物で見たのは初めてのように思います。しかし、調べてみますと、平成2年(1990)の新調だそうです。 18番は山十一番の「木賊山」です。世阿弥作の謡曲「木賊」を題材とした山。さらわれてしまったわが子のことを思いながら、信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁の姿の人形が搭載されています。 水引は道釈人物刺繍。胴懸は中国故事人物図の綴降。平成11~13年(1999~2001)に復元新調。 見送は「牡丹鳳凰雲文綴織」です。 最後に荷車が続きます。 19番は山十二番の「郭巨山」です。中国の『二十四孝』から「郭巨」を題材としています。我が子を犠牲にしてでも母を守ろうとした郭巨の物語を踏まえています。 胴懸は、石田幽汀の下絵による「陳平飼虎図」です。 見送は皆川月華作「昇り龍図染彩」。昭和56年(1981)新調。 (資料3) 20番は山十二番の「占出山」です。その昔、神功皇后が肥前国松浦で釣りをして戦勝を占ったという故事に因んだ山です。神功皇后の御神体(人形)を搭載。「鮒釣山」とも称されています。 水引は「三十六歌仙図」の刺繍で、今は復元新調品が使われています。前懸は日本三景の一つ「宮島之図」 胴懸は「天橋立図」。反対側は「松島之図」。各々綴織で、天保2年(1831)作を復元新調したものです。 見送は花鳥龍文様の綴錦で。こちらも復元新調したものです。 21番はくじ取らずの「放下鉾」です。鉾の名は真木の中程の天王座に放下僧の像を祀ることに由来するそうです。放下僧は「[鎌倉時代から江戸時代にかけて]街道で歌を歌ったり曲芸を演じたりした僧。15センチほどの竹の筒にアズキを入れた『小切子(コキリコ)』で拍子を取ったり、打ち鳴らしたり手玉に取ったりなどした」(新明解国語辞典・三省堂)と説明されています。 下水引は栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織。平成6年(1994)から使用。三番水引は駒井源琦の下絵による青海波におしどり図綴織の復元品が使われています。 この鉾だけ、辻回しの準備中シーンがズームアップで取れました。鉾の前輪の下に、割竹を敷き詰める作業中です。割竹に水をかけ、前輪をその上で滑らして方向転換させるのです。どの程度の角度でずらせていくか、そのやり方は鉾それぞれに違いがあります。準備が整うと、音頭取りが引き綱の曳き手に曳くタイミングの音頭を取ります。祇園祭の見せ場の一つです。 昭和4年以降稚児人形「三光丸」が搭載されれいます。久邇宮多嘉王殿下よる命名とのこと。この稚児人形は、巡行の折に稚児と同様、鉾の上で稚児舞ができるように作られています。 胴懸は花模様のインド絨毯です。 見送は、染織作家・皆川泰蔵作ロウ染めの「バグダッド」昭和57年(1982)から使用されています。この辺りで一区切りとします。残るは22番・23番です。つづく参照資料*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 20201) 菊水鉾 :「京都通百科事典」2) あれっ?七福神なのに六神「菊水鉾」の鉾を飾る織物の前懸:「KAWASHIMA Stories」3) 郭巨山 ホームページ補遺謡蹟めぐり 木賊 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者のためのガイド」『木賊』について 親子の愛情と反発 :「粟谷明生の能がたり」二十四孝 :ウィキペディア放下僧華厳宗祖師絵伝 :「京都国立博物館」放下僧 :「コトバンク」山華清華 没後40年 :「第二遊歩道ノート」昭和のタペストリー -山華清華展- 平成22年 :「曳山博物館」岩澤重夫 ななこのArt Interview :「ALL JAPAN ARTS」岩澤重夫と現代美術の世界 :「uneasiness.net」皆川月華 :ウィキペディア皆川泰蔵 作家紹介 :「沖縄県立美術館・博物館」皆川月華・泰蔵 総合展示 2020.6.20~9.13 :「京都文化博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -1 くじ取らず函谷鉾~山八番孟宗山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -2 鉾二番月鉾~山十番蟷螂山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -4 くじ取らずの岩戸山と船鉾 へ
2024.07.20
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四条河原町にさしかかった13番、鉾二番の「月鉾」です。冒頭の写真では、高島屋のビルの最上階の窓辺りに見える、鉾の真木の頭頂部・天王座に月読尊を祀ることから月鉾と呼ばれています。鉾頭は三日月形の新月で月鉾を象徴しています。数点伝来する中で、銅製金鍍金月形は元亀4年(1573)の銘を持ち、月鉾の歴史を示しています。 この時点での空模様。天気予報はくもりでしたが青空が見える位に変化していました。 人形稚児「於菟麿」が搭載されています。明治45年からの搭載で3代目伊藤久重作。天水引は円山応挙の孫・応震下絵の「霊獣図刺繍」。下水引は皆川月華作の「花鳥図」。(資料1) 月鉾が目の前をゆっくりと曳かれて通り過ぎます。 胴懸にはインドやトルコの絨毯が用いられているとか。こちら側はそのいずれなのかは、私には判別できませんが・・・。 見送は皆川月華作「黎明図」 最後尾に荷車が続きます。 14番は山九番の「太子山」です。聖徳太子を祀る山。四条河原町の交差点で、山は多くの場合、担ぎ手が山を担ぎ上げて数回グルグルと回転させるパフォーマンスをします。見物客は山の全体を眺めることができます。この場面もそれです。鉾の辻回しと比較すると短時間でのお披露目。 前懸は緋羅紗地に秦の始皇帝と阿房宮の様相をあらわした刺繍。胴懸は18世紀中頃の制作で、インド刺繍による金地孔雀と幻想果樹図。胴懸の上部には七宝繋文様の水引が掛けてあります。 見送は「波濤に飛龍文様錦織」で平成15年(2003)に新調されたものです。 15番は傘二番の「四条傘鉾」です。 棒振り、鉦・太鼓・ササラなど芸能をみせる子供たちの行列が続きます。 囃子方 応仁の乱以前の記録に残る傘ですが、元治元年(1864)の大火で衰退し、明治4年(1871)を最後に途絶えました。昭和60年(1985)に傘鉾本体が復元され、昭和63年に棒振り踊りとお囃子が再興され、山鉾巡行に復帰したと言います。 もう一組の子供たちの行列が続きます。 四条河原町にさしかかった16番山十番の「蟷螂山」です。 中国の故事「蟷螂の斧」に関連します。これは小さな者が勇気をふるって大敵に挑むことを意味しています。南北朝時代に、公卿の四条隆資(1292~1352)が足利義詮軍に挑んで戦死した戦いぶりが「蟷螂の斧」に喩えられました。四条隆資の死後25年目(1376)に四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが起源だそうです。蟷螂山もまた、元治の大火で大部分を焼失して休み山となりました。昭和56年(1981)に117年ぶりに再興されました。 御所車の屋根に乗る大きな蟷螂(かまきり)は、からくり仕掛けで羽や脚が動きます。また、御所車の車輪も動くからくりが組み込まれています。かまきりの羽と脚の動きは上掲数葉の写真からお解りいただけることでしょう。 前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅です。 この胴懸は「瑞苑浮游之図」 昭和59(1984)年作。帰宅後に知った事ですが、蟷螂山でも巡行途中、御池通りでかまきりの鎌が外れるハプニングが生じてしまったそうです。この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 20201) 山鉾の魅力細見 月鉾 :「京都市下京区」補遺下京美術工芸館-山鉾魅力細見- :「京都市下京区」蟷螂の斧 :「コトバンク」故事成語の世界へようこそ(五十)蟷螂の斧 :「山形県家庭教師協会」四条隆資 :ウィキペディア人物列伝「四條隆資」 :「能登畠山氏七尾の歴史」祇園祭の山鉾巡行 蟷螂山のカマキリの鎌、巡行中に外れる :「朝日新聞DIGITAL」京都・祇園祭(前祭)山鉾巡行で蟷螂山のからくりの腕が落ちる 京都新聞 YouTube (2024年7月17日 京都市内) The arm of the Tourou-yama trick fakks off ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -1 くじ取らず函谷鉾~山八番孟宗山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -3 鉾三番菊水鉾~くじ取らず放下鉾 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -4 くじ取らずの岩戸山と船鉾 へ
2024.07.19
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16日の朝、小さなわが庭の南東隅と南西隅にある金木犀の木で蝉の初音を聞きました。ほんの少時でしたが、近くのあちこちの木々の蝉たちと呼応する蝉しぐれです。蝉の音が止んだ後、幹や枝を探してみましたが、蝉を発見できずじまい。17日は祇園祭(前祭)の山鉾巡行の見物に出かけましたので、未確認。昨日と今日、窓から蝉しぐれを聞き、金木犀の木を観察。冒頭の写真は南西隅の金木犀。18日に撮った写真です。 ズームアップしました。 その時は、蝉一匹に気づいて角度を変えて撮っていました。写真を整理し見直していて、ちかくにもう一匹いたことに今きづきました。 部分拡大してみました。 二匹がどこか、これでおわかりいただけますね。 18日に見つけた今年の蝉の抜け殻、空蝉です。19日(金)の今朝、南西隅の金木犀の蝉探しをしてみました。 今朝は、昨日とは別の幹で蝉一匹を見つけました。 ズームアップ!! 立ち位置を変えて、ズームアップで。現在の所、南東隅の金木犀では蝉を発見できていません。今年の蝉の記録としての覚書。ご覧いただきありがとうございます。
2024.07.19
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函谷鉾前祭の山鉾巡行はくじ取らずの長刀鉾を先頭に、四条通を西から東に進み、四条河原町の交差点で河原町通を御池通との交差点(河原町御池)まで北上します。河原町通の東側で、四条通から一筋北辺りに着いた時には、巡行の順番が5番目でくじ取らずの函谷鉾が、四条河原町で辻回しを終えて、河原町通を進み始めたところでした。冒頭の鉾が函谷鉾です。鉾の名は中国戦国時代(前403~221)斉の孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事にちなんでいるそうです。人形稚児「嘉多丸」が正面に見えます。現在、生稚児は長刀鉾に乗るだけです。 河原町通の西側車道を山鉾は進みます。山鉾の東側面を真横から眺めることができます。囃子方の上部に見える上水引、欄縁下の下水引・胴懸・裾幕の全体を見られるのは巡行の時だけです。宵山では、鉾も山も周囲に埓(ラチ)が設けてありますので、全体を見ることができないからです。 眼の前を鉾が通り過ぎると、見送の全体を眺めることができます。まさに、動く美術館です。 今年は山4番の「山伏山」が続きます。山も鉾も、幟が先頭を進みます。 山伏山山伏が修業のために峯入りする様子の御神体人形が搭載されています。 7番目は、傘一番の「綾傘鉾」 幟の後に、稚児行列が進みます。 棒振り踊りが披露されます。これが一つのハイライト! 棒の振り手は赤熊をかぶっています。 囃子方が続きます。それと、別の棒振り踊りの演者その後に傘鉾2基が続きます。 「飛天の図」 こちらは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」です。この傘鉾の形が祇園祭の山鉾の原初形態と考えられているそうです。 最後尾に付く車。最後尾に付く車が、それぞれの山により形も異なり特徴があります。これを対比してみるのもおもしろさがあります。 8番目は「保昌山」です。幟を持つのは外国人の参加でしょうか。鉾の曳き綱の曳き手に外国人の参加者を受け入れているところもあります。 平井保昌(藤原保昌:958~1036)は実在した平安時代の貴族です。保昌は和泉式部に求婚したそうです。すると、式部は、紫宸殿の梅を手折って持ってきてくれたらねと告げたとか。