「究極の錬金術」Osho
ところが数日すると本棚に戻っているので、あらためて、借り直してしてくるのである。ところが、また二週間では読み終わらないので、また一回延長して二週間。そして図書館にもどす。それをたぶん、すでに3回繰り返した。
しかしながら、まだ読み終わらない。読み終わらないどころか、まだ4分の1読み進んだかどうかだ。いや、読み終わった、と思っているところにも、何が書いてあるのかすっかり忘れてしまった。
ああ、それなのにそれなのに、なぜに、また、私は、今日、あらためて、この本を図書館から借りてきてしまったのだろう。
当然、私はこの本を読みたい。何が書いてあるか知りたい。すっかり自分のものにしたい。
いやいや、もうすでに、この本に何が書いてあるかは知っている。大体わかる。読まなくてもわかる。ぺらぺらめくっただけで、わかる。
そうなのだ。私は、この本を読もうとしているのではない。文字面を追っかけて、著者が何を言おうとしているのか、なんてことは、もうどうでもいい。もう、なにを言おうとしているのかは知っている。
ではなぜ、私はこの本を手にしているのか。それはこの本を読もうとしているのではない。私はこの本をひとつのきっかけとして、私を読みたいのだ。そして、ここで私は私を語りたいのだ。あるいは、著者と私の距離、その間にあるもの、あるいはないもの、あるいは・・・・・・・
<2>につづく
<異説>親鸞・浄土真宗ノート 2009.03.15
意識は科学で解き明かせるか 2009.03.14
感じる脳 2007.09.10
PR
Freepage List
Category
Comments