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退職して、3か月が過ぎた。なぜか、辞めた気がしない。このところ、毎週のように、羽田へ行き、地方へ講師に行っていたりする。地方へ行かない日は、社会人向けの教養講座の講師などもしている。口先だけで、生きている。まったく、呆れたものだ。そうでない日は、マクドナルドなど電源の使用できる店が、私のオフィスになっている。同じような顔ぶれなので、ここが今度の職場のような気もする。退職すると、いったい、職場とはなんだったのかと思う。毎日、会っていた人々。そんな人々の言葉に、感情が動いていた。もう、仕事も、講師などの好きな仕事しかしていない。収入は激減したが、ストレスも激減した。職場での収入とは、我慢料だったとも思う。ツタヤで映画を借りてきて、観ている。それも、毎日だ。108円で借りられる。ポイントで観ているので、実質、無料だ。本棚の本を手あたり次第読むように、DVDケースで、なんとか賞受賞と書いてあると、それだけでかたっぱしから借りている。これが、面白い。はずれも少ない。知らないでいて、面白い映画というのが、こんなにもあるのかという感じだ。収入が入らなくても、人生、けっこう楽しい。今日、友人に会った。彼も、早期退職した。今、52歳だという。父親が亡くなり、高額な財産が入り、娘も結婚するので、やめてしまったようだ。娘がグアムで結婚式をした。そこで、グアムにいったところで、入国管理で、彼は捕まってしまった。そして、3時間以上の長い取り調べにあったという。犯罪者?その原因は、同性同名の人間がアメリカのブラックリストに載っている人間がいたらしい。アメリカに入国するたびに、こんな目に、これからも会うのかと、怒っていた。自分と同じ名の人間が、まったく、別な人生を送っている。ここでは、会ったこともない人間に、自分の人生が翻弄されている。日々は流れる。死ぬまでに、いったい、いくつの映画を観れるのだろう。何冊の本を読めるのだろう。いくつの町を旅できるのだろう。どれほどの人たちと出会えるのだろう。もし、そこで、わかったつもりになれば、少しは満たされるのだろうか。
2015年06月26日
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退職して1か月近くが過ぎた。退職を祝う会が、7回あり、昨日もあったが、来週は2回ある。退職の日は、日本中から、花束をいただいた、びっくりした。これほどまでに、祝福されて去るというのは、幸福以外のなにものでもない。次のスタートも、はじまっている。もうひとつの、ブログ、ホームページを作成して、アップしている。これが、50アクセスぐらいだ。不思議なのは、この楽天ブログは、このところ、何も、記事を書いていないのに、平均して200アクセス以上はいく、これは、どういうことなのか。不思議だ。何も、書いていないのに・・・・。もうひとつのは、堅い、税に関する記事で、出版を前提に書いているからか、読者層というのは、限られているからなのか。楽天も、くるくるまわる広告をいれないでくれれば、こちらに書くのに・・。まあ、広告なしには、ビジネスはなりたたないということなのか・・。次に、どんな生活をしているかを書きます。
2015年04月25日
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4月から、どうするか。自宅か、マクドナルドか、レンタルオフィスか、と悩みながら、街を、うろうろしていたら、大変なことが、起きた!激しい腹痛があり、緊急で病院にかけこんだ。それから、人生初の入院となる。病名は急性虫垂炎だ。まさか、この年で虫垂炎とは、この日々が、、すごい・・・どこまで書くか、どこまで書けるか・・。緊急手術、下半身の麻酔、手術の状況がガラスに反射してすべて見える。手術室の医師の実態。超豪華な個室部屋での入院生活・・。ほかの入院患者との会話。とにかく、やっと退院して自宅に戻れた。少しずつ、書こうかな(笑)
2014年12月23日
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忘年会が終わった。私にとっては、最後の忘年会だ。私以外は、そんなことも考えずに、定刻には宴会がはじまりだした。なんとなく気になる人や、気にくわない人と宴会の席が近くになったとか、ならないことに、そわそわ、わさわさしながら、それでも仕事の話をそこでも熱く語ったり、自分や家族の話をしたり、興味のある噂を持ち出したり、たわいなく笑いあったり、ふざけたり、なまくらな相槌をうったりしながら、夜の時間は過ぎていく。来年の今頃は、私は、どうしているのだろう。少なくとも、今の職場の人達とは、このように飲み明かしていることはない。次の事業をうまく廻しているだろうか。私は、新しく踏み出した人生の満足感にひったているのか。それとも、幾ばくかの後悔にとらわれているのか。皆が、飲んで、語っているあいだ。来年の今頃はと、ふと考えていた。
2014年12月07日
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さきに、教室ビジネスを書いたが、これは、企業会計上も、効率の良いビジネスだ。すべてのビジネスは、投下資本回収余剰計算、分配可能利益計算というのが、目的になる。在庫などが多いと、結局は、収益を圧迫しているのだ。売上額だけを見ていてはだめだということだ。教室ビジネスでの費用をしめるものは、広告費ではないだろうか。いかに、集客するかで、鍵になる。そんなことを考えていたら、「趣味なび」というサイトがあった。これは、無料で教室を宣伝してくれるサイトだ。仕組みは、無料で教室の広告はするが、その教室のなかで、関連する企業の広告、試供品提供などを行うというものらしい。なるほど、企業、教室主催者、生徒がウィンウインになる仕組みがここにある。これからは、趣味もニッチになっていくだろうから、これはなかなかおもしろいと思った。
2014年12月02日
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テレビを見ていたら、おもしろいビジネスがあると思った。カジノデイーラーの学校、学費70万円で、50人が参加。主催者は3500万円の収入。卒業後は、海外のカジノもしくは、日本の模擬カジノで、仕事ができるとうたう。本当に、そんなにニーズがある職種なのか。会社をやめてまで、参加している人がいる。まさしく、その人のほうが博打だ。もうひとつ、手品教室、月1回、参加料1回5000円、20人が参加、月15万円、年間では180万円。建築業が本業で、手品教室は副業だそうだ。子供の頃から、手品好きが高じて副業をはじめたらしい。一回の講義で3つのネタを教える。幾度も参加する人がいるようだ。なるほど、在庫は残らなし、場所と知識だけあればなんとかなる。この手のものは、ニッチを狙えば、まだまだ開拓の余地あり。
2014年11月26日
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唐津での二日にわたる講演から、帰ってきた。うまくいった。アンケートは9割以上が「大変、満足」とこたえてくれた。しかし、九州は寒かった。唐津と福岡は1時間ぐらい。通勤圏でもあるようだ。唐津、伊万里、有田、これらの焼き物の町が近いことにあらためて気づく。なるほど、ここは中国や朝鮮から、焼き物師たちが、渡ってきて住んだ町であることを実感する。意外と、その場に行かないと、距離感などはつかめないものだ。私も、講師は、今は片手間だけど、4月からは、講師ざんまいの生活になるのか。それとも、考えている事業を、どうはじめようかなとも思っている。いったい、どうするか・・・・暗中模索。しかし、おごってもらった佐賀牛はうまかった。女性たちの、エネルギッシュな活躍にも、圧倒される。日本中、どこへ行っても、今は、女性のほうが元気が良い。状況に心を病んだ男たち、状況を破壊していく女たち。少子高齢化がどんどんすすみ、日本中メンタルばかり増えている。都会は、都市化という幻想を永久に保ちつづけたいのか。地方は、差別化、選別化という道に救いを求めていくのだろうか。
2014年11月18日
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鎌倉学をまとめている。定期的に資料メモを紹介する。大船の熊野神社の末社の金刀比羅社には崇徳上皇が祀られている。それは1625年(寛永2年)、甘糟時綱が字神明下にあったものを境内に移したと伝えられている。その崇徳上皇について。日本の三大怨霊のひとつ、「徳」のつく天皇は、怨霊封じの意味。崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方。安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈む。順徳天皇は承久の乱に敗れ、佐渡に流されたまま亡くなった。諡号には、意味がある。諡号とは、天皇の徳を讃える贈り名である。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。また、淡海三船が、神武天皇(初代)から持統天皇(41代)、元明・元正天皇(43代・44代)までの天皇に、まとめて諡号をつけたと言われている。日本で最初の女性天皇、推古天皇は、その当時は、推古天皇とは呼ばれてはいない。この事実は、学校できちんと教えれていない。徳のほか、「武」がつく天皇。「武」は「周書」などによると、「武力が強い」「乱を治める」「法で民を治める」などの意味。建国と東征神話の神武天皇、法に厳しかった武烈天皇、壬申の乱の勝者で飛鳥浄御原令を制定した天武天皇、大宝律令の文武天皇、藤原広嗣の乱を鎮圧して国分寺や東大寺で仏教国家を目指した聖武天皇、征夷大将軍をおいて東北征伐をして平安京に遷都した桓武天皇「光」がつく天皇。「光」は「後漢書」によると、よく前行を継ぐ、という意味。わざわざ前行を継ぐと断っているのは、傍系から即位した天皇。光仁天皇は前任者(称徳天皇)と8親等の関係と完全に傍系。前任者(陽成天皇)の祖父の弟に当たる光孝天皇、前任者(後桜町天皇)から7親等離れている光格天皇。継体天皇は前任者(武烈天皇)と10親等、一番近い血縁の天皇(応神天皇)とも5親等と「ほぼ他人」で、わざわざ「継」の字が用いられている。
2014年11月10日
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「65歳定年制の罠」岩崎日出俊著この本の帯は、「それでも会社に残りますか?」だ。65歳定年の時代がやってくる。年休の支給開始が、60歳から、順次、65歳になっていく。年金支給開始が延びることにともない、サラリーマンは65歳まで、働くということになる。これは、果たして幸せなことなのか。還暦を過ぎて、働きつづけ、65歳になったとき、新しいことが挑戦できるのか。男の場合、職場や肩書きを失うと、どうなるのか。情けないものだ。まず、女性ほど、地域社会に入っていけない。男の場合、組織のように、なんらかの目的があるところでないと、生きづらい生き物なのだ。たぶん、根の深いところで、狩猟時代のDNAが、血に流れているのだろう。狩りがなくなると、目的もなくなる。自分で、首を切らなければ、どちらにしろ、いつかは、組織から首をきられることも確かだ。同窓会で、60歳までは、肩書きのある会社勤めは元気が良いが、それ以降は、自営業者のほうが、元気がよくなるというのを聞いたこともある。
2014年11月06日
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まあ、そんな感じで、 毎日、いろいろなことがおこる。 今日は、退職後、ある組織から、来ないかと言われたが、 断った。 まあ、65歳までは、そこそこの収入では働けるようだが、 そんなの関係ない。 日本中、行けるという。 まあ、そんなの関係ない。 つまり、そこで、何をやるかなのだ。 家に帰ったら、ある学校から、手紙が来ていた。 講師のお断りの手紙が入っていた。 私は、講師を、今のところ、ふたつ引き受けることにしているが、 ほかにも、どこかの大学か、専門学校で、教えるのもよいかと思い、 自己推薦の手紙を送っていたのだ。 その結果である。 興味をしめしてくれてはいたが、その手紙の内容は、 今は、少子化で、どこの学校も学生が集まるのに苦労していることがわかった。 まあ、学校の個性をだすために、選択と集中、余計な講師はいらないということのようだ。 若い人たちに、伝えたいことがあって、 薄給であることを解っていて、手をあげていても、うまくはいかない。 早期退職をして、さらに、薦めてくれる正規に働ける場所をけって、 いったい、何を求めているのだ、アトムおじさん。 金を求めず、どうする老後。 ・・・・・・・ぼんやりとした退職起業への道はつづく。 (これは、早期退職して、無様に、右往左往して生きているオヤジの同時申告ルポ的ブログです。)
2014年11月04日