保昌は厳重に警戒されている紫宸殿の庭に入り込み、梅の枝を手折るという行動にでたという逸話があるそうです。それを題材にした山。かつては「花盗人山」と呼ばれて親しまれていたと言います。 雨を懸念してでしょう、懸装品に透明のカバーがかけられていました。胴懸は「張騫白鳳図」です。帰宅後に採った写真とネットで入手した巡行の順番表を見ていて「鶏鉾」が巡行の順番に出ていないことに気づきました。見物中は今回の巡行の資料を入手していなかったので気づかなかったのです。ネット検索で調べてみて、鶏鉾の車輪にトラブルが発生したことによる巡行中止を知りました。本来なら、9番目に鉾一番として鶏鉾の巡行があったのです。 10番目は、山六番の「霰天神山」です。山に搭載された天神さまの社殿を囲むように、欄縁の上に回廊が巡らされているという特徴があります。 11番目は山七番の「芦刈山」です。 葦を刈る翁の姿の御神体人形が搭載されています。その周囲に葦が立てられ、葦原に見立てられています。 前懸は山口華楊原画の段通「凝視」、胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」。見送は山口華楊原画の綴織「鶴図」。 12番目は山八番の「孟宗山」です。 中国の『二十四孝』に記された孟宗という人物の逸話を題材とした山です。幼少時に父が没し、母親に育てられた孟宗が、年老いて病気になった母を慈しみ、母の求めに応じて、雪深い山ニ筍を探しに入ります。孟宗の祈りが天に通じたのか、雪が融けて筍を掘り当てることができたという孝行話です。掘り当てた筍を握り、母のもとに返ろうとする姿です。 この胴懸は平山郁夫筆「砂漠らくだ行く(月)」。つづく参照資料*祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020補遺京都・祇園祭 車輪が割れて途中で引き返す鶏鉾(2024年7月17日 京都市内) Youtube Niwatori-hoko float turns back midway due to a broken wheel 京都新聞【豪華絢爛】「祇園祭」前祭の山鉾巡行 鶏鉾の車輪が壊れるトラブル Youtube プレミアム観覧席は1席15万円 読売テレビニュース ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -2 鉾二番月鉾~山十番蟷螂山 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -3 鉾三番菊水鉾~くじ取らず放下鉾 へ観照 京都・祇園祭 Y2024 前祭山鉾巡行 -4 くじ取らずの岩戸山と船鉾 へ
2024.07.18
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総合展示の入館券瑞泉寺に立ち寄った後、京都文化博物館に向かいました。これは京都文化博物館2階の総合展示会場への入館券です。普段は3・4階で開催される特別展を鑑賞に来て、その続きに総合展示とそのときの企画展を見てから京都文化博物館を出ることがルーティンになっていますので、2階の総合展示への入場券を買うことがありませんでした。7/9に京都文化博物館に出かけたのは、「山鉾巡行の歴史 技からひもとく 祇園祭2024」(2024.6.12、朝日新聞朝刊)という報道記事を読んだのがきっかけでした。その記事の末尾に、この日午前10時半から3階フィルムシアターで橋本さんによる講座「祇園祭の山鉾巡行について」(事前申込み不要)がある旨も報じられていたからです。2階会場の、企画展示「祇園祭-山鉾巡行の歴史と文化」を拝見することと、このぶんぱく講座を聴講することが、この日の第一の目的でした。開館直後の10時過ぎには既に受付カウンターに20人近くの来館者が並んでいました。講座開講までのしばらくの時間、企画展を一部眺めた後、講座を聴講しました。ぶんぱく講座のタイトルは「祇園祭の山鉾巡行について」。講師は京都文化博物館学芸課の橋本章さんです。スライド写真を使いながらの90分ほどの講演でした。 はじめに 1 懸装品のうつりかわり 2 注連縄切りについて 3 祇園祭山鉾巡行古写真 4 辻回しのうつりかわりという構成で、わかりやすい説明でした。学生時代から延々と祇園祭をほぼ毎年見物してきていますが、初めて知ることがいくつも出て来て、私には大変有意義な90分でした。 これは今回の企画展示の会場で入手したリーフレットの表紙です。<はじめに>では、江戸時代の幕末に『都百景』(都名所百景)が刊行されていて、その中に、祇園祭の風景が取り上げられているのです。このリーフレットに載る浮世絵師川部玉園の「祇園会宵飾」をまず紹介されました。現在、祇園祭の宵山を飾る駒形提灯は江戸時代から続くというわかりやすい例示です。この浮世絵版画が展示品の一つになっています。『江戸名所百景』は知っていましたが、『都百景』が制作されていたのをこの講座で初めて知った次第です。<1 懸装品のうつりかわり>では、今回展示されている次の4点について画像を示しながらの解説を拝聴。 ①保昌山見送「仙人図} 16世紀前半 保昌山保存会蔵 ②白楽天山前懸 (中央)16世紀後半/(左右)18世紀中頃 白楽天山保存会蔵 展示会場では撮影禁止。これは2018.7.14に宵山巡りをした時に、白楽天山の会所飾りを撮った写真です。左側がこの前懸。中央は、ヨーロッパで制作された『イーリアス』トロイヤ戦争物語のタペストリーから裁断された部分図。その左右は中国清朝の官僚服の裁断片。ここには波濤飛龍文様刺繍が見られます。龍探しの旅に繋がる1点!祇園祭の懸装品のおもしろいところは、東洋と西洋の舶来品がエイヤ!と思い切って統合しているところにありまます。異質なものの組合わせの妙・・・・。これは私見。 ③保昌山見送「寿星図」 寛政10年(1798) 保昌山保存会蔵 ①と③では、中国の道教で信仰されている仙人がテーマになっています。両者で中心になっているのは「寿星」と称される長寿を司る吉祥の神です。この寿星は、日本に入ると「七福神」の一神である「福禄寿」という形で信仰の対象に組み込まれています。 ④孟宗山見送「白綴地墨画孟宗竹藪林図」 昭和15年(1940) 孟宗山保存会蔵 この見送は、近代日本画の大家・竹内栖鳳(1864~1942)の肉筆画です。 2018.7.14撮影 前掲同様、孟宗山の会所飾りで撮った見送です。一部しか見えないのが残念ですが、孟宗竹藪林の雰囲気は伝わることでしょう。この4点が並べて展示されていますので、懸装品が時代とともに移り変わっていく姿の一端がわかります。祇園祭は伝統を引き継ぎ残しながら、年々伝統品を復元新調して、旧品を保存し、復元新調品で継承するという形をとり、その一方で新たな試みの作品を取り入れて行くということが行われています。<2 注連縄切りについて> 山鉾巡行の前祭で、先頭を行く長刀鉾に乗る生稚児が、四条麩屋町の所に建てられた斉竹に張られた注連縄を刀で断ち切る儀式は、山鉾巡行のハイライトの一つです。この儀式、山鉾巡行の順路が変更になったのを契機に、昭和30年代初頭から始められたのだそうです。知らなかった!私はもっと古くから行われていたというイメージを持っていました。しかし、現在時点からみると、もはや完全に伝統的儀式の一つですねえ。長年山鉾巡行を直に見物し、ブログ記事も再々記しています。しかし、この注連縄切り自体を映像では見知っているものの、その現場で直に見物したことはありません。<3 祇園祭山鉾巡行古写真>では、初めて見る古写真で興味深いところがありました。写真を介して、祇園祭の時代の変遷がうかがえるところが楽しい。知らなかったことを数多く知る機会にもなりました。 ①「出発前の浄妙山」黒川翠山撮影写真資料(明治時代後期) ②「松原通をゆく鶏鉾」黒川翠山撮影写真資料(明治時代後期) かつての前祭の巡行路は、四条通(西⇒東)⇒ 寺町通(南へ)⇒ 松原通(東⇒西)だったそうです。巡行路は大きく変わっているのです! ③「辻回しにのぞむ南観音山」黒川翠山撮影写真資料(明治時代後期) 祇園祭は、昭和41年(1966)に、前祭と後祭が合同で一本化されました。それが現在は再び前祭と後祭が分離されて、旧来の形になりました。この写真は、明治時代後期に後祭で巡行する南観音山が三条通から寺町通への辻回しに臨む姿なのです。つまり、往時の後祭は、三条通(西⇒東)⇒ 寺町通(南へ)⇒ 四条通(東⇒西)という巡行路だったそうです。往時の前祭と後祭の巡行路が、四条通を基軸にして、前祭が松原通(旧五条通)、後祭が三条通と、それぞれが南側、北側を順路にしたというのは、山鉾の位置関係から、ナルホドと思いました。現在の巡行路は、合同での巡行時代の巡行路はそのまま維持して、前祭と後祭の起点と巡行路の方向を逆にしたということになります。現在の巡行路は、前祭 四条烏丸⇒四条通(東へ)⇒河原町通(北へ)⇒御池通(西へ)後祭 烏丸御池⇒御池通(東へ)⇒河原町通(南へ)⇒四条通(西へ)と巡行します。 ④「くじ改め」寺西家写真資料(明治45年(1912)) 山鉾のくじ改めは、元は四条高倉東入ルの南側の場所で行われていたそうです。ところが四条通が拡幅されて市電が開通した時点で、くじ改めの場所が四条高倉東入ルの北側に移ったと言います。その最初の写真が撮られているのです。くじ改めの場所の変更も今回初めて知ったことです、 ⑤「月鉾と市電」石井行昌撮影写真資料(明治45年(1912)7月) 市電が走っていた時代がなつかしい。<4 辻回しのうつりかわり>祇園祭の山鉾そのものが動く美術館と称されるように、その美の総合性に魅了されました。もう一つは、初めて四条河原町の一隅で鉾の辻回しを間近に眺めた時にこの巡行自体のダイナミックさに惹きつけられたのです。道路に割竹を敷き並べてこれに水をかけて、その上に鉾の前輪を乗せて、曳き手が音頭に応じて強く曳き、車輪を滑らせて徐々に回していく。鉾によって回す際の角度などが微妙に違います、それぞれの作法があるようです、割竹を使うというやり方、道路がアスファルト舗装されるように変化した時代、昭和40年代以降のことというのを今回初めて知りました。私が知るのはこの辻回しのやり方だけでした。それ以前の道路が土の道であった時は、柳の細枝が用いられていたということをこの講座で知った次第。「ある程度土に沈み、また樹皮が剥けやすく木地がぬめってよく滑る柳の枝が最適で、往時は堀川沿いの柳を巡行のために採ることが許されていたそうです。また柳が用いられていた頃の辻回しでは、少しずつ小刻みに鉾を動かしていたのだといいます」(講座レジュメより転記)こういう話が聞けるというのが講座の醍醐味かもしれません。今まで洛中洛外図屏風を含めて山鉾巡行の絵画資料を見てきて、鉾の後方に長い梯子と臼を積んだ荷車を曳く牛の姿が描かれていることがよくあるという事実に気づきませんでした。この講座では、最後にこの点に言及されました。ごく最近この臼が辻回しに使われたものではないかという研究発表があったと言います。ホットな話題として注目されているとか。聴講の2日後、7/11の朝日新聞夕刊で「江戸時代の祇園祭 なぜ大はしごと臼」という見出しの報道記事(才本淳子記)が眼に飛び込んできました。副題は「『辻回し』の道具か 現在は青竹に」です。元大学教授で、「全国山・鉾・屋台保存連合会」顧問の植木行宣さんが昨年、臼が辻回しで使われたのではないか、「臼を前輪の下にかませ、前輪を浮かせて方向転換した」と考えられるとする論文を発表されたとのこと。「植木さんは京都府の職員時代に文化財保護に携わり、祇園祭りを研究。全国の祭りとも比較し、辻回しの道具と判断した」(記事引用)そうです。江戸初期の辻回しの作法に臼が使われていた可能性が示されたのです。江戸中期以降は、鉾を飾る装飾金具などで鉾が重くなり、車輪を滑らせる作法に変化したと考えられると言います。私にとっては、実にタイムリーな記事でした。講座聴講の補足になりました、聴講後に再度、企画展示「祇園祭-山鉾巡行の歴史と文化-」を拝見しました。上記4点の懸装品と「祇園会宵錺」の他に、『祇園御本地』(上記の梯子と臼を引く牛を描く山鉾行列図)、『祇園会鉾記』『祇園会御祭礼記』『祇園御霊会細記』(江戸時代の注連縄切りの図)、『山鉾由来記』の文献資料が展示されています。放下鉾と月鉾の模型も展示されています。会期は8月4日(日)までです。もう一つ、並行した企画展示のセクションがあります。「天平の都 恭仁宮 才shんの発掘調査結果から」です。こちらの会期は7月28日まで。 このリーフレットを会場で入手しました。リーフレットに記載の展示品リストによれば、39点が展示されています、恭仁京(恭仁宮)という言葉は見聞したことがありますが、その名称を知るだけでした。天平12年(740)に聖武天皇が遷都し、天平16年に難波宮を皇都とすると宣言されるまでのわずか3年3ヵ月、それで都としての歴史を閉じたところだそうです。 このリーフレットも入手しました。恭仁宮の内裏、大極殿の辺りが、都が難波宮に遷された後、山城(山背)国分寺として造り替えられ、山城国分寺跡になりました。 (リーフレットより)恭仁京はどこに?JR加茂駅の北側を流れる木津川のさらに北に位置します。現在は、恭仁京跡の南部を国道163号が横断しています。この展示を見て、恭仁京がほんの少しですが身近なものになりました。一度、現地を歩いてみたいなと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*ぶんぱく京都講座「祇園祭の山鉾巡行について」 橋本章 (京都文化博物館学芸課) レジュメ資料*朝日新聞報道記事 2024.6.12「山鉾巡行の歴史 技からひもとく」(才本淳子記) 2024.7.11「江戸期の祇園祭 なぜ大はしごと臼」(才本淳子記)*上掲企画展示で入手のリーフレット補遺京都文化博物館 ホームページ【祇園祭2024】長刀鉾「曳初め」(2024年7月12日) YouTube京都・祇園祭 山鉾の「曳き初め」【4K動画】(2024年7月12日 京都市内) Kyoto Gion Festival "Yamahoko Test Pull" YouTube祇園祭行事日程 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)史跡恭仁京跡 ホームページ奈良時代の最大のミステリー?未完の都「恭仁京」の謎に迫る :「KYOTO SIDE」恭仁京 :「ジャパンナレッジ」恭仁京 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.07.14
