「ウェブ進化論」私的検証012---序章 ウェブ社会 その4
大変化はゆっくりと、でも確実に社会を変える
ふと、思う。この著者は、どこかセンセーショナルで、挑発的で、エモーショナルな書き方が好きなのだろうな、と。別に僕も嫌いではないが、ことさら、ものごとを「大げさ」な表現を使って書こうとしているのではないだろうか?とちょっと気になる。それは、表現家として「勝ち残る」ためには、仕方ない性癖なのかもしれないし、もともとが、なにか「ことを起こしてやろう」という、仕掛け屋的要素を著者が持っているからかも知れない。
人間界は、流転の連続なのであり、いつの世も、変化の連続であった。狩猟文明から農耕文明へ、家内制手工業時代から産業革命時代へ、あるいは藩政時代から明治維新をくぐりぬけて現代文明へ、あるいは、第二次世界大戦をくぐりぬけて西洋風民主主義へと、世の中はどんどん変わり続けてきた。確かに今回20世紀末という一つの区切りをくぐって、インターネットを一つの契機として、世の中が大きくグローバルなスケールで変わろうとしている、というのは本当だ。
しかし、だからこそ、いつの世でも、どんな時代になっても、変わらぬものをこそ求めてきた、という人間意識の、もう一つ別な側面もあるのである。本著を読んでいて、大変面白いのだけど、いつも不足が感じるのは、その辺の世界への橋渡しを準備していないことだ。新書本という限られた空間だから、という訳でもあるまい。どこかテーマを絞りすぎているゆえの、辺境さと頑迷さが気になる。
この章では、メディア界のことに触れているが、まぁ、そうだろうなぁ、というだけで、特に抜書きすべきものがない。 これから始まる「本当の大変化」は、着実な技術革新を伴いながら、長い時間かけて緩やかに起こるものである。
という部分にしたって、うん、そうでしょう、としかいいようがない。いままで、人間の歴史はつねにそうだった。そして、さらに気になるのは、ここでの 「本当」
という言葉の使い方だ。じゃ、嘘の小変化とか、まあまあの中変化、とかあるの、と屁理屈をいいたくなる。私は、どうしてもあの有名な経営コンサルタントとかの「ホンモノ」という言い方が好きになれなくて、あの言い方に連なるいい加減さが、著者のこの言葉に感じてしまうのである。
いづれにせよ、変化はあるものだし、その変化に対応して、さらに生きていきていけばいい。ポイントはそれだけだ。
インターネットの可能性の本質
P018
インターネットの真の意味は、不特定多数無限大の人々とのつながりを持つためのコストがほぼゼロになったということである。
この部分、正しいようでもあり、多いなる誤解が含まれているようでもある。不特定多数無限大、という言葉で、オールorナッシング的な、短兵急で二価値判断的なあいまいな推論をしていないか。デジタルデバイドが歴然と存在しているのだから、常にネットにつながりえない人々がいるのだ、ということを大前提として、物事の思考を進めていく必要がある。これでは、いずれネットに全ての人間がつながるのであり、つながっていないというのは、遅れているのであり、低い価値にとどまるということを意味する、とでも言いかねない口調だ。
ネットにつながるためのコストがゼロになったからみんなつながろう、というのは、ネット推進派(かくいう私もそうだが)から見れば、正しいが、逆の立場の人間達も当然いるだろう、ということも考えておかなくてはならない。著者は、日本の若い層をターゲットに本著を書いているようだが、その日本の若い層の中にだって、ネット拒否派が、少数だとて、いない、とは限らない。もし、その少数派を切り捨てることになるとすれば、後段で著者が述べている「民主主義」に関しても、やがてはおおいなる誤謬を生み出すことになるやもしれない。
翻って、グローバルなランニングを続けているアメリカ・インディアン達とか、精神的飢餓感を募らせているイスラムの人々とか、中国大陸内陸部に住まう人々とかへの、人間としての愛ある連帯感も、意識のどこかにおいておきたいものだ。老婆心ながら、好事、魔多し。くれぐれも、言葉の先走りは注意したい。(最近の「若い」民主党のていたらくは、その極をきわめている。他山の石とすべし)
すくなくとも、ここでいうところのつながりとは、ネットの端末を介して、という限定つきなのであり、人間同士のつながりとは、もっともっと重層的に、輻輳的に、もっと美的につながりえるのである、ということをゆめゆめ忘れてはならない。
その混沌がより多くの人々のカネや時間を飲み込んでどんどん成長し、巨大化していく。だから、可能性よりも危険の方にばかり目がいく。今はそんな時代である。
p020
ここで、オプティミストであるべき著者でさえ、今という時代では、可能性より危険性のほうに目が向く、と書いているのだから、まぁ、一読者として、ことの危険性にどうしても目がいく私の視点も、まんざら異端的で偏屈的である、ということでもなさそうだ。安心した。
フューチャリスト宣言 <1> 2007.06.06
ウェブ仮想社会「セカンドライフ」 2007.06.05
Web屋の本 2007.06.05
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