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・・・・ということで、早期退職をすることにした。なにが、「・・・ということで」かわからないけれど。来年の3月には、私の勤めていた職場を去る。決めた。だから、これからは、同時進行として、心模様を書くことにする。やりたいことは、山ほどある。書きたい本は、いくつかある。いまのところ、講師依頼が2か所からある。それで、少しは食っていける。どこを軸足を置くかで迷っている。しかし、年金がでるまでに、まだ、年数がある。どうする、この危機をアトムおじさん。まあ、そんなところだ。なにが、そんなところだ。少しは謙虚になれ・・・。
2014年11月03日
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「浅草フランス座演芸場東洋館」 9月の小雨の日 ここは、かつては、ストリップと幕間のコントを売り物にしていた劇場。今は、お笑い中心。昼間から、色物演芸を観ている。今頃、皆は、一生懸命働いているのだろうと、ちらりと思う。テレビには出ていないが、おもしろい芸人が次々とでてくる。昭和天皇のモノ真似や、カンカラ三線(木と皮だけでできた本三線は、戦火で失われ、アメリカ軍から支給される食料の缶詰をボディにして三線を作った三線)での呑気節の芸など、世論との面倒を嫌い、即興性が求められるテレビでは放送されることはないだろう。ロビーには、ここから世に出た人たちの写真が貼ってある。永井荷風、井上ひさし、渥美清、コント55号、ビートたけし・・・等々。・・・とりあえず、夢があれば、死なないですむ。「<眠り>をめぐるミステリー」櫻井武著 NHK出版新書ノンレムパラソムニア(いわゆる夢遊病や,就眠後,無意識にものを食べる睡眠関連摂食障害)の話が興味深い。1987年に、カナダトロント郊外で老夫婦が殺傷された。ケンは記憶がなく、裁判では無罪。「夢中遊行」の病歴のあるケンが、睡眠時に無意識にクルマを運転して、殺意なしに殺人を犯してた。睡眠とは、意識とは。ほかに、自分の夢体験をそのまま作品として結実したベルリオーズによる幻想交響曲。ナンシークレイスのSF小説「ベガーズ・イン・スペイン (ハヤカワ文庫SF) 等、眠りに関係した芸術作品の紹介。ちなみに、小説「ベガーズ・イン・スペイン」は遺伝子操作で生まれた「無眠人(sleepless)」の話.物語のなかで,眠りは進化の過程で残った「不要なメカニズムの名残り」と位置づけられている。遺伝子操作により誕生した「無眠人」が誕生し、彼らは、一般の「有眠人(sleeper)」より優れた人間ということになっている。「絶対安全剃刀」高野文子作品集 白泉社不安定で魅力的な女性という生き物を描かせたら、抜きん出た漫画家だと思う。「おすわりあそべ」は、若い女性がひとり電車に乗り、座っていた自分の席をたち、移動していくときのモノローグだけの漫画。(わるいけど、わたし、年寄り、きらいなんだ)(わるいけど、わたし、おんな、きらいなんだ)(わるいけど、わたし、貧乏人、きらいなんだ)(わたし、うそつきがすきよ。つよい、つよい、うそつきが好きよ)(ちょっと、わたしに話かけてくれる?)(おい、そこのそいつら笑いかけるなというのに、わたしは怖い人なんだからねえ!)(自慢になるほど若くはないよ、歴然とおんなだし、お金がない。でもわたしは、強いうそつきになりたいんだ。)「東大医学部生が書いた頭がよくなる勉強法」石井大地著 こう書房「東大医学部生が書いた・・」ということが、本を売るためにプラスになっているのかどうかわからないが、「頭がよい人」は合理的でポイントをつかむのがうまいタイプか、偏執的に対象に執着しているタイプか、たいてい、どちらかなような気がする。この本の著者の趣旨は、頭のよさとは、「問題設定と問題解決の能力」。「問題設定と問題解決の能力」とは自分が何をしなければならないかを見極め(=問題設定)、それを確実に達成する(=問題解決)ことができる能力とのこと。そして、頭の使い方を決定づける3つこと。具体的には「意識 Mind」「思考 Thinking」「知識 Knowledge」。この著者は、知識を定着させるため、本を読んだらブログに書評を書くようにしているそうだ。
2012年09月29日
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「別海から来た女」 佐野眞一(著) 講談社あの検察の不思議な比喩、「雪が降って・・朝、雪が積もっていたら」の事件。佐野眞一は、もう少し文章がうまければと思う。視点も浅い。「結婚詐欺は数年前まで男の専売特許だった。・・・殺された三人には申し訳ないが、彼らにはもう少し女性に対する抵抗力や人間を見る洞察力があれば、最悪の結果だけは免れたような気がする。急速に進む高齢化社会の中で男たちはそれとはまったく逆ベクトルの幼児化に向かって進んでいる。・・・それは歳をとらせないというより、歳をとることがみっともないと思わせる社会が進行している証左のように見える。歳をとらせない社会とは考えてみれば恐ろしく残酷な社会である」「二重スパイ」キム・ヒョンジョン監督 2003年 韓国シュリ、JSAに続く南北分断をテーマにした大作と謳われ大々的に宣伝された映画。こういう映画を観ると隣の国の現実がわかってくる。1980年代は、韓国にスパイが多くいたようだ。今もたぶん、日本にも、韓国にもスパイは多いのだろう。「ブラジルから来た少年」 監督フランクリン・J・シャフナー 1978年ナチスの残党が、ブラジルに逃げた話は有名。落合信彦は、これについてローマカソリックが動いているという本があった。オデッサファイルを超えたとは、落合の弁。この映画について、以下はウイキペデア「1978年10月5日に公開された。日本では劇場未公開となり、翌1979年にテレビ放映された。本作品に対しては公開後、有識者より過度の遺伝子決定論的内容に対し批判が向けられた。そのためか、劇場公開時およびテレビ放送時は存在したラストシーンが、後に発売されたビデオソフトでは削除されている。 ビデオソフトでは、ヒトラーの遺伝子をもつ子供たちを抹殺すべきと主張するユダヤ人青年に対し、主人公リーベルマンは、子供に罪は無いと言って子供のリストを焼却してしまうところで終わるが、オリジナル版では、そのあと子供の一人が、自ら撮影したメンゲレの死体の写真を現像し、見て悦んでいる場面がある。これではまるで、遺伝子によって性格が残酷になるといっているも同然である」「情報力」 長谷川 慶太郎 (著) ISBNコード 9784763191816かつてから少ない情報で、背景まで読み解く長谷川慶太郎の眼力には驚いていた。著書の中でのその冷戦かのブルガリアで、100の質問より、効果があがった、たった3つの質問。1、工場で使う原料の搬入と製品の搬出(輸送はどうやっているのか)2、工場で使う水はどのように調達し、処理をしているのか。3、公害対策はどのようにしているのか。この3つの質問で、工場の人数、設備、能力等がすべてわかってしまうという。確かに、すべての工場で水は重要な役割をはたしている。原発のように水を蒸気に変えエネルギーにする。水で洗浄する。水で培養する。水で分析する。情報を生かす・情報を捨てる、情報力には法則がある、情報力をつけるための最重要五項目。「今日からモノ知りシリーズ 水の本 」谷腰 欣司 (著) 日刊工業新聞社続けて水についての本。不純物をのぞき、水の純度を増していくと、最後には純水になる。工場には純水装置があるところが多い。クリーンルームの加湿水にも使われている。純水は絶縁物になり、電流は流れない。魚もすめない。ほかに、ミネラルと人体の関係について。水の話は深い。
2012年09月22日
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皆様、お元気ですか?ご無沙汰も、いいかげんにしろ状態ですね!実は、わたくし、仕事を終えたあと連日スポーツジムに通っております。ランニングマシーンで走ったり、エアー自転車をこいだり、腹筋、背筋を鍛えたり、とにかく、汗だくで、くたくたに体を疲労させ、その後、深く眠る快感を知ってしまったのです。そのうえ、休日は休日で、トレイルランという、山々を走るスポーツに、没頭しているのです。ジムのエアー自転車では、本を読みながら、ペダルをこいでいるのですが、本を読む時間が集中してとれるということもわかり、すごく気に入っているのです。本は、2,、3日で1冊は読める感じです。頭と体を同時に鍛えられる。こんな、良いことはないのです。本好きの私には、至福の時間です。そんなこんなで、夜更かしのブログ生活も遠ざかっている次第だったのです。でも、heren’s さん、リンロン88さん、ほわいとさんが、こんな私のブログでも、忘れないで、書き込みをしてくれていたのは、すごくうれしいし・・・、ブログという文字でのつきあいであれ、このような上品な方々と話すのも、それはそれで、なんか、香り漂う行為なのであるのです・・・・・。
2012年09月05日
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あの日、前日に横浜から深夜バスに乗り込み、予定どおりに早朝の仙台についていた。娘とふたりで、山形にいる息子のところに行くのに、少し、仙台観光をするつもりだった。時間を有意義につかうためもあり、そこで選んだのが、深夜バスだった。山形と仙台というのは、東京と横浜のような距離感覚の場所で、高速バスを使えば1時間ほどで、移動が可能な近さだったのだ。山形に住み、仙台で働く方という方もいる。とりあえず、夕方までの時間があったので、私たちは、名所の多い、杜の都、仙台の町を観光しようと考えていた。荷物をコインロッカーにJR仙台駅のコインロッカーに預けた私たちは、24時間営業のマクドナルドに行き、モーニングコーヒーとハンバーグをつまんでいた。そして、どこを観るか、案をねっていた。青葉城のあたりを散策するのもいいし、松島のほうへ行き、遊覧船に乗るのもいいかなと思っていた。町は少しずつ、明るくなり、人の数も増えていった。荷物をコインロッカーに預けてしまったので、身軽だった。町を歩き回るときは、いつもそのようにしていた。しかし、そのことが、そのあと仇となってくるとは、そのとき、気づかなかった。荷物には、洗面道具や着替えだけでなく、地震に備えて、小型笛もつけていたのだ。数時間後に起こるあの大地震のあと、仙台駅は壊滅状態になり、いっさい入ることも、近づくことさえできなくなるとは、そのとき、想像もしなかった。
2012年01月09日
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お元気ですかお久しぶりです。いやはや、1年ぐらいブログを更新していませんでした。これはまずい・・・かな。実は、私、昨年は、とんでもないことが、次々と起こりました。まずは、3月11日仙台で、あの地震にあい、避難所生活をしておりました。それから・・・・(続く・・・・たぶん)
2012年01月05日
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姫路、明石、神戸を旅した。姫路は、これから五年間の改修工事に入るという姫路城を見るためだった。姫路城は、世界遺産でもあり、外国人も含めて、すごい観光の人だった。ホテル日航に宿泊したが、ここからの夜景の城も素晴らしかった。明石は、魚の棚商店街をぶらついただけだったが、それでも関西の商人パワーを感じた。関東からくると、関西との違いを感じる場面がいくつかある。商人にパワーというのも、そのひとつだ。魚の棚商店街では、明石のタコを、まだ、買うという、はっきりとした意思表示もしていないのに、勝手に安くしてやるからと、言うと、パッケージに盛りはじめてしまう。この強引さは、やはり、すごい。姫路や神戸にも、中国人の観光客が多いが、たぶん、彼らにも勝てるのは日本では、関西だけだろう。神戸では、異人館にも、関西商人の血を感じた。横浜の異人館は、神戸のように、すぐ横に並んでいるというより、ひとつひとつが大きくて、離れている。神戸の異人館のほうは、まずグループ化されていた。風見鶏の家のグループ、ブルーパスポートのウロコの家のグループ、そのほかにイエローパスポートのグループに別れ、それぞれが、連携して、うまく商売が成立つような仕組みになっている。ブルーパスポートはうろこの家、北野外人倶楽部、旧中国館、旧パナマ館などなどだが、このパスポートを買ったときも、、説明を聞いているうちに、特別に団体割引の料金でいいからと言われた。「あれれ、」という感じだが、なかなか、商売がうまい。そのてん、横浜など、同じ異人館が多くても、のんびりしたものだ。ほとんどが無料だし、せいぜい、異人館がレストランに利用されているくらいだ。ほかにも、関西で戸惑うのは、電車のエスカレーターの並び方だ。関東は左側に並ぶが、関西は右に並び、私も横をすり抜けていく人をふさいでしまうことが何度かあった。しかし、神戸は、ひさしぶりだった。なにせ、このまえが、阪神大震災のときだった。役所の中で、雑魚寝をしながら、ボランテイアの日々を過ごした。電車から、長田地区の復興ぶりを見た。三宮駅周辺では、様変わりに驚いてしまった。あの時は、町が爆弾でも、落ちたかのように、いたるところが破壊され、ようやく建っているビルも、どこかまっすぐには建っていないような気がしていた。今回の旅は、時間がなく、駆け足だったが、神戸はやはり、お洒落で、そして、あいかわらずスイーツは上質だと思ったのだった。