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玄関先の小さな花壇の月桃が今朝、咲きました。2本の茎それぞれに花が開きました。家人が喜び知らせてくれました。昨年は花開かず、2年ぶりに花を見ることに・・・・・・。早速記録写真を! 朝から小雨。月桃の花にしずくが光っています。ご覧いただきありがとうございます。補遺ゲットウ :ウィキペディアゲットウ(月桃) :「フラワーパークかごしま」月桃 :「MOON PEACH」【フル】月桃(沖縄の歌) YouTube最近、再び注目されている月桃について YouTube【沖縄の花】那覇に咲く月桃の花 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.07.11
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雲龍端渓石硯 中国・明~清時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料1)調度の一つ、文房具から始めます。硯(スズリ)に彫られた龍といくつか出会いました。 硯の底面端渓は中国の広東省西部、徳慶県の旧地名で、硯石の産地です。端渓硯は「石質にすぐれ、墨のおりがよく、斑文や眼とよばれる石の模様が好まれて、古くから珍重されてる」(日本語大辞典・講談社)そうです。 龍鳳端渓石天然硯 中国・明時代・14~17世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) これも端渓石の石材の自然の形状を生かした天然硯と称される形式だそうです。 硯の裏に龍のすがたが彫刻されています。 硯の表に鳳凰が彫られています。眼という石紋がうまく利用されています。 楼閣山水双龍洮河緑石楕円硯 中国・清時代・17~19世紀 東京国立博物館蔵(資料3) 硯の裏 洮河緑石硯は、中国の甘粛省から採掘されたようですが、採掘場所は今や不明になっているそうです。世界四大名硯の一つとか。 (資料4) 雲龍蒔絵硯箱 田付長兵衛作 京都国立博物館蔵 (資料5) 「作者の田付長兵衛は、研出蒔絵を得意とし、江戸時代の前半から代々京都で活躍した蒔絵師の一族だ。本品の底には『田付氏/高廣(花押)』の銘がある」(資料5)そうです。 矢立 龍形 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 銅製鋳造品で鍍金されています。矢立は懐中におさめて持ち歩く携帯用文房具です。筒の先に墨壺が付き、筒の中に毛筆を納めるようになっているそうです。この形状ではどのように・・・と思ってしまいます。香炉にも龍を見ることができます。 青花龍鳳文香炉 中国・景徳鎮窯「大明嘉靖年造」銘 明時代・嘉靖年間(1522~66年) 東京国立博物館蔵 (資料7) 色絵龍鳳凰文獅子鈕大香炉 松本佐平作 明治25年(1892) 東京国立博物館蔵(資料8)古九谷・五彩手の色絵という作品。「松本佐平は再興九谷窯のひとつ蓮台寺窯の松屋菊三郎の子で、青手古九谷、赤絵の技を父に学んだ。技術導入に努め、神戸に支店を開くなど海外貿易にも積極的であった」そうです。(資料8)次の様々な分野でも龍と出会いました。 槃龍背八角鏡(模造) 明治8年(1875)4月 蜷川式胤摸 木製、彩色、拓本貼付 原品:中国 唐時代・8世紀 東京国立博物館蔵 (資料9)これが興味深いのは次の解説文です。「木製で原品の形をつくり、拓本を貼っている。蜷川式胤は、正倉院宝物の拓本をたくさん探っているが、その拓本を使用してこのような模造をいくつか作った。幼稚な工作にも見えるが、正倉院宝物の質感をなんとかして伝えたいという情熱が感じられる。」(資料9) 自在龍置物 里見重義作 明治時代・20世紀 銀製 鍛造 東京国立博物館蔵 (資料10) 自在という意味は胴、脚、爪、口を動かすことができることに由来するそうです。箱書きに「自在龍」とあるとか。そこで、現在この種の作品を自在置物と称すると言います。(資料10) 龍花文様緞通 中国・清時代・18~19世紀 パイル織(絹)東京国立博物館蔵(資料11) 裏面 濃萌黄ビロード地雲龍文様刺繍 中国・清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵(資料12)さて、これで調度の視点でのまとめを終わります。槃龍背八角鏡(模造)の刺激から、銅鏡に見る龍を探してみることにします。つづく参照資料1) 雲龍端渓石硯 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 龍鳳端渓石天然硯 :「ColBase」3) 楼閣山水双龍?河緑石楕円硯 :「ColBase」4) 洮河緑石硯 硯ギャラリー :「斎藤書道塾」5) 雲龍蒔絵硯箱 :「ColBase」6) 矢立 龍形 :「ColBase」7) 青花龍鳳文香炉 :「ColBase」8) 色絵龍鳳凰文獅子鈕大香炉 :「ColBase」9) 槃龍背八角鏡(模造) :「ColBase」10) 自在龍置物 :「ColBase」11) 龍花文様緞通 :「ColBase」12) 濃萌黄ビロード地雲龍文様刺繍 :「ColBase」補遺硯 :ウィキペディア矢立 :ウィキペディア緞通 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.10
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龍涛螺鈿稜花盆 中国・元時代・14世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) 「調度」という大括りの視点で龍探しをしてみますと、冒頭のように、木製漆塗に螺鈿細工を施した盆をみつけました。調度とは、「日常使う身の回りの道具類」(新明解国語辞典・三省堂)、「日常使用する生活用具の総称。家什・化粧品・文房具・飲食器・灯火器などの道具類」(日本語大辞典・講談社)を意味します。家什とは、「家庭で日常生活に用いるための家具・道具の総称」(日本語大辞典・講談社)です。 龍存星輪花盆 中国・「大清康熙年製」銘 清時代・康熙年間(1662~1722) 東京国立博物館蔵 (資料2) 龍螺鈿盆 琉球王国・第二尚氏時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) 様々な箱に現れる龍にも出会いました。 倶利伽羅龍蒔絵経箱(模造) 大正11年(1922)、原品:平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵 (資料4) 倶利伽羅竜王は、「仏教の竜王の一つ。不動明王の変化身で、岩の上で炎に包まれた竜が剣に巻き付き、呑み込もうとする姿で表される」(日本語大事典・講談社)そうです。 金銅龍文説相箱 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (資料5) 調べてみて初めて知ったのですが、説相箱とは「僧侶が仏教儀式の時に用いる衣や法具,原稿などの必要なものを納めて傍に置いた箱。居箱(すえばこ)とか接僧箱(せっすばこ)とも呼ばれている」(資料6)というものだそうです。 春日龍珠箱(重文) 14世紀 奈良国立博物館蔵 (資料7)これは室生寺伝来とされる二重の箱で、宝珠を納めていた箱と考えられています。損傷が著しいのですが、この蓋表には、宝珠を持した龍神が描かれていたと推測されているそうです。(資料8) 春日龍珠箱外箱の蓋裏 南北朝時代・14世紀 奈良国立博物館蔵 (資料9) (部分拡大図) 龍鳳堆朱長方形箱 中国・「大明宣徳年製」銘 明時代・宣徳年間(1426~35) 東京国立博物館蔵 (資料10)家具にも龍が居ます。 雲龍蒔絵尊案 江戸時代・安永3年(1774) 東京国立博物館蔵 (資料11) この机は儒教に関係するもののようです。尊は酒を入れる器を意味し、尊案はそれを置く机のことだそうです。(資料11) 雲龍螺鈿机 朝鮮時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料12) 抽象化した龍像が描かれています。 (部分拡大図)この辺りで一区切りといたします。つづく参照資料1) 龍涛螺鈿稜花盆 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 龍存星輪花盆 :「ColBase」3) 龍螺鈿盆 :「ColBase」4) 倶利伽羅龍蒔絵経箱 :「ColBase」5) 金銅龍文説相箱 :「ColBase」6) 広島県の文化財 - 金銅輪宝羯麿文置説相箱 :「広島県教育委員会」7) 春日龍珠箱 :「ColBase」8) 春日龍珠箱 :「文化遺産オンライン」9) 春日龍珠箱 外箱 :「ColBase」「ColBase」10) 龍鳳堆朱長方形箱 :「ColBase」雲龍蒔絵尊案11) 雲龍蒔絵尊案 :「ColBase」12) 雲龍螺鈿机 :「ColBase」補遺説相箱 世界宗教用語大辞典 :「weblio辞書」説相箱(銅装説明箱) :「茨城県教育委員会」春日龍珠箱 内箱 :「ColBase」春日五大龍神めぐり :「春日大社」龍神 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.09
