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2011年10月01日
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テーマ: ちょっと旅して
カテゴリ: アメリカ生活
12月29日(水) テネシー州メンフィス


昨日、同じテネシー州のリンチバーグにあるジャック・ダニエル蒸留所から、約5時間かけて
ここメンフィスに夜到着。
大きな街には美味しい和食の店があるはず!と、ここに到着する夜の8時過ぎまで空腹を我慢し、荒れることなく大人しく車に乗っていた息子たち。
「日本食レストラン」で探して行ったお店は、店の戸をあけると「はぃ、ぃらっしゃい!」と、なまっていないちゃんとした日本語。
スシカウンターの中のシェフに「こんばんわ~」と頭を下げると、あちらも頭を下げる。
あぁ、日本人だ。
もうこれだけで感動。
これは期待できる。 少々高くても気にしない。

疲れてお腹も空いた私たちは、温かい和食にホッとする。
元気をもらい、店を出たのは夜9時過ぎだった。


そして今日、29日。
ここに来た目的は、エルビスでもブルースでもなく、キング牧師の暗殺されたロレイン・モーテル。
あいにくの雨だが気にしない。

音楽の街は通り抜け↓                      本日のメインへ↓
P1030430.JPGP1030432.JPG

ここは、キング牧師が滞在した棟の外観だけを残して建て替えられ、今は「The National Civil Rights Museum」(公民権博物館)になっている。
モーテルの前の駐車場には、暗殺された夜(1968年4月4日)、キング牧師を迎えに来た友人の車(Dodge)とキング牧師が南部の州を回るときに使っていたキャディラックの2台が置かれ、当時を再現している。
キング牧師が銃弾に倒れた場所、宿泊していた306号室の前のバルコニーの手すりには、
リースが掛けられている。

改装して博物館と合体したモーテル↓      ここが宿泊していた部屋と暗殺現場↓
P1030438.JPG360-3
test400-3 縦


ロレイン・モーテルの看板には、「I HAVE A DREAM MLK (Martin Luther King Jr.)」とある。


さて、博物館の中に入ると、黒人の奴隷時代から一通りの公民権運動の流れ、その中で起こった主な事件が、沢山の写真や展示物で解説されている。
アラバマ州モンゴメリーで起こったバス・ボイコットのバスのレプリカ(実際に中に入れる)や、
見るだけでも恐ろしいKKKの衣装、キング牧師が暗殺されたときの部屋の内部を再現したもの等、子供にも分かり易く、飽きさせない。

ここに来てやっと、開いている博物館にたどり着いた。


この博物館では、ざっと覚えているだけで下記の主要な事件が取り上げられていた。

・1954年 ブラウン対教育委員会(詳しくは こちら
・1955年 モンゴメリーのバス・ボイコット(詳しくは↑ )
・1957年 アーカンソー州リトル・ロック セントラルハイスクール・クライシス
・1961年 フリーダム・ライド
・1961年 ミシシッピ大学初の黒人学生転入での暴動
・1963年 NAACP(全国有色人種地位向上協会)ミシシッピ支部ディレクターのメドガー・
       エヴァーズ暗殺
・1963年 キング牧師の「I have a dream」のスピーチのあったワシントン行進
・1964年 フリーダム・サマー
・1965年 アラバマ州セルマ - モンゴメリーの大行進
・1966年 ジェイムズ・メレディス 恐怖への行進

最初の2つは、モンゴメリーを訪れたときに書いたので省略。
その次からざっとどんな事件だったのかまとめてみたい。

・アーカンソー州 リトル・ロック セントラルハイスクール・クライシス:
1954年の「ブラウンvs教育委員会」の最高裁判決を受け、教育の場でも人種統合が進められ始めていた1957年9月、アーカンソー州リトル・ロックのセントラル高校へ転入が許可された黒人学生9人が、登校日初日、1000人を超える白人の人種統合反対者と保守派のフォーバス・アーカンソー州知事の出動させた州兵たちによって、力ずくで登校を阻止される。
この様子は、テレビや新聞、ラジオ等で大きく取り上げられ、国内外から注目を集めた。
アイゼンハワー大統領は、「わが国の裁判所の判決より暴徒の支配が優先されることを許してはならない」との声明を発表。
9人の安全を守るため、1200人の連邦陸軍空挺師団を派兵し、同時にアーカンソー州兵を州知事の権限の及ばない連邦軍の指揮下に編成した。


11月に空挺師団が去ってからは、学校でも学校外でも嫌がらせと暴力の連続だったという。
家には白人父兄によって弾丸が撃ち込まれ、窓ガラスが割られ、この黒人学生らを支援する者たちもターゲットとなった。
逃げ出すことなく、強い意志でこの日々を絶えた9人は、後にリトルロック・ナインと呼ばれるようになった。

これがこの事件の概要だが、この話には続きがある。
一年後の1958年9月、フォーバス州知事は、このまま人種統合が無理矢理推し進められるよりは、リトル・ロック校区の全ての公立高校を廃校にした方がいい、と条例を制定。
実際に4つの公立高校全てを閉鎖した。
そして教育委員会は、人種統合に賛成寄りの意見を持つ教師・職員44人を解雇。
翌1959年12月、連邦最高裁判所からの通達を受け4つの高校全てを再開するまで、公立高校のない空白の一年となった。