2010年03月28日
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横浜の港を、毎朝、ジョギングしている。日本大通を抜け、県庁、を抜け、大桟橋から、赤レンガや、山下公園を走りぬける。その後、仕事に入るのが日課になっている。アンチエイジングというわけでもないが、筋力と金力。老後に必要な資材としては、そのふたつは重要ではないだろうか。老いても、過去は語らず、夢を語るためには・・。そんなことを考えていた。テレビで、三浦雄一郎氏を見た。あの年齢で、チョモランマに登るために、足に錘をつけ、肩に荷物をしょって、普段から歩いていた。ネットで、記事を探した。「プロスキーヤーの三浦雄一郎さんは2003年に70歳でチョモランマ登頂を果たし、世界最高齢登頂記録を樹立。その後記録は破られるが、今年75歳でのチョモランマ挑戦には別の目標があった。後期高齢者による「アンチエイジング(抗加齢)」の可能性を実証することである。 しかし、彼も若き頃より「アンチエイジング」を目標にしていたわけでない。ある経験が彼の「尽きることのない目標追求」へのきっかけとなったのだ。プロスキーヤーとして実績を残した彼も、60歳の手前で現役引退を意識して、毎日ゴロゴロしていた頃があった。それまで鍛えた体がすぐに肥満し、高血圧、糖尿病のおそれが出てきた。山登りもまともにできなかったようだ。しかし、彼は普通の人に戻る道を選ばずにトレーニングを再開し、体を作ったのだ。彼の父、「三浦敬三氏」はかれ以上のスーパーマンとして知られる、2年前に101歳で亡くなったが最後までスキーと登山を愛し、体を鍛えていたらしい。そんな父親を見ながら、メタボ体型でゴロゴロしているわけにもいかなかったのだろう。彼のチョモランマ登頂による「アンチエイジング実証」への挑戦がはじまったのだ。」(2008.9.9 ライブドアニュース)夢があれば、生きていける。
2010年03月06日
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息子から、ひさしぶりに連絡があった。スチューデントドクターとして、いろいろな科をまわっているらしい。今週は、心臓外科ということだ。本を読んだ。最近は、医療の本も多い。「これから先もずっといっしょにいられるとおもっていたから、お前たちといっしょにいる時間のたいせつさに気がつかなかったんだ。 」『病院で死ぬということ』山崎章郎著
2010年03月02日
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わずか四小節のその旋律にさらわれて私は子どもに戻ってしまい行ったことのない夏の海辺にいる。 『旋律』谷川 俊太郎
2010年03月01日
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正月に、神社に初詣に行かれたかたも、多いが、いたるところに御霊神社という名があることが、子どもの頃、不思議だった。どうやら、怨みをいだいたまま、憤死した人は、その霊を静めるために、日本では神様になってしまうらしい。菅原道真は、太宰府天満宮や北野天満宮。平将門は、築土神社や神田明神 として神様になる。井沢元彦は『逆説の日本史 古代黎明編』の中で、出雲大社は大国主の怨霊を恐れた大和朝廷が、大国主をなだめ、封じ込めるために造った神殿であるとまで、述べている。では、その怨みのなかでも、メガトン級は? 天皇の歴史は、権力闘争の歴史でもあるのだが、そこで暗殺、変死、自殺、憤死など非業の死を遂げた天皇も多い。 * * * *「特筆すべきは、その中に呪い殺された天皇や神の怒りで亡くなった天皇、怨霊となった天皇など、異常な死を迎えた天皇がいることです。 その代表格が保元の乱に敗れ讃岐に流された悲運の帝・崇徳天皇。爪、髪、髭を伸ばし天狗のような姿で自らの舌を噛みちぎり、その血で大乗経に天下滅亡の呪いの言葉を書き記し憤死。 死後、飢饉や洪水、大火が続いたため崇徳院の祟りといわれ、鎮魂の神社や寺が建てられました。驚いたことに、孝明・明治・昭和天皇がその霊を鎮めるため祈りを捧げ、神社を建てるなど、近現代でも国家的な鎮魂が行われているのです。 強い恨みを抱いて亡くなった天皇の霊を鎮めて祀り「神」にし、その絶大な霊力を現世に活かそうとする。この日本独特の宗教観は天皇の存在と深く関係しています。」産経ニュース 2009.1.31 * * * *とにかく、この崇徳天皇の怨霊、未来永劫呪い続けるという、呪いが、あまりにすごいため、孝明天皇は幕末の騒乱を、崇徳天皇の怨霊の仕業と信じ、明治天皇は、崇徳天皇の御霊を鎮める神社を京都御所のすぐ近くに創建する。この崇徳の霊を呼び戻して、造営したのが白峯神社。発議は孝明天皇、完成させたのは明治天皇。なんたって、天皇が自らの舌を噛みちぎり、その血で大乗経に天下滅亡ですからね・・。この呪いは、超、超のつくメガトン級のため、昭和天皇は東京オリンピックの直前、昭和39年9月21日、東京オリンピック開催に際し四国の香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして、崇徳天皇式年祭(八百年式祭)を執り行わせている。そして、怨霊が日本国に祟らぬよう、歴代の天皇たちが真剣に祈ってきているというわけなのだ。このあたりは、『怨霊になった天皇』竹田 恒泰著に詳しい。瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院)
2010年01月12日
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今年は、熱い年にするトラ。
2009年12月31日
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The human heart is vast enough to contain all the world.横浜の赤レンガの前に、冬のあいだだけ、屋外スケートリンクが作られる。いくつもの若いカップルが、そこでスケートを楽しんでいる。ライトアップされた横浜の街に、カップルが多いので、今日は、クリスマスイブの晩だということに、あらためて気がついた。そこを、ビジネススーツに黒の皮コートを着込んだ私が、場違いのように、ひとりで歩いている。私は、彼らの間を、ジョセフコンラッドの言葉をぶつぶつと呟きながら、歩いていく。The human heart is vast enough to contain all the world.(人の心は、全世界を包み込むほど、広い)私はクリスマスイブの夜、ケーキが安売りに変わる時間も知っている。大人には、大人の、クリスマスイブの楽しみ方というのがあるものだ。
2009年12月24日
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あらゆること、すべては人間関係ではないかと思うときがある。 私の配偶者は、あるところで教師をしている。そこでの困ったことを、ときおり、相談される。名前でしかしらない人たちの断片的な行動を、私は頭の中で、想像する。そして、求めに応じた助言をしているときがある。後日談を聞かされる。私の助言が少なからず影響しているときもある。そんなことが正しいのか、間違っているものか、私にもよくわからない。 親族の集まりにいく。そこには、複雑な人間関係がある。人が集まれば、そりが合う、合わないがある。大きな渦、小さな渦。主張する親族、気配る親族、無関心、関心の微妙なバランスをとりながら、親族という血の集団が、人生の節目、節目に、ふいに思い出したように集う。 仕事にいく。日常的に。経済や効率の話から、形而上的や、世俗的な話までもがくりひろげられ、やがて、仕事の話より、生理的な人間関係でものごとが決まっていくときもある。皆、そこで感情をつき動かされ、おろおろしたり、苛苛したり、感動したりしている。この集団は、いったい、なんなのだ。ゼネルシャフトなのか、ゲマインシャフトなのか。 すべてを放擲したくなる夜がある。 このまえも、そんな夜がきて、インターネットで、ラサからネパールに入国する手段を探っていた。 夢は、枯野をかけめぐる。
2009年12月16日
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「風という名前をつけてあげました。それから彼を見ないのですが。」「内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす」「雨になるゆめをみていたシャンパンを冷蔵庫深くにねむらせて」「葉桜を愛でゆく母がほんのりと 少女を生きるひとときがある」2004年インターネット上の短歌サイトにて作歌を始めた若者がいる。15歳のころから「身体表現性障害」という難病になる、寝たきりとなる。若者の名は筒井宏之。彼は携帯電話で歌をつづり始めた。2005年に「数えてゆけば会えます」で第4回歌葉新人賞を受賞。馬場あき子に「出色の才能」、高野公彦に「詩的な飛躍があって透明度が高い」ときわめて高い評価を受けた。「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください」彼は、インターネット短歌界から生まれたほとんど最初の歌人として将来を嘱望されていたが、心臓麻痺により26歳で夭折した。
2009年12月06日
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山形県の米沢から、鶴岡、そして酒田に旅をしていた。どこもよかったが、酒田の町は、おもしろかった。大人になったらしたいこと。「大人の休日倶楽部」で吉永小百合がポスターで宣伝しているところだ。この広告の中で、舞妓さんなど酒田に残る東北に根づいた京文化の訪ねている。「1672年、河村瑞賢が西回り航路を整備すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び、奥州屈指の港町として発展した。日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は三十六人衆という自治組織により運営されていた。1689年(明治-178年)6月13日 に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。 」 ウィキペデアより西回り航路が京都の文化まで運んできたのだ。酒田の町を歩いた。黒い壁がつらなる山居倉庫は、かつての港町の賑わいを想像させるが、ほかにも、いくつかの料亭あと、とくに老舗料亭山王くらぶの二階にあがると、その大広間の大きさに驚いた。この料亭の豪華さは、かつての港町の繁栄の凄さを感じることができる。映画「おくりびと」も、この町で撮影されたが、主人公の勤める葬儀社、NKエージェントは、その建物のもつ存在感に独特なものがあった。ここは旧割烹小幡の建物だ。ロケ地の観光コースになっていて、中に入ることできた。そして、港座。ここも映画の中に出てくる場所だ。寂れた商店街の中にあり、探し出さないとわからない。古い階段をのぼり、扉を押すと、ひとりの青年が出てきてくれた。そして、劇場の中を案内してくれた。最近、映画「おくりびと」の影響もあり、復活したそうだ。「かつて「東北一の劇場」と呼ばれ、2002年に閉館した酒田市日吉町1丁目の映画館・港座が来月、再開することになった。映画「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が米アカデミー賞外国語映画賞に輝いたことをきっかけに、ロケ地の一つの港座に多くの観光客が訪れている。この盛り上がりをマチの活性化に生かそうと、住民有志が立ち上がった。」山形新聞2009年5月10日まあ、復活といっても、月に1本の状態のようだ。しかし、この港座、中に入って驚いた。小さな入り口のくたびれた映画館なのに、中に入ると奥行きがあり、スクリーンが3つ、3つの劇場があるのだ。その当時は、最先端のシネコンだったと思う。このあたりの凄さもかつての栄華の片鱗を感じさせるのだ。莫大な富と、蕩尽、それが文化には必要なものなのかもしれない。
2009年11月29日