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仙人龍堆朱合子 中国・元時代・14世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) 堆朱に見る龍を探していたとき、作品名称に「合子」と記されているものに出会いました。 冒頭のものがその一例です。 堆朱は前回触れましたが、制作技法についての名称です。それに対して。、 合子とは、「①ふたのある入れ物やはこ。②香の入れ物。香箱。ごうす」(日本語大辞典・講談社)を意味します。作品の形状、形態や機能に基づいて名付けた名称です。 つまり、制作技法や材質は堆朱以外の分野にも広がることになります。 そこで、堆朱を契機に、合子という視点から龍探しを続けます。 雲龍堆黒合子 中国・南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 前回、堆朱の説明の際に、堆黄・堆黒もあるということに触れていました。上掲より時代を遡りますが、堆黒の事例に出逢いました。堆黄の事例も後掲します。 雲龍堆朱合子 中国・明時代・宣徳年間(1426~35年) 東京国立博物館蔵 (資料3) 雲龍堆朱合子 中国・明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (資料4) 雲龍堆黄合子 中国・明時代・15~16世紀 東京国立博物館蔵 (資料5) 雲龍堆黄合子 中国・明時代・16世紀 東京国立博物館蔵蔵 (資料6) 龍鳳堆朱合子 中国・「大明萬暦壬辰年製」銘 東京国立博物館蔵 (資料7) 龍濤堆朱合子 「大清乾隆年製」銘 東京国立博物館蔵 (資料8) 龍彫彩漆合子 中国・「大明嘉靖年製」銘 明時代・嘉靖年間(1522~66年) 東京国立博物館蔵 (資料9) 作品の名称からすると、木に龍を彫像して、漆で彩色する技法のようです。堆朱とは異なる製法なのでしょう。 龍存星合子 中国・「大明天啓癸亥年製」銘 明時代・天啓3年(1623) 東京国立博物館蔵 (資料10) こちらは漆塗の合子です。堆朱との技法上の違いが明瞭です。 雲龍文存星輪花食龍 京都国立博物館蔵 (資料11) 作品の名称は食龍ですが、ふたのある入れ物という点では同じですので、ここに加えておきたいと思います。 部分図 部分図ネットで調べていて、岡田美術館のサイトで、「堆朱龍文合子」(明時代・万暦20年/1592年)を紹介されているページに出会いました。 (資料12)合子をキーワードにして龍探しをしていて、陶磁器の項には未掲載の作品に出会いました。 青磁象嵌金彩龍鳳文合子 朝鮮・高麗時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (資料13) 五彩雲龍文合子 中国・景徳鎮窯「大明万暦年製」銘 明時代・万暦年間(1573~1620年) 東京国立博物館蔵 (資料14) 藍地黄彩龍文合子 中国・景徳鎮窯「大明嘉靖年製」銘 明時代・嘉靖年間(1522~66年) 東京国立博物館蔵 (資料15) 五彩龍涛文長方合子 中国・景徳鎮窯「大明万暦年製」銘 明時代・万暦年間(1573~1620) 東京国立博物館蔵 (資料16) ネットで調べていて、MOA美術館のサイトで、「五彩透彫龍文長方合子」(明時代・万暦年間)を紹介されているページに出会いました。(資料17)合子という視点にシフトして龍探しをしてきました。この辺で一区切りといたします。違った視点から、龍探しを続けます。つづく参照資料1) 仙人龍堆朱合子 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 雲龍堆黒合子 :「ColBase」3) 雲龍堆朱合子 :「ColBase」4) 雲龍堆朱合子 :「ColBase」5) 雲龍堆黄合子 :「ColBase」6) 雲龍堆黄合子 :「ColBase」7) 龍鳳堆朱合子 :「ColBase」8) 龍濤堆朱合子 :「ColBase」9) 龍彫彩漆合子 :「ColBase」10) 龍存星合子 :「ColBase」11) 雲龍文存星輪花食龍 :「ColBase」12) 堆朱龍文合子 :「岡田美術館」13) 青磁象嵌金彩龍鳳文合子 :「ColBase」14) 五彩雲龍文合子 :「ColBase」15) 藍地黄彩龍文合子 :「ColBase」16) 五彩龍涛文長方合子 :「ColBase」17) 五彩透彫龍文長方合子 :「MOA美術館」補遺合子 :「コトバンク」元号一覧(中国) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.06
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堆朱と称される漆器の技法を使った漆器等の作品に目を転じます。冒頭の画像は、 螭龍堆朱楕(チリュウツイシュ)円盆 中国・元時代・14世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) 底面堆朱とは「朱の漆を厚く塗り重ねて、そこに模様を彫刻したもの」(新明解国語辞典・三省堂)です。手元の大辞典ではもう少し詳しく、次のように説明しています。「漆工芸の技法で彫漆の一種。朱漆を塗り重ねて厚い層にして、文様を彫刻したもの。黒漆を堆黒、黄漆を堆黄という。中国の宋・元時代に盛行し、日本では室町時代の茶器んどの珍重された」(日本語大辞典・講談社)「彫漆の一種。朱漆を何回も厚く塗り重ねたもの。中国では剔紅(てつこう)といわれ、宋代以降盛んに行われ、日本へは鎌倉時代に伝来。黒漆の場合は堆黒、黄漆の場合は堆黄という」(大辞林・三省堂)博物館の工芸品展示室で堆朱の作品をよく見かけます。堆朱の図柄にも龍が見られるのではと調べてみました。 雲龍堆朱盆 中国・明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 裏面 堆朱雷紋及水中龍圓盆 中国・清時代・17~19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) (部分拡大図) 龍鳳堆朱長方形箱 中国・明時代・宣徳年間(1426~35) 「大明宣徳年製」銘 東京国立博物館蔵 (資料4) 地黄堆朱雲龍食篭 中国・清時代・乾隆年間(1736~95) 「大清乾隆年製」銘 東京国立博物館 (資料5) 雲龍水堆朱食籠 東京国立博物館蔵 (資料6) 龍涛堆朱箪笥(タンス) 中国・清時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 堆朱蒼海隻龍磬式額 東京国立博物館蔵 (資料8) 調べていて、「仙台堆朱」というページで龍と出会いました。(資料9)初めて、「村上木彫堆朱」という工芸品も知りました。次回は堆朱から繋がってきた「合子」に移ります。つづく参照資料1) 螭龍堆朱楕円盆 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 雲龍堆朱盆 :「ColBase」3) 堆朱雷紋及水中龍圓盆 :「ColBase」4) 龍鳳堆朱長方形箱 :「ColBase」5) 地黄堆朱雲龍食篭 :「ColBase」6) 雲龍水堆朱食籠 :「ColBase」7) 龍涛堆朱箪笥 :「ColBase」8) 堆朱蒼海隻龍磬式額 :「ColBase」9) 仙台堆朱 :「こけしのしまぬき」補遺堆朱 :ウィキペディア堆朱 :「コトバンク」村上木彫堆朱 村上堆朱事業協同組合 ホームページ 村上木彫堆朱とは村上堆朱の製造工程 :「村上市」手技「村上木彫堆朱」/伝統工芸青山スクエア YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.05
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茶道で使われる茶碗に龍が棲むか? 調べてみるとやはり希少といえそうです。冒頭のこの茶碗、数少ない作品の1つ。 染付雲龍文茶碗 因久山 京都国立博物館蔵 作者、製作地、時代等不詳。(資料1) 色絵金彩雲龍文煎茶碗 湖東焼 東京国立博物館蔵 (資料2) こちらは煎茶の茶碗です。調べていて、サントリー美術館・コレクションデータベースの「色絵龍文蓋茶碗」(肥前・有田/伊万里焼・金欄手)に出会いました。ここに取り上げておきます。(資料3)茶道具の1つに、水指があります。 染付龍文菱形水指 欽古堂亀祐作 江戸時代・19世紀 東京国立博物館 (資料4)調べていて、次の2つに出会いました。☆「うまか陶」というサイトの「名品図録」に掲載の「染付龍鳳凰文釣鐘形水指」(佐賀県・有田焼)です。(資料5)☆「みかわち焼」のサイトに掲載の「染付波に千鳥龍彫水差」(佐世保市蔵)にも出会いました。(資料6)また、「龍宝瓶」と称する備前焼手びねりの動画(YouTube))にも出会いました。(資料7,8) 備前焼手びねり龍宝瓶作り方。前編 備前焼手びねり龍宝瓶作り方。後編 茶道具として使われたものか、書道で使われたものか、不詳ですが、水注にも龍が見られます。 三彩双龍文水注 中国・福建省 広東省周辺 明時代 16~17世紀 九州国立博物館(福岡県立アジア文化交流センター)蔵 (資料9)茶器から外れますが、陶磁器のその他としていくつか見つけたものがあります。 万暦赤絵龍文筆皿 中国・景徳鎮窯 明時代・万暦年間(1573~1620年) 東京国立博物館蔵 (資料10) ラスター彩龍文タイル イラン・カシャーン イラン・イル・ハーン朝 13世紀 九州国立博物館蔵 (資料11) 色絵応龍文陶板 伊万里(柿右衛門様式) 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料12)これで、陶磁器に見る龍を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 染付雲龍文茶碗 因久山 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 色絵金彩雲龍文煎茶碗 :「ColBase」3) 色絵龍文蓋茶碗 :「サントリー美術館」4) 染付龍文菱形水指 :「ColBase」5) 染付龍鳳凰文釣鐘形水指 :「うまか陶」6) 染付波に千鳥龍彫水差 :「みかわち焼」(三川内陶磁器工業協同組合)7) 備前焼手びねり龍宝瓶作り方。前編 YouTube8) 備前焼手びねり龍宝瓶作り方。後編 YouTube9) 三彩双龍文水注 :「ColBase」水注10) 万暦赤絵龍文筆皿 :「ColBase」11) ラスター彩龍文タイル :「ColBase」12) 色絵応龍文陶板 :「ColBase」補遺水指 :ウィキペディア水注 :「コトバンク」水注 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.04
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まずは鉢から始めます。 五彩雲龍文六花形鉢 中国・景徳鎮窯 明時代・万暦年間(1573~1620年) 東京国立博物館蔵 (資料1) 色絵龍鳳文鉢 伊万里 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 反対側の図柄 染付雲龍文鉢 伊万里 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) 側面の図柄 青花雲龍文鉢 京都国立博物館蔵 (資料4) 真上からの眺め次に、皿・大皿です。事例では、径35cmより大きいサイズは大皿と称されています。 (資料5) 青花龍文大皿 中国・景徳鎮窯 明時代・嘉靖年間(1522~66年) 東京国立博物館蔵 外側面も龍文様 五彩雲龍文皿 中国・景徳鎮窯 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 外側面も龍文様 五彩双龍文大皿 中国・漳州窯 明時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 外側面 図柄なし (資料8) 青花桃樹雲龍図州浜形皿 中国・景徳鎮窯 明時代・17世紀 東京国立博物館蔵 「飛龍在天」という文字が記されています。天空の遠方に龍が見えるというところでしょうか。 (部分拡大図) 染付龍人物図輪花大皿 伊万里 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 染付雲龍文輪花大皿 伊万里 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵 (資料10) (部分拡大図) 龍の顔が正面に向いているので、まるで踊っている龍という感じで、ちょっとユーモラス。 (部分拡大図) 色絵金襴手龍文大皿 永樂和全作 江戸時代・慶応元年(1865) 東京国立博物館蔵 (資料11) 染付蘭船雲龍図大皿 伊万里 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料12)鉢や皿ではありませんが、こんな作品にも出会いました。 染付龍濤文提重(重文)青木木米作 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料13) 「提重」は、「(下げ重箱の略)手に下げるようにした重箱」(日本語大辞典・講談社)です。また、調べていて兵庫陶芸美術館収蔵品データベースで、「緑釉小判形龍文皿」(江戸時代後期・19世紀)とも出会いました。 (資料14)この辺りで一区切りとします。つづく参照資料1) 五彩雲龍文六花形鉢 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 色絵龍鳳文鉢 :「ColBase」3) 染付雲龍文鉢 :「ColBase」4) 青花雲龍文鉢 :「ColBase」5) 青花龍文大皿 :「ColBase」6) 五彩雲龍文皿 :「ColBase」7) 五彩双龍文大皿 :「ColBase」8) 青花桃樹雲龍図州浜形皿 :「ColBase」9) 染付龍人物図輪花大皿 :「ColBase」10) 染付雲龍文輪花大皿 :「ColBase」11) 色絵金襴手龍文大皿 :「ColBase」12) 染付蘭船雲龍図大皿 :「ColBase」13) 染付龍濤文提重 :「ColBase」14) 緑釉小判形龍文皿 :「兵庫陶芸美術館」補遺景徳鎮とは 中国最高の白磁と青花の特徴 :「陶磁オンライン美術館」景徳鎮 :「コトバンク」漳州窯 :「東京富士美術館」古伊万里について :「伊万里市」秘窯の里「伊万里大川内山」伊万里鍋島焼協同組合 ホームページ有田焼とは 伊万里焼と呼ばれた歴史と現在の姿 工芸百科事典:「中川政七商店の読みもの」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.03
