「鈴木大拙全集(第11巻)増補新版」
<1>
禅と日本文化
鈴木大拙 /久松真一 1999/11 岩波書店 全集・双書 485p 初版1970
Vol.2 No.0008★★★★☆
この本、1999年に新版として再刊行されているが、私が読んだのは1970年版。旧字体の日本語が書かれているので、時には日本人(かな?)の私でも読めないところが多少あった(苦笑)。目的は 「禅と日本文化」 という一文であるが、この部分だけなら、 2005年12月 にも出ているし、 文庫本 もあるようだし、もちろん英語版 「Zen and Japanese culture」 も手に入る。各種読み比べてみるのも面白かろうが、まぁ、そこまで凝ることもあるまい。
大体の意向が汲みとられれば、それでよい。必ずしも学術的正確性を期せぬ。また、この書で述べたところは、禅と日本文化の全面に亙ったものではない。 p6 「原著者序」1935/8 鎌倉にて
形としては新渡戸稲造の「武士道」とか岡倉天心の 「茶の本」 の系列に属する一冊といえようか。
天台・真言・浄土諸宗は日本人に仏教精神を深く浸透させる上に寄与する所が大きかった。仏徳具現を宗とすることによりて、彼らは日本人の彫刻・絵画・建築・織物・金工等の発達を促進させた。しかし、天台の哲学は抽象煩瑣に過ぎて大衆の理解するところとならず、真言の典儀は骨が折れて複雑で、結局、大衆には費用がかかり過ぎた。真言・天台は彫刻・絵画及びその他日常の信仰に用いる美術的な器具を製作した。最も高く評価されている国宝は、この二宗派が栄えて、日本の文化階級と密接な関係をもった天平・奈良・平安の時代のものに多い。浄土宗は諸菩薩を後ろに従えた無量光の仏陀のいます荘厳なる仏画を描いた。日蓮宗と真宗は日本的宗教心理の創造したものである。日蓮宗は特に吾々に対して、芸術的、文化的刺激を与えはしなかった。真宗は仏像破毀主義に傾き過ぎ、親鸞上人の和讃や蓮如上人の「御文」を除いては、美術・文学方面においては、特に挙げる程の作品は残さなかった。
p24
上記の引用部分を含め、この本は旧漢字がかなり使われているので、当ブログとしては、通常使っている日本語並みに変換して転記したが、もともとの原書がもっている風合いを破壊していないか、恐れる。まぁ、当ブログとしては、いつものように大意がつかめればそれでよし。理解にいたらずとも、誤解は無関心よりまだマシ、という姿勢で臨む。
禅は真言・天台の後に本邦に入ってきて、直に武門階級の支持をうけた。禅が貴族的僧侶階級に反するものとされたのは、多少、政治的、歴史的事情んもよるのであった。当初、貴族は禅に或反感を抱いて、政権を利用して反対の挙に及んだ。それ故、日本禅宗史の初めに当って、禅は京都を避けて鎌倉の北条一族の庇護の下に興った。当時、幕府の所在地である鎌倉は禅修業の根拠地となり、シナから渡来した多数の禅僧達は、鎌倉に居を定めて、北条時頼・北条時宗及びその後輩者達と家来から最も強く支持されることとなった。
p24
なにはともあれ、日本における禅を考える時、サムライ文化は切り離せない、ということだろうか。
日本においては、禅は当初から武士の生活と密接な関係があった。尤もそれは決して彼らの血なまぐさい職業を実行するように示唆したのではない。武士が何かの理由で一たび禅に入った時は、禅は受動的に彼らを支持したのであった。禅は道徳的及び哲学的の二つの方面から彼らを支援した。 p34
「戦国武将を育てた禅僧たち」
や 「禅と戦争」
などと併せ読むとき、この辺は若干複雑な気分で読むことになる。私は10代の頃すんでいた住まいの近くにあった、伊達政宗ゆかりの禅寺で座禅を組んでいたのだが、いちどインドに渡ってOsho.Zenを体験した後、お礼もかねてその境内に戻ってみると、何の意識もしていなかったにもかかわらず、強烈な「血なまぐさい」匂いがした。21世紀の禅は、アロマセラピーのような香りに包まれていたい。
哲学的見地からは、禅は知性主義に対して直覚を重んじる。直覚の方が心理に到達する直接的な道であるからだ。それ故、道徳的にも哲学的にも、禅は武門階級にとって非常に魅力がある。部門階級の精神は比較的に単純で哲学的思索に耽るというようなことは全然ないから-----これが武人の根本的資質の一つであるが----当然、禅において似合いの精神を見出すのである。恐らくはこれが禅と武士との間に密接な関係が生じた主なる理由の一つであろう。
p35
本稿においては、「禅と美術」、「禅と武士」、「禅と剣道」、「禅と儒教」、「禅と茶道」、「禅と俳句」などなど、きわめてコントラストを高めて、くっきりとものごとを浮き上がらせるような文章になっているので、円周率3.14・・・を「3」と割り切ってしまうような、小気味いい切れ味がある。あるいは、この本に書かれている部分の多くについては、Oshoの講話の中で聴いているので、ああ、Oshoの種本はここにあったか、と思わないでもない。
「序」として、中学時代からの生涯の親友・ 西田幾多郎 がまえがきを書いており、口絵として1953年にフライブルクにおいて撮影された ハイデガー とのツーショット写真がついているのも興味深い。1953年は、Oshoがエンライトしたとされる年である。

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