<1>よりつづく
「奇跡の探求」(2)
七身体の神秘
Osho 1998/03
夢は第四身体の出来事であり、第四身体には偉大な可能性がある。ヨーガで指摘されたシッディは何であれ、この身体で得られたものだ。ヨーガでは絶えず、瞑想者にそれは入っていかないよう、戒めている。迷ってしまう最大の危険がある。たとえ超常的(サイキック)な状態に入っていたとしても、霊的(スピリチュアル)な価値はない。
(2)p124
この本もまた1970年にほど近い時代のOshoが母国語ヒンディー語で、当時のインド人を中心とした瞑想キャンプに参加した人々に与えたレクチャーだ。その後、英語に訳され、さらに日本語に翻訳された。その間に20年のギャップがある。
「シーポヨのしわざ」の「オショウの講話タイトル:年代順」 など を見ても、この本のタイトルは入っていない。初期的にはOshoはヒンディーで話し、次いで英語とヒンディーと両方で話し、最後期には、 ZENシリーズ のように英語で話したので、実際には、ヒンディーで語られた講話もたくさんある。ヒンディー語を理解しない私のような者には、今後どんな講話録が復刻されるかわからないような楽しみもある。
しかし、一読者として考えてみれば、切り刻まれたトランプのように、一冊一冊に関連が見えない形で出版されることに困惑する場合もある。せめて、実際に講話された日時くらいはもっと明瞭に記録されてしかるべきだろう。そう思いつつ、こまかく年代や言語にわけてしまわないで、Osho全体として味わうべきだろう、という意見もありそうだ。
異なる言語に二度翻訳されているわけだから、その間に、意味の変換が適正に行われなかった場合もあると思うので、まずはひと呼吸をおいて、おちついて読み始める必要があるだろう。 受け取る側の文化や条件づけで、意味が大きく違ってしまう場合もないではない。 それにしても初期的なOshoは実にエソテリックな部分をさらりと言い流していく凄味と魅力がある。
どこからでもいい、ヒントを得なさい。それは幾度も消え去るだろう。永久ではありえない。なぜなら、どこかほかの所からやって来るからだ・・・・。だから、得るものは黙って受け取り、感謝を捧げ、進み続けなさい。もし何かがやって来たが、またもや失われてしまったと感じたら、決して失われることのない、内なる原泉を探究しなさい。そうすれば決して失われることはない。あなた自身の宝は無限だ。ほかからもらったものは、失われてゆく定めにある。他者から求め続ける乞食になってはならない。他者から受け取るものは、自分自身の探究へとあなたを送り出すものであるべきだ。 (2)p4
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