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白釉龍耳瓶 中国・唐時代 7世紀 東京国立博物館蔵 (資料1)衣服から陶磁器に目を転じてみます。日常生活の身近にある陶磁器。花瓶、茶碗、皿、器物などの図柄、意匠です。美術工芸品のコレクションを博物館等で鑑賞する機会に、龍と出逢う機会が結構あります。 冒頭の瓶は、瓶の形状の一部、取っ手に龍の形を組み込んでいる事例(龍耳)です。(資料1) 白磁龍耳瓶 中国 京都国立博物館蔵 (資料2) 上掲の瓶とほぼ同じ。こちらの瓶は製作時期等が不詳です。 三彩貼花龍耳瓶 中国 唐時代・8世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) こちらも取っ手に「龍」を象っています。 三彩龍文大花瓶 淡路(珉平)焼 江戸時代・嘉永2年(1849) 東京国立博物館蔵 (資料4)陶三彩の手法による国産品。賀集珉平作。双耳付きで胴部に龍像が線刻されています。 (部分拡大図) 反対面の図柄 呉州赤絵龍文双耳花入 中国・漳州窯 明時代・17世紀 東京国立博物館蔵(資料5)こちらは、花入に取っ手(双耳)が付けられ、それが龍の胴体を連想させる一方で、花入の胴部に龍の文様が描き込まれています。 青花雲龍文瓶 中国 清時代・17~18世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 碧釉地黒花牡丹龍鳳文瓶 磁州窯 京都国立博物館蔵 (資料7) (部分拡大図) 金彩色絵龍虎図花瓶 京都国立博物館蔵 (資料8) 反対の面には虎 色絵菊龍雪輪梅文角瓶 伊万里(有田) 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半 九州国立博物館蔵 (資料9) 他に、静嘉堂文庫美術館のサイトに「青花臙脂紅龍鳳文瓶 一対」(重文)が公開されています。(資料10)次に、壺と称される器に移ります。 青磁蟠龍壺 中国・龍泉窯 南宋~元時代・13世紀 東京国立博物館蔵 (資料11)こちらは壺。龍像が壺の上部を巻き込む形で彫り込まれています。 青花龍濤文壺 中国・景徳鎮窯 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵 (資料12) (資料13) 青花雲龍文方壺 中国・景徳鎮窯 明時代・嘉靖年間(1522~66年) 東京国立博物館蔵 鉄砂雲龍文壺 朝鮮 朝鮮時代・17世紀 東京国立博物館蔵 (資料14) (資料15) (部分拡大図) 染付龍濤文有蓋壺 初代宮川香山作 明治~大正時代・19~20世紀 東京国立博物館蔵壺に見られる龍については、「壺 龍」をキーワードに検索しますと古美術商のサイトでいくつか出逢うことができましたが、省略します。余談ですが、変わり種をご紹介しておきましょう。「龍壺」(髙岡市美術館蔵)と題する村上炳人作の日本画が文化遺産オンラインに公開されています。(資料16)この辺りで一区切りと致します。[2024.7.3 追補]「うまか陶」というサイトの「名品図録」で「染付雲龍文三耳付壺」(佐賀県・有田焼)に出逢いました。 (資料17)つづく参照資料1) 白釉龍耳瓶 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 白磁龍耳瓶 :「ColBase」3) 三彩貼花龍耳瓶 :「ColBase」4) 三彩龍文大花瓶 :「ColBase」5) 呉州赤絵龍文双耳花入 :「ColBase」6) 青花雲龍文瓶 :「ColBase」7) 碧釉地黒花牡丹龍鳳文瓶 :「ColBase」8) 金彩色絵龍虎図花瓶 :「ColBase」9) 色絵菊龍雪輪梅文角瓶 :「ColBase」10) 青花臙脂紅龍鳳文瓶 一対 :「静嘉堂文庫美術館」11) 青磁蟠龍壺 :「ColBase」12) 青花龍濤文壺 :「ColBase」13) 青花雲龍文方壺 :「ColBase」14) 鉄砂雲龍文壺 :「ColBase」15) 染付龍濤文有蓋壺 :「ColBase」16) 龍壺 :「文化遺産オンライン」17) 染付雲龍文三耳付壺 名品図録 :「うまか陶」補遺陶磁器 :ウィキペディア陶磁器 :「コトバンク」陶磁器の一覧 :「KOGEI JAPAN」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.07.02
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龍袍 縹地龍に卍字と花文様綴錦 京都国立博物館蔵 (資料1) 部分図資料に時代の明記はありませんが、中国からの舶来品です。「龍袍」というのは、中国の清代(1616~1912)に皇帝やその臣下が宮廷という公の場で来た朝服(朝袍)です。龍袍の文様は、龍が中心ですが、それ以外に様々な吉祥文様があらわされているそうです。(資料2) この参照資料の中にも龍が刺繍された龍袍の事例が載っています。さらに時代を遡ると、「唐の時代、龍は権力のシンボルとして皇帝の服を飾るようになっていました。長寿3年(693)には位の高い官人に龍の服が与えられました。皇帝から権力のシンボルである龍の服をいただくことは、たいへんな名誉でした。そのうちに龍の文様の服をかってに着る人も出てくるようになります。大徳元年(1297)には胸や背に小さな龍の文様をつけることは差し支えないが、衣服全体に及ぶような大きな龍をつけることが禁止され、延祐2年(1315)には五爪二角の龍文が皇帝専用の文様として規定されます。五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした龍が権力のシンボルとして定まったのです。」その後、「明(みん)の時代にも同じく五爪二角の龍が皇帝の服を飾りました。いっぽう、臣下たちは皇帝の龍から爪を一本減らした四爪の龍の服を皇帝から賜るようになります。四爪龍は蠎(もう)とも呼ばれました。」清の時代には、臣下たちは龍とまったく同じ姿のものを、蠎と呼んで自分たちの服を飾るようになったそうです。 (資料3) 龍袍 紺地龍文様金糸刺繍 京都国立博物館蔵 (資料4) 部分図 部分図 龍袍 青地刺繍(未仕立て) 京都国立博物館蔵 (資料5) (部分拡大図) 雲に龍丸文様繻珍官服裂 京都国立博物館蔵 (資料6) 緙絲 紫地龍文様 元時代・13~14世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 紺吉服地蔵袍 18世紀 チベット民族 九州国立博物館蔵 (資料8) (部分拡大図) 紺地雲龍文様錦 𧙥衣 第二尚氏時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 第二尚氏は、沖縄の琉球王国を統治した最後の王家の通称だそうです。(資料10) ここにも、琉球王国と明との間に交流があった一端が残されているようです。 他にも公開されている事例と出会いました。「龍袍」(黒川古文化研究所蔵) (資料11)「蠎袍:マンパオ」(文化学園服飾博物館蔵)という清朝末期の袍の事例 (資料12)ウィキペディアの英語版を検索しますと、「dragon robe」という項目があります。ここにも、龍袍が画像で紹介されています。クリックして画像をご覧ください。(資料13) 併せて、肖像画中の衣服に現れる龍を最後にご紹介します。こちらは日本語版のウィキペディアからの引用です。(資料14) 唐太宗(唐第2代皇帝、世民)の円領衫 明太祖(朱元璋、洪武帝)の黄袍 明憲宗(明の第9代皇帝、成化帝)の黄袍 世宗(明の第12代皇帝、嘉靖帝)の袞服 朝鮮 国王の赤袍これで衣服に現れる龍を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 龍袍 縹地龍に卍字と花文様綴錦:「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 中国の吉祥文様 龍袍 工芸室 川上さん :「京都国立博物館」3) 皇帝の龍 工芸室 川上さん :「京都国立博物館」4) 龍袍 紺地龍文様金糸刺繍 :「ColBase」5) 龍袍 青地刺繍(未仕立て) :「ColBase」6) 雲に龍丸文様繻珍官服裂 :「ColBase」7) 緙絲 紫地龍文様 :「ColBase」8) 紺吉服地蔵袍 :「ColBase」9) 紺地雲龍文様錦 秱衣 :「ColBase」 10) 第二尚氏 :ウィキペディア11) 龍袍 :「黒川古文化研究所」12) 蠎袍:マンパオ :「文化学園服飾博物館 収蔵品データベース」13) Dragon robe From Wikipedia, the free encyclopedia14) 漢服 :ウィキペディア補遺清時代の服飾 :「麗澤大学」北京故宮博物院200選 研究員のおすすめのみどころ(龍袍) 1089ブログ :「東京国立博物館」龍袍 金黄地綴織(西田善蔵コレクション) :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.30
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狩衣 紺地雲龍丸模様 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) (部分拡大図) 背面狩衣とは、「平安時代から江戸時代まで、公家・武家の平服。襟が丸くて、そでにくくりが有る」(新明解国語辞典・三省堂)というものです。 直垂 紅地立涌長尾龍丸紋散模様錦 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 部分図 背面 袴直垂とは、「鎌倉時代ごろ、武士などが着た衣服。方領(カクエリ)[肩から胸にかけて付けた長方形のえり}・無紋で、胸ひもが付いており、広いそでくくりがある。すそを括った袴(ハカマ)に入れて着る。[初めは庶民の服で、鎌倉時代以降、武家の礼服になった]」(同上)というもの。 素襖 黒麻地松皮菱雨龍菱模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3)素襖とは、「直垂の一種。室町時代に始まり、江戸時代には武家の礼服として用いられた。布地は麻で、定紋をつけた」(日本語大辞典・講談社)というもの。 (部分拡大図) 黒麻地の地柄のように雨龍が菱形の意匠で潜んでいます。 長絹(子方) 緑地雲龍模様 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料4) (部分拡大図) 長絹とは、”(「長絹の直垂」または「長絹の水干」の略)装束の名称。元服以前の公家や武家の童子の着た服。もとはつやのある絹織物の名であったが、のちにそれで作った衣服の名になった” (日本語大辞典・講談社)というもの。 踏込袴 紺地雲龍丸模様錦 東京国立博物館蔵 (資料5) (部分拡大図)踏込袴とは、「袴の一種。裾を狭く補足した野袴」(デジタル大辞泉・小学館)です。野袴とは、「裾にビロードなどで広い縁をつけた袴。江戸時代、武士が火事装束や旅行のときなどに用いた」(日本語大辞典・講談社)というもの。 着付 白呉絽地龍波濤模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料6)剣状にそそり立つ島々と波濤の上空を漂う雲の間を飛龍が富んでいる意匠です。 着付とは、「装束や舞台衣装などの特殊な衣服の着装およびその衣服」(日本語大辞典・講談社)という意味のようです。 打掛 黒天鵞絨地鷹龍松模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7)打掛とは、「武家の婦人の礼服。帯を締めた上から掛ける。すその長い衣服。今は、結婚式などに使う。かいどり」というもの。(新明解国語辞典・三省堂)黒のビロード地に、金糸などで勇壮な刺繍が施されています。上部の松模様の上に、鷹が下方を睨み、波濤の中から龍が上空を睨んでいるという勇壮な図柄です。鷹と龍の組合わせは珍しい気がします。 