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ある肩書きのある人のデスクの上に、相田みつをの言葉の紙が挟まれていた。「夢はおおきく、根は深く」これも、デスクに挟まれていた言葉だ。「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」 松下幸之助ほかにも、こういう言葉を見かけたことがあった。「三毒」1、妬まない。2、愚痴らない。3、怒らない。たぶん、仕事でぶつからずたびに、自問自答していた言葉なのだろう。私は、仕事をしているとき、他人のビジネスデスクの上を覗き込むのが、けっこう好きだ。ふと目の置かれる位置あたりに、このような、お気に入りの言葉、銘を挟んでいるのだ。私は、それを読んでは、心の中で微笑んでしまう。その人がずっと身近になり、その人間性に、そっと触れられたような温かさまで感じることもあり、あらためて、その人を好きになるのだ。仕事をしたり、生きているだけで、人は辛いことに出会う。立場が生まれ、多くの人に指示をする。また、大きな仕事をして、苦渋の決断をせまられるようになると、誰もが、その現実の重圧に耐えるために、言葉を探しはじめる。そして、自分なりの言葉を見つけ出しては、感情を克己したり、慰謝したりしながら、絶望や挫折を食い止めているのだと思う。前々回の書いた日記に、かまくら★よろずやさんから、コメントをいただいた。かまくら★よろずやさんは、以前からブログをリンクしている仲間で、最近は、議員になられた。街頭で、ひとりでビラを配っているのが、印象的だった。そのよろずやさんから、以下のようなコメントをいただいた。「アトムおじさんの日記は何時も本当に為になっています。特に以前の日記で、勝者は間違ったときには「私が間違っていた」と言う。敗者は「私のせいではない」と言う。というのをご紹介いただいていましたが、以前、新市長とこの文章についての話をした事があります。私は選挙の間この文を何度か読み返して、心のささえにしていました。」うれしかった。選挙の間この文を何度か読み返してくれたのが、うれしかった。新市長とともに、新しい時代を創っていける人だと思った。作家の中谷彰宏は、こう書いている。「運のいい人とは「いい言葉にめぐりあえる人」です。人にめぐりあえるのとおなじくらい「いい言葉」にめぐりあえることは大切です。「いい言葉」こそが、運なのです。「いい言葉」には、言霊があります。どんなに素晴らしいことを考えていても、それが言葉にならないと不完全燃焼で終ってしまいます。もやもやした思いを、ことばにした瞬間に、言葉は、言霊となります。人が、言葉を発するのではありません。言霊が、あなた自身を、生み出すのです。」
2009年11月11日
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「彼女は毎日、午後1時に賭博台に姿をあらわし、きっかり2時に引き上げる。毎日、1時間ずつ勝負をするのだった。彼女はポケットから金貨を何枚かと、千フラン紙幣を何枚かとりだして、静かに、冷静に、鉛筆で紙に数字を書きとめて、その瞬間にチャンスの集中する体系を発見しようと努めながら、十分な計算のうえで賭けはじめるのだ。」ドフトエフスキーに「賭博者」という魅力的な作品がある。 賭博には、言い知れぬ魔力がある。 日本でも、賭け事というのは、禁止されながらも人々のあいだで連綿としてつづけられる。その中でも日本の中世には、変わった賭け事。茶の味を見極める賭け事が流行していた。闘茶。闘茶で、身を滅ぼした者や、巨万の富を築き上げた古人が、存在していたようだ。そんな人間たちに、かつてから気になっていた。そして、闘茶について、ネットのウィキペデアネットで調べていると、どんどんと脇道に入り込み、中世の日本の風俗に、はまってしまった。以下が、その道程。「闘茶とは、中世に流行した茶の味を飲み分けて勝負を競う遊び。日本では回茶・飲茶勝負・茶寄合・茶湯勝負・貢茶、中国では茗茶・銘闘などの異名がある。中国の唐代に始まって宋代に発展したと考えられているが、日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自の形式を確立させた」「日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、鎌倉時代に入ってからである。後期に入ると各地で茶樹の栽培が行われるようになったが、産地間で品質に差があった最高級とされたのは京都郊外の栂尾で産出された栂尾茶で、特に本茶と呼ばれ、それ以外の地で産出された非茶と区別された。最初の闘茶も本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始められた。」「闘茶に金品などの賭け事が絡んだこともあり、二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されている程である。」「東山文化へと移行していく15世紀中頃からこうした闘茶は衰退の様相を見せ、更に村田珠光・武野紹鴎・千利休によって侘び茶が形成されていくと、闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されるようになっていった。それでも、闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、また侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きが現れた」「かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596~1643)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。」「当時、男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかしかぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した。」「多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪うなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元で喧嘩や刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった」衆道とは何?「衆道とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。別名「若道」、「若色」。平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。」「日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には「女犯」という僧侶が女と性交する事(女色)を忌避するものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者たちである)。近代までの俗説的な資料によれば衆道の元祖は弘法大師空海といわれている。」「江戸時代においては陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ『東海道中膝栗毛』発端には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、『好色一代男』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。」「このように日本においては近代まで男色は変態的な行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為とは見なされず、男色を行う者は別に隠すこともなかった。しかし江戸時代後半期に入ると衰退し、幕末には一部の地域を除いてはほとんど廃れ、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視されるようになった。」これだから、ネット検索で、今夜も眠れない。
2009年11月08日
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おひさしぶりです。長いこと、ブログを更新していませんで、申し訳ございませんでした。まずは、私のオフィスが、横浜の関内、横浜スタジアム、大黒ふ頭あたりに引越したこともあり、その事務所の移転騒ぎで、ごたごたしておりました。職場の引っ越しを含めて体制の大幅変更が行われ、それに対する処理、さまざまな人間関係の調整、さらに恒例の地方に講演や、DVDの監修、本のチェックなど、仕事は怒涛の忙しさでした。しかし、それはそれで、楽しみを見つけるのも、私の得意とするところです。忙中暇あり。昼休みは、アトリエめぐりや、横浜の歴史的建物の一室で、ひとりでぼうっとしている時間を至福の時間と感じています。職場の周辺には、県庁や横浜地方裁判所などが立ち並ぶ日本大通りがありますが、ここでは映画の撮影もしょっちゅう行われています。俳優もずいぶん見かけるようになりました。最近、見かけたなかでは、加藤ローザが、すごくかわいかったです。仕事を終えたあとは、夜の横浜港をジョギングするのも習慣になっています。これが、また最高なのです。ライトアップされたベイブッリジや、赤レンガ倉庫、日本丸、氷川丸、山下公園などの横を走りぬけていきます。そして、汗をかいたあと、最後の締めは、山下町の銭湯に行きます。このまえ、いつものように銭湯に行ったら、パキスタン人ばかりでした。日本の中古車の買い付けに来ているようです。このあたりは本牧埠頭に近いので、ここを拠点にしている外国人業者もずいぶんいるようです。彼らは溶接の技術がすぐれていて、日本車のエンジン部分をはずしたり、とりつけたりしながら、大きさをあわして改造しているようです。異業種交流というのは、実は、すぐに身近なところでできるものです。銭湯をでると、フランス坂の横をすぎ、元町を歩いて帰ります。ブランドショップが並ぶ夜の元町商店街は、外国の街のようで、これが、また、とても美しいです。このまえの帰り道は、ちょうどハロウイーンで、仮装した子どもや大人たちで溢れかえっていました。横浜は、とても美しい街です。これからは、横浜の西洋館もクリスマスにかけてライトアップされるはずです。「この街は、七つの海の贈り物」そういえば、かつて、この街が、そんな紹介をされていたことがありました。
2009年11月06日
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昨年、父が亡くなったこともあり、正月らしい行事はできないこともあったので、家で年末年始を家で過ごすことはやめて、静岡県の御前崎のホテルで、新しい年は迎えた。父の葬儀のあとは、年末の仕事の忙しいことに加え、父の49日や、墓への納や、父の死に付随する遺産処理の手続きなどで、ただただ慌ただしい日々が過ぎていった。御前崎のホテルの部屋からは、海からあがる初日の出を見ていた。御前崎は、半島なので、夕日が沈むのも、朝日があがるのも、両方見ることができる。太陽は、海から、上がり、海に沈んでいく。そんな、景色を、ぼんやり眺めていた。昨年の年末から、今年の元旦にかけては、ホテルで、そんな過ごしかたをしていた。ところが、鎌倉の自宅に帰ったあとだった。正月の三が日を過ぎたあたりだ。また、縁者が亡くなったのだ。急な電話で、深夜、車を走らせ、病院へ向かうような出来事があった。そして、またもや、死の場所へ立ち会うことになったのだ。骨を拾うことを、毎月のように行うことになってしまった。つい、数日前に会って、話をしていた人間の死だった。このようなことが続くと、生も死も、実は境が曖昧なうえ、ほんとうにすぐ近くのものでもあり、ふと、足をすべらせた拍子に、誰でもが、向うの世界へ行ってしまうという危うさを、感じずにはいられなかった。
2009年02月01日
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父が、午睡から醒めたようだった。むくりと体を起こして、しばらくは呆然としていたが、そのあと、激しく身を震わせていた。したたかに飲んだ強い酒のためか、悪夢を見たようだった。その悪夢を思い出したのか、しばらくは、身を震わせていた。このところ、父は深酒をしては、眠りと目覚めを繰り返していた。そして、昼夜を問わず、外を徘徊することもあった。父は仕事をしていなかった。父は働くという行為を、ときおり放擲した。それは、珍しいことではなかった。職場で人とのおりあいがわるくなると、あたりの人間に、妙な言いがかりをつけては、揉め事を起こした。そして、やがて、自分が辞めるはめになるようにおいこんでいった。「あいつら、何もわかちゃいない。」それが、父の仕事をやめたときの口癖だった。「まだ、捨ててこないのか。」父は縁側にいた少年に、声をかけた。それは、少年が拾ってきた小犬のことだった。父は、赤い毛をして痩せ細り、不甲斐ない声をあげる、その小犬を嫌った。「なんて情けない目をした犬だ。」父はつづけた。「この家では、犬は飼ってはいけないと言っただろう。とにかく、捨ててくるんだ。」少年は、小犬の体を抱いた。「いいか。犬を飼っていることがわかったら、この家にはいられなくなるんだぞ。」少年は、小犬を抱きしめた。「犬の捨て方を知っているか。」父は言った。「その犬が、この家の場所を覚えないように、とにかく遠くに捨てにいくんだ。そして、したたかに殴れ、哀れむなよ。」「・・・・・。」「血がでるくらい、殴れるか。」「・・・・。」「いいか、捨てるとは、そういうことだ。犬に少しでも食べ物をあげたり、悲しんだ顔をするな。おまえは、嫌われ、憎しまれるようにしなければいけないだ。」「・・・・。」「飼えもしない犬を拾ってきたんだ。みんな、おまえの責任だ。」父は言った。「いいか、半端なことはするな。」それから、少年は、父から追加の酒を買うための金を受取ると、拾った犬をかかえて、どんよりとした重い雨空の中を出て行った。
