
チ
ェロキー・カテゴリ編 =<再読>したいこの3冊=
は、それぞれに個性のある意義ある本であったが、このカテゴリに属すべきほかの累々たる資料の山を思い出すとき、はて、この選択で正しかったのか、と思い返さずにはいられない。
というか、多分、この倍か三倍の書籍がウエイティング・リストに載っており、ここで<総括>することなんか、とてもとてもできるわけはないのだ。<チェロキー>カテゴリのスタート地点で思い当たったことどもをもう一度再点検し、やがては<アンソロポロジー>カテゴリとして再スタートするための、なにはともあれの中間チェック程度の意味しか、現在はもっていないだろう。
「ロ ーリング・サンダー」 は訳者たちへの思い込みが強すぎて、簡単に読み進めることができなかった。<再読>本に上げながら、今回<再読>できなかった。物理的な時間的拘束の関係ではない。今は読み進めることができない。ただ、すでに読了しているので、この本のもっている意味はわかっている。
この本は、私のネイティブ・ピーポーへの接近のほぼ出発地点に属している。チェロキーのメディスンマン、ローリング・サンダーは、もっともっと親近感をもって、肉親的親愛の情を持って見つめられるべき存在だ。再スタートの機会を待とう。
「1 491」 は<再読>完了したばかりだ。「ジャーナリスト」の手による歴史と地理の見直しは、固定的になりがちないままでの思い込みをこてんぱんにやっつけてくれる強いパワーがある。それこそ、歴史観がひっくり返るほどの「新発見」が、たしかにこの本の中にはある。
しかしまた、その探求の目は、時間や空間の「外」に向けられており、「内」なるものへの目が不足しているので、「私は誰か」という問いを背負い続けるバックパッカーたちには、ちょっと距離感を感じてしまうポイントだ。 「フラワー・オブ・ライフ」 (<再読>最後の砦として待ち構えている)シリーズのように、おせっかいがましく「私は誰か」という問いを突きつけられるのも、ちょっと辟易なのだが、すこしはそういう味付けが、この「1491」にもほしかったな。
「プ レアデスの智慧」 は、ある意味、お手軽詰め合わせ品というか、お子様ランチ的(著者には失礼だが)な味付けが、実に現在の私にはぴったりだ。まずはあまり重くならないでいこうよ。そして、あちらもこちらも、おいしそうなところは手を出してみよう。そして、なにはともあれ、全体の鳥瞰的納得観はやっぱり必要でしょう。
「チェロキーインディアンからのメッセージ」というサブタイトルもいい。この本は10年ほど前の本であり、また寡作(であろう)な著者のほぼ唯一と言っていいくらいの書物のようであるが、そこがまた私には、煩雑な「おっかけ」が発生しない分、自己完結的なスッキリ観がある。もし三読や愛読するならこの程度の本がいいのだが、はてさて、何度もこの本を読んでいたら、化けの皮がはがれて、飽きてしまわないだろうか、という心配もないではない。
フィンドホーンへのいざない 2008.01.24
フィンドホーンの魔法 2008.01.24 コメント(2)
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