歌う母 しゃち音女(おとめ)
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
明日は母の命日です。 長い闘病でした。 私が子供の頃から定期的に内科で血液検査をしていたのを覚えています。 どちらかと言えばあまり強くなかった体だったのでしょう。問題は私を産むというところから始まります。 母は姑小姑に囲まれて私を孕みながらも家仕事をしながら家事も全部押し付けられ…それが当時の嫁の仕事でした。そしてお腹が目立つようになってからやっと産院へ行くことが許されました。私の母子手帳は妊娠7ヶ月から始まっています。 そしていざお産になった時、破水し、前置胎盤のため大出血を起こしました。産院では手に負えません。当時は救急車など呼ぶのは恥とされていたようで近所の人から家から程近い産婦人科小児科がある病院を紹介してもらい知り合いの車にバスタオルをたくさん敷いて運んでもらい、その場で帝王切開となりました。母は貧血もあったので大出血の後の体力などありません。 当時は今ほど管理が整っていない状態で大量の輸血を受け、無事に私を出産してくれました。その際の輸血が原因で肝臓を傷めてしまいました。産後も退院したその日から、家事を全部こなしたそうです。お産は病気じゃないからと姑に言われたそうです。気の弱い父は只々見守るのが精一杯、大世帯を食べさせるので精一杯だったそうです。 母は常に黄疸が出ていました。疲れていても休めるところがなく、産後ひと月ほど経ったところでバスタオル数枚と粉ミルク(母乳など出ないのです)を買い物かごに隠し普段着にエプロンをしてサンダルで… なんと!大阪の実家に帰れるわけがないと思い込み、名古屋のある病院に住み込みで飛び込みで働きに行きました。そこで半年ほど経った頃ついに母は倒れてしまいます。保険証すら持ってなく、私の検診もろくに受けられず(ただ勤め先が良い病院で無償で検診をしたり、母の病気を見つけたりしてくれたのです) その時の病名はなんだったのか、わたしにはわかりません。嫁ぎ先には帰りたくない母は泣く泣く実家に連絡を取ります。実家にはすでに父が母が子供を連れて家出をしたのでもし帰ってきたら連絡をと数回ほど通ってきたそうです。父には内緒で母は私を連れ、実家に帰ります。私がはいはいしたり、離乳食を食べたり座ったり、立ったり。やっと歩いた頃、父がいきなり訪れて来たそうです。祖父と父の話し合いの上、嫁ぎ先とは別にアパートを借りて、夜だけでもきちんと寝かせること、日曜日は嫁ぎ先には行かせないことを硬く約束させ、家具一式祖父が揃えて部屋も借りてくれてやっと私は両親が揃ったのでした。でもその後小姑がいなくなってからは家をリフォームして今の住まいに越して来たわけですが。その間に妹が生まれたり状況はあまり良いとは言えなかったようです。 二人の娘を抱え、父は稼ぎが少なく赤貧だったので実家の事業を父が単身赴任という形でなんと、その後25年間。その間に姑、舅の介護をしたりしながら母はどんどん具合が悪くなります。私が30の頃に母はC型肝炎だという話でした。その辛い体で初孫である息子を本当に可愛がってくれました。母の一番幸せな時期だったと思います。 その後肝炎に変わり、その数年後にはとうとう肝臓癌になりました。一年ほど母は実家に戻り、父と二人で暮しました。幸せな晩年だったと思います。そしていよいよになり東京で自宅で看取るという話し合いをして、その頃には珍しかった訪問看護や、訪問看護師、往診で徐々に母は弱っていきます。娘二人と父と孫に囲まれ、三人目までの孫をみて、母はとうとう肝性脳症に侵され、人格が奪われました。 そんな母を見ても当時小学校の低学年だった息子はおばあちゃん、痛いの?と手足を一生懸命に摩ります。父と私は数時間ごとに仮眠をとり、下の娘を産んだばかりの妹も家に同居して賑やかななか、母は夜中に父がついうとうととしたほんの数分の間に旅たちました。気がついた父は私を呼びに来て医者に連絡をする様に促します。4時少しまえでした。ご臨終ですと医師から伝えられ、いつも通って来てくれた看護婦さんが身体を清めてくれ、頑張りましたねと母の手を重ねてくれました。 毎年、8月6〜7日にかけてフラッシュバックします。 母が守ってくれたこの命を一寸でも無駄には出来ません。それなのに私も病気や怪我ばかり。それでも元気に生きているのはやはり母が守ってくれているからだと思います。 母の兄である伯父には詳しいことは伝えておりませんので最近メールのやりとりなどを通してこれから母のことを少しずつ、伝えていこうと思います。 良い兄ではなかったと思います。と綴られたメール。 でも母は、口癖のようにいいことも悪いことも、にいちゃんが。にいちゃんが。とたびたび言っておりました。それだけは真っ先にお伝えしました。今年は初めて伯父が大阪で母の供養をしてくれました。 私も今夜はしばし母と心の中で会話をしたいと思います。長文をお読みいただきありがとうございました。
2021年08月06日