2008年12月15日
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「ゆらぎ。」「え?」「その空欄に入る言葉は、たぶん、ゆらぎだよ。ちょうど、三文字だろう。」隣りから、ふいに、声をかえられた娘は、訝しげな顔をした。「・・・・ゆらぎ。」娘はホームの階段の壁にもたれながら、ゲーム機で、クロスワードを解いていた。秋の午後だった。「この宇宙が生まれたのは、ビッグバン。では、なぜ、ビッグバンが生じたか。」「・・・・。」「「無の状態」に生じたほんのわずかな「ゆらぎ」がビッグバンを生んだんだ。」「・・・。」「宇宙が生まれるまえ、この世界は無だった。そして、その、まったくの無の状態に変化が起きた。」「・・・ゆらぎ。」中年の男は続けた。「このゆらぎのことを、神の一撃とも言う。」娘は、口元をゆるませ、眉をあげた。中年の男は、背広を着たサラリーマンだった。安物のカバンを持ち、日中は、どこかで営業まわりをしているような風体だった。中年の男は、そのあと、ひとりごちた。―そういえば、若い娘から、同じような笑い顔をされたことがあるんだ。やはり、このような駅のホームだった。あのときは、私から、話しかけたわけではなかった。隣りに立っていた、若く綺麗な娘さんから、ふいに、私にむかって、このうえない笑い顔を向けられたのだ。この笑みは何か。いったい、どういうことなのだ。その意味を思案していたときだった。刹那。笑顔の娘さんは、そのまま、ホームから飛び降りたんだ。電車が、そこに走りこんできた。周囲は騒然となった。呆然としていた。私は、そのあと、駅員に腕を捕まえられ、さらに警察の取調べをうけた。私が、突き押したと思われていたようだった。警察の執拗な取調べをうけた。周囲で見ていた人がいて、容疑は晴れたが、私のほうは釈然としなかった。警官の言葉に、私が、もしかしたら、突き落としたかもしれないと、思い始めたのだ。周囲の人が、目撃証言をしてくれてはいるが、果たして、あれは真実なのだろうか。本当は、私が突き落としたのかもしれない。周囲が、私を哀れんで、かばっているだけなのかもしれない。私とその娘とのあいだに、数瞬であれ、何か諍いがあったのかもしれない。記憶を、無意識の中に埋もれさせてしまったのかもしれない。無意識は、怖い。無意識は残酷だ。無意識は豊穣だ・・・・・。「ゆらぎ。」そのあと、娘は、中年の男に向かって、美しい笑い顔を見せた。
2008年12月08日
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遺体になった父のそばで、娘が泣いていた。娘が作った千羽鶴は、動くことなく、そこにあった。「葬儀社は、決めていらっしゃいますか。」「いや、決めていません。」「もしよろしければ紹介しますけど・・」「お願いします。」看護士の女性と、そんな会話をしたあと、遺体の父の口を開けた。入れ歯を、そこにはめ込むと、かつての元気だった顔に、少しもどった。私は、弟と父の髪に櫛をいれた。葬儀社の人が、数人やってきた。父の遺体は病院の霊安室に運ばれることなく、車に乗せられた。その運ばれるあいだ、看護士は、通り過ぎていく病室の部屋のドアを、素早く閉じていった。父がひさしぶりに、家に帰ってきたが、今度は、遺体となっている。父は奥の部屋に寝かされた。その姿を見ると、とても死んだ姿とは思えなかった。声をかければ、今にも、起きてきそうだった。やがて、ころあいを見計らったように、葬儀社の人が声をかけてきた。テーブルを囲み、話がはじまった。葬儀への列席者はどのくらいの人数になるのか。いくつかの質問がされた。そして、葬儀場の場所は、こことここなら、いついつが空いているけれど、友引や、火葬簿の都合なども素早く教えてくれた。地方からの列席者が多いのなら、ホテルは、何部屋までなら、押さえてあるとも言われた。言葉に気をつけながらも、的確に日程などが決まっていった。通夜の日取りが決まった。今晩ではなく、一夜、ずれることになった。宗派は、どこの宗派なのか。お坊さんは、どのようにするのか。私は、自分の家が檀家になっている寺に電話をかけた。まえまえから、交通費や宿代を出しても、葬式には呼ぶつもりでいたのだ。しかし、その寺の住職は、予定表を確認しながら、ちょうど、その日は別の葬儀がはいってしまってと、電話越しにお詫びの言葉を言われた。葬儀社も手馴れたもので、仏教の宗派さえわかれば、近所の寺で、その宗派の僧侶を呼ぶことができる仕組みになっているようだった。田舎の僧侶からも、それに従うのに依存はないようで、戒名は、そのあとファックスで送られ、通夜の晩には、同じ宗派の僧侶が、それを読むことになった。葬儀社との打ち合わせはつづいた。ほかにも、斎場の花、骨壷、霊柩車の種類、香典返しの品もの選択など、矢継ぎ早に、その場で、決めていくこととなった。声をかける親戚や職場、近所の人間関係について、頭がよぎった。葬儀とは、結局、そういうものなのだということがわかった。現代の都心では、葬儀が地域社会の儀式、儀礼とは切り離されたものになっている。地域社会で葬儀を手伝いあうことはない。しかし、式としての葬儀は、存在する。火葬場、葬儀場、宿泊ホテル、僧侶の日程調整、車、贈答品、花、棺桶などの手配など、ふいに発生したこと物理的状況に対しては、可及的すみやかに対応して、処理することが求められるということなのだろう。「あとで、ご遺体のドライアイスの交換に参ります。」葬儀社の青年は、礼儀正しく、頭をさげた。父の亡骸に、人が集まっている。葬儀の、この多忙さは、悪いものではないのだろう。
2008年11月11日
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あれから、数週間ほどの時間が、またたくまに過ぎていった。父が死んだのだ。あの日、早朝、病院から連絡があった。今、危篤状態である。すぐ、来てほしい。そう言われた。母を車に乗せて、病院へと急いだ。今年の2月からの入院だった。父は、はじめは口からの食事もできていたが、やがて、それすらできなくなっていた。父は脳出血で入院したが、入院中も何度か、脳出血を繰り返した。そして、そのたびに、反応が悪くなっていった。最近は、自ら声も出せず、目も開けず、あらゆる反応がなくなっていた。老木が、最後に、ゆっくりと倒れていくようだった。病院に着いた。早朝なので、扉がすべて閉まっていた。インタホーン越しに病院の職員を大声で呼び出し、急いで、扉を開けてもらった。病院の行動の、すべてがもどかしかった。病室に入った。父は個室に移されていた。その個室は静かだった。ほどなく医師が現われ、説明を受けた。脈がなくなっているのを感じ、心臓マッサージを施したが、間に合わなかったことが告げられた。医師は誠実だった。そのときの様子を細かく伝えてくれた。私は父の顔の頬のあたりに手を置きながら、医師の話す言葉のひとつひとつを聴いていた。父の頬のあたりは、まだ、暖かかった。父の体温が残っていた。しかし、医師の話を聞いているあいだ、少しずつだが、体温の下がっていくのを感じた。死の直前には、立ち会うことは出来なかったが、まだ熱があることで、まだ、残っていた父の生を感じようとしていた。頬のあたりの熱がひいたあとには、まだ、首筋のあたりに、少しだが、熱が残っていた。この熱が消えるとき、父が、ほんとうに死ぬときなのかと思っていた。「この熱も、やがて消えるのですね。」なんとなく、医師にそう言ってみた。私の頬に、涙が流れ落ちていくのを感じた。早朝だった。葬儀の用意をしなければならなかった。父の遺体を家に迎え入れるために、母は、家に戻っていった。病院の窓の外では、いつものような通勤に向かう人たちの姿が見えていた。いつもと同じ朝だった。私は、前日の見舞いに来たときのことを思い出していた。父は、ここ数週間は、言葉も声もでなくなっていた。それが、その日は、声をあげたのだ。私は耳を疑った。それは、声というよりは、搾り出すような呻き声だったのだ。あの声は、いったいなんだったのか。ただ、苦痛を訴える叫喚だったのかもしれないが、いつまでも、私の耳の奥には残っていった。
2008年11月09日
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バックパッカーのあいだで、旅の最後に定住したい場所が話題になることがあった。たらふく時間があった若い時、安宿で、うだうだと夜更けまで、知り合った旅仲間と、そんな話をしていたことがある。物価が安いこと、風景がよいこと、治安がいいこと、人がやさしいこと・・・。この世の天国に近い場所だ。そのとき、いつも上位に名前があがる場所に、日本の沖縄の島々と、ネパールのポカラがあった。「ポカラもいいけど、やはり、本物の天国は、チベットのポタラかな・・。」ネパールのポカラは、その当時から観光地化していた。ヨーロッパのバックパッカー向けの小奇麗な店もできはじめていた。世界は、同じ方向に流れていく。今、チベットのポタラも、最近は観光の波が押し寄せているようだ。沖縄が、かつての琉球でなくなっていくように。 * * * * *日本には海の彼方に不老不死の楽土、常世(とこよ)があると信じられていた。琉球では東方のニライカナイ。仏教では不老不死の観音浄土は南の海上にあるポタラカ山だとされてきた。このポタラカは漢字で「補陀洛」と書き、海を渡って補陀洛を目指す修行を補陀洛渡海(ふだらくとかい)と言う。 チベットのラサにあるポタラ宮はポタラカから来ている。ちなみに日光もこのポタラカから来ている。ポタラカ→ポタラ→ふたら→ふたあらし→二荒(にこう)→日光(にっこう) * * * * *男たちは死ぬと海の向こうの遠い国、ニライカナイに行ってしまい、いつ帰ってくるかわからない。しかし、神となった、鳥となった女は死んでニライカナイにいってもすぐ、彼女たちがそこで生まれそこで神となった、祖先の霊のいるウタキに舞い戻り、そこに永久にとどまって末永く故郷の島の子孫たちを守るのである。『日本冒険』梅原猛著作集 * * * * *沖縄にはニライカナイという信仰があります。それは海の彼方のあの世を言うらしいのです。私はニライカナイというのをアイヌ語で解釈する。ニライ、根の下のところ、カナイ、空の上のところ、ということになりますが、それは根の下であるとともに、空の上である。根の下、夜の極点か[が?]、空の上、昼の極点になるのです。こういう根の下と空の上、夜と昼とが出会うところだと思います。大変哲学的な概念ですが、原始人は意外に哲学的なんです。『日本冒険』梅原猛著作集 * * * * *「ニライカナイ」は、琉球国の首里王府が1531年から1623年にわたって編纂した『おもろさうし』に出てくる概念だが、「ニライ」と「カナイ」は本来別概念で、中国風に対句を形成しているだけである。伝承ではただ「ニライ」と呼ばれる。「カナイ」は、中国の陰陽二元論の影響を受けて、後から付け加えられたものなのだろう。南西諸島では、「ニライ」は単独で「あの世」を指す。沖永良部島では「ニラ」、喜界島では「ネインヤ」、奄美大島では「ネリヤ」、沖縄本島では「ニルヤ」と呼ばれるが、概念としてはみな同じである。それは、梅原が正しく認識しているように、そして現地の人がそう信じているように、根の下にある国である。柳田國男は「ニーラ」は「遠く遥かな」の意であるとし、「遠く遥かな所」と解釈したが、それは、海の彼方に向かって水平方向に遠く離れているわけではなく、文字通り根が生えている方向に、すなわち垂直方向に遠く離れていると解釈するべきである。だから、ニライは、記紀神話に登場する常世国や根国(ねのくに)や黄泉の国と同じ地下世界である。イザイホーで女が鳥になるという解釈を認めたとしても、それは直ちに「あの世」が天の上にあることを帰結しない。神女は、鳥となることで、太陽の穴(てだがあな)を通って、あの世とこの世を自由に行き来しようとしていたのではないだろうか。『あの世は縄文時代どこにあったのか』永井俊哉
2008年10月19日