これは、江戸時代最後の天皇である孝明天皇が着用した赤色の袞衣(コンエ、大袖と裳)で、京都御所の東山御文庫に御物として伝わるものです。(資料9) 孝明天皇の袞衣の龍等の色糸と金糸による刺繍は、別裂に刺繍したものを切り取って生地に切付の手法で縫い付けているそうです。(資料9) こちらは袞冕を身にまとう後三条天皇を描いた肖像図ですが併せて取り上げておきたいと思います。出典は石本秋園『大礼服着御図』と言います。(資料8)袖の部分に龍が刺繍されています。この辺りでまた、一区切りと致します。最後に余談です。衣服に現れる龍を調べ始めて、普段何気なく使ってきた語彙が気になりました。着物、衣、服、衣服、衣装、装束、服飾、服装、和服、洋服、和装、洋装。これらの語彙が思い浮かびます。改めて、初心に返り手元のいくつかの国語辞典を引いてみました。着物: からだに着るもの。衣服。[狭義では、和服を指す] (新明解国語辞典・三省堂)衣 : 「衣服」の意の雅語的表現。[狭義では僧の着る法衣を指し、広義ではてんぷら・ フライなどのまわりをくるんでいるものをさす)(新明解国語辞典・三省堂)服 : 着る物。[狭義では、洋服を指す)(新明解国語辞典・三省堂)洋服: 西洋風の衣服。[男子は上着とズボンを、女子はワンピース、スーツ、スカート などを用いる) (新明解国語辞典・三省堂)和服: 日本在来の衣服。 (新明解国語辞典・三省堂)洋装: [特に女性が]洋服を着ること。 (新明解国語辞典・三省堂)和装: 日本風の服装をすること。和服姿。 (新明解国語辞典・三省堂)衣服: 「着物」の意の字音語的表現。 (新明解国語辞典・三省堂) 身にまとうもの。洋服ではドレス・ジャケット・コート・スカート・ズボン・ 下着など、和服では着物・羽織・袴・長じゅばんなど。被服。着物。 clothes; dress; wear (日本語大辞典・講談社) 身にまとうもの。着る物。また、着ること。 (大辞林・三省堂)衣装: [外出・儀式用の]着物。[狭義では、演劇の舞台で出演者が扮装に用いる衣服を 指す] (新明解国語辞典・三省堂)服装: 身に着けた衣服の(調和のとれた)状態。 (新明解国語辞典・三省堂) 衣服とその付属品の総称。衣服と人間の一体化を意味し、時代・民族・階級・ 職業・性別・年齢などを象徴する。よそおい。みなり。clothing(日本語大辞典・講談社) 衣服を身につけ、よそおった様子。また、身につけた衣服や装身具。身なり。 (大辞林・三省堂)服飾: 衣服とアクセサリー。 (新明解国語辞典・三省堂)装束: 特別の場合に備えて、身じたくをすること。また、その着物。[古くは、衣冠・ 束帯などを整えた礼服をさした] (新明解国語辞典・三省堂) ①衣服を身につけること。服装を整えること。身じたく。②衣服。服装。装い attire; costume ③貴人の衣冠・束帯などの総称。そうぞく。court dress (日本語大辞典・講談社) [古くは「そうぞく」とも] ①特別の場合のための、整った一そろいの服装。 衣冠・束帯・直衣など、一定の法式にかなった装い。また、それで盛装するこ と。身じたくすること。②衣服、着物。③衣服を身に着けること。装うこと。 そうずく。 (大辞林・三省堂)語彙の使い分け、けっこう微妙ですね。それを普段あまり意識せずに使い分けている!言葉って、興味深い・・・・。衣服に関して、インターネットで出逢ったサイトがいくつかあります。ご存知かもしれませんが・・・・。ついでに、幅広く学べて役立つサイトのご紹介です。日本服飾史 風俗博物館 ホームページ綺陽装束研究所 ホームページ宮廷装束 高田装束研究所 ホームページ着物の基本 きもの365 ホームページきものの用語と各部の名称 さが美 ホームページつづく参照資料1) 狩衣 紺地雲龍丸模様 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 直垂 紅地立涌長尾龍丸紋散模様錦 :「ColBase」3) 素襖 黒麻地松皮菱雨龍菱模様 :「ColBase」4) 長絹(子方) 緑地雲龍模様 :「ColBase」 5) 踏込袴 紺地雲龍丸模様錦 :「ColBase」6) 着付 白呉絽地龍波濤模様 :「ColBase」7) 打掛 黒天鵞絨地鷹龍松模様 :「ColBase」8) 袞衣 :ウィキペディア補遺装束 :「コトバンク」和服 :ウィキペディア衣装 :ウィキペディア服飾 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.29
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陣羽織 緋羅紗地龍丸模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) 身に着けるものの連想から、衣服(着物)をネット検索で調べてみました。武家装束の1つで、もとは戦場で武将が着た陣羽織に龍が使われています。 陣羽織 茶地立涌梅鉢雲龍丸松模様錦 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 陣羽織 紺地龍丸雲模様金襴 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) 陣羽織 白生絹地雲龍模様(模造) 東京国立博物館蔵 (資料4) 陣羽織 猩々緋羅紗地応龍波濤模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料5)これは歌舞伎で武家装束として使われたものとか。襟の部分に、昇龍と降龍が刺繍されているようです。波濤文が見えます。 陣羽織の背には、飛龍と波濤文様が鮮やかに描かれています。 四天 亀甲雲鶴龍模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 歌舞伎関連として、亀甲文の中に龍が雲鶴と組合わせた模様として刺繍されています。芸能という分野では、舞楽でも龍が使われています。 陵王裲襠 雲に龍丸模様唐織 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 中国古代の蘭陵王を題材にし、雅楽の左方舞楽の曲名となっています。右手に桴(バチ)を持ち、龍頭の面を付けた一人の演者による走舞(ハシリマイ)です。(日本語大辞典・講談社より)「中国、北斉の蘭陵王長恭が、あまりにも美貌なので、戦の際には竜の仮面をかぶって戦った故事にちなむという」(大辞林・三省堂、一部転記)陵王の舞衣装の一部です。さて、陣羽織は武将の武力による戦いの場での装束の一部ですが、江戸時代の泰平の世での大きな戦いは「火」との戦いでした。江戸火消の火事装束です。ここにも龍が現れます。 火事装束(着込・胸当) 萌黄地松皮菱裏牡丹雨龍模様緞子 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料8) 火消襦袢 黒木綿地波応龍模様刺子 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 刺子とは、「綿布を裏表に重ね合わせて一面に細かく刺し縫いにしたもの。丈夫で、武道着・剣道着などにする。[以前は消防服にも用いられた]」(新明解国語辞典・三省堂、転記)というものです。今村翔吾さんの時代小説・羽州ぼろ鳶組シリーズを読んでいますと、大火と格闘し消し終えた後に、火消半纏の図柄を描いた内面を裏返して着て、表にみせつつ、火事場から引きあげるという場面が出て来ます。この両面の画像を見て、このことを思い出しました。「江戸東京博物館」ホームページのデジタルアーカイブスには、「上着(刺子半纏)」の事例が載っていて、それには龍虎の図柄が描かれています。(資料10)また、「IM アイエム internet museum 」というサイトで、「火消半纏 龍に纏文」という火消半纏(国際基督教大学博物館 湯浅八郎記念館蔵)と出会いました。(資料11)また、今では火消半纏がファッションの1つになってきているようです。そんなサイトも目に止まりました。時代の変化はおもしろい。この当りで一区切りとして、衣服について続けます。つづく参照資料1) 陣羽織 緋羅紗地龍丸模様 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 陣羽織 茶地立涌梅鉢雲龍丸松模様錦 :「ColBase)」3) 陣羽織 紺地龍丸雲模様金襴 :「ColBase)」4) 陣羽織 白生絹地雲龍模様(模造) :「ColBase)」5) 陣羽織 猩々緋羅紗地応龍波濤模様 :「ColBase)」6) 四天 亀甲雲鶴龍模様 :「ColBase)」7) 陵王裲襠 雲に龍丸模様唐織 :「ColBase)」8) 火事装束(着込・胸当) 萌黄地松皮菱裏牡丹雨龍模様緞子 :「ColBase)」9) 火消襦袢 黒木綿地波応龍模様刺子 :「ColBase)」10) 上着(刺子半纏) デジタルアーカイブス :「江戸東京博物館」11) 火消半纏 龍に纏文 :「IM アイエム internet museum 」補遺作品と鑑賞 陵王 :「文化デジタルライブラリー」舞楽面 陵王 :「ColBase)」江戸時代の消防 :「消防防災博物館」火消半纏コレクション :「火消 HIKESHI SPIRIT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.28
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(部分拡大図) 前回「刀剣と龍」に着目しました。刀は腰に差します。そこからの連想で、「印籠と根付」に龍が見られるかを調べてみました。冒頭の印籠は「蟠龍鳳凰蒔絵螺鈿印籠」と称されています。江戸時代・19世紀の作品。根付螺鈿銘「杣田造」とのこと。東京博物館蔵 (資料1)印籠の上の丸い根付に、鳳凰の図柄が描かれています。 (部分拡大図)こちらは印籠の反対側の面です。表裏両面で幡龍の図柄となっています。 (部分拡大図) 雲龍木彫印籠 江戸時代・19世紀 東京博物館蔵 (資料2) (部分拡大図) 印籠の反対側の面です。 底裏線刻銘「小松光方」/根付:線刻銘「光方」です。 珠取龍蒔絵印籠 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3)こちらは印籠の形が少し変わっています。水滴のような形状です。3本爪で宝珠を掴んでいる龍の図柄です。 印籠の裏面は、中央に人物像、周囲に雲龍文が描かれています。さて、この人物は誰なのでしょう? 龍濤木彫印籠 第二尚氏時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料4)この印籠は、時代表記から推測しますと、かつての琉球王国からの渡来品のようです。 印籠の根付に、龍頭が彫刻されています。 印籠の両面で、一体の龍と波濤文が彫られています。既に、根付という言葉を上記で使っています。根付とは「帯にはさむ、たばこ入れ・印籠などのひもの緒につける細工物。[広義では、<腰ぎんちゃく>をも指す」(新明解国語辞典・三省堂)と説明されています。そこでさらに、根付に龍を見られるかを探してみました。ネット検索中に出逢った根付関連のサイト「京都 清宗根付館」で、根付の分類を解説されています。その分類上の1つ、「形彫(かたぼり)根付」の掲載事例が、龍と格闘する武人の形彫りです。ここで龍と出会いました。(資料5)根付の世界でも、龍に絡んでおもしろい作品をいくつか見つけました。 龍太鼓木彫根付 線刻銘「為隆」 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 黄楊の木が使われています。 龍宮牙彫根付 線刻銘「景利」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) こちらは象牙を形彫りした根付です。 龍仙人木彫彩色根付 吉村周山作 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料8) 檜が使われ、彩色されているそうです。 この仙人像の正面だけを見ると、なぜ龍仙人なのか、ピンと来ませんが、 仙人像の側面と背面を見ますと、ナルホドです。 龍仙人木彫根付 線刻銘「美兼」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 公開されているのはこの1葉だけですが、上掲の根付から類推ができますね。 蟠龍木彫根付 線刻銘「風昇」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料10) 龍頭立兜牙彫根付 線刻銘「神子斎」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料11)ネット・オークションでは、結構、根付が出品されているようです。少し眺めてみると、龍を形彫りした作品も散見されます。ここでは触れませんが・・・・・。この辺りでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 蟠龍鳳凰蒔絵螺鈿印籠 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 雲龍木彫印籠 :「ColBase」3) 珠取龍蒔絵印籠 :「ColBase」4) 龍濤木彫印籠 :「ColBase」5) 根付とは :「京都 清宗根付館」6) 龍太鼓木彫根付 :「ColBase」7) 龍宮牙彫根付 :「ColBase」8) 龍仙人木彫彩色根付 :「ColBase」9) 龍仙人木彫根付 :「ColBase」10) 蟠龍木彫根付 :「ColBase」11) 龍頭立兜牙彫根付 :「ColBase」補遺印籠 :ウィキペディア根付 :ウィキペディア京都 清宗根付館 ホームページ根付(ねつけ)のもつ本来の意味と新しい使い方とは? :「The Ichi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.27
