フリーページ
暴力の主体と対象を見定めることなくして、暴力は語れない。暴力が、いかほどの暴力だったのかを見定めることなくして、暴力は語れない。どういった事象を指して暴力と名指されているのかを見定めることなくして、暴力は語れない。本書は、 国家が有する暴力ではなく、民衆の暴力を、一揆・暴動・虐殺に定位して、近世から近代にかけて、何がどのように生じていったのかを、丹念に資料を掘り起こし、著者の観点が提示されている ものである。
民衆の暴力は、圧倒的に非対称な国家に対して、無力であり、ともすれば国家レベルに匹敵する暴力など持ち合わせず、勝てることなどは、ない。 だから民衆の暴力は、国家のそれと同様に語るべきではない。 こうした観点が欠如すると、民衆の暴力の見方を私たちは見誤ることになる。
本書の冒頭で酒井隆史の『暴力の哲学』の議論が引かれている。「酒井隆史は『暴力の哲学』のなかで、「暴力はいけない」という道徳的な感覚がはらむ危うさを次のように指摘した。「暴力がいけない」という感覚が、暴力をふるった人への厳罰を要求したり、暴力を抑止するという目的での対外戦争を容認したりするなど、別の暴力(国家による暴力)に対する無感覚を生み出している、と」(本書ii頁)。
これは例えば、神権政治が行われていたジュネーブでも同じようなことが起こっていた。プロテスタントが拠点にしたジュネーヴは、これまでのカトリックのような腐った宗教組織ではなく、また腐った国家に守られる都市ではなく、宗教と生活とが密接に統治が実行されていた。そこで、国家の警察権力や腐ってしまったカトリックのあり方には頼らなくて済む様に、民衆が相互に監視をしあい、時にその度を越して、処罰者を大量に生み出すということになった。 民衆が民衆に対して、暴力を振るった事例だ。
また日本でも、戦前でも戦後でも、よくあった。戦前であれば、非国民のレッテルを相互に貼り合う「国民」、現在のコロナ禍であれば自粛警察だってそうだろう。そうこうしているうちに、国家の暴力は増長する。戦争は遂行され、人は死に絶え、COVID-19はパンデミックを起こし、国家の無能により助かったはずの命が亡くなっていく。
これらの観点を歴史学徒らしい手つきで、近世・近代の日本で見定めていく本書は、私が研究している哲学・思想史とはまた違った仕方で、大変興味深い。
近代化の過程の中で、国家の暴力や警察の権力は創設されていく のであるが、民衆の暴力とそれに対峙するという側面がセットになっていくことで、その創設はより強固になっていく。「暴力の正当性を独占」することが可能になった国家、とりわけ警察と軍隊は、新政反対一揆を封じ込めることでその立場を確立していったことが詳らかに描かれている (第一章) 。
また近代化の過程には、イデオロギーによって地域や社会や国家を作り上げていこうとする民衆や国家の闘争が浮き彫りになる。本書で取り上げられているのは「秩父事件」である (第二章) 。自由民権運動が盛んになる中で、そのイデオロギーが人口に膾炙(かいしゃ)してきたことにより秩父事件へと発展した。しかし、筆者は、それだけではないという。近世から連綿と続く世直し運動からの連続性をも取り上げ、民衆の蜂起へと結びついたのだとまとめている。近代化だけが敵なのではない。生のあり方そのものが問われ、その生のエネルギーの発露が秩父事件だったのではないか。
その生のエネルギーはしかし、近代的な制度化の進行とともに噴出するときに、さらなる展開が見られるようになる。それが日比谷焼き討ち事件である (第三章) 。産業労働者、それも男性の労働者の形成過程で、数多くの人々が都市へ移住し、近代日本の下層労働を支えることになる。彼らは「飲む・打つ・買う」の刹那的な生活を送り、日常的に殴り殴られるという経験をしている一方で、その労働のあり方から相互扶助に満ちた仕方で日々を送っていた。「腕っぷしの強さ、豪快さ、剛胆さ、弱きを助ける義侠心」、これこそが価値であった。こうした生のエネルギーの発露は、権力や雇用主、そして富裕層や警察権力といった、自分たちと圧倒的に非対称な存在へと矛先が向かう。東京という大都市での暴動にはこうした労働者が参画したがゆえに、激しいものへと発展していったことが詳らかにされている。ただし、いうまでもないが、やみくもに暴れていたわけではない。「近隣住民と最低限の合意が取れる範囲で暴力を振るっていたのである」(本書、105頁)。
四章と五章は、こうした国家に対峙する暴力ではなく、民衆間の暴力のあり方に焦点が当てられる。ここは2つの位相が見て取れる。1つは、関東大震災時の朝鮮人虐殺、つまり、民衆が民衆に暴力を、それも殺人と虐殺を行なうという仕方でのあり方だ。これについては、わかりやすいものであればイ・ジュンイク監督の『金子文子と朴烈』でもいいし、加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)も合わせてみてみてもよいだろう。時の内務大臣であった水野錬太郎が朝鮮総督府政務総監時代に、三・一運動の経験から、朝鮮系の人々を虐殺していい旨を容認するという、 圧倒的な国家の暴力が前提 となっている。
もう一つの位相は、このようにしてまとめられる。「身内の生命が震災で失われた事実を正面から受け止めるよりも、誰かを「敵」として設定して「復讐」できたほうが、やりきれぬ思いを紛らわせられる」(本書、192頁)からではないか。そう筆者は分析する。こうした思いは、朝鮮人に向けられるだけでなく、警察に向けられることもある。暴力のエネルギーは同根なのかもしれない。こうしたエネルギーは、どんな人にだって備わっている。その人が、内務大臣のような人間が垂れ流した国家による流言飛語に乗って、朝鮮人を虐殺してしまったのだ。流言飛語ではなく、警察や国家に抗する流れに身を任せることになれば、本書でも描かれたように、抵抗の暴力として浮かび上がることになる。だから四章・五章では、とりわけ、何を前提として民衆が暴力を顕在化させたのかを注意深く見ていかねばならないだろう。
私たちは、暴力の発露の前提となるもの、前個体的なもの、つまりエネルギーとそれが流れ出る水路をつぶさに見つめなければならないのではないか。ここで、もしかしたら哲学・思想史の出番になるのかもしれない。
評者:森元斎(もり・もとなお) 長崎大学多文化社会学部准教授。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了(博士)。専攻は、哲学、思想史。著書に、『国道3号線』(共和国)、『アナキズム入門』(ちくま新書)、『具体性の哲学』(以文社)がある。
藤野裕子著『民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)820円+税
政治的アピールの手段に(26日の日記) 2026年05月26日
近隣諸国と友好関係を築くことができない… 2025年04月06日
相続、主張や背景一望(28日の日記) 2025年03月28日
PR
キーワードサーチ
コメント新着