読書日記blog

読書日記blog

2006.08.20
XML
カテゴリ: 教養・実用


PHP新書

靖国神社と日本人

靖国神社でも取り扱われている靖国神社関係書籍の代表格。

このblogでも以前書いたが、私は今年の八月十三日に靖国神社に参拝してきた。参拝するにあたって事前学習をかね、何冊かの靖国本を読んだ。どの本もそれぞれに興味深く読んだのだが、どこかまだまだ読み足りない気がしていた。そんなことを考えながら東京へ向かっている途中に、本屋さんでふと手に取ったのがこの本である。靖国神社のホームページでこの本が紹介されていたことを思い出した私は、道中で読もうと思い、すぐにこの本をレジに持っていった。まあ、実際に読んだのは、帰宅後になってしまったのだが。

さて、この本の感想である。さすが靖国神社が紹介するだけのことはあって、内容は広く、細かく、わかりやすく、これまで読んだ靖国神社本の中で一番参考になった。思想的にはもちろん靖国神社を崇敬する立場から書かれているのだが、取り扱う問題においては一部の問題に偏りすぎることなく包括的に靖国神社を眺めているところがよい。靖国神社の設立の経緯を学んだだけでは、現在の政治外交問題としての靖国神社問題は見えてこない。また、戦犯をいかに考えるのかの問題を見ただけでは、信仰としての靖国を置き去りにしてしまう恐れもある。靖国の英霊たちの多くは大東亜戦争の戦没者だが、彼らがどのような気持ちで散華していったのかを知ることなしに、靖国神社を考えることは出来ない。長い歴史のなかで靖国神社と日本人の関わりを理解するには、多角的に見ていく必要があるのだ。その意味において、本書は大変バランスが取れており、全体像がよくわかる。

書かれている大まかな内容は、これまでに読んだ本と重複しているのだが、私がこれまで読んだ本は、政教分離の問題についてあまり触れられていなかった。地鎮祭のような風俗的行事は政教分離規定の禁止対象にならないのと同様に、靖国神社問題を考えればよいのだとの主張はよく聞く。しかし、宗教美術の維持管理に公費を支出することの延長線上に靖国神社も考えよ、という論は珍しいのではないだろうか。宗教的帰依の情に誘い込む恐れがあろうとも、審美的存在である仏像や仏閣は国家的保護の対象となる。靖国神社も、たとえ宗教的であろうとも、国民の道徳的崇敬の対象として国家護持の施設となるに値する文化的性格を有する、というのがその主張だ。しかし、革新的な立場の人から見れば、そもそも靖国神社に象徴されるような道徳や精神そのものが許し難きものだろう。この論は、小手先だけの議論で済ませるのではなく、日本人の道徳意識の根底から議論する覚悟がないと持ち出せない主張だといえるだろう。私としては、たいへん鋭いところをついている素晴らしい考え方だと思う。
上記以外のさまざまな観点から筆者は、靖国神社を国家による護持・運用が妥当であると論理的に結論付ける。にもかかわらず、最終的には「現在の日本国にはもはやそのような大役を担うだけの倫理的な力量なく、その資格がない」と国家護持の形にゆだねることを断念する。新聞やテレビの論調を見る限り、たいへん悲しいことだがその通りなのかもしれない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006.08.21 09:33:51
[教養・実用] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: