「維摩経」
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長尾 雅人 1973/10 中央公論社 文庫本 186p
Vol.2 No.512 ★★★★☆
特段に経典を持ち出すでもないが、燃料会社から毎年もらうカレンダーを背にかけて、その中にある、時々の「禅語」をひきあいに出しては、来客へのもてなしとした。若い時分から近くの寺の座禅会に参加したというし、寺の総代のような世話人もしたりしたが、たまには若い住職などに苦言を呈したりしていたようだ。
10代にから20代にかけて、彼の家を尋ねると、きまって、彼流の禅問答がでてくることになり、ちょっぴり辟易ということもないでもなかったが、あの当時の、あの薫陶があればこそ、自らを振り返らんという機運が植え付けられたのかもしれないと、今はとてもありがたく思う。
そんな彼が、得意としていたのは、達磨と慧可の出会いである断臂の話であり、在家の在家たる維摩詰(ヴィマーラキルティ)の「活躍」の話だった。特に晩年は、高齢に伴う身心の変化にともなって、同じ話を毎回毎回、初めて話すような口調でなんども聞かされたものだった。
祖父が学んだ維摩経は、奈良朝以来、わが国で愛されてきた鳩摩羅什訳であっただろうが、この本は、唯識やチベット密教研究の第一人者だった長尾雅人が、チベット経典から直接和訳したものである。だから、よりインドにあっただろうとされる仏典に近いとも思われるが、依拠すべき文献の小さな差異など、祖父と私の間を隔てるものにはなり様がない。ただただ、ひたすら、ひとは、菩薩を目指すべきであり、ひとは、在家にあっても菩薩でありうる、ということの確認、再確認でしかなった。いや、祖父の説によれば、在家であればこそ、菩薩であることの意味がますます高まるのであった。
最晩年の祖父に、聞いたことがある。人生でいちばん大切なことはなんですか。
なんだ、そんなことも分からんのか? と笑いながら、彼は、傍らの紙切れに「自未得渡先渡他」と書いた。
あるいは、彼がなくなった後に、叔父たちの話によれば、普段身につけていた手帳には、「施無畏」と、処世訓のように書いてあったという。
「維摩経」は、考えようによっては、議論につぐ議論であり、哲学の書、と言えないこともない。しかし、私は、これらのひとつひとつを議論の材料とはすることはできない。それはひとつのできあがった物語であり、それ以上、付け加えたり、削除したりして楽しむ経典ではないよう思う。
あるいは、宇宙のかなたまで飛ばされてしまううようなファンタジーと読むこともできないではない。しかし、やはり、かえってくるのは、いまここ、ありのままの自分というところだった。20代以来、まったく同じ本を何度かめくってみたが、毎回感じる味わいが違っている。どの本においてもそうなのだろうが、とくにこの本は、最初から身近でありながら、最後まで身近に感じられる不思議な本だ。あまりにも、この維摩詰(ヴィマーラキルティ)が魅力的であるからだろうか。
もちろん、維摩詰が実在した人間だったとは言い難いし、経典の成立にともなって幾重にも装飾が繰り返されてきたことは、多いに察することができる。しかし、それであればこそなお、仏教というものの魅力、あるいは、それを支えてきた人間存在の魅力に圧倒されることになる。
法はアーラヤではありません。アーラヤを喜ぶ者は、法を求めているのではなく、アーラヤを求めているのです。法は無相であってむなしい。相に従って識知する者は、法を求めるのではなく、相をもとめているのです。法は、それと共住しうるようなものではない。法とともに住しようとする者は、法を求めているのではなく、(法と)住することを求めているのです。法は、見たり、聞いたり、判断したり、知ったりさえるものではない。見・聞・覚・知を行なうものは、見・聞・覚・知を求めているのであって、法を求めているのではありません。大徳シャーリプトラよ、法は有為でもなく無為でもない。有為を対象とするものは、法を求めるのではなく、彼らは有為をとらえようと求めているのです。それゆえに、シャーリプトラよ、法を求めようとするならば、あなたはいかなる法も求めてはならないのです。
p81
<2>につづく
トランスパーソナル心理療法入門 <2> … 2009.01.14
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