「人類は『宗教』に勝てるか」
一神教文明の終焉
町田宗鳳 2007/05 日本放送出版協会 全集・双書 262p
Vol.2 No.0071 ★★★★★
この本、早くから新刊本コーナーにあり、タイトルも気になったので、借り出しては一度目を通してはいたのだが、過去の書き込みを検索してみると、まだメモしていなかったようだ。はて、きちんと読みとおしたのだろうか。この時期、多数の本にかこまれ、読みだしてみたものの、当ブログの集約期にさしかかっており、割愛したものと思われる。
今回、Osho本を多数翻訳をしているモンジュ氏の推薦文を読み、再読してみることにした。著者については、 「宗教と現代がわかる本(2008)」 で一度触れている。著者の文章はたぶん、数ページのものでそれほどの長文ではなかったはずなのだが、ダライ・ラマについて触れており、 Oshoのダライ・ラマについての進言 を読んだ直後でもあり、当ブログとしてはすこしひねた感想をつけ加えていたようだ。著者はこの本でも短文だが、チベットやダライ・ラマに触れている。
ダライラマは今や世界の寵児となっているが、もともとチベット仏教には熾烈な宗派間の対立があった。中国がチベットに侵攻したのも、そのスキを突いたという一面もある。スリランカやミャンマーでも、仏教徒は武力抗争の前線に立ってきた。これらの事実からも、仏教を必ずしも「非暴力の宗教」とは呼び得ないことがわかる。 p146
さて、今回、再び本書に目を通して第一の感想は、まぁ、よくここまで言ってくれているな、という、一種の快感がともなうものである。タイトルやサブタイトルも挑発的ではあるが、著者は決して、一神教がダメで、多神教がよい、と言っているわけでもない。「宗教」が終焉しなくてはならない、と言っているのだ。それを名づけて、「無神教」という。
文末にいたって、日本の天皇制などへの言及は、当ブログの態度とは異にするものだが、非和解的に対立するような内容ではない。ある意味、この立場でこのような意見を持つということのバランスのよさを感じるほどだ。最近はSOHO禅というオリジナルな瞑想を実践したりしているp262らしい。
このネーミングから見ても、この著者はなかなかの洒落者で、ウィットにとんだ文をよくする人物と見える。SOHOというのはSmall Office Home Officeの略だろうという先入観があり、コンパクトに自宅でできる瞑想かな、と思ってみたが、たぶんハズしていそうだ。つまりはこのネーミングは、町田宗鳳(まちだそうふう)という著者自身の名前に由来しているものだろう。つまりは宗鳳(そうほう)禅ということだろう。仔細については本書には掲載されていない。
はてさて、この本、当ブログとしてはおすすめ本の一冊だが、難がないわけでもない。Osho門弟としては、どうしてもひとつの基準をOshoにおいてしまう悪癖があるのだが、たとえば、 Oshoの最後のZenシリーズ と並べて読んだ場合、最後のNo-thingnessへの導入がないところが気になる。それはともかくとして、ここまで世界の魂へのマフィア達をあばきたてておきながら、いわゆる安手の「陰謀論」に陥っていないところは、見事といえる。まさにぎりぎりのところで踏みとどまっている感じがする。
逆にすぐれている点は、宗鳳氏はこの21世紀を生きている現代人、そして年齢的にも、まさに私たちと同時代であるということである。Oshoの門弟であることを自らのアイディンティティにしてしまって、しまいには免罪符にさえしかねない自らを省みた場合、この時代にこのようなはっきりした論旨で発言を続けることは見事であるといえるだろう。
この一冊をもってこの著者を一面的に評価するのはまだ早いようだ。類書が盛んに出版されているようだから、機会があれば、読みすすめてみたい。
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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