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高校2年の時に母親が亡くなってからあっという間に25年。
亡くなってからの月日が長くなっているのに今頃気がつきました。
母親のエピソードはたくさんありますが、「仲良し皿屋子供会の設立」というのがあります。
現在では1学年15人程度と過疎化した地域ですが、アチキが小学生時代にはまだ50人程度の子供がおりました。
土地柄、やきもの職人や農家の人が多く、共働きの方が多かったようで、我が家は自然にそういう子供達の預かり場所となっておりました。
家に帰ると大抵4~5人の子供がまるで自分の家のようにお菓子を食べ、TVをみて、障子を破ったりして遊んでいました。
日常がそういう状態ですので、誰かの誕生日となると母親は、料理やお菓子を作り、10数人の子供が遊びに来ていることも珍しくありませんでした。
根っからの世話好きだった母は、近くの公民館を借りて、念願の「仲良し皿屋子供会」を設立。(ちなみに皿屋というのは地名)
イベントは月2回ペースで、レクリエーション会や食事会、クリスマス会などを催していました。そういえば、知り合いの知り合いみたいな作詞家作曲家に頼み込んで「仲良し皿屋子供会の歌」を作らせ、どこかのオーケストラによるカラオケ演奏も頼んでいました。今思えば恐ろしいほどのバイタリティの持ち主です。
地域の子供達にとっては地域のお母さん的な存在だったようで、悩み事の相談にも丁寧にのってあげていたようで、絶大なる信頼感がありました。
母が病気になったあとも、母の日には必ず何人かの子供達がプレゼントを持ってきてくれていましたし、亡くなった時も多くの子供達が参列してくれたのをよく覚えています。
今では、その子供会は解散したようですが、母の名前は語り継がれているようです。
「人の喜ぶ顔が見たい。人の役に立ちたい。」
母はいつもそんな気持ちで生きていたように思います。
そんな母の影響をうけてかどうかわかりませんが、アチキも人を支援する仕事に就いている。
母から学ぶことはまだまだありそうです。
25回忌の法事で、久しぶりに母の偉大な功績を思い出せてよかったです。
御経を上げてくれた坊さんが、「どうか天国、極楽浄土に行ってください。というのではなく、まずは亡くなった人への感謝が第一です。」と言っていましたが、本当に心から感謝です。
話は変わりますが、カミサンの実家はうちの実家から3キロ程度のところにあるのですが、そこに新たな家族である福徳丸という柴犬が飼われていました。
1歳半ということでまだまだあどけない顔して実にかわゆい♪
さっそく、小太郎と散歩。
と~っても癒される時間でした。
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yamagasukiさんComments