鎌倉日記(極上生活のすすめ)

インドで考えたこと



世界遺産の紹介で、インドのタージマールが雑誌に載っていた。
写真を見ながら、この横のあたりに座って、手紙を書いていたなあと思っていた。
タージマハールはインド全土を支配したムガール帝国の皇帝シャージャハンが、最愛の妻を亡くした悲しみの果てに作った、巨大で白亜の大理石の墓だ。皇帝は、妻が死んだあと、世界征服する勢いはうせ、ただ、妻を偲ぶ日をおくり、世を去った。

バックパッカーで旅をしていたとき、
この場所にたどりつくのに、ひどく苦労したのを思い出す。
行き先を告げても、リキシャ(人力車)の親父が、なかなか、つれていかないのだ。
勝手に、大理石のお土産ショップ巡りにつれていく。
そのお土産屋ショップが、「どこに住んでいるのか」から始まり、あげくに密輸をそそのかす。いくら断っても、とにかくしつこい。
「私のような立場の人間が、その仕事をすると大変なことになる。」と、はったりを言っても、
「ノープロブレム。」の一点張りだ。
やっとこさ、ふりはらって去ると、このリキシャの親父は、こんどは、また違うお土産ショップにつれていく。
そこの親父が、「この店には日本人がたくさん来る、」とはじまる。
得意気にノートを広げる。
そこには、日本語でこう書いてあった。
「この店の大理石のお土産はほとんどが偽物なので、けっして買わないように、・・・。」
そして、最後のほうには「読み終えたら、とりあえず、褒めるように。」と注意書きがされていた。

私は、落ち着いた声で、親父の店の素晴らしさを喋った。
店の親父は、そうだろう、日本人は、皆が褒めてくれる、と頷いていた。
そんなことを、繰り返して、やっとついたのがタージマハールだった。

馬鹿な親父だと思っていたら、エジプトでもっと間抜けなお土産ショップがあった。
日本人の観光客にむけて、店のいちばん見える場所に張り紙を見せている。
そこには、日本語でこう書かれていた。

「この店は、偽物だらけの高い店です。けして、入らないように。」

タージマハールを見たあと、夜行列車に乗って、インドの聖地バラナシ(ベナレス)へ向かった。
インドの夜行列車は、3段式になって、中断のベッドは、朝になると折りたたまれ、座席になるが、1番上の段を取れれば、昼になっても、横になっていられた。
インドの列車は、物乞いや羊やサルなどの動物までも乗り込んでくる、なんでも、ありありの乗り物だった。
しかし、寝ていても起こされ、「バクシーシ(喜捨)」を、乞われた。
ひとりで、旅をしていると、ひどく、疲弊した。

田舎の小さな駅で、夜行列車は長い休憩をとった。
私も、外にでて、休んだ。ここでひとりの女性と知り合った。
名前はニーナと言った。
彼女はカナダ人の音楽教師で同じひとり旅をしていた。
ホームには、お茶屋がいた。素焼きの茶碗に茶が注がれる。茶を飲んだあと、この素焼きの器を、返すものかと迷っていた。
ニーナは悪戯っぽく笑った。そして、こうするのよと、器をホームの隅に投げ捨てた。
焼き物の器を消耗品にすることに驚いた。
ホームの隅には割れた器がうず高く、積もっていた。
これは口移しで飲み、病気が蔓延しないための配慮でもあると後に思った。

食事の仕方は、その民族の文化が、直接に反映するので、とてもおもしろい。
外国の土地の風景も、米と小麦の文化圏で風景がぜんぜん違う。

日本は田んぼが広がる。米と箸の文化圏だ。
しかし、箸の文化圏でも、日本のように、茶碗や箸を個人ごとに、はっきりわける民族はいないのではないだろうか。この清潔感が、日本人の感情をつくっている。

ニーナは、ベナレスへ向かうところだった。
いっしょに旅をすることなった。

         (2)

インドでは、歩いているだけで、こちらの価値観を揺さぶることが、つぎつぎとおきる。
たとえば、ニューデリーの町を全裸の男の人が街をどうどうと歩いているのを見た。
はじめは、驚いたが、彼はジャイナ教空衣派の人で、所有をいっさい嫌う。
だから、服も所有しない。という、論理的に合致した行為だ。
マスクだけをしている人がいる。それは、口から、息をすったときに、虫を飲み込んで殺さないためだ。
これも、いっさいの殺生を嫌うことから、論理的に合致した行為だ。
あまりの言行一致に、息を飲む。
そして、しばしの黙考がつづく。