めちゃくちゃ過ぎてかなり引く。
これが時代劇なら、貴様フォーバス!血迷ったか!と切り捨てられるところだ。


・フリーダム・ライド(Freedom Rides):
1960年の人種隔離禁止をバスターミナルおよび州間の移動に関連するその他の施設にも拡大する、という最高裁判決が下されたことを受け、実際にバスや電車での人種差別がなくなったかどうかを検証するため、黒人7人・白人6人から成るグループ(フリーダム・ライダー)が長距離バス、グレイハウンドに乗り込み、ワシントンDCから人種差別の激しい南部の州の一つ、ルイジアナ州ニューオーリンズを目指した。

バスは途中、何度も暴徒の襲撃にあう。
特にディープ・サウス(深南部)と呼ばれるアメリカ南部の州は、黒人を殺害しても罪に問われない、警官も知事も白人至上主義やKKKのメンバーが多いという、非常に差別の激しい土地だったため、途中立ち寄るバス停での襲撃は勿論のこと、襲撃されたのに‘治安を乱した’等の理由で逆に逮捕され、アラバマ州では、爆弾まで投げ込まれバスが炎上。
炎に包まれたバスから逃げ出したフリーダム・ライダー達は、引きずられ鉄パイプやバットで殴られる等の暴行を受けるが、血まみれになり意識を失った彼らの病院への搬送を救急車が拒否し、地元の黒人たちによって何とか病院に運ばれるも病院側に治療を拒否される。

怪我人・逮捕者を出しながらもメンバーを入れ替え旅を続けるが、途中でバスの運転手もそれ以上の運転を拒否。
当時のロバート・ケネディ司法長官(ケネディ大統領の弟)がバス会社に電話し、運転手を確保するよう要請。
アラバマ州知事にもフリーダム・ライダーの安全確保を要請するが拒否される。
事態を聞いたキング牧師がアラバマ州モンゴメリーに飛び、教会で集会を行えば、そこがまたKKKを含む白人至上主義者に包囲され、ついにケネディ司法長官は教会に400人の連邦保安官を派遣する。

ケネディ司法長官は、アラバマ州とミシシッピ州の両知事に「州警察が暴徒からフリーダム・ライダー達を守ることを約束するのであれば、連邦政府は、ライダー達が州の人種隔離条例に違反して逮捕されたとしても、一切介入しない」と取引をする。
アメリカは自治の権限が高いことから、各州独自の軍隊や警察を持っており、南部の州では、連邦政府が人種統合を進めている中、それに対抗して独自に人種隔離を容認する条例を作っていた。
勿論、両知事の言う「人種隔離条例に違反したら逮捕」というのは、連邦裁判所が1960年に出した判決(Boynton v. Virginia)に反するものなのだが。

フリーダム・ライダーたちを乗せたバスは、約束通り州警察に守られ暴徒に襲われることなくミシシッピ州ジャクソンに到着したが、そこで白人専用施設に入ったところで逮捕された。

色々な資料を読んでみたが、どれも少しずつ違っていたり、話が抜けていたり前後していたり、最初から最後まで全てが載っている資料に辿りつかなかったが、大体の資料がこのミシシッピ州ジャクソンで終わっているので、結局目的地のニューオーリンズには行き着かず、このフリーダムライドはここで終わったものと思われる。
このように、権利を持つこととその権利を行使することの間には、まだまだ大きな溝があった。


・ミシシッピ大学での暴動:
1961年、ミシシッピ大学へ初の黒人編入希望学生が編入申込書を送ったところから始まる。
編入希望申込書を受け取った大学側は、「受付期限を過ぎている」「必要単位数を満たしていない」等、様々な工作をしてその理由を作り、編入出来ないようにした。
彼は大学を地方裁判所に提訴するが、様々な方法で日程を引き延ばされ、希望学期からの就学が出来なくなった。
次に控訴裁判所へ提訴。(地方裁判所からの上訴事件を取り扱う連邦裁判所)
控訴裁判所からこの黒人学生ジェイムス・メレディスを受け入れるよう判決が下されるも、まだのらりくらりと受理を引き延ばし編入を阻止しようとする大学に、ついに司法省が介入し、連邦最高裁がこの学生を即刻受け入れるよう判断を下す。
ところが、州知事・大学側がこれを拒み、結局今回もロバート・ケネディ司法長官が数百人の連邦保安官を派遣、1961年から大統領となったお兄ちゃんのケネディ大統領も6,000人の軍隊を派遣。
大学に集結した5,000人の暴徒との大乱闘となり、死者も出る流血の騒ぎとなる。
ミシシッピ大学の学長館の円柱には今もこのときの弾痕が残っている。
1962年、ジェイムス・メレディスの編入は認められ、様々な嫌がらせを受けながらも、1963年に無事卒業する。

この約5年前のリトル・ロック セントラルハイスクール事件でも大統領が軍隊を派遣し、ここミシシッピ大学でも然り、そして2年後の1964年にもアラバマ州知事ジョージ・ウォレス(今日も人種隔離、明日も人種隔離、人種隔離フォーエバー!のスローガンを掲げたあいつ)が大学の人種統合に反対、校舎入り口に立ちはだかり、また大統領が軍隊を派遣。
毎度毎度、大統領や軍隊まで巻き込む大騒ぎとなる。
やっぱりディープ・サウスは恐ろしや。

ミシシッピ大学は‘Ole Miss’という愛称で呼ばれているが、このOle Missとは、黒人が奴隷として働かされていたプランテーションオーナーの妻の敬称であり、大学のスポーツチームの名前は、Rebels(=南北戦争時の南軍)、マスコットもColonel Reb(レブ大佐)という、こてこての奴隷を使い続けていたかった南軍そのまま。
つい最近(2010年だから2年前)になってようやく、この南軍レブ大佐のマスコットを黒いクマに変えたところだ。





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Last updated  2012年01月11日 06時08分19秒
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