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ネット検索をしていて、刀剣の領域にも龍が見られることを発見!刀剣の刀装具である「鐔」に龍が彫刻されています。鍔の名品が公開されています。冒頭の写真は「雲龍図鐔」です。(資料1)画像の利用がOKですので、以下、鐔に彫られた龍たちをご紹介します。 雲龍図鐔 銘義為作 (資料2) 雲竜図鐔 銘砂川正矩作 (資料3) 雨龍図鐔 志水甚五作 江戸時代・17世紀 (資料4) 雲龍透鐔 正阿弥伝七作 江戸時代・18世紀 (資料5) 水龍図鐔 後藤光方作 江戸時代・17世紀 (資料6) 雲龍図鐔 後藤作 江戸時代・17世紀 (資料7)刀身そのものに視点を移します。刀身に龍が彫刻されている事例を開示しているサイトを見つけました。「刀剣ワールド」と称する刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館が実例を詳細に紹介されています。以下から、アクセスしてご覧ください。(資料8) 刀 銘 天秀 水心子白熊入道正秀(刻印) ⇒ 倶利伽羅龍の彫刻 剣に巻き付いている龍の図柄 脇差 銘 直胤(花押)天保六年八月 ⇒ 倶利伽羅の欄間透彫 短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿 慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六 ⇒ 「珠追龍」の彫刻 刀身を覆う刀装具は、柄頭、柄、鐔、鞘、柄尻という各部から構成されています。鐔の龍文様は上掲を見つけました。他に龍が棲みそうな箇所は、鞘と柄頭でしょうか。鞘については、「登り龍文様透かし彫り水牛鞘柄刀子」という事例があります。(資料9)また、「紅木製鞘獅子及龍浮出文白銅金具附刀子」という事例もあります。(資料10)歴史を遡りますと、古墳時代の刀や刀の一部が発掘されています。柄頭を装飾した金具として出土したものがあります。 双龍文環頭大刀柄頭 古墳時代・6世紀 愛知県春日井市 猪之洞古墳出土 (資料11) 双龍環頭柄頭 古墳時代・6世紀 滋賀県高島市 鴨稲荷山古墳出土 (資料12) 単龍環頭柄頭 古墳時代・6世紀 大阪府茨木市 海北塚古墳出土 (資料13)他にも、千葉県の金鈴塚古墳出土の「金銅装双龍環頭太刀2柄」(資料14)や、「双龍環頭太刀」(資料15)と出会いました。刀剣と龍は古墳時代から既に縁があったことがわかります。最後に、笄(コウガイ)に龍文を装飾した事例を見つけました。 (部分拡大) 龍文小柄・笄 江戸時代 19世紀 (資料16)この辺で終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase) 京都国立博物館 E甲428-22) 同上 京都国立博物館 E甲255-183) 同上 京都国立博物館 E甲255-244) 雨龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」5) 雲龍透鐔 東京国立博物館 :「ColBase」6) 水龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」7) 雲龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」8) 刀剣ワールド ホームページ9) 登り龍文様透かし彫り水牛鞘柄刀子 :「文化遺産オンライン」10) 紅木製鞘獅子及龍浮出文白銅金具附刀子 :「文化遺産オンライン」11) 双龍文環頭大刀柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」12) 双龍環頭柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」13) 単龍環頭柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」14) 金鈴塚古墳金銅装双龍環頭太刀2柄 :「文化遺産オンライン」15) 双龍環頭太刀 :「文化遺産オンライン」16)龍文小柄・笄 九州国立博物館 :「ColBase」 補遺日本刀 :ウィキペディア日本刀の部位名称 :「刀剣ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.25
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デュランタが紫色の小さな花を咲かせ始めました。 今はこの2カ所で花が咲き始めました。アザレアが咲き終えた後、その伸びた蔓を取り除いていました。その下になっていたデュランタが花を咲かせるようになりました。昨年、かなり広がっていたので剪定をしすぎたのかなと思っていたところでした。 オーシャンブルーの初花だよりは載せていました。少し前から、オーシャンブルーが毎日、かなりの数の花を開くようになりました。 一鉢にサフランモドキ(たぶん)が咲いています。ネットの画像検索で調べてそう判断しました。トケイソウはポツポツと咲き続けています。小さな庭からの花だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺デュランタ :「みんなの趣味の園芸」サフランモドキ ゼフィランサス・カリナタ :「植物写真鑑」ゼフィランサス :「みんなの趣味の園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.24
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16階のあべのハルカス美術館で「尾張德川の至宝」展を鑑賞したあと、このフロアーから屋外に出てみました。そこは長方形の屋外庭園になっています。北と東方向の外縁部は数段高くしてあり、透明のガラス壁が設置され回廊風の外縁になっています。この外縁に沿って大阪市内の眺望を楽しめます。16階はハルカス300(展望台)のチケットカウンターが設置されているフロアでもあります。この展望台へのアクセス図をみると、あべのハルカス内にあるあべのハルカス美術館の位置関係もわかりやすいです(補遺をご参照ください)。冒頭の景色は西寄りの眺望です。左半分に見える緑のエリアは天王寺公園、北に延びる道路は谷町筋です。 東方向に少し移動して、視点を東寄りに移していくとこんな感じです。 遠くに山並みが見え始めます。 ビル側に目を転じると、この憩いの空間部分の敷地面積が減じる形で、ビルが屹立しています。 こののっぽビルは、画像検索して地図を確認すると、阿倍野区松崎町2丁目にあるシティタワーグラン天王寺です。 外縁沿いに歩き、東辺に佇むと、北から南方向に、東側を眺望できます。東の遠方にも山並みが連なっています。 この憩いの空間の東辺から西方向にビルを見上げた景色 東の外縁から少し離れて眺めると、また雰囲気が変わります。これもまた、久しぶりに眺めた周辺環境でした。補遺あべのハルカス :ウィキペディア施設案内 ハルカス300(展望台)までのアクセス :「ハルカス300」CITY TOWER GRAN TENNOJI :「GOOD DESIGN AWARD」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.15
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入場券の半券先週金曜日(6/7)、大阪・阿倍野にあるあべのハルカス美術館に出かけてきました。目的は「徳川美術館展 尾張徳川家の至宝」の鑑賞です。この美術館に来たのはかなり以前です。大阪市立美術館を訪れるのより頻度が低く、久しぶりでした。展示会場は16階のワンフロアーです。展示は3部構成プラス特別公開という形でした。 Ⅰ 尚武 もののふの備え Ⅱ 清雅 -茶・能・香- 茶・能・香の3セクションで構成 Ⅲ 求美 特別公開 国宝「初音の調度」と「源氏物語絵巻」から各1点 訪れた日は、5月28日からの後期展示でした。 これは事前に入手したPRチラシの片面です。このチラシに3部構成の一端が集約されています。<Ⅰ 尚武>では、まず徳川家康と尾張家初代藩主だった徳川義直の肖像画各一幅が展示されています。いずれも桜井清香模写による模本でした。昭和12年の模本。桜井清香はやまと絵画家であり、徳川美術館職員でもあったそうです。(資料1、以下略)義直像の原本は第二次世界大戦中での空襲の折に焼失。この模本はいまでは貴重な肖像画になっているそうです。画像からは謹厳実直で少し神経質そうな印象を受けました。 チラシの右下部に載る「銀溜白糸威具足(ギンダミシロイトオドシグソク)」は通期展示で、徳川義直着用の鎧具足一式です。当日購入した図録によりますと、この具足を義直は特に好み、参勤交代の折には必ず携帯したと言います。展示品を拝見すると、着用したことはあるのでしょうが、実戦での着用はなさそうな印象を受けました。具足の保存状態は実に良い印象です。義直が尾張国の初代藩主となったのは慶長12年、8歳の時です。慶長19年(1614)10月、大坂冬の陣、翌年元和元年(1615)4月、大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。少し調べてみますと、徳川義直は、1615年4月名古屋城にて婚儀を行っています。それを名目に家康は名古屋城を経て、二条城に入り、大坂に向かいます。大坂夏の陣です。「この夏の陣では、義直率いる尾張藩は、家康・秀忠の本陣を守る後詰の役を、紀州藩の徳川頼宣とともに果たした。」と言います。(資料2)尚武に相応しく、刀剣と銃が展示されています。「太刀 銘 左 名物 大左文字」「刀 銘 村正」「脇差 銘 吉光 名物 鯰尾藤四郎」が並んでいます。チラシに載るのは脇差(銘吉光)です。この3点は義直所持のもの。展示されている刀身はガラス越しに眺めると美術品そのもの。戦場での人殺しの道具という機能が捨象されてしまいます。「石首魚石入蝋色塗(イシモチイシイリロウイロヌリ)」の刀拵と脇差拵がデザインとして印象的でした。拵とは刀の鞘と柄などのことです。「火縄銃 三匁五分筒 銘 以南蛮大筒鉄重張」芝辻作は、寛文8年(1668)の作です。銃床は黒漆塗に三葉葵紋と六葉葵紋の蒔絵、筒には三葉葵紋と丁子唐草の象嵌が施されるなど、豪華な装飾が施された造りです。製作時期を考えると、もはや武威を示す飾りとしての象徴なのだろうなという印象を受けます。これも美術品という次元です。<Ⅱ 清雅>の部では、茶道具で印象的なのがあります。大名物「唐物茄子茶入 銘 茜屋」のふっくらとした曲線を描く形が素敵でした。「油滴天目(星建盞)」の無数の細やかな油滴の斑文の広がりから静穏な印象を受けました。しっとりとした感じでもあります。同様に大名物「三島茶碗 銘 三嶋桶」は灰色の素地に三筋の小さな向日葵文様、上部には二筋の幾何学文様がそれぞれ象嵌されています。楽しい意匠です。チラシには「織部筒茶碗 銘 冬枯」(重文)が載っています。斜めに黒釉を掛け分けた幾何学文様の茶碗です。緑釉の茶碗は馴染みがありますが、黒釉の織部茶碗を拝見するのはめずらしいので印象に残りました。チラシの左上に載る能装束は前期展示のため、見られませんでした。能装束では、「茶地鶴菱・桐文金襴袷法被」の整然としていてかつ華やかさを感じさせる意匠に惹かれました。