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前回に続き、性淘汰について考える。性淘汰は、異性をめぐる闘いを通じてある形質が進化して行く現象である。クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにチャールズ・ダーウィンが提唱している。再度、確認する。性淘汰は、自然淘汰とは異なった行為である。 * * * * *ランナウェイ説とは、性淘汰の際に配偶者がどう選択されているかを説明する仮説。雄(雌)のある形質に対する雌(雄)の好みが、ある程度以上の頻度で集団内に広まると、その形質を持っている雄(雌)しか配偶相手として選ばれなくなるプロセスが働くと考える。ランナウェイプロセスにより獲得した形質は装飾的で実用的でない場合も多いとされる。生存競争等の側面から見ると、雌(雄)は必ずしも良質な雄(雌)を選んでいるわけではないことになる。サンコウチョウの雄は非常に長い尾羽を持つが、これは長い尾羽をもつ雄の遺伝子と、長い尾羽の雄を好む雌の遺伝子が互いを選択するため、集団の中に広がった結果を見ているのであり、ランナウェイ説の証拠として取り上げることができる。雄の尾羽は飛ぶのに不都合であるように見えるぐらい長いが、繁殖に有利であり(配偶相手の雌を得られる)、その他の淘汰要因(例えば捕食者に見つかりやすい)が尾羽の伸びを抑えるように働くまで長くなる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 * * * * *性淘汰におけるハンディキャップ理論とは、1975年にイスラエル人の生物学者アモツ・ザハビによって提案された動物の個体が生存の可能性が減少するような形態や行動の理由を述べた理論。典型的な例として挙げられるものとしてガゼルの行動がある。ガゼルが捕食者であるライオンやチータによって脅かされるとき、ガゼルはまず最初にゆっくり走り、非常に高く跳ねる行動を示す。動物学者は捕食者に見つかりやすくなるこの行動の理解に苦しみ、その行動は他のガゼルにチータの存在を知らせているかもしれないと考えていた。しかし、ザハビは各々のガゼルが示すこの行動は、他の仲間より自分が健康で調子が良い個体であるということを捕食者に示し、捕食者がそれを追うことを避けなければならないようにするために行なっていると主張した。この主張は捕食者が健康な個体を追いかけることは、最終的には実を結ぶことのない追跡となり、無駄なエネルギーを避けようとする捕食者への回避になるというものである。捕食者であるチータは、ガゼルの行動から健康か健康でないかという情報を得て、捕獲する際の難易度を図らなければならないということである。良い調子のガゼルだけがチータにそのような利点を正確に伝えることができて、生き残るための優位性を得ることができると考えた。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 * * * * *性淘汰は、自然淘汰とは異なった行為である。性淘汰によっても、種は、その姿を変化して、進化していく。江戸時代の美人画が、現在の美人の解釈と異なっているのはなぜか。浮世絵画という、その当時の最先端の視覚メデイアが美人の定義を作ったのか。それならば、テレビ放送を中心とした視覚メデイアの存在が、現在の美人の定義づけをしているのか。それならば、テレビ放送は性淘汰に影響を与えているのか。 * * * * *
2008年10月05日
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我々は、異性に恋をするが、その時の基準とは何なのか。日本では、女性雑誌アンアンで、なぜ木村拓哉が何年も魅力的な男性に選ばれつづけるのか。アメリカ、フランス、イタリア、インド、ベトナム、中南米、アフリカ、さまざま国の雑誌の表紙を飾る美男、美女の基準が違う。日本人には、日本人の潜在意識に潜む基準があるのか。それとも、人類共通の基準が、はたして存在しているのか。DNAに、どのように操られて、我々は恋をする相手を選んでいるのだ。性淘汰について考える。 * * * * *性淘汰は、異性をめぐる闘いを通じてある形質が進化して行く現象である。クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにチャールズ・ダーウィンが提唱した。性淘汰は、自然淘汰とは異なる。自然淘汰は性別・年齢を問わず、個体の全体的な状態によってもたらされるからであり、また性淘汰によって進化した形質の多くは装飾的であまり実用的な物ではない。ダーウィンはヒトの男性の髭や、他の哺乳類に比べヒトの体毛が少ない点なども性淘汰によって進化したと考えた。女性は男性よりも体毛がさらに少ない事から、有史はるか前には男性の側に選択権が有ったと考え、また「体毛が少ない事」が男性による性選択の対象になったと考えたのである。これは雄の側による性選択の数少ない例ともなる。彼は、自然選択によってはヒトの無毛性が説明できないと考えた。ジェフリー・ミラーは、今まで注目されなかったダーウィンのアイデアから、生存に直接関わらないヒトの行動のうち多く(ユーモア、音楽、視覚芸術、言語創作能力、そしてある種の利他的行動)が性淘汰によって獲得された求愛行動であると言う仮説を立てた。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008年09月28日
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そうえいえば、私にも、こういうことあったよな。映画「ターミナル」を観ながら、ふと、昔のことを思い出していた。 * * * *映画「ターミナル」「クーデターによって祖国が消滅してしまったヨーロッパのクラコウジア人、ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、アメリカの空港にて足止めを余儀なくされる。その足止めの期間は数か月にもおよび……。スティーヴン・スピルバーグ監督が“空港から出られなくなった男”にスポットをあてて描いた感動のヒューマン・ドラマ。主演にトム・ハンクスとキャサリン・ゼタ=ジョーンズという大スターの演技が、空港という限られた空間での人間関係に深みを加える。実際に建設された空港内のセットには実際にテナントも入り、本物そっくりの精巧な出来。(シネマトゥデイ)」 * * * *学生の頃だ。九州の屋久島に登った帰りだった。屋久島から、フェリーで鹿児島に渡った。山に登り、体は疲労している。とにかく、早く家に帰りたかった。これから、鉄道を使い、寝台車でも時間がかかる。飛行機なら、早いのだが、しかし、金がない。若い時は、時間はあっても、とうにかく、金がない。今でも、このシステムは、あるのだろか。その頃、飛行機には、スカイメイトというのがあった。飛行機の便に空き席があれば、学生は半額料金で乗れることが可能だったのだ。今のようにネットでの安売りチケットのない時代の話だ。このシステムは、貴重でおいしいシステムだった。私は、スカイメイトで、羽田行きのキャンセルを待つことにした。朝から、飛行場のターミナルをうろうろとしていた。羽田行きの便の出発時間がくるたびに、カウンターに空席がでたかを確認にいったが、なかなかイエスと言ってくれない。ちょうど、季節は、3月で帰郷や人事異動、受験の時期と重なっていたのだ。朝一番から、いくら待っても羽田行きの空席が出てこない。私は、空港ターミナルの店を覗きまわった。そこには、うまそうなレストランがいくつもあったが、映画「ターミナル」の主人公のように金がない。映画と同じように、ただ、眺めるだけだ。しかたなく、たまに屋上に行き、飛び立つ羽田行きの飛行機を眺めていたりもした。結局、一日待っても、飛行機のキャンセルはでなかった。しかたなく、翌日に期待することにした。山から下りてきているのでテントはある。空港の横の空き地を見つけると、そこにテントを張った。テントからは、鹿児島空港の灯りが見えた。頭上には、飛行機が飛んでいった。その流れる光も、ぼんやり眺めていた。翌日も、ターミナルをうろうろとしていた。やることといえば、カウンターに行って空席の確認をするだけだ。登山靴を履き、リックを持った私は、有名になっていた。空港の女性職員たちとも顔なじみになっていた。今日は飛行機に乗れると好いねえと声をかけてくれるような仲にもなった。しかし、ターミナルのすみからすみまで眺めてしまった。トイレの細かな場所もわかり、ターミナルの中の目新しいものもなくなってしまっていた。映画「ターミナル」では、主人公が、そこで金を得る手段まで見つけてしまう場面がある。あのシーンでは、そういう手があったかと、妙に関心をしてしまった。数日、ターミナルで過ごしたが、結局、私は飛行機には乗れなかった。しかたなく、鹿児島から、鎌倉まで、各駅停車の電車で帰ることになった。途中下車しながら、駅で寝泊りして移動していったのだが、これはこれで、また、おもしろいことにはなった。
2008年09月15日
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以前、仕事で交渉している、ある意味、敵対関係のような相手から、ふいに、「あなたは、マラソンをやっているのか?」と言われたことがある。私が、趣味でジョギングをしていることなど、彼には話したことはない。そして、私が驚く顔を見たいという感じなのだ。私の本名をネットで検索すると、いくつかのマラソン大会での記録が表示される。私が、どういう人物か調べているうちに、そのことがわかったのだろう。とりわけ、驚く話ではない。私の兄弟や親戚縁者の本名をネットで検索することがある。これが、けっこうおもしろい。兄弟や親戚の者たちが参加したり、講演しているシンポジウムや、学会での様子など、最新の情報が、いち早く、わかってしまう。ほかにも、モトクロスのレースに凝っている従兄弟は、外国でのレース結果まで出ていた。会うことは、葬式など、特別な機会が多くなっているが、ひさしぶりに会って、ふいに話をふると驚かれることがある。従兄弟に外交官がいるのだが、それがブログを書いているのを、最近、知った。ある国で、いっしょう懸命、仕事に励んでいると思ったら、そんなことをしていた。もちろん、ブログには、いっさい仕事のことに触れたことは書かれていない。うまく、隠しながら、自分の趣味の音楽のことや、赴任地の歴史の分析などを書いている。すごく気をつかっているのがわかった。外務省というのは、華やかのようで、大変な職場なのだ。まず、赴任地が決まっても、そこまでの飛行機のチケットは、当初に出ないので、自分で用意しなければいけない。そして、赴任地で家を借りるときも、自分で、そのお金を、先に用意しなければならない。だから、お金を借りて、赴任国へ行く準備をしているというのが現状なのだ。そして、とんでもないお仕事が待っている・・。結婚前の、小和田雅子さんのスケジュールを見たことがあるが、深夜1時、2時の帰宅はあたりまの激務で、とんだスーパーレディで仕事をこなしていたことがわかる。しかし、この巷にあふれたブログも、書いている人の背景は、きっと、さまざまな人がいるのだろうなあ・・・。
2008年09月06日
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お盆が、終わった。先祖の霊は、また黄泉の国に帰っていったのだろうか。私の父は、あいかわらず病院のベッドで臥せている。私のことは、解っているのか、解っていないのか、わからない状態だ。入院も半年になる。今では、老木がゆっくりと倒れていくような感じだ。このまま、ゆっくりと死を受けいれていくのかもしれない。突然の死も、緩慢な死も、死には変わりはないが、残された人々の心には、微妙な気持ちの変化を起こさせていく。きょう、自死した友人の母親から、電話があった。少しは気持ちの整理がついてきているようだった。少し安心した。「この世」には、時間が解決してくれるということがあるはずだ。そして、時間は、どんな人の言葉よりも、私たちのささくれだった感情を、やさしく包み込んでいってくれるということもある。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本人の「私」と「祖先」との関係について、こう語っている。「私という存在は個人的な現象でなく、幾千億万の祖先の霊のいわば面影の集合体なのである。私の想いや行為は、実は私自身が決めているのではない。遠い先祖の影響の上に、あるいは長い因果の上にすでに定まっているのであり、人生で出会う幸せや不幸せは、みな前世からの定め、先祖の陰徳、業、契りといったものから織り成される大河絵巻のひとコマなのだ。たとえば,ある異性に心を惹かれることさえ、個人の選択を超え、何代も前の祖先たちが、恋に落ちたその容貌、声、仕草の記憶が相手に甦って、いまひとたびの、願わくはよりよい出逢いと結末とに私を導いているのである。」
2008年08月17日
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「この指、覚えていますか?」「忘れようとも、忘れ果てようとしても、忘れられません・・・。」 『蝉しぐれ』 * * * *先日のブログに書いた「長い夜」は、突然ですが、削除しました。自分の中で、忸怩たる思いがありました。心の中で、整理するべきであり、このような場で書くには、もう少し、配慮して、深慮して、熟酵する時間が必要であると考えてのことです。早急なコメントをいただいた与乃91さんの真摯で長いコメント(コピーして残してあります。)には、心が熱くなりました。ありがとうございました。一度も、お会いしたこともない与乃91さんですが、いつも誠実な生きる姿勢を感じています。素敵な年齢を重ねていられる方と推測します。 * * * *
