<7>からつづく
「OSHOの超宗教的世界」
<8>トランスパーソナル心理学との相対関係
玉川信明 2001/04 社会評論社 単行本 283p
この本、よく見てみると、三部構成になっている。
第1部 OSHOを理解するための包括的視点
第2部 瞑想による自己超越の世界を説く
第3部 この地上においていかに生きるか?
OSHOの具体的社会構想
さらによくよく考えてみると、この三部構成は、当ブログの現在の三つのカテゴリに対応しているとも言えるようだ。
[ OSHO@Spiritual.Earth0.3 ] は、あくまで私的な試みではあるが、ひとりのサニヤシンとして、Oshoをどのように包括的に理解するか、というカテゴリである。その視点を確立しようという明確なもくろみを持ってこのカテゴリをスタートしたわけではないが、結論としては、そのような方向に向かうことは間違いない。
Oshoに対して第3者がどのような感慨をもっているか、ということについて、だいぶ前の トレーニング・コース で学んだ限りにおいては、特段に介入すべきではない、と心得ている。Oshoカウンセラーの役割は、正しい情報を提供し、事実関係を明確に保つ、ということに留まるだろう。
当ブログは、必ずしも外向きのものではなく、内向きのより私的なものと考えるなら、このカテゴリにおいては、私自身は、より正しくOshoを見ているか、理解しているか、ということの再確認が大切ということになる。それができているかどうかはともかく、そのような方向にあるらしい。
[ Mandara Integral ] は、外側の世界についての情報の集積に使われている。当ブログが現在「Journal of Spiritual Earth」というタイトルである限り、おのずと、精神世界の情報に中心があり、さらにその中心に属する瞑想というテーマに関心が収束するのは、当然の帰結である。瞑想は、当然のごとく「自己超越の世界」へと向かうのであるから、玉川本と当ブログの視点を調節していけば、このカテゴリと第2部のシンクロニシティが自然と起こってくる可能性は大である。
身体論や神秘な世界、さまざまな精神世界の道において、さまざまなシンボリズムはあれど、時間をかけてじっくり見ていけば、そこに共通する項目は少なくないはずだ。どこまで情報をかき集めるか、収拾がつかないほどかき集めてもしかたないので、どこかで手を打たなければならないが、ベースとなる土台ができたら、あとは、多少雑多なものでも積み上げていくことは可能であろう。
そして、[ Agarta-David ] カテゴリは、第3部「この地上においていかに生きるか」と対応するだろう。当ブログにおいては、Agartaはアラヤ識に対応し、Davidはマナ識に対応している。そして、その二つの意識の同一化こそ、当ブログから抽出されるべき「この地上においていかに生きるか」という個人的テーマの具体化であるはずだ。
最後の付録的部分の「OSHOの具体的社会構想」は、第3部に包括されるべきテーマでもあるだろうし、また第1部、第2部、第3部のまとめとしての結論とも考えることができる。すくなくとも、このような形で、玉川本と当ブログを対応させていけば、今後、より明瞭になってくる部分もあるだろう。
この書は各章5項目のうち、3項目はOshoのエッセンス紹介にあて、残り2項目は他者の文章を借りている。
しかしこの他者の文献による検証も、大半は、トランスパーソナル(自己超越)心理学を援用をしている。
p8
著者は5という数字が好きなのか、造本上、結果的にそのようになったのか分からないが、3部構成の各部のなかに5つづつの章があり、さらにその各章のなかに、それぞれ5つづつの項目がある。この項目の中の3つをOshoに当て、残り2つを、他者、とくにトランスパーソナル心理学の文献で検証する、と言っているのだ。
当ブログでは、必ずしも「検証」作業を行っているわけでもなく、仮に検証作業が必要だと思われても、関連するものとしてトランスパーソナル文献が的確であると即断はできないが、次の読書リストに 「エスリンとアメリカの覚醒」 が入っている限り、かならずしもトランスパーソナル心理学は無縁ではない。いやむしろ、そのメッカとさえ見られている。トランスパーソナルな流れには個人的に特段に強いシンパシーを持っているわけではないが、この際だから、もうすこし学んでおくこともやぶさかではない。
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