秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2020.08.09
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カテゴリ: 宗教
先日、中央仏教学院から通知表を受け取りました。
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昨年はレポートは1回も提出せず、教科書を開いたのは、受け取った時に読んだのと、毎週通うお寺の法話等で気になったことを調べるときとか、最後にレポートを書く時だけでした。

レポート提出時は結構忙しくて、昔取引先の大手保険会社の人から聞いた、限られた時間内に、いかに多くの70点(合格点)の答案を書けるかで、人事評価されるというのを思い出し、省エネでとりあえずの合格点をとれる答案について考えました。

原稿用紙の全部を自分の考えを述べると大変なので、半分くらい、教科書の該当箇所の「すなわち」とか、書かれているあたりを要約して埋め、残りを自分の考えを記載しました。
狙い通りの点数が返ってきて、来年もこのパターンで行こうと思います。

この1年は毎週1回の近所の寺院でのお勤め、読書、学習等で仏教に触れました。特にお勤めが仏教を日常生活に取り込み、定期的に自分を振り返る時間を持てたことで良かったと思います。残念ながらスクーリングはオンラインに切り替わり、お勤めの試験は無くなりましたが、引き続きお寺に通おうと思います。



せっかくなので、全然模範解答でもなんでもないですが、ご参考に3つ答案を掲載します。


宗教は危機に根ざす。どの時代も飢えや病気、戦争といった危機に直面すると人間は持てる知識、技術を総動員して危機克服に立ち向かうが、限界があるので、絶体絶命の危機に陥ることがある。何とかしたいと悲痛な祈りを人間が行ったとき、何か人間以上のものの力が働くのを感じ取り新しい一筋の光明が開けたとき、それを人間は宗教と呼んだ。
日本に限らず、世界各国では宗教が退潮傾向にある。日本の仏教では地方人口の過疎化による檀家制度の崩壊、葬式の簡略化等により、仏教寺院数が減少している。また日本のキリスト教では日曜学校参加希望者数の減少や牧師への成り手が減少しているとも言われている。海外では礼拝参加者の減少で多くのキリスト教会が売却され、ある教会はスケートボードの練習場になっているとさえ報じられている。
これらの原因について考えてきたが、テキストを読んで、科学や技術水準の向上に伴い世界各国の人々の生活水準が向上してきて、飢えや病気の心配をすることが少なくなり、大きな世界大戦レベルの戦争も長年無くなり、世界レベルの天変地異もしばらくないことで、危機に根ざす宗教の地位が相対的に低下したことで、現在世界において宗教は退潮傾向にあると気づいた。
しかし、宗教の退潮傾向はいずれ、反転すると考える。地球温暖化の影響もあり、この先も大きな天変地異が無いとの保証は無く、また世界大戦も同様である。飢えや新型肺炎等の疫病がさらに流行するリスクもある。自然界で人間の知識、技術で対応できることは、ほんのわずかである。宗教は単に上から目線で教えを説くのでなく、時代のニーズに合った教義の開発、築地本願寺の成功に見られるようなマーケティング施策の実施、さらには宗教は相互扶助からスタートしたとの説に基づき、原点に立ち返り、仏教的な慈悲の心を持った悲田院のような貧しい人や孤児を救うための施設を提供することで宗教の価値は見直されると考える。

●仏教:2)六波羅蜜の意義について、布施波羅蜜を例にして解説しなさい。
一般的に波羅蜜は現実の迷いの世界である此岸から理想の悟りの彼岸に度るための以下の実践行である。布施(様々な施しをさせていただく修行)・持戒(戒律を堅固に守ること)・忍辱(瞋恚の心を退冶して迫害困苦や侮辱等を忍受すること)・精進(懈怠の心を対冶して身心を精励して他の五波羅蜜を修行すること)・禅定(心の動揺・散乱を対冶して、心を集中し安定させ、真理を思惟すること)・智慧(一切の諸法に通達して、愚痴の心を対冶し、迷いを絶ち、真理を悟ること)の六種があり、これを六波羅蜜と呼ぶ。
悟りを求めて、広く世の人びとを救おうと願う心、すなわち菩提心をおこして仏道を行ずる求道者のことを、大乗仏教では菩薩と呼ぶ。その菩薩が修する道を菩薩道という。その代表的な実践方法が六波羅蜜である。六波羅蜜の教えはすべて自他を救うことが前提になり、大衆の生活から遊離した部派仏教の弊害を排除することによって樹立された理想的な大乗仏教の菩薩行であること、また空無我(無自性・無所得の修行)であることに意義がある。
六波羅蜜では波羅蜜の行を実践するとき修行そのものに執着しないことが大事である。例えば前述の布施波羅蜜は次の三つに分類される。貪欲の心を対冶して人に金銭や物品などの財を施すこと(財施)、仏様の理想とする教えを説き、迷い悩む人を救い、悟りの世界へと導くこと(法施)、恐怖や不安を除いて安心を与えること(無為施)。これらの布施において、施す者、施しを受ける者、施し物すべてが囚われを捨てたものでなければならない。それは徹底した無自性の自覚であり、無所得の実践を意味し、空無我でなければならない修行とされ、菩薩道を代表する実践法となっている。 とうはいうものの、現実では、寺院への葬儀、法要の布施を巡っても、出すほうも、受け取る側も、家計や寺院経営への影響を考えて、金額に囚われがちだが、阿弥陀如来の本願のはたらきに任せて囚われの心を捨てることが大切であると考える。

●スクーリング:阿弥陀仏とはどのような仏様でしょうか。述べなさい。
まず仏とは、仏陀からはじまったことばで、めざめたる者、覚者という意味であり、本当のことを知り尽くして智慧をそなえたひとであり、生きとし生けるものをめざめさせるということで慈悲のはたらきをもった人である。
次に阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀仏は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださる。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏様である。阿弥陀仏は、この世に生き、煩い悩みから離れることのできない私、現に罪深く悪思い私を本当にめざめさせ、活かそうという仏であり、仏陀の師匠である。阿弥陀仏は、さとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべての悩める私たちを必ず仏にするため、限りない光と寿を備えた仏になろうと請願をおこされ、それを成就された仏様である。本当のことを知りつくす智慧と、すえとおった慈悲がなければ生きられない私に、かぎりなき光(智慧)とかぎりなきいのち(慈悲)をめぐみ与え、めざめさせて仏にし上げてくださる仏様が阿弥陀仏である。どこまでも、人間の欲望をこえた絶対の真如という法性法身の世界から、如来として、われらの欲望をひるがえす働きとして、いつでも、どこでも、だれにでもはたらきどおしの仏様になられたとう方便法身が、阿弥陀仏である。





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Last updated  2020.08.14 03:43:52


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