2008年07月20日
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「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分に変えられることは変える勇気と、そしてそのちがいが分かるだけの知恵をお与え下さい。」『ラッキーマン』マイケル・J・フォックス著マイケル・J・フォックスは、映画「バックトゥザフューチャー」でトップスターになる。しかし、映画「ドク・ハリウッド」(1991年)を撮影中に左手の小指がぴくぴく動くのに気がついく。検査した結果、パーキンソン病と診断される。彼は、31歳の若さでパーキンソン病を発症した。病気は進行していく。体の左半身がこわばり、激しく震えていく。「左腕が激しく震え、5秒でマルガリータを作ることができるほどだったよ」彼は、パーキンソン病と診断された時、自分の健康状態が悪化とともに、妻トレイシーさんが去っていくのはないかを恐れる。「トレイシーには『大丈夫だよ』と言ったが、本当はひどいショックを受けていた。私はパーキンソン病とはどういう病気なのかさっぱり分からず、自分が病気だということを否定していた。そして、私はトレイシーに聞くことを恐れていた多くの質問があった。『私が病気だと恐いかい?』『病気だから私と一緒にいたくないかい?』『私は病気だから、もう愛してくれないのか?』」彼は思った。「妻のトレイシーを見て、私に2つの感情があります。一つは、彼女がもっと美しくなっていき、もっと重要な人になっていくことです。(もうひとつは)私は彼女を見て『あなたは賢い人だ。あなたは正しい選択をしたのかい』と心の中で考えるんだ」私の父の入院は、長期化している。そのあいだ、ずいぶん、多くの入院患者を見た。そこでは、さまざまな人間模様を否応なく見せられている。ベッドの数だけ、人生もある。入院した人間は、誰もが、考えるはじめると思う。自分にふりかかった抗えない運命について、そして、あまりに身近すぎてゾンザイだった家族について。「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分に変えられることは変える勇気と、そしてそのちがいが分かるだけの知恵をお与え下さい。」
2008年07月06日
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このまえ、長崎で、出島に行った。今では、長崎の町の中に、かつての出島が街並みも含めて、再現されている。当時、出島には、日本人の出入りは禁止されていた。例外として、入ることができたのは、遊女と乞食と高野聖であることが、ここの資料館には記されていた。昨年、四国でのところでも書いたが、高野聖と僧の格好をした政府のスパイである可能性が強い。西欧の情報は、ここを治める役人や出入りの医者のほか、高野聖によって探っていたのではないかと考えられる。では、なぜ、そもそも日本は鎖国を行ったのか。織田信長も、豊臣秀吉も、新しもの好きで、むしろ、西洋からもたらされる知識は、どんどんと取り寄せる性格の持ち主だった。種子島に伝わった火縄銃が、戦争の姿を変えてしまったことからわかるように、もし、その当時のリーダーなら、先端技術をまっさきに導入して、自分の力にするほうが自然だと思う。では、なぜ・・。日本が鎖国にいたる過程には、それなりの理由が存在するはずだ。そのひとつを考えるとき、15、16世紀の奴隷貿易があると思う。日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した、 1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。そして、16世紀の後半には、 ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになった。 1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、 世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。 「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で、 小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著には、こう書かれている。「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。 『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、 獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。 ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、 ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、 交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、 奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、 同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、 何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、 インドやアフリカまで売っている』秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じた。 「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、 これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。」 日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたと思う。 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。 付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、 若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」) もっとも、日本人のほうからも、奴隷をポルトガル人に売りにいっていたようだ。ここでいう奴隷の考えも、西洋人の奴隷と日本人の奴隷では、少し感覚が違う。西洋人のそれは家畜としての奴隷だが、日本人の奴隷は、貧農で口減らしのためや、借金の方に売られた娘などで、借金が返済されれば、奴隷から解放され普通の人間に戻ることが可能な存在ではある。つまり、奴隷は固定化したものではなく、奴隷になったり、一般人になったり、自由に行き来できる存在なのだ。このような、奴隷に対する認識の違いも、もともと日本人は、民族や人種の違いがほとんど同じことからも、自然なことだったとも思う。豊臣秀吉の朝鮮出兵、天草四郎の武装蜂起、踏絵、・・史実には、これらも、複雑で、深い背景が存在していて、一筋縄ではいかないようなのだ。
2008年06月30日
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* * * * *縄文の文明原理。1、狩猟・漁・採集を生業の基本とした自然の資源を極限まで利用する技術を発展させ、自然=人間循環系の文明原理を有していた。縄文人は自然のリズム、季節のリズムに歩調をあわせながら永続的、循環的に生きる組織化された生活様式の装置と制度系を持っていた。(自然=人間共生系の装置と制度系) 2、平等主義に立脚した社会制度を有していた。エジプトやメソポタミアのような巨大な王やアテネのような市民階級が出現しなかった。墓においてもその副葬品に大差はなく階級社会の装置を文明原理に取り入れない、何らかの独自の平等主義に立脚した社会制度があったものとみなされる。 生産物が貯蓄しやすく、このために容易に貧富の差や階級差が生じやすい穀物農業を受容することを回避する文明の装置と制度系を有していた。『縄文文明の環境』安田 喜憲著 * * * * *縄文時代の遺跡から発掘される遺物の中で最も宗教的なのが土偶である。世界の他の旧石器時代の遺跡から発掘される偶像と同様に、縄文土偶は、豊満さを強調した女体で、頭は存在しないかもしくは人間的でない。縄文土偶の多くは妊娠していることから、縄文土偶は、豊穣を願う地母神崇拝の証拠とされるのが通例だが、梅原は、この解釈に反対する。梅原は、I. 縄文土偶には、腹に引き裂かれたような直線を持っているものが多い II. 少数ではあるが、縄文土偶には、意図的に埋葬されたものがある。 III. 土偶のほとんどは壊されており、五体満足な土偶はほとんどない ということを根拠に、地母神像説を否定する [梅原 猛:梅原猛著作集〈11〉人間の美術, p.98]。 * * * * *梅原は、福島県で起きた死胎分離埋葬事件を手掛かりに、土偶は妊婦葬送儀礼のための道具だと考える。死胎分離埋葬事件というのは、会津のある村で、懐妊後死亡した母の腹を長男が切って、胎児を摘出して埋葬し、役場に二通の死産届けを出したところ、死体損壊罪として摘発されたという事件である。その後の調査により、この風習は、福島県では昔から広く行われていたことがわかった。この風習が行われた背景には、死んだ妊婦をそのまま埋めると、胎児の霊が母体から出られなくなり、怨霊としてこの世にとどまるという考えがある。だから、怨霊による祟りを防ぐために、胎児を腹から出して、霊がすぐに生まれ変わるようにするわけである。妊婦と胎児の分離埋葬に際しては、人形が入れられるという習慣がある。そして、梅原は、その人形の起源が縄文土偶だと考える。『あの世は縄文時代どこにあったのか』永井俊哉 * * * * *
2008年06月25日
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出張や旅にでるときの、裏ワザとコツというのが私にもある。私が、若くバックパーカーだったころ、「地球の歩き方」という本が出版された。この本は革命的な本だった。それまで、安宿の泊まり、そこで世界中の若者旅人が、お互い情報交換していたのが、最新の情報が手にはいるようになったのだ。アジアなどの安宿に泊まると、本棚には日本語の「地球の歩き方」が並んでいたりした。最近は、やはり、インターネットだろう。これに勝るツールはない。格安チケットの情報も、インターネットで、わかる仕組みになってしまった。「地球の歩き方」も、アメリカも、一冊の本というわけではなく、都市ごと、そして、世界の辺境の地ごとにも出版されているようだ。このまえ、長崎に講演で出かけたときも、インターネットで格安チケットを探した。羽田から長崎まで往復が、26、000円でとれた。街のチケットショップでも、片道でも28、000円ぐらいなので、ネットでこまめに探すと、べらぼうに安い。このほか、海外出張などが多ければ、飛行機会社を選び、マイルを貯めるということも頭に入れれば、もっと、うまい方法があみだせそうだ。羽田飛行場には、エアポートラウンジというのがある。これは千円の有料ラウンジということになっているが、飛行機のチケットと、楽天やJCBなどカードを持っていれば無料で使用することができる。ここには、パンや珈琲、ミルク、トマトジュースなどもあり、新聞も読め、すごく便利だ。飛行場の店に入る必要はない。ネットやファックスなどのビジネスツールもそろっているうえ、ソファも、眺めも最高なロケーションの場所だ。ここの利用は、ほとんど大手のカードでだいじょうぶだ。ホテルも、ネットでとったが、こちらも溜まったポイントを使ったので安くすんだ。ホテルは、楽天トラベルなどでも、利用者の声が掲載されているが、あの情報はすごく役にたつ。今はホテルの近くにコンビニがあれば、ほとんどのことが済んでしまうが、マクドナルドなどもあると、最近はインターネット用のコンセントが用意されている店もある。そこで、深夜までデスク代わりに使用することができる。長期の滞在になると下着の替えなどの問題がおこる。私はバックパッカーだったころから、洗濯は、ホテルのお風呂に入った後に、下着などを洗濯してしまっていた。洗濯した下着は、その後に使ったバスタオルで脱水する。バスタオルに包み絞るという方法もあるが、これはよく乾くが下着がシワになる。バスタオルを下着をサンドイッチのように四角に折りたたみ挟み、まんべんなく足で踏みつけるという方法もいい。このバスタオルで脱水する方法で、部屋に干せば、だいたい次の日には乾いてしまう。これは、長期の旅行や出張には、とても便利な方法だ。洗濯洗剤とホテルの中にはる紐を忘れずに持っていかなければならない。また、その日に使用したスーツなどは、風呂あがり、1時間ほど、バスタブに干しておくのがいい。スチームをかけたのと同じ状態になって、シワをのばすことができる。日本から、海外出張するときは、時差に悩まされる人もいると思うが、東回りの場合は、出発数日前から少しずつ寝る時間を早めして、西回りの場合は少しずつ寝る時間を遅くするのがいいような気がする。ほかにも、飛行機内では、スチュワーデスに好みのランクをつけたり、彼女らとのジョークの応酬を楽しんだり、こんな遊びやコツを探していくと、出張や旅も、ますます、楽しくなってくるのだ。