丸の内を、どうどうと全裸で歩くと、たぶん、捕まるだろうなあ、と生半可なことを考えていると、バクシーシーと手をだされる。
手を見ると、指の数が多かったり、ライ病で指が崩れていたりする。
豊臣秀吉は指が6本あったそうだが、指の数が多いのは神に近いということで、尊ばれるそうだ。
圧倒的な現実に、躊躇したり、逡巡している暇はない。

乞食僧が地中に頭だけをつっこみ、逆立ちをしている。これは修行なのだろうか。
土に覆われ、とても、息のできる状態ではない。ヨガの達人は、肛門で息をすると聞いていたが、これがそうなのか。
写真を撮っていると、むくっと起き上がり、金をよこせと、突然、叫ぶ。
どうやって、この男は写真を撮っていたのがわかったのだ。

幼児が首に大蛇を巻き、6歳の子が、周りから、金をとっている。
これは、修行か、それとも見世物か。

よく映画で、蛇のような長いロープが、上にするすると登っていき、それに聖者が登っていくのがあるが、あれは、その前にまわりの人に幻覚剤を飲ませ、幻しを見させるという話だ。

まあ、つらつらと思い出すままに書いたが、結局、インドでは、何でもありだということかなあ・・・。

        (3)

インドでは、子育てを終えた大人は、聖地バラナシへ修行へむかう旅立ちの年代であるというような思想が根底にある。
バラナシは、そんなインド中の人達で、溢れかえっている。
「体が古くなったから、取替えに来たんだ。」
リーンカーネイション(輪廻転生)の思想が染み渡っている。

聖地バラナシは、テレビや本で見るのと、現物を見るのでは、こんなにも、というほど違っている。
沐浴のシーンが神秘的に描かれているが、本物は、喧しい音楽ががんがんとスピーカーが流れるなかで、河原で、力自慢大会のようなものをやっている。
その横では子供がガンジス川にウンコをしている。その、すぐ横ではその水で体を洗っていたり、口をゆすいでいたりする。祈りながらの沐浴をする。
さらに、すぐ近くでは死体を焼いていて、輪廻しない事故死した子供などは、そのまま流されていて、その横を観光の小船が、行き来している。
河原では、そのガンジスの水を家にもってかえるような小さな壷も売られている。

死体を焼くガートで、しばらく座って見ていた。
頭骸骨は割って燃えやすくしている。燃えやすくするためか、粉がかけられる。
飛び散る肉の破片を求め、犬がうろうろとしている。
近づいてきたインド人が耳元で囁いた。
「マネーをよこせ。」

かと思うと。
川の合流地点でインド人からは、こう言われた。
「いくつの川が見える。」
「ふたつだろ。」
「違う。ほうとうは3つの川がある。三つ目の川は、目では見えない。」

これは哲学なのか、真理なのか、それとも虚言なのか、妄想なのか。
いったい、何が本物で、本当なのかを、つきつけられる。

まあ、混沌を楽しめない人には、少々きつい国かもしれない。

       (4)

インドの路上で林檎をひとつだけ置いて売っている親子がいた。
どう見ても売れそうもなかった。
ひっかかるものがあって、隣りに座っていっしょになって売ってみた。
インドでは路上でバクシーシ(喜捨)する者は多い。哀れみを乞うために、目の見えない幼児を貸し出すのを商売にしている者もいた。

路上に座りこむ日本人珍しいのか、通行人たちが何をしているのか、おもしろいかとうるさいくらいに話かけてきた。
話しかけてきた、ひとりの学生のノートを見せてもらったら、微積分の難しい問題を解いていた。
ペンを貸してもらった。
数学は世界共通言語だ。
言葉がわからなくても、数学で会話をすることができる。
彼と会話して、インドは二桁の掛け算まで、暗算でやる数学大国なのを実感した。

いま、アメリカで失業率の高いのは、西海岸のシリコンバレーの連中だそうだ。
コンピューターのSEが大量解雇されているという。アメリカのSEは年収800万だが、インドのSEは年収60万という、格差のために、仕事が大量にインドに流れているらしい。
また、地球の裏側である地のりから、アメリカの夜中に仕事が処理可能という便のよさもある。
アメリカ人の解雇はますます進められる。

かつてないグローバル社会は地球規模の価格破壊をおしすすめている。
工場移転だけでなく、建物図面の製作。レントゲンの分析。など、技術的なものまで、海外への受注がはじまっている。
100円ショップが、小売を直撃していくように、あらゆる分野で変革がはじまっている気がする。

夕暮れても、路上で林檎は売れなかった。


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