特に興味を抱いたのは、「龍戴(リュウタイ)」という龍を象った冠と、「天冠(テンガン)」と称する天女が被る冠でした。こちらには月輪が象られています。香道の領域では、保存されてきた香木、香合、香を楽しむ道具一式などが展示されています。一番印象に残るのは、「菊折枝蒔絵四種盤」です。香道には、勝敗を競う組香が発展したのは知っていました。しかし、この組香での勝敗の状況を視覚化するために、器物を盤上で進めて競うという形の道具が作られていたのを初めて見ました。源平香は紅白の旗、矢数香は矢、名所香は吉野と龍田にちなみ桜と紅葉の造花が盤上で進められます。競馬香は、薄板二枚を並べた盤上で駒を進めるのです。なかなか凝った趣向です。<Ⅲ 求美>の部で記憶に残るのは、「菊折枝蒔絵」の「碁盤・双六盤・将棋盤」の三点です。蒔絵の施された豪華な遊戯具です。碁と将棋はイメージできます。見ていて分からなかったのは双六盤がどのように使われるのか。これは以前から抱いている疑問で、久しぶりに同種の双六盤を見て、ふと疑問自体を思い出しました。そして、展示会場の最後を飾るのが2つの国宝です。1つは、「初音の調度」から1点です。これは、寛永16年(1639)三代将軍家光の長女千代姫(1637~1698)が数え年3歳で尾張家二代光友に嫁いだ際の婚礼調度をさします。『源氏物語』第23帖「初音」に題材をとった47件の調度を始め、第24帖「胡蝶」に基づく10件の「胡蝶蒔絵調度」その他総計70件の調度を総称して、「初音の調度」と呼ばれています。上掲チラシの右上は、前期の展示品です。後期は「胡蝶蒔絵掛硯箱」が展示されています。掛硯箱は携帯用の箪笥形式で、天板に釣手が附けられていて持ち運べる形です。短辺の正面が横開きの扉になっています。扉を開けると引き出しが三段あり、上段に硯・銀製桜花水滴・錐・小刀が収められています。六条院春の御殿の春爛漫の池苑の景色が、人を表さない留守模様で蒔絵で表されています。 これはPRチラシの片面。ここに最後の展示品の図が使われています。徳川美術館が所蔵する国宝「源氏物語絵巻」です。所蔵する巻の中から4巻の各一場面を、開催期間を4区分して順次入れ替えで展示されています。私が訪れた時は、後期前半で、丁度このチラシに載る「宿木(三)」でした。 図録は表紙の上に帯が巻かれていて、表の表紙の帯に「宿木(三)」の場面が使われています。久しぶりに身重の中の君を訪れた匂宮が、くつろいだ姿で琵琶を弾きます。すねてばかりではいられない中の君が、几帳の端から、脇息に寄りかかり少し顔を覗かせているという場面です。この場面、匂宮が訪れた時、折しも薫から中の君に文が届いたことにより、匂宮は中の君と薫の関係を邪推する心理が蠢いているという背景の中で、匂宮と中の君が居るという場面なのです。源氏本文への深入りはやめておきましょう。序でに図録の裏表紙の帯をご紹介しておきます。 これは今回の展示の対象になっていません。「柏木(三)」の有名な場面。源氏の正妻・女三の宮と亡くなった柏木との密通により産まれた不義の子・薫の五十日の祝いにおいて、源氏が薫を抱いている場面です。会場内は撮影禁止ですので、PRチラシと図録から作品を引用しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 当日購入した図録『徳川美術館展 尾張德川家の至宝』編集・執筆 徳川美術館学芸部2. その1 家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす :「愛知千年企業 江戸時代編」補遺あべのハルカス美術舘 ホームページ大坂の陣 :「ジャパンナレッジ」徳川美術館 ホームページ おもな収蔵品 千代姫婚礼調度 国宝 [初音の調度] 初音の調度新春特別公開 徳川美術館所蔵 国宝 初音の調度 :「九州国立博物館」特別公開「国宝 源氏物語絵巻」展覧会見どころ紹介 徳川美術館 YouTube国宝源氏物語絵巻に浮かび上がる色彩 NHKラーニング :「NHK」白だけで4種類 NHKラーニング :「NHK」襲(かさね)の美学 NHKラーニング :「NHK」平安貴族が愛した紫色 NHKラーニング :「NHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.14
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六条院春の御殿1/4縮尺展示の左側には、通路を挟んで寝殿造の建物の一部を再現した空間が設けてあります。北側には襖障子が仕切りとなり、西側と南側には御簾が掛けられた板敷きの部屋空間が再現されています。ここが、等身大の実物装束その他、平安時代の風俗を実物大で展示する空間になっています。 南側の御簾越しに眺めた女房の姿 この等身大の女房(人形)が着ているのは、三条天皇の中宮妍子が女房たちに着せた「二十枚の重袿(カサネウチギ)」を再現したものです。妍子は藤原道長の娘であり、藤原妍子が皇大后として大饗(ダイキョウ)を主催したときに、二十枚の重袿を女房に着させるという華美な演出を行ったと言います。 この案内文が傍に掲示してあります。 この時の女房たちの衣装について、『栄花物語』巻24「わかばえ」に記述が残されていると言います。 表着(ウワギ)は萌黄色で菱形文様の織物、唐衣(カラギヌ)は秘色の返襟で、桜色の亀甲文様です。 単の上に、重袿として三色を内側から6枚、6枚、7枚と重ねて着ています。重袿は、「過差(カサ)の禁制で5枚が基本となり五衣(イツツギヌ)と呼ばれた、複数の色の重なりで『かさね色目』を表現することは女房装束の華とされた」(資料1)そうです。 裳を背後に大きく広げ、二筋の引腰が伸びています。掲示の案内に記されていますが、当時藤原道長は装束の倹約令を発令していたそうです。それに対して妍子が華美な重袿の演出をしたことに「とんでもないことだ」と怒ったと言います。(資料1) 御簾のすぐ傍の衣桁に掛けてあるのは、「袍(ホウ)」です。法華経千部供養の場面で殿上人たちが着用しているのは束帯です。平安時代の貴族男性の昼の装束で、正装です。束帯の表衣と言われるのが「袍衣」になります。当時の貴族の勤務服として、この袍の色は、身分秩序として位により色が定められていました。(掲示の案内板より)ここには、位袍と称された、位と着用できる色の関係が反物で展示されています。左から順に: 一位 深紫 人臣の最高位。太政大臣のみ着用。紫根(シコン)で染められた色 二位 浅紫 左大臣と右大臣が着用。紫根で染められた色 三位 浅紫 大納言・中納言・近衛大将などが着用。紫根で染められた色 四位 深緋 近衛中将が着用。日本茜で染められた色。 五位 浅緋 四位・五位以上が昇殿を許され「殿上人」に。日本茜で染められた色。(掲示の案内板より) 左から順に: 六位 深緑 六位以下は「地下(ジゲ)」と称される。刈安と蓼藍で染められた色。 七位 浅緑 大学寮の博士、陰陽師など。 刈安と蓼藍(タデアイ)で染められた色。 八位 深縹 雅楽寮の楽人たちの中の諸師達が着用。蓼藍で染められた色。 初位 浅縹 最下位の位。蓼藍で染められた色。 その下は位のない「無位」 (掲示の案内板より)つまり、袍の色を見れば、貴族の位階が判然とわかったのです。 この展示空間の南端側に、「公家女房晴れの装い」として、等身大の衣装が展示されています。平安時代中期に、唐様を変化させて日本独自の十二単(ジュウニヒトエ)が完成します。こちらも拙ブログ記事で既にご紹介しています。併せてご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目 この十二単の展示の近くに、「継紙」の一例が展示されています。「継紙とは、異なる質や色の紙を継いだ料紙のことです」(掲示案内より)継紙の技法には、 切り継ぎ: 主に直線的に切った紙を継ぐ 破り継ぎ: 破いた紙を継ぐ 重ね継ぎ: 薄様の紙を重ねるがあり、また、「金銀の箔や砂子を散らしたり、金泥で蝶や鳥、折枝などを描いたものなど継紙には様々な趣向が凝らされています」継紙は鑑賞用あるいは誰かに送る文用に用いられています。継紙が成立したのは平安時代だそうです。料紙そのものの美が関心の対象にもなっていくのです。(掲示案内より) 北側の襖障子この北側に、 草木染で染めた松かさね 蓮糸織りこの箇所も作品を変えながら草木染めの常設展示コーナーとなっています。こちらも拙ブログ記事で過去にも触れています。上掲の2020年の拙ブログ記事をご覧ください。 衣装の文様について、この案内パネルが掲示されています。時間をかけて鑑賞していくと、コンパクトながら、平安時代の世界へ、『源氏物語』の世界へ、タイムスリップできる空間が広がっています。これで今期展示のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号補遺風俗博物館 ホームページ国宝「三十六人歌集」特別公開特集② :「ことしるべ Kotoshirube」西本願寺本三十六人家集 :ウィキペディア王朝継ぎ紙の世界 ホームページ 王朝継ぎ紙研究会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ
2024.06.09
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東の対の屋の西廂の北端には、女房たちの日常生活の場となる「局(ツボネ)」があります。局への出入口となる襖障子と、対の屋から寝殿へ出入りするための妻戸が開いているのが見えます。襖障子の傍に、囲碁の道具が置かれ、その傍に角高坏と折敷に菓子類を載せて置かれています。 局で行われているのは、平安の遊びの1つの「偏つぎ」です。偏と旁(ツクリ)に分けた札を使い、その組み合わせで漢字の知識を競い合うという遊び。 この偏つぎの遊びの具現展示も、定番の1つです。その時々で展示のしかたが変化しています。寝殿の北側に回り込みますと、 渡殿に沿う形である曹司(私室)。この渡殿にあるのは、上臈(ジョウロウ)に与えらる部屋、局(ツボネ)です。紫式部が中宮彰子のもとに仕えていたとき、藤原道長の屋敷・土御門殿では、東対と寝殿を結ぶ渡殿の一番西寄りの局を自室として与えられていました。局には、格子や妻戸が備わっています。几帳で仕切る部屋とは違い、独立したものだったようです。 衣架(衣桁)には衣服が掛けられていて、女房が衣装を整えています。 その隣では、火取の上に伏籠(フセゴ、竹製の籠)を伏せて、その上に衣服を掛け、香を焚き染める作業に勤しんでいます。香は趣味の良さを相手に伝える手段の1つです。「香りを纏うという意味で、もうひとつの装束ともいえる」(資料1)ものでした。 さらに西側では、平安時代の女性が美人と評される重要な条件となった黒髪の手入れを身だしなみとして行っている場面が具現展示されています。 鏡台(左)と櫛箱(右)。様々な化粧道具が櫛箱に並べてあります。その手前の箱に入っているのは、髢(カモジ)でしょうか。この香り焚き染めと身繕いもまた、女房の日常生活の代表的な場面として定番になっています。今までにも繰り返し眺めています。 全景 このフロアの一隅に、平安初期を題材とした『竹取物語』のクライマックスが具現展示されています。平成24年(2012)に平安時代を感じる手助けとして加えられ、常設展示されました。今回はこれも写真を列挙する形の簡略なご紹介にします。 かぐや姫を月から迎えに来た王様 付き従ってきた女官たち 天女 慌てふためき、嘆く侍女・悲しむ翁 従容と月よりの迎えを受け入れるかぐや姫 嘆き悲しむ媼(オウナ)『竹取物語』については、ごちらの拙ブログ記事を併せてお読み願えるとうれしいです。観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示 ⇔ 2016年では、最後のセクションに移ります。(このセクションは、入手資料の公式の順路で言えば、法華経千部供養の場面を廻る途中で拝見する展示空間になります。)つづく参照資料1. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号補遺風俗博物館 ホームページ竹取物語 :ウィキペディア竹取物語 10miniボックス 古文・漢文 :「NHK」DVD「古典資料DVD 古典入門(1) 『竹取物語』~古典の豊かな想像力」 YouTube竹取物語絵巻デジタルライブラリ ホームページ 立教大学 上巻・中巻・下巻等、また張交屏風などのページもあります。竹取物語 和田萬吉 :「青空文庫」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.08
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