2008年06月22日
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長崎駅に降りた。小雨がふりはじめた。長崎駅の路面電車のところで、「長崎はきょうも雨だった」が流れていたのには笑ってしまった。そういえば、東京の蒲田駅では、蒲田行進曲が流れていたと思った。長崎には講演で出張していた。200人ぐらいの聴衆者で、熱心に聴いていただいた。私のほかにも、国の役人の方も話をしたのだが、こちらは、じっと正統派なスタイルで正論の話をしていくのに比べ、私の講師のスタイルは、まずは演壇にじっとしていない。ホワイトボードに殴り書きをしては、動きまわり、ときに大声をあげたりするもので、まあ、スタイルとしては、はちゃめちゃなものだ。のりとしては、ほとんどロックンロラーだ。私の視力はすごくいいので、100人、200人、300人~、どんなに聴衆の人が多くても、演壇から、ひとりひとりの顔の表情まで判別できてしまう。つまらなそうな顔をしていたり、眠たそうな顔をしている人がひとりでも現れると、すぐにわかってしまい、彼らをおもしろがらせようというエンターテイナーの魂が、ふつふつと沸き起こってしまうところがある。そして、会場に笑い声がおこりはじめると、ますます図に乗ってくる。オレはサザンの桑田だ。まあ、お調子者の一面はたぶんにあるというわけだ。そんなこんなで、話が終わって、舞台を降りると、私の話に感動した聴衆者たちが集まってきて、名刺交換ということになった。なかなか、いいぞ。うけたのか。質問の嵐にも、できるだけ誠実にこたえていく。興奮の余韻と自己満足がはじまる。そして、ミュージシャンたちが、あの武道館を満員にしたがる気持ちがわかってきはじめるのだ・・・。しかし、ここまでくれば、勘違いもはなはだしいなあ。
2008年06月18日
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* * * * *『ソーカル事件』大学に勤務する学者であっても、ある種の人々は自説を権威づける為だけに分かってもいない科学的知識を無意味に並べたてる事が知られている。 1995年頃、このような事態に業を煮やした物理学者(素粒子理論)のソーカルは、あえて科学用語をデタラメに使った疑似哲学論文を書き上げて、権威ある哲学評論誌「ソーシャル・テキスト」に送りつけたところ、それが載録されてしまったのである。ソーカルの書き上げたのはポスト・モダンの論文であったが、これは必ずしもポストモダニズムだけが科学的知識を乱用している事を意味しない。 ソーカルによれば、ソーカルにできるのはポスト・モダニストの批判だけだったので彼らを批判したのである。ソーカルによれば、(ポストモダンの著作で)「最もよく見られるのは、用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使って見せる」行為であり、ポストモダニスト達は「人文科学のあいまいな言説に数学的な装いを施して「科学的な」体裁をつくり出すための絶望的な努力」をしているのだった。 たとえば、ドゥールズとガタリの作品全体には「擬似科学的な用語があまねく満ちあふれている」 * * * * *もし、あなたが死を目前にしてあと一本しか電話がかけられないとしたら誰にかけますか?どんな話をしますか?さあ、今すぐ電話をかけてみてはどうですか?『こころのチキンスープ』スティーブン レヴィーン著 * * * * *
2008年06月11日
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深夜、横浜のパブにいた。「どこから話そうか。」と友人は言った。友人は、古くからの友人で、ある大企業の外国の支店長として、長く赴任していた。そして、数年前に日本に帰ってきたところだった。子供は、ふたり男の子いたが、その国の大学を出て、もう就職していた。今では、東京都下の家に、妻とふたりだけで暮らしていると言った。私も、その後の自分の話をした。子供がふたり生まれたこと。その子供も大きくなり、地方都市に住む息子と、女子大生になった娘の話をした。ふたりの間には、いつのまにか、長い時間が流れていた。友人は綺麗な白髪になっていた。しかし、何十年かぶりに会っても、顔の中に生まれる笑みは子供の頃と同じものだった。友人は、休みになるとサイクリングに興じている話をした。80キロ、自転車で走ると言っていた。仕事を忘れ、頭の中が真っ白になる時間が自分にとって重要な時間であることを繰り返した。私もジョギングをはじめたことと、精神的なストレスを発散するために、精神的な疲労をうけたときは、肉体もそれ以上に疲労させることを話した。「休日は、ひとりになりたいんだ。」そのために、自転車に乗り、山奥に釣りにでかけ、ひとりでゴルフ練習場で汗を流していると友人は言った。「鉄道に飛び込んだり。自殺者って、朝にするだろう。あれが、長いこと、わからなかったんだ。」「・・・。」「でも、あの国で、あの青い空を見たら、わかった気がした。」華やかなようでいて、友人の仕事は、激務だったようだ。外国の赴任時代、かなりの苦労をしたようだった。もう、二度と、あの生活はしたくないと呟いていた。「考えて解決することなら、考えるけれど。考えても解決できないようなことは、考えないようにしているんだ。」友人は、子供の頃、父親を心筋梗塞で早くに失っていた。そのためか、私とは違い、幼くして老成しているところがあった。世の中には、自分の力では、どうしようもないことがあると子供心に感じていたと言った。父親の死に親戚が集まり、若くして死んだ原因を勝手に噂しあっても、醒めた耳で聞いていたと言った。それから、共通の知りあい女性の話になった。その女性は、美しく、聡明な女性で、ひところ、この友人とつきあっていたことがあるのは知っていた。しかし、ふたりが、結ばれることはなかった。「このまえ、その子から、ふいに電話があったんだ。」友人が言った。「結婚して、どこかの島にいるらしい。」「島?」「旦那が、何かの宗教団体のようなところに属していて夢中になっているらしい。その集団でコミューンのような島の生活をしているらしい。そこは、理想の村だそうだ。」「・・・。」私達は、しばらく黙った。「理想の村・・。」いつも、穏やかで、怒りの表情など見せたことないその女性の顔を思い出していた。そして、『理想の村』の空は、いったい、どのような空の色をしているのかと考えていた。
2008年06月10日
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* * * * *立花隆講義録『ゴミ処理の現在』 誰がゴミの処理をしているのか。日本の社会構造の中で、ゴミの処理を押しつけられているのはどんな人たちなのか。これは、調べてみれば実に興味深い問題である。例えば空き缶・空き瓶の分別は、授産所で行なわれていることもある。手を動かせない障害を持った人が、口に棒をくわえてそれで缶を分別しているのだ。チラシや新聞の分別は、かなりの部分が中国人や韓国・朝鮮人といった在日外国人の手によってなされている。阪神大震災の時の長田区は、そういった人たちの住む地区の一例である。我々はゴミを捨てるものの、ゴミ処理業者になろうとは思わない。結局誰かにその仕事を押しつけることになるのである。 埋立地の夢の島は有名だが、今はその沖に新しい埋立地ができている。ここへ行ってみるとカルチャーショックを受けるだろう。新品ばかりが山となって捨てられているのだ。この埋立地には商品を満載したトラックが次々とやってくる。インスタント食品何万食分、あるいは高そうな革ジャン何十着といった単位である。こういったものを持ってきた処理業者は、新品同様の商品を次々とブルドーザーで潰し、その様子をビデオで撮影している。証拠があれば税務署が損金処理してくれるためである。 ゴミの山から拾ったものを売っている店がある。これは大森にあって都の清掃局が経営しているのだが、ここで売られる商品を見ていると世の中の動きが分かる。ある時期にはぶら下がり健康器が大量におかれ、またある時期には美顔器が溢れていた。ゴミは人間社会をポジとすればきれいなネガになっているのである。 * * * * *『白い仮説 黒い仮説』竹内 薫著 日本実業出版社「現代の日本にはインチキやまやかし、詐欺話が横行している。新聞やテレビなどのニュースでも、毎日のように真偽の定かでない話題でにぎわっている。いかにも科学的な論拠がありそうな話も、本当かどうかわからないことは多い。たとえば、マンモスが絶滅した理由や、南極と北極が逆になる話などはその一例だ。インターネットの情報にしても、玉石混交だ。一体、何を信じていいのやら、判断がつかないこともしばしばだ。世の中、ウソかマコトか、わからないことだらけだ。ともすると、我々は「科学ニュースなど、自分には関係がない。詐欺事件は他人事で、騙されやすい人だけが被害者になるのだ」と思い込みがちだ。世の中で起きていることがどれくらい本当でどれくらい嘘なのかが、見抜けなければ「この会社に出資すれば儲かるよ」と言われて、インチキな技術を信じ、大損をすることもあるかもしれない。身近な例では、多くの電気器具についているマイナスイオンに、科学的な根拠がまるでないことを、どれくらいの人が知っているだろうか?スーパーに並んでいる「水」にしても、ナチュラルミネラルウォーターと水道水が、法律的にどのような定義になっていて、科学的にはどう違い、身体にどんな影響があるのだろう?自然科学の分野には「仮説」という概念がある。科学の理論も、最初は「仮説」なのだ。それが実験や証明やコンピュータシミュレーションで「検証」され、徐々に「定説」になっていくのだ。この、仮説をもとにした思考法は、日常生活のさまざまな場面に応用できる。仮説は、仮の説明にすぎないからだ。闇雲に「正しい、間違っている」と決め付ける前に、柔軟に仮説にしてみるべきだ。どんな仮説も、白から黒の間にある。時間が経ち、検証が進むに連れて、仮説は白のほうに近づくか、黒のほうに近づくかが、はっきりしてくる。「白い仮説」とは定説に限りなく近い仮説、「黒い仮説」とは限りなく嘘に近い仮説だ。「グレー度」という言葉を使ってもよい。90%グレーというのはほとんど黒、10%グレーなら白に近い仮説だ。仮説のグレー度は、時代によって変化する。たとえば「冥王星は、地球や土星の仲間だ」という仮説は、10年前は10%グレー度だったが、今や90%になっている。また、仮説のグレー度を決めるには、情報が不可欠だ。つねに複数の情報をもとに自分でグレー度を判断しなければならない。もちろん、科学者でもない限り、実験や数学で仮説を検証することはできない。しかし、情報を分析することで、少なくとも騙されないように生きることはできる。日々、飛び込んでくるニュースや都市伝説も、常に複数の情報を元に、仮説思考をすることだ。そうすれば、世の中の仮説が、白と黒のどこに位置するかを、自分で判断することができるはずである。」 * * * * *
2008年06月04日
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* * * * *性闘争とは、メスの獲得を巡るオス同士の闘い。オスはメスを手に入れる為には、メスが安全に出産・子育てする為の縄張りを確保しなければならず、従って縄張り闘争も闘わなければならない。性闘争本能はすべての動物に備わっているが、とりわけ哺乳類は、淘汰適応の必要から、性闘争本能をとことん強化した動物である。性闘争には(殺すまで闘ったのでは、種が絶滅してしまうので)敗れた方が勝者に従う敗従本能が付帯しており、その結果、1位・2位・3位…の序列が出来上がる。動物集団は、この序列によって秩序化され統合されている。徹底した力の原理で、人類社会の身分制度や肩書きや順位制も、この序列原理に基づいている。 * * * * *われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。 (北米 ケチュア族) 我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。 (南米 クレナック族) 朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。 (北米 ジョーニー族) * * * * *
